山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第94回>

2018-08-27 05:26:46 | くるま旅くらしの話

【今日(8/27:月)の予定】 

道の駅:つるぬま →(R275)→ 道の駅:田園の里うりゅう →(R275)→ 雨竜町郷土資料館 →(R275・D)→ 妹背牛町郷土資料館 →(D・R275)→ 道の駅:サンフラワーほくりゅう(泊)

 

【昨日(8/26:日)のレポート】 天気:曇り後晴れ

<行程>

道の駅:あさひかわ →(D・R12・R233)→ 秩父別町郷土館 →(R233・D)→ 深川市郷土館 →(R233)→ 道の駅:ライスランドふかがわ →(R12・D)→ 滝川市郷土館 →(R12・R451・R275他)→ 新十津川町開拓記念館 →(R275・D)→ 新十津川町ふるさとの村 →(D・R275)→ 道の駅:つるぬま(泊)

<レポート>

 昨夜は大雨が降るのかと思っていたら、一度も雨音を聴くこともなく朝を迎えた。4時過ぎに起き出して外を見ても路面は乾いたままで、雨の降った形跡はない。ただ、空には険悪な雲が奔っており、今にも雨を降らせそうなムードではあった。ブログを書く段では、天気がどうなるか判らないので、様子見としたのだが、その後2時間ほど朝の散歩をして戻っても雨は降らず、それどころか一部青空が覗いたりしているではないか。これではどうやら今日はもう雨は降らないと判断して、旭川の滞在は止めることにして、残っている空知エリアの郷土館等の内幾つかを訪ねることにした。

 ということで、9時少し前に先ずは秩父別町の郷土館を訪ねることにして出発する。向かう間、天気は益々回復して雲の様子も何だか険悪さを次第に穏やかになり出したようだった。間もなく目的の秩父別郷土館に到着する。何と一度泊ったことのある道の駅:鐘のなるまちちっぷべつの直ぐ傍だった。前に泊った時は正時の時刻が来ると、すぐ傍でいきなり鐘が鳴りだし、ああ、これではここには泊れないなと逃げ出したのを覚えている。広場の中央に時計台のようなものがあって、そこで鐘を鳴らしているらしい。早速郷土館の中に入って、この町の歴史を学ぶ。そこで知ったのは、この町が屯田兵の入植で開拓が始まった場所であり、この鐘の音も実は屯田兵の暮らしの中で使われていたものだったということ。どうして鐘などを鳴らすのかと思っていたのだが、それを知って納得した。もう一つこの町は道内では上砂川町に続いて面積の狭い町だということ。我が住む町守谷市は36㎢と少しの面積だが、この秩父別町はそれより約10㎢ほど広いだけの面積だとのこと。北海道の中で守谷市に近い小面積の町は殆ど存在しないのである。何だか、たったそれだけの理由で親近感を覚えたのだった。郷土館の中身も屯田兵から始まって、その後の発展の経過が良く解り、大いに参考になった。

 その後は、隣の深川市の郷土館へ。ここは建物は圧倒されるほど立派だったが、明治初期の開拓団のことが少しわかりやすく書かれてはいたものの、大正、昭和そして平成の時代の出来ごとについては殆ど解説が無くて、市の来し方を知るには不十分の展示解説で残念だった。それでも一応は屯田兵や民間団体の入植のことなどが紹介されていて、参考にはなった。

 その後は、深川市のもう一つの施設の農業歴史記念館という所に行ったのだが、これは田んぼの脇に只の廃墟小屋のような建物があっただけで、完全に騙された感じだった。その後ガッカリしながら道の駅:ライスランドふかがわに行き、名物時自慢の深川米で、自分は焼き魚の御膳を味わう。確かにここの米は美味い。

 その後は、隣の滝川市の郷土館へ。この町の郷土館は開催日が土・日の午後12時から16時までという,ちょっと変わった開催タイミングなのである。今日は丁度日曜なので、昼食を済ませた後のグッドタイミングなのだった。少し古めいた貫禄ある建物に着いて、早速中に入ったのだが、偶々この地の開拓に貢献のあった、高畑利宜という人物の特別展が近くで行われているので、そちらの方に行った方がこの町の歴史を知る上では役立つというような話を事務所の人がおっしゃるので、一体何の事かと戸惑った。とにかくその方の話は無視して、中に入って資料等を見せて頂くことにした。確かに高畑利宜という人物のコーナーには特別展のために展示が抜けてはいたけど、この人物だけでこの町が出来たわけではなく、その他のデータを見てそれなりに滝川市の来し方を理解できたように思った。

 この地も屯田兵の入植から始まっており、高畑なる人物はそれ以前のこの町のあり方に大きな影響を与えたということを知った。それから、滝川市というのは、往時は空知太(そらちぶと)と呼ばれていたことを知り、いろいろな面で納得がいった。樺戸からの囚人道路もこの滝川迄が初めだったのだ。北海道の開拓歴史を知るためには、旧地名をしっかり覚えておくことが不可欠だなと思った。

 滝川市の郷土館の後は、どうしても新十津川町の開拓記念館をもう一度見ておきたくなって、向かうことにした。この記念館は休館日が毎月・火の二日なのである。今日見ておかないと3日後でしか訪ねることができない。それで、どうしても今日の内に見ておこうと考えた次第。滝川からは近くて、10分足らずで到着する。十津川村には特別の親近感がある。新十津川村というのは、奈良県の十津川村が明治22年に大災害で村のかなりの部分が地滑りなどで復旧が困難となり、新天地を求めて北海道のこの地に入植したのが始まりなのである。いわば、遠く離れた奈良の十津川村の分村地といった関係なのである。自分的な理解では、奈良の十津川村は、日本の歴史の中では、敗残者が再起を期して潜み、そのための力を蓄えた所として、何とも興味のある場所なのである。不幸にして大災害でこの地に新しい暮らしを求めざるを得なかった、その人たちの末裔がその後どのような経過を辿って今日に至っているかを知ることは興味津々名ことでもある。

 勿論新十津川物語等でその一端は紹介されているのだけど、自分なりに歴をの跡を辿って見るのも面白いなと思っての来訪だった。凡その内容は理解しているので、復習するつもりで、順を追って事件とその後の開拓の歴史を辿って展示物等を見て回った。回りながら、しばらく行っていない奈良県の十津川村本村も訪ねてみたいなと思った。

 その後は少し離れた所にある新十津川温泉のあるホテルまで行き、入浴を済ます。この頃までには天気は完全に回復し、夏が戻って来た感じがした。やはり青空はいい。これで電気の心配もなくなり、大雨から逃げ回る必要も無くなった。この時点まで、今夜の宿をどこにするかが決まっていなかったのだが、一番近い道の駅ということで浦臼町の道の駅:つるぬまに行くこととした。ここはR275沿いで、先日の雨竜の道の駅と同様夜間のトラック騒音に悩まされるのではないかと思ったのだが、近くのキャンプ場の駐車場では邦子どのが不安がるので、とにかく我慢することにして向かう。

 もう18時近い時刻だったので、道の駅の駐車場は殆ど立ち寄る車も無く、空いていた。雨竜よりはかなり狭いので、大型のトラックは入って来るのは少ないかもしれないなと思った。そして、夜を迎えたのだが、予想以上に静かだったのはラッキーだった。もしかしたら、トラックの人たちはここを避けて雨竜の方で留まって過ごすのかもしれないなどと思った。今日は思いがけずに4か所もの郷土館を見ることが出来て満足した。明日もこのエリアで残っている場所を訪ねることにしたいと思いながら、そうだ月曜休館の場合はどうしようか。その時は静養日とするか、などと思いながら夢路を辿る。

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