山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第68回>

2018-08-01 06:00:39 | くるま旅くらしの話

【今日(8/1:水)の予定】 

道の駅:阿寒丹頂の里 →(R240・R44・R391)→ 標茶町郷土資料館 →(R391・D・R243)→ 別海町ふれあいキャンプ場(泊)

 

【昨日(7/31:火)のレポート】 天気:晴れ

<行程>

本別町義経の里キャンプ場 →(R242他)→ 道の駅:ステラ☆ほんべつ → 本別町歴史民俗資料館 →(R242)→ 陸別町関寛齋資料館 →(D・R241・D)→ オンネト―湖 →(D・R240)→ 道の駅:阿寒丹頂の里(泊)

<レポート>

 昨夜は前夜よりは少し涼しかったが、それでも朝になっても車の中は25℃を超えていたから、これは熱帯夜というものなのかもしれない。湿度が減ったのでその分すっきり感があるのは幸いだった。5時半頃から歩きに出かけ、今日は本別町の中心街の方を散策した。今日訪ねる予定の町の歴史民族資料館がどこにあるのかを確認するのも一つの目的だった。キャンプ場からは2kmほどに距離で、それほど遠くはない。町は未だ寝静まっていて、所々に早起きの人が花に水やりなどをしていた。資料館は役場の近く図書館の脇にあって、判りやすい場所だったが、駐車場が狭いので要注意だなと思った。町の行政の中枢機関がこの辺りに集まっているのを確認した後、道の駅などにも寄って、来た道を戻って車に戻る。

 さて、今日は十勝エリアの残っている幾つかの資料館を訪ねる予定なのだが、足寄の郷土資料館は、午後1時の開館だというので、パスすることにした。先ずはここ本別町の歴史民俗資料館を訪ね、その後は陸別町の関寛齋資料館を訪ねることにしている。そのあとは道東釧路エリアに向かうことにし、久しぶりに神秘の湖オンネト―を訪ねた後、旧阿寒町の道の駅:阿寒丹頂の里へ行って温泉に入り泊る予定にしている。

 8時半頃出発の準備が終わって、一息入れようとしていたら、邦子どのが急にお腹が痛いと言いだした。キャンプ場のトイレは今一なので、急遽道の駅に行くことにした。5分ほどで着いて、難を逃れたようだったが、その後しばらく落ち着くまでに1時間くらいかかった。いつもだとこのような現象は暴飲暴食の気のある自分が時々起こす出来事なのだが、用心食事ばかりの人が珍しいことだった。何か内緒で妙なものでも食したのか、それとも長旅でスタミナ切れ現象の一つなのか。とにかく1時間ほどで元に戻って安堵する。

 その後歴史民俗資料館を訪ねる。ここを見ておきたかったのは、太平洋戦争の末期に米軍の空襲を受けており、多くの犠牲者を出しているという事件があるからである。何故十勝の山奥のこの地に、特段戦争に関するものといえば、軍馬の基地とも言えるものがあったくらいで、もはや軍馬など武器の中には入らない状況だったのに、なぜだったのか。そのようなことを知りたいと思った。

 中に入ると、この時期はやはり空襲に関する特別展を行っているようで、そのスペースが設けられていて、往時の写真や町の体験者の話など、それに軍馬についても詳しく紹介されていた。それによるとこの空襲は米軍による無意味な気まぐれ行動とも思える判断によるものだったようである。空母から飛び立った43機の爆撃機が、本来の目標は帯広を攻撃することだったのに、その日の気象状況が悪くその場所を見出せないままでいたところ、偶々本別の上空だけが雲が切れて下方を見ることが出来て、重い爆弾をそのまま持ち続けて帰還することができないため、そこで投下したということらしい。全くの偶然と気まぐれが多くの犠牲者を出し、町を壊滅状態に落ち込ませたこの行為をどう解釈すればいいのか、改めて戦争という国事行為の無意味さ、残虐さを思った。この町の人たちにとって、この出来事は決して風化させてはならない重要な出来事であると思った。町の歴史の方は、明治26年に初めて長野県からの入植者があり、これが和人の嚆矢となっているとのこと。それ以前はアイヌの人たちの住む場所だったとのこと。事務の方ともあれこれ会話を交わしながらの1時間余りだった。

 外へ出ると、ピカピカの快晴で、こりゃあ今日はとんでもない暑さで苦労するなと思った。次の目的地の陸別町に向かって出発する。陸別町といえば、日本一寒い町として有名だ。町もそれを自慢というか売り物にしてアピールしている。しかし、この季節はその寒さもどこかへ消し飛んで、並以上の暑さが膨らんでいる。そのようなことを思いながら小一時間ほど走って、着いたのは道の駅:オーロラタウンりくべつだった。関寛齋資料館などどこにも見当たらない。しかしナビはここだと言っている。付近を探しても見当たらないので、もしやと思って駅舎の中に入ったら、何と売り場の片隅に関寛齋資料館と書かれた入口が、ロープで通せんぼをしてあった。売店で受付をするとのことである。邦子どのは入らないというので、自分一人が料金を払って中に入る。

 ここをどうしても見ておきたかったのは、先日帯広の百年記念館を訪ねた時、十勝の開拓に関する主な人物の中に、関寛齋という徳島藩の藩医を勤められた方が、何と70歳という年齢の時に思い立って北海道の開拓に挑戦したという話を知ったからである。一体どのような人物なのか、興味関心を抱かずにはいられなかったのだ。陸別という冬極寒の地に一体どういう心境でやって来られたのか、そして、そもそもどのような人物なのか、それを知りたいと思った。

 中に入ると関寛齋の生まれた頃の時代背景から始まって、誕生後の経歴が詳しく紹介されていて、多くを知ることができた。それらをここに記すのは無理というものだ。我が老人世代論でいえば順老(老に馴れる世代:65~75歳)に志を立て、真老(本物の老人:75~85歳)の82歳に至るまでのこの12年間の挑戦は、現代で言うならば、どういえばいいのか。大正元年82歳でこの世を去られたのだが、現代ならば90歳超となるに違いないから、これは深老(:85~95歳)を生きられたに違いない。しかも中身の濃い人生だったのだと思う。千葉県生まれの快男児とも言うべき波乱万丈の生き方だった。すごいなと改めて尊敬の念が増した。

 その後近くの食堂で昼食を済ませ、オンネト―へ向かう。近道を行こうと、ナビだよりに道道を行ったのだが、何と途中から予想もしなかった砂利道となり、それが4kmも続いたので往生した。北海道にもまだ砂利のでこぼこの道道があるのだということを初めて知った次第。急ぐわけでもないのに近道を選んだことを反省した。

 久しぶりのオンネト―は少し風があって波立っていたが、正面に雌阿寒岳と雄阿寒岳がくっきりと姿を見せて、何とも言えない景観だった。何箇所か場所を変えて写真をとる。風がなければ、澄んだ湖面に雌阿寒と雄阿寒の両峰が映るのだが、今日はそれは無理というもの。今度来た時には奥にある野営場に泊って、ゆっくりこの神秘な湖を味わってみたいと思った。

オンネトーから見る雌阿寒岳と雄阿寒岳。湖面に両峰が映るのを期待したが、今日は無理だった。

 その後は、今日の宿は道の駅:阿寒丹頂の里にすることにして向かう。15時半頃到着する。ここは今回2度目の泊りである。まだ日は高く暑さは相当に厳しい。このような時に風呂に入ったら出た後が大変なので、しばらく休憩して一息入れての入浴となった。ようやく雲が出て来て日が陰ると涼しさがやって来て、北海道らしい夜がやってきた。やはり道東はどんなに日中の暑さが厳しくても夜は宝物の涼しさがやって来るのだなと思った。快適な眠りを貪る

コメント
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