山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第98回>

2018-08-31 03:52:06 | くるま旅くらしの話

【今日(8/31:金)の予定】 

道の駅:スペースアップルよいち →(R5・R276)→ かかし古里館 →(R276・D)→ 岩内町郷土館 →(R229)→ 蘭越貝の館 →(D・R5)→ 道の駅:ニセコビュープラザ →(D)→ 真狩湧水 →(D)→ 道の駅:真狩フラワーセンター(泊)

 

【昨日(8/30:木)のレポート】 天気:曇りのち雨後曇り

<行程>

道の駅:とうべつ →(R337・D・R231)→ 厚田郷土資料室 →(R231・D)→ 石狩市砂丘の風資料館 →(D・R231・R337・R5・D)→ 小樽市知人宅 →(R5・R225) → 道の駅:スペースアップルよいち(泊)

<レポート>

 昨夜は若干トラックの騒音に悩まされたが、熟睡の後目覚めて時計を見たら12時前だった。もう一度眠ろうとしたけどダメなので、起き出してブログの記事などを2時間ほど書いたりした。眠れない時は無理に眠ろうとするよりも起きてやりたいことをやればよい、というのが自分の考え方でありいつものことである。2時間も考えたり書いたりしていると、睡眠不足なら自然と眠気がやって来るので、その時は寝ればいいのである。2時過ぎにもう一度寝床に入って、次に目醒めたのは5時半頃だった。

 今朝の散歩は、道の駅を出て田んぼの中の道を当別川の方に10分ほど歩いて、そのあと当別川の堤防を5kmほど往復する。当別川という名の由来は、アイヌ語の「ト(沼)・ペッ(川)」から来ており、往時はこの川には川跡の沼などが点在していた湿地帯だったのであろう。この地の開拓は伊達岩出藩の殿様が直々に身を乗り出して家臣と共に入植したことから始まっている。2か月前にこの地を訪れた時に知ったことである。恐らくその当時は常時河川の氾濫に悩まされたに違いない。治水への取り組みがようやく成功して、やがて田畑の開拓へとつながって行ったのであろう。現在は堤防からの景観は、豊かな田んぼや畑が、広く広がっている。150年の時間を経て見事な美田が出来上がっている。途中から霧雨になった中を車に戻る。

 今日は石狩市内の元厚田村の資料室と石狩砂丘風の資料館というのを訪ねたあと、小樽の知人宅に寄り、そのあと余市町の道の駅に行って泊る予定でいる。先ずは厚田の資料室を目指して出発する。

 出発する9時過ぎ頃から雨が降り出した。どうやら今日は雨模様の天気となるらしい。ニュースでは、北陸地方から東北地方にかけて大雨の予報が報ぜられていた。下北半等や津軽半島も大雨とのことなので、この辺りもその影響を受けているのかもしれない。雨の中を日本海側の道をしばらく走って、厚田の道の駅に着いたのは、10時半近くだった。ナビが資料館をガイドしたのだが、着いたのは厚田の新しい道の駅だったので、もしかしたらこの中に資料室があるのかもしれないと思った。中に入って見ると、どうやら2階が資料室となっているらしい。早速行って見ると、やや狭いスペースだったが、要領よくこの村の歴史が年表に合わせて紹介されていた。民具や農具などの展示は一切なかったけど、松前藩の場所の一つであった歴史と合わせて明治以降の来し方についても概ね理解することができた。又この村出身の作家として子母澤寛の名があったのには驚いた。横綱吉葉山もこの地の出身である。その他画家なども輩出しており、人材を生み出している場所なのだなと思った。

 見終わった後、二三一(ふみいち)バッテラという、ニシンと数の子の親子押し寿司というのが販売されていたので、邦子どのがこれを買い入れる。北海道でこのようなバッテラが作られているのを初めて知った次第。(これは、あとで昼食に二切れほど食べたのだが、只食べるだけでは勿体ない、これは酒と一緒であるべきだと気づき、夕食に回すことにした)

二三一バッテイラ。全部で6片あり、Ⅰ切れ食べた時に慌てて写真に収めた。このあともう一切れ食べて、夜に回すことに、ハッと気付いた。我ながら愚かである。

 厚田には下方にある港へ北海道HMCCの仲間たちと何度もキャンプに来ているので馴染みの深い場所なのである。いつもだと海産物の市場を覗くのだが、今日は雨が降っているので止めることにして石狩市の砂丘の風資料館に向かう。雨はかなりの本降りとなっている。風が強くないのには救われる。これで強風が吹いていたら、海辺の道路は難儀するのだが、今日は殆ど無風なので幸いである。30分ほど走って到着する。

 どんな場所かと思いながら、もしかしたら名前からするとおいら岬の灯台近くではないかと思っていたのだが、そこまでは行かず、番屋の湯という日帰り入浴施設のすぐ傍だったので、ちょっと意外だった。ここは入館料が300円で、隣接する明治からの長野商店という建物も一緒に見学できるようになっていた。

 中に入って、石狩市の歴史について、特に明治以降の出来事などを記したものがないかと見て行ったのだが、何やらそのような歴史のことよりも石狩川の河口というロケーションのもたらす現象というのか、漂流物だの魚のことだのが書かれているくらいで、欲しかった明治以降の歴史情報は殆ど見られなかった。2階に上がったら、こちらか縄文遺跡の展示がされており、特に興味をひくものは無かった。砂丘風の資料館という名も何だか解せない感じがした。雨が降っているのでそう思うのかもしれないけど、とにかくここは石狩市の開拓の歴史を語る場所ではないなと思った。隣の長野商店の店と石蔵の建物の中に入って見たが、確かに時代の変遷がこの商店の移り変わりの写真などを通して理解はできたものの、あくまでも商店という限定された視点からの材料なので、やはり不満は解消されなかった。300円は高すぎる料金だなと思った。ガッカリした。

 その後、近くの番屋の湯の駐車場で昼食とする。先ほどのバッテイラは二切れで止めて夜に回し、カップラーメンのいい加減な食事で済ませた。食事が済んで、この後は小樽の知人宅を訪ねる予定なので、取り敢えず電話をしたらどうやら不在らしいので、とにかく小樽の方へ行っておくことにして出発する。雨は断続的に降り続いている。小樽の工藤さんには6月時に一度ご挨拶に参上しているのだが、帰路に就く時は寄り道はしない考えなので、今の内にもう一度お会いしておこうということなのである。小樽近くの銭函辺りに来た時再度電話をしたら、何と今厚田の道の駅にいるということだった。どこかですれ違ったらしい。これから戻るからということで、恐らく2時間近くはかかるのではないかと考え、近くにあったスーパーの駐車場で待つことにした。1時間と少し経った頃に電話があり、もう自宅に戻られたとのこと。びっくりして直ぐにご自宅に向かう。

 15時くらいに参上して、いやあ、そのあとは再度話が弾んだのだった。工藤さんご夫妻はお二人とも身に障害を持つ方なのだが、生き方の名人というか達人であって、会って話をしていても微塵もそのハンディなど感じさせない方たちなのである。ご主人は若い時に機械に巻き込まれて片方の足を失い、手の指も何本かを失っているのだが、車の運転もされるし、庭には丹精込めた野菜などが植えられていて、今はちょうどトマトが収穫できたと、帰りにはその幾つかを頂戴したのだった。6月にお邪魔した際には、珍しいハッカク(=八角=魚の名)の干物と、ご主人自らが包丁を使って作ってくれた刺身を食べさせて頂いて感激したのをお思い出す。小樽は魚の美味いところで、それらを使った寿司は有名だが、八角はこの地の名物の一つだとのこと。1時間ほど話が続いても尽きそうもないので、今日は今年のお別れの挨拶に参上しただけなのだからと、振り切るようにして車に戻る。楽しく、嬉しくありがたい時間だった。

 今日は余市の道の駅に泊ることにしている。今まで止んでいたのに、途中再び降り出したスコールのような雨に会ったりしながら道の駅に着いたのは、17時過ぎだった。近くの温泉に入ろうと考えていたのだが、何だか面倒になってしまい行くのを止めて早やめの夕食とする。といっても、保存しておいた荷新親子の押し寿司、バッテイラで一杯やるだけの話なのである。押し寿司にはやはり日本酒であろう。全ての酒類の肴には相性というものがある。日本人の編み出した魚にはやはり日本酒が合うのである。久しぶりにコリコリと数の子を噛んで、酢の効いた一切れ一切れは、酒と共に五臓六腑に沁み渡り、ああ美味い~とその味をかみしめる。たちまちいい気分になって、いつもは最後まで見るTVの剣客商売を途中で止めて、寝床の中へ。あとは知らない。

 

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