山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第95回>

2018-08-28 05:50:02 | くるま旅くらしの話

【今日(8/28:火)の予定】 

道の駅:サンフラワー北竜 →(R275)→ 道の駅:田園の里うりゅう →(R275・D・R12・D)→ 南幌町郷土文化資料室 →(D・)→ 北広島市東記念館郷土資料収蔵室 → その先未定

 

【昨日(8/27:月)のレポート】 天気:曇り後晴れ

<行程>

道の駅:つるぬま →(R275)→ 道の駅:田園の里うりゅう →(R275)→ 雨竜町郷土資料室 →(R275・D)→ 妹背牛町郷土資料館 →(D・R275)→ 道の駅:サンフラワーほくりゅう(泊)

<レポート>

 朝起きるまでは昨夜は雨は降らなかったのだと思っていたのだが、外を見るとかなり路面が濡れていたので、音無しの雨が降ったらしい。空には雨雲がかなり残っているので、もしかしたら今日も雨模様の一日となるのかと、些かガッカリした。この道の駅の騒音が心配だったが、トラックはかなり入れ替え多く入って来ていたようだったが、思ったよりも静かだったので安堵した。

 傘を持っていつものように朝の歩きに出かける。先ず道の駅のすぐ傍にあるつるぬま公園を一回りした後、今まで関心のなかった国道の上の方に森の方への道を行って見ることにした、その入口の所に鶴沼チャシという立て札があったので、この道を上った辺りに昔アイヌの人たちの見張り所のようなものがあったのかと思ったのだった。かなり急な森の中の坂道を息を切らしながら上がってゆくと、急に視界が開けて、何とそこには広大な畑が広がっていた。少し歩いてゆくとフランス風に仕立てられた葡萄畑が作られていた。そういえば浦臼ワインというのがあったのを思い出した。この葡萄畑もそのワイン造りの一環なのだろうと思った。道の右側の畑には見たことも無い野菜らしい植物が植えられていたので、近づいてその葉を手に取ってみたら、大豆のような小豆のような判断が難しい植物だった。もしかしたら、最近有名になり出した、小さな粒の大豆の黒千貫という奴なのかなと思った。本当のことは分からない。ただの山林だけかなと思って行ったのだが、生誕から150年たった北海道は想像以上に手の混んだ開発が隅々まで行きわたっているのだということを思い知らされた感じがした。そのあと、坂を下って近くにある浦臼神社に参拝する。何とここは121段の石段があり、鈍っている身体では、途中中間で一息入れるために休まなければならないほどだった。いつこの神社が勧請されたのか分からないけど、この地域の先人たちの心の拠りどころとなったに違いないと思いながら参拝を済ませた。

 車に戻り、朝食を摂っている内に険悪な雲は次第に薄くなり、晴れに近い空となって来た。これならば今日は雨なしのいい天気になるのではないかと期待が膨らんだ。

 今日は2カ所郷土館を訪ねる予定でいる。それが済んだら、北竜町の道の駅に行って静養の時間とすることにしている。その2カ所とは、昨日不意としていた雨竜町の資料館と、もう一つは隣の妹背牛町の郷土資料館である。どちらも行き当たりばったりのダメ元での訪問としているので、気楽ではある。

 その訪問の前に、一昨日枝豆を買った雨竜の道の駅に行って、再度それを手に入れることを考えており、店の開く9時頃にはそこへ行っていなければならないということで、8時半過ぎには道の駅:つるぬまを出発することとなった。このあたりで、確実に品質の優れた価格のリーズナブルな野菜類を手に入れようと思ったら、雨竜の道の駅が第一だと思っている。他の道の駅では、実現できないと思っている。今日は何としても枝豆だけは確保したいというのが自分の考えなのだ。

 20分ほどで雨竜の道の駅に着いて、早速野菜売り場を覗いたら、ある、ある、一昨日よりもしっかり実の入った枝豆の束が、前回と同じ250円で売られていた。嬉しくなって2束をゲット。邦子どのもとうきびとトマトを多量に買い込んでいた。新鮮な野菜は不思議な販売力というのか、購買者の購買意欲をそそる力を持っている。買い入れた後、車の中で30分ほどかけて枝豆の鞘を外し、それが終わった後、邦子どのが買った2束のとうきびの半分(3本)を茹でたり、枝豆の半分を茹でたりして1時間半ほどの時間が経過した。これで今夕のつまみは完ぺきに用意できたというものだ。

 その後は今日の第1の目的の雨竜町の資料館を見学することにして、町役場の教育委員会を訪ねる。町役場は庁舎が新しくなったばかりで、現在駐車場の舗装工事の最中だった。2階の教育委員会に案内頂き、見学の話をすると、何と資料室のあるのは今出て来た道の駅のすぐ隣にある建物ということだった。すぐに引き返して、その資料室を見せて頂く。どのような展示がされているのか、少し不安もあったのだが、中に入ると歴史年表に沿って、実に分かりやすくこの町の来し方の様子が記載され、写真等でポイントの解説がなされていたので驚いた。民具や農具等の物の展示は殆どなかったけど、町の歴史を知るためには、自分にとっては今までの見て来た中では、大へんに解りやすいものだった。この町は元々新十津川町の戸長役場に属していたが、その後雨竜村として分村独立し、更にその後でこの村から北竜村が分村したというのが大雑把な歴史のようだ。詳細は後での楽しみである。

 そのあと隣の妹背牛町の郷土資料館を訪ねる。直ぐに着いたのだが、役場の方に連絡すると、教育委員会の人が不在だという。丁度昼食の時刻だったので、皆さん食事のために家に帰られたというような話だった。日本の中では、昼食を自宅に戻って摂ることができる場所がまだ残っているのだと、ちょっぴり嬉しい様な気持になった。13時まで待つのも無駄なので、自分たちも食事にしようと再び元の雨竜の道の駅に戻り、そこのレストランで昼食を済ます。今日はこの道の駅に真に縁のある日となってしまった。

 13時過ぎにもう一度妹背牛町の郷土資料館へ。今度は大丈夫で、間もなく担当の方がお見えになり解錠して、中へ入れて頂いた。妹背牛の郷土資料館は、元役場だったものを復元して使っており、外から見ると洋風のモダ―ンな建物で、それ自体が一つの歴史建造物の資料として価値のあるものと思った。中に入ると、たくさんの写真や絵ハガキサイズの絵画などと一緒に町の歴史だ順を追って展示解説されていた。妹背牛(もせうし)という町の名は、一体どこから来ているのかと誰でも疑問に思うのだが、それはやはりアイヌ語由来で、2説あって、一つは「いらくさ・群生するところ」という意味ともう一つは「いつも・草刈りをする」ということなのだとあった。思うにこの辺りにはアイヌの人たちが暮らしに用いたいらくさがたくさんあって、それを刈る場所というような、草叢が広がっていたのかもしれない。妹背牛町は今は美田の広がる米の産地である。田んぼの大きさも1枚が1町歩(=1ha)を超えるものばかりが幾つも広がっている。5町歩を超えるものもあるのではないか。この地も明治以降屯田兵の開拓ともかかわりがあり、秩父別町と同じように、元々は深川村からの分村で生まれている。面積も48㎢余りで秩父別町よりほんの少し広いだけで、道内の町としては狭い面積だ。山地は無く、全くの田園地帯である。この地でも農業の後継者問題などで生産者の戸数は減少しているようだけど、生産高や耕作面積は減ることは無いから、この豊かな地が荒廃することは無いに違いないと思った。

妹背牛郷土館の景観。昭和6年に建築されたフランス風の庁舎を復元したものだという。現代の建物とは違う豊さを感じさせてくれる。

 見学を終えたあとは、今日の泊りを予定している北竜町の道の駅:サンフラワー北竜へ。青空が広がり夏の日差しが戻って、目に痛いほどだ。しばらく休憩の後、温泉に浸って、旅の疲れを癒す。くるま旅の人たちも次第に減って来ているようで、ここでの泊りの車も10台ほどになっているようだ。雨竜の道の駅で買った枝豆をつまみにビールを飲んで、一時の小さな幸せを味わいながら夜を迎える。あとは寝るだけ。

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