山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第90回>

2018-08-23 05:49:44 | くるま旅くらしの話

【今日(8/23:木)の予定】 

道の駅:てしお →(R232)→ 遠別町郷土資料館 →(R232)→ 羽幌町郷土資料館 →(R232)→ 苫前町郷土資料館 →(R232)→ 道の駅:ほっとはぼろ(泊)

 

【昨日(8/22:水)のレポート】 天気:曇り風強し

<行程>

宗谷ふれあいキャンプ場 →(R238他)→ 稚内市開基百年記念塔・北方記念館 →(R40・D)→ 幌延町農村環境改善センター(郷土資料館) →(D・R232他)→ 天塩川歴史資料館 → 道の駅:てしお(泊)

<レポート>

 昨夜は大荒れの天候だった。自分は直ぐに眠ってしまってよく判らないのだが、真夜中辺りに直ぐ近くに雷が落ちてズーンという音がしたのを記憶している。邦子どのの話では落雷は1発だけだはなく、あちらこちらとかなり酷かったらしい。雨もかなり降ったようで、水たまりが幾つも出来ていた。風は烈風といった感じで、朝になっても止む気配がなく、TVのアンテナを揺らし続けていた。

 その風の中を歩きに出かける。昨日市内に買い物に行った時に、邦子どのが道路脇に何やら松浦武四郎の碑のようなものがあると言っていたので、それを確認することにしたのである。時々風に身体を揺さぶられながらの歩行だった。R238を市内に向かって少し歩くと聲問神社というのがあり、その傍の草叢の中に松浦武四郎がこの地を訪れた時の宿営をしたという碑が建っていた。宗谷日誌の中に記されているとか。松浦武四郎の熱心なファンの方が居られて、この碑を建てられたらしい。草叢の中というのは少し寂しい気がしたが、それでも意義あることだと思った。その後、近くにある聲問神社に参拝する。誰もおらず、お参りする人も滅多にないという雰囲気の神社だった。目的を果たしたので、直ぐに車に戻ることにした。風は一向に弱まる様子がなく、これは今日一日中吹き荒れるのかもしれないなと思った。

国道脇の草叢の中に建てられている松浦武四郎宿営の地の碑。今から150年前の頃はもっと草深い地であったのかもしれない

 今日の予定は先ず稚内市内の開基百年記念塔と併設の北方記念館を訪ね、その後市内で給油のあと南下を開始し、幌延町の郷土資料館と次に中川町のエコミュージアムというのを訪ねて、そのあと天塩町の天塩川歴史資料館を訪ねて近くの道の駅:てしおに泊る予定でいる。本当は豊富町の郷土館も訪ねたいのだが、ここは土・日しか開館していないといういので断念せざるを得ない。仕方のないことではある。

 9時過ぎに出発して稚内市内へ。百年記念塔は上にまで上がったことは無いけど、近くにあるキャンプ場を利用した時に傍まで行っているので、凡その見当はついている場所だ。稚内駅近くから急な坂を上って、その先に巨大な塔が建っている。着く頃はガスがかかって来て、海が見えなくなるほどの気象状況だった。料金を払って中に入ると、直ぐに併設の北方記念館があって、稚内の生い立ちや樺太(サハリン)のその昔のことなど、それに間宮林蔵の探検や地図作成に係わる資料等が展示されていた。かなりの量の資料は、彼の生家である記念館よりも遥かに多いなと思った。この地での業績の評価は、生家の評価よりもずっと上なのだということを改めて思った。サハリンのことを思うにつけて、日露の北方領土の未解決の現状にいらだちと怒りを覚える。ロシアという国の海賊まがいの振る舞いは、どんな説明があっても理解納得することはできない。氷雪の門の乙女たちの自決のことだって、ロシアの終戦時のどさくさにまぎれての振る舞いが原因なのだ。生きている間は、自分はロシアという国を嫌い、忌避し続けると思う。

 そのあとエレベーターで展望台まで登ったのだが、たった80mの高さなのに足がすくみかけて、ジッとしていられなくなって、何枚かの霧の写真を撮っただけで直ぐに下に降りたのだった。元エレベーター関係の企業に勤務していた者としては、真にお恥ずかしい限りである。どういうわけなのか、加齢とともに高所恐怖の感覚は膨れ出しているようである。

身体を震わせながら撮った、塔の展望台からの稚内港の様子。晴れていれば近くにサハリンが見えるはずなのに、今日はとんだ荒れ模様の恐怖の一枚だった。

 その後は、下界に降りて稚内市内を通り抜け、途中で給油を済ませて豊冨町方面へ。豊富町は日本最北の温泉街を持つ町で、ここの温泉は石油の採掘のために掘っていた時に温泉が湧出したとかで、温泉に入ると石油の臭いが漂ってくる。さりとて、べとべと感は無くさらっとしているのだが、最初に知らずに入った時はどうなることかと困惑したのを思い出す。このお湯はアトピーに効くとかで、全国各地からの来訪者が多いと聞く。今日はパスして隣の幌延町にむかう。

 幌延町を訪ねるのは初めてである。名前は知っているのだけど、この町には特段の名所もなく、ただ牧場などが広がっている、そのような土地という印象しかない。町の中心部は国道からは少し内陸側にあって、郷土資料館は農村環境改善センターという建物に付帯して造られていた。入館の前に昼飯をコンビニの弁当ででも済まそうかと考えていたのだが、近くにコンビニは見当たらず、諦めて先に入ることにした。コンパクトな資料館で、よく整理された展示がなされていたが、町の歴史を知るには、各分野とも写真2~3枚と解説だけでは材料が少なすぎるなと思った。年表が掲示されていたので写真に収めたが、さて、読めるかどうか心配である。この町は昭和の15年に豊冨町と分村して今日に至っているようである。北海道の市町村の歴史を知るにつれ、分村と合併が多いことに気づく。それなりの理由があるのであろう。それを知るのもまた楽しい。

 そのあと、車の中で軽く昼食を済ませ、次は中川町のエコミュージアムという所へ行くつもりだったのだが、調べてみるとここはどうやら化石中心の展示所らしい。町の歴史にはあまり触れていないように思えるし、少し距離もあって時間がかかるし、一向に止まないこの強風の中では、あまり動き回るのはよくないと考え、訪問を止めることにした。この後は今日のゴールとしていた天塩川歴史資料館に行って、それを見たあとは近くの道の駅で早めに落ち着くことにする。

 天塩町には直ぐに着いて、天塩川歴史資料館も直ぐに分かった。ここはその昔の役場が使用されていて、レンガ造りの立派な堂々たる建物だった。如何にも時代を感じさせる建物であり、さぞかし内容も立派なのだろうと期待が膨らんだ。200円也を払って中に入ると、天塩の町の歴史と今日が実によく解るように1、2階をフルに巧みに使って展示がなされており、期待は裏切られなかった。

天塩川歴史資料館の堂々たる建物。やがてはこの建物そのものが町の歴史のシンボルとしてその存在感を高めるに違いないと思った。

歴史年表を見ると、先ほど訪れた幌延町はここ天塩村から大正時代に分村して生まれているということである。従って、豊富町も元は天塩村の1地域だったということになる。分村というのはやはり当時の業務処理能力では物理的に広すぎるという条件が大きく影響していたのではないかと思う。今日ならば、面積の広さなど大した問題ではないのだろうけど。時代は大きく変わってきているのだなと改めて思った。

 資料館を出た後は、直ぐ近くにある道の駅:てしおに行き錨を下ろす。依然として強風が吹き荒れている。何とかしてBSのアンテナを設定する。地デジは全く映らない。ここは札幌エリアなのか、旭川エリアなのか。稚内局は無いので、電波は弱くて届きにくいのであろう。もう高校野球も終わったし、特に見たいものもないので、BSだけで十分である。

 そのあと、昨夜はロクに眠れていなかった邦子どのは早々に寝床に直行する。自分はブログの原稿書きや記録の整理などをしながら夜を迎える。間もなく家を出てから3カ月目を迎えようとしている。時々家のことも思うのだけど、心配はしていない。倅夫婦には些か迷惑なのかもしれないけど、ま、留守の間の時間を上手く使ってついでに我々の住まいの方もフォローしておいて欲しい。そのようなことを思いながら風の強い夜を迎える。

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