山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

守谷の紅葉

2007-12-02 07:52:37 | くるま旅くらしの話

旅から戻って、少し歩きに力を抜いていたのだったが、一つには年間の目標である450万歩を既に達成してしまったということもあって、あまり無理をして歩かなくてもいいやという気持ちがあったのからなのかも知れない。今日は久しぶりにいつものコースを歩いて見たのだった。

守谷という所に越してきて3年が過ぎたが、この街には樹木が多いのが気に入っている。遊歩道が整備されており、どの遊歩道にも何種類かの樹木が植えられている。街路樹としては、メインは銀杏であろうか。街の中心を走る常総ふれあい道と呼ばれる県道に沿って、丁度今銀杏の金色の並木が続いている。しかし車の多いそのような道を歩くことは殆ど無い。いつも車の通る道を極力を避け、樹木の多い遊歩道や静かな住宅街に沿った道、或いは畑の広がる農家のエリアを歩くようにしている。

今日もいつもの標準コースの一つを歩いたが、例年に無く紅葉の木が目立つのに気づいて少し驚いた。この辺は冬になると筑波下ろしというのか、筑波山や那須・日光方面からの冷気を含んだ風が吹き、結構寒さを覚える日が多いのだが、秋のこの季節の寒さは、さほどでもなく、付近の樹木の紅葉といえば、皆中途半端な感じだった。今年は例年以上に夏が暑かったこともあって、秋もその延長線上にあるような感じだったので、紅葉はダメなのかと思っていたのだったが、それはとんだ思い違いだった。

隣のつくばみらい市との境界に沿って、せせらぎの小路という散歩道が作られている。これは太陽光発電の電源を使って地下水をくみ上げ、それを1kmほどの浅い堀に流しているのだが、途中に小さな池なども作られ、川に沿った散歩道の両側にはいろいろな樹木が植えられている、大変魅力的な道なのである。しかし、現在水をくみ上げる装置は故障中で、せせらぎはおろか池の部分を除いては、水は一滴も無いような状況で、降り注ぐ落ち葉の洪水に埋まってしまっている状況だった。

今日はこの道を通ったのだが、紅葉の多いのにホッとし、嬉しくなった。まずは桜。桜の紅葉は美しいものなのだが、この季節まで葉をつけていてくれる木が殆ど無く、虫に食い荒らされた葉は風に痛めつけられ、吹き飛ばされて殆ど残っていない。しかしそれに耐えた樹木もあり、その葉が鮮やかな赤に染まっているのを見つけて、良くぞ残ってくれたと嬉しくなった。その少し先にはケヤキがあった。欅はこの辺では王様とも言うべき樹木で、市の保存樹となっている数百年の樹齢の並木も残っている。ケヤキは巨大な生命の躍動を四季にあわせて感じさせてくれる樹木である。この散歩道のケヤキは幼くて樹齢20年ほどだと思うが、丁度今紅葉の盛りで、やや褪せた黄色の葉を朝の光に輝かせていた。ケヤキに合わせるようにコナラやクヌギの紅葉も地味だけどそれなりの晩秋の風情を醸し出していた。それらの樹木の中でなんと言っても紅葉の王様といえば山もみじであろう。一段と赤が冴え渡り、周囲を圧倒しているものが何本かあった。思わず立ち止まってそれに見とれる。先日の関西行では、京都の高雄を通ったのだったが、チラッと道路わきの赤い色に目が触れただけで、降りての散策が叶わなかったので、その残念さの分をここにある山もみじで補うことにした。

せせらぎの小路にはこのほかに既に紅葉を終え、殆どの葉を落としたカツラやコブシの木も多い。カツラの落葉は、乾燥すると綿菓子に良く似たほのかなに香りを発するのだが、今はその香りもどこかに消えてしまったようだ。コブシは既に来春に向けての花のつぼみをしっかり膨らませている。紅葉の前につぼみを膨らませているのは、コブシばかりではなく、桜だって同じように逞(たくま)しいのだが、コブシのように目立ったものしか気づかない人が多い。植物の生態というのは、人間が考えているほど単純なものではないような気がする。

せせらぎの小路を過ぎ、鬼怒川近くの農家のエリアに行くと、沼地の荒地の上に朝霧がかかっていた。何ともいえない風情があって、霧の下が自然に還ろうとうごめいている荒地だなどとは全くわからない。その朧(おぼろ)な霧の境目にケヤキやクヌギの大木の黄葉が浮かんでいて、何とも幻想的な風景だった。ここへ来ると、早朝には時々そのような景色に会うことができるのだが、今日は久しぶりに格別の思いでそれらを味わった。都市化の波が押し寄せている守谷から一切の都会色を断ち切った景観がそこには残っており、あたかも見知らぬ地を旅しているような錯覚に陥る。嬉しくも不思議な時間であり場所である。

もと沼地の土手の周辺には昔からのいわゆる雑木林が広がっており、コナラやケヤキに混ざってイヌシデやクマシデなどの懐かしい木も見られる。これらの木の紅葉には今まであまり気づかなかったが、今日は彼らもまた淡い黄色の葉でこの季節のわが身を彩っているのだということを気づいたのだった。

再び住宅地などが造成されたエリアに戻ると、鮮やかな黄葉の銀杏の街路樹が目立ち、なぜか中途半端なトウカエデやプラタナスの紅葉、それに今はすっかり葉を落とした栃の木(=マロニエ)などが目立つ。如何にも人工的な感じがする景観だが、日中そこを行き交う車の為す悪さから、この街を守ってくれていると思えば、彼らには大いに頑張って貰わなければならない。その意味でこれらの街路樹は紅葉などとは本来無縁で人間どものために無言の奉仕をし続けているのかも知れない。

街中の樹木の紅葉に、今日は妙に気をとられて、家に戻りそのことを家内に話すと、今までここに来て紅葉に気づかなかったのは、私たちがこの季節にここに居なかったからなのでは、と一刀両断の台詞だった。確かに越して来てから3年間、この季節は旅に出ていて、一度も居なかった。何だそのようなことだったのかと、少しがっかりしたような気分になった。まだ、旅ボケのようなものが残っているのかも知れない。

コメント
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