山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第69回>

2018-08-02 04:48:07 | くるま旅くらしの話

【今日(8/2:木)の予定】 

川湯温泉公園駐車場 →(D・R391他)→ 道の駅:摩周温泉 →(R391・R243他)→ 別海町ふれあいキャンプ場(数日滞在予定)

 

【昨日(8/1:水)のレポート】 天気:晴れ

<行程>

道の駅:阿寒丹頂の里 →(R240他)→ 旧阿寒町郷土資料館 →(R240・D)→ 鶴居村ふるさと情報館 →(D・R38・R44・R391)→ 釧路町郷土資料館 →(R391他)→ 標茶町郷土館 →(R391・D)→ 川湯温泉公園駐車場(泊)

<レポート>

 朝の内は雲が下界に降りて来て涼しさを通り越すほどだったのに、霧が消え雲が無くなるにつれて気温はぐんと跳ね上がり、太陽が正体を現した10時を過ぎると、再び灼熱地獄の世界が急ぎやって来た。道東の釧路といえども、日中の暑さは他の場所と変わらず、湿度が高い分だけ蒸し暑さが厳しくなる。今日はそのような暑さの中、まだ行っていない郷土館の幾つかを訪ねる予定である。

 先ずは地元の阿寒町の釧路市との合併前にあった郷土資料館を訪ね、その後少し遠くなるけど鶴居村のふれあい情報館を訪ね、一旦釧路市内に戻って給油等を済ませたあと釧路町の郷土資料館を訪ね、同じ国道沿いにある標茶町の新装なった郷土館を訪ねることにしている。これで釧路エリアの主な資料館を訪ねるのは終わりにする考えでいる。

 先ずは9時少し前に地元の旧阿寒町の郷土資料館を訪ねるべく、ネットで調べた住所をナビにセットしたのだが、到着したのは中学校だった。校庭に居られた方にお尋ねしたのだが、郷土資料館は知らないという。もしかしたら公民館の中にあるのかもしれないというお話だった。何だかがっかりしてしまった。地元の方が判らないようでは、仮に公民館の中にあったとしても大したものではあるまいとそれ以上探すのを止めることにした。釧路市との合併によって、元の施設などはぞんざいに扱われてしまっているのかなと思ったりした。

 その後は鶴居村のふるさと情報館というのを目指して出発する。山の背の峠を二つほど超えて、鶴居村のその施設に着いたのは10時を少し過ぎた頃だった。先ず驚いたのは、建物の立派さだった。入口の前に村営軌道の最後の機関車と客車が飾られていた。説明によると、昭和4年に植民軌道として導入され、その後道路の整備が進みバスの交通が進展することによって、昭和43年にその役割を終えたとのこと。この軌道によって、今日のこの村の基盤が築かれたということなのであろう。中に入ると、図書館との併設となっており、常設展示室は実に要領よく的確にこの村の開拓と発展の歴史が説明展示されていた。この村の開拓は明治30年以降本格的な入植者が全国から入るようになったものの、大正時代に入ってもしばらくは陸の孤島という存在であり、開拓者の苦労は並のものではなかったという。往時の状況を書いた手記などが紹介されていたが、頭が下がる思いがした。当初は畑作から始まった農業は、その後馬の飼育に移り、やがて牛の飼育へと重点が移って、その後は酪農へと進展しているとのこと。酪農についての紹介・説明にかなりのスペースが割かれていた。又村の名の源となっているタンチョウのことについても丁寧に説明がなされていた。今まで見て来た多くの郷土資料館の中でも、優れた内容だなと思った。鶴居村の来し方と未来についての明るい展望を思わせる内容だった。感心しながらふるさと情報館を後にして次は一先ず釧路市街に向かう。早やめの給油が肝心と給油を済ませた後、少々食料などの買い物をして次の目的地の釧路町の郷土資料館へ向かう。釧路町の郷土資料館は、当初別の国道沿いにあるかと勘違いをして訪ねるのを止めようかと思っていたのだが、調べてみると標茶町の郷土館と同じ国道391号沿いにあるのが判ったので、それならば是非見ておかなければなるまいと思った次第。

 釧路町の郷土資料館は達古武という場所というので行って見たのだが、国道の直ぐ脇に案内板があったので直ぐに判った。木陰のある駐車場があったので、先ずは先に昼食を済まそうと買ってきた弁当を食する。外は30℃を遥かに超えていそうな暑さである。邦子どのは資料館の建物が古いので、見るのは遠慮するとのこと。確かに外見は何だか見捨てられた建物のような感じがした。行って見ると正面の入口が施錠されていて中に入れない。困惑しながら脇のトイレ入り口というのを開けてみたら、何とこれが資料館の入口だったので驚いた。中に入って見ると、それほど大きくない一間の部屋に分類された、時代を思わせる生活用具や農機具などが展示されていた。説明のあるものは数点だけで、あとはそのまま無言の展示ばかりだった。町の歴史に係わる資料などは全く展示されてはおらず、この町の来し方を知る手掛かりはここには無いことが判った。来訪者の氏名を書く用紙があり、そこに感想を書けとあったので、正直にせめて町の歴史年表くらいは掲示か又は配布資料として置いて欲しいと記入した。他の方が書かれた感想を見たらい、何とトイレを使わせて貰ってありがとうというようなことばかりが書かれていた。そういえば、国道の入口の所に赤い字で矢印とトイレと書かれた札が立っていたのを思い出した。郷土資料館というよりもトイレを提供する方に町は力を入れているのかなと思った。どのような事情があるのか判らないけど、郷土資料館と名づけた場所ならば、この町を築かれて来た先人たちの労苦に報いるためにも、このようなおざなりのものであってはならないのではないか。先の鶴居村の取り組みと比べると、天と地ほどの落差があるように感じた。これ以上言うのは慎むべきなので言わないことにする。

 その後は比較的近くの塘路という所にある標茶町の郷土館へ。ナビに入れたのが古い場所だったのか、しばらくどこにあるのかが判らず戸惑った。邦子どのが新しい住所の書かれたパンフを持っていたので、それでようやく到着することができた。外は猛烈な暑さとなっている。中に入れば快適な涼しさが体感できるのかなと思ったのだが、案に相違してエアコンは無い様で、特に2階の展示場は蒸し蒸しする暑さだったので閉口した。町の歴史等についてはきれいに整理されており、概ねこの町の来し方を知ることができたと思う。ここは釧路集治監分監のあった所で、その設置が町の発展のきっかけとなっているようだ。その後集治監が廃止されて以降、急激に町は寂れて、最盛期5500人以上数えていた人口は、その後500名を切るほどになったという。その後軍馬補充部が置かれて少し回復はしたものの、町の発展はその後の入植者等の開拓の継続によって、成り立ってきたようである。詳細は追ってデータを見ながら考えてみることにする。

 とにかく暑い。脇にその昔の集治監の建物が保存されており、その他にも野外博物館として駅逓の建物も建てられていたので、それらを写真に収める。こんなに暑くては逃げ場のない場所ではゆっくり休むこともできない。このまま別海町のキャンプ場に行ってもどうしようもないと考え、一先ず弟子屈町の道の駅:摩周湖に行って見ようと出発する。30分ほど走って到着したのだが、依然としてとんでもないピカピカの日射しは弱まる姿勢を示さず、これでは道の駅に行ってもダメだと思った。そこで思い付いたのが、川湯温泉の公園内の駐車場である。あそこは木立の中に駐車場があるので、日差しを避けることができるし、木々たちの働きで涼しさが保たれているのではないか。ということで、目的地は再び変更となった。15時半頃川湯温泉に着いたのだが、思った通り林間の駐車場は直射日光を遮ってくれて、ようやく安堵の場所を手に入れた感じがした。このまま特に注意されるようなことがなければ、今夜はここに泊めさせて貰おうと決める。

 邦子どのが体調を少し崩しかけているようで、着くと直ぐに寝床に横たわってしまった。長旅とこの暑さで、体力を消耗しているのかもしれない。このような時は先ずは寝るに限る。自分の方が元気なのは、多分糖尿病の所為なのだと思う。毎日の歩きは欠かしていないし、毎日の食事も何をどれだけ食べたか記入して管理しているので、それは旅に出てからも変わらず実行している。だから、糖尿君には感謝しなければならないと思っている。邦子どのは薬を飲む管理はきちんとしているようだけど、食事の方はかなりいい加減になっているようで、今朝もロクに食べていなかったようだ。老人になっても好き嫌いが消えないというのは、物を食べるということの意味が解っていない人なのだと思う。食事というのは、理窟で食べるのではなく、身体が生命を維持して行くために、明日のために今日何を欲しがっているのかをしっかり捉えて、それを実行することである。それは我が身に問えば直ぐに解ることである。自分はそのように考えて毎食を大事にしている。

明日からしばらくの間、別海町のキャンプ場に滞在することにしているが、これからの旅は少し考えを切り替えて、しばらく静養を兼ねて原生花園の野草たちを訪ねたり、ひねもす無為に過ごしたりしたいと思っている。今回の旅も8月に入り、出発以来2ヶ月が過ぎ残り1ヵ月余りとなって来た。疲れを何とか克服して旅を続けたいと思っている。川湯温泉の夜は静かで快適だった。邦子どのにはかすかに漂ってくる硫黄の臭気が気になっているようである。ま、生命に別条はあるまい。

コメント
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