山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第97回>

2018-08-30 01:53:08 | くるま旅くらしの話

【今日(8/30:木)の予定】 

 道の駅:とうべつ →(R337・D・R231)→ 厚田郷土資料館 →(R231・D)→ 石狩市砂丘の風資料館 →(D・R231・R337・R5・D)→ 小樽市知人宅 →(R5・R225) → 道の駅:スペースアップルよいち(泊)

 

【昨日(8/29:水)のレポート】 天気:曇り時々晴れ

<行程>

道の駅:マオイの丘公園 →(R274・D)→ 白石区内コインランドリー →(D)→札幌村郷土記念館 →(D・R274・D・R337)→ 道の駅:とうべつ(泊)

<レポート>

 朝はいつものように曇り空が広がって少し肌寒い感じがした。今朝の散歩は長沼町のハイジ牧場という所まで往復する。この牧場はマオイの丘の裾近くにあって、歩いてゆくと左手に札幌方面に向かって一大田園地帯が広がっているのが見える。既に色づき始めた田んぼは、今年も豊かな実りをもたらしてくれるのか、最近の天候の異常さを思うとそれが心配にもなる。戻りの道は今度は右手にそれらの穀倉地帯を見ながら、ここまで持ってきた先人の苦労は如何ばかりだったのかと、思いを馳せながらの歩きだった。途中の道脇に昭和の中頃に建てられたのかと思われる茅葺屋根の現役の一軒があり、その脇にある木造のかまぼこ屋根の牛舎なのか、それらの景色を見て、ああ、昭和はもう本当に遠く走り去ったのだと、そのような気持になった。

 車に戻って久しぶりにご飯を炊いて、卵かけで食べる。卵かけご飯は簡便で、旅の間には何度も味わっている。昨日は嬉しいニュースがやってきた。自分が仕事で福岡にいた時に、たった一組だけ仲人をさせて頂いたその二人が、北海道にやって来るというメールを頂戴したのである。自分達は流れ者なので、仲人の話は断り続けていたのだが、自分の直属の若者同志が一緒になるというのでは、これはもう祝福以外には道は無いと思い引き受けたのだった。あの時からもう何年たったのだろうか。彼ももうリタイアの時を迎え、準老世代に入ろうとしている。夫妻で北海道のツアーを申し込まれて、やってくるとのことだった。その詳しい内容を知りたくて今日電話を頂くことになっているのである。丁度約束の9時になって電話があって概要が判り、11日に会うことが決まった。福岡の人を北海道で迎えるなんて、何と贅沢な出会いなのだろう。ありがたいなと思った。

 さて、今日の日程だが、流動的だ。というのも洗濯ものが溜まっているので、これを何とかしなければならない。それをどこでやるかによって、訪問先が決まることになる。先ずは札幌東区にある札幌村郷土記念館という所に行くことにして、その途中でコインランドリーを見つけたら、洗濯を優先させることにした。そのあと時間があれば石狩市の砂丘の風資料館というのも見たいし、更には厚田郷土資料館も見たいと思っている。無理な時は当別の道の駅に泊らせて頂こうと考えている。

 出発が少し遅くなって、10時半近くとなってしまった。ナビを入れて、R274を進んで札幌市内に入り、白石区内を走っている時に道脇にコインランドリーを発見。機械が少し古いようだけど、とにかく片付けておこうと、それから2時間ほどかけて洗濯に取り組む。13時少し前にようやく洗濯が終了する。機械の性能が悪く、しっかり乾いていないものが何枚かあって、それは車の中で乾かすことにして出発する。

 札幌村郷土記念館には、10分ほどで到着する。駐車場があるのか心配だったが、大丈夫だったので安堵した。北海道の開拓の歴史は北海道開拓村や北海道博物館に行けば凡そのことは理解できるのだが、肝心の大都会札幌のこととなると、一体どのような起源と歴史を持っているのか、さっぱり判らない。開拓使が置かれ、道庁などの北海道開拓の官庁の機能が整備されるにつれて、都市としての基盤が確立されて来たということは理解できても、それだけで札幌市が出来上がったわけではなく、だとすればどこへ行って何を見ればいいのかと困惑していた。ネットで調べていたら、札幌村郷土記念館というのが、東区にあるというのを知りここには是非ともゆかなければならないと思っていたのである。それが実現したという次第である。

札幌村郷土記念館。札幌村などという地名はここ以外には決して見ることだできないのではないか。札幌在住の人々は、一度はここを訪ねる必要があるように思った。

 さて、そこへ行ってみたら館の前に大友亀太郎という人物の像ともう一つ玉ねぎ栽培発祥の碑というのが立っていた。大友亀太郎という名はどこかで聞いた名だと思ったら、3か月前の6月の初め道南渡島エリアの木古内町の郷土資料館を訪ねた際に、開拓の先人として功大だったという幕末の人物だったのを思い出した。確かあの時も木古内や大野(現北斗市)の開拓に係わったあと、幕命で石狩の方へ行って開拓に係わったと聞いたのだった。そうか、その出向いた先がここだったのかと首肯した。

大友亀太郎の像。開拓魂に燃えたその視線は、何を見ているのだろうか。二宮尊徳という師の最後の弟子としての業績は大きかった。この人物を使えなかった開拓使は愚物が混ざっていたのであろう。

 館内に入ると、先ずはその大友亀太郎という(この方は小田原藩の幕末の一大経世家の二宮尊徳の最後の弟子だった方とのこと)方の残した開拓のベースとなっている大友堀についての紹介がなされていた。大友はこの地が開拓の最有力地であると見定めて、伏古川と豊平川を結ぶ運河を造ったということである。これは大友堀といわれ、現在は創成川と呼ばれているとのこと。往時は物資の運搬も人の移動も舟が中心手段であり、先ずは開拓のためのインフラとしての運河を造ったということである。さすがの見識だなと思った。この運河の掘削は蝦夷地が未だ北海道と呼ばれる2年ほど前だったため、開拓使が置かれた頃になるとこの事業は幕臣だった大友の手を離れてしまい、その功績は埋もれてしまったということである。しかし、後世札幌開拓の歴史を振り返って見る時、この事績こそが開拓の原点だったということが今見直されてこの記念館がそれを守っているということだった。

 又、玉ねぎ栽培の発祥の地が札幌だったというのを初めて知った。現在の北海道の玉ねぎの産地といえば、北見や十勝のエリアが圧倒的なシエアを占めており、大都市化した札幌では想像もできない話である。往時肉などはまだ食べなかった日本人にとって、玉ねぎなどという西洋野菜は関心の外にあるものであり、当初は栽培に成功はしたものの販路が形成できず失敗に終わったとか。その後時代が移って、再度栽培にチャレンジした人が日本だけでなく、海外への輸出品としての販路を見出したこともあって、成功に向かったという話だった。玉ねぎ栽培用の種まき器や肥料と土壌の撹拌機や消毒器などの農具が並べられていたのは珍しかった。それにしても先日見て来た北見の玉ねぎ畑の収穫の圧倒的な機械作業と比べると、何と小さくて可愛いものよと思わざるを得なかった。150年の間の進歩は恐るべきものだなと思った。

玉ねぎ栽培発祥の地の碑。今でこそ玉ねぎは暮らしの食卓の必需野菜の一つになっているけど、150年前は見向きもされなかった西洋野菜なのである。まさか札幌が栽培発祥の地だったとは!

 その他、様々な貴重な資料が展示されていて、とてもそれらを全て見るのは困難だった。館の事務局長さんに丁寧にご説明いただき、又最後に館長さんからも声をかけて頂き、ありがく嬉したかった。やはり、ここへ来たのは正解だったと思った。大都市札幌もこのような開拓の村々の辛苦と努力の積み上げから成り立っているのである。役所などは上から目線でだけでものを見る嫌いがあり、そのようなものだけで札幌が成り立って来ているのではない。改めてそのような感慨を抱きながら館をあとにした。館長さん、事務局長さんありがとうございました。

 そのあとは、今日の泊りは明日のことを考えて当別町の道の駅とすることにして向かう。明日は石狩市内の郷土資料館を訪ねる予定でいる。30分足らずで到着する。ここはオープン間もない新しい道の駅だ。6月にも一度寄っているので、安心感がある。道の駅の名称に、冠として「欧風の風」などと付けているのは何故なのかは解らないけど、そうありたいということなのであろうか。日本は日本で良いのではないか。当別は当別で良いのではないか。いつものひねくれ根性がちと首をもたげる。何はともあれ今夜はお世話になるので、先ずは感謝しなければならない。トラックの騒音など無いように願いながら夜を迎える。

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