山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

年賀状のこと

2007-12-19 06:57:22 | 宵宵妄話

 年賀状の時季となった。少し前に、その受付が開始されたというニュースがあった。以前は、毎年500枚くらいの年賀状を出していたが、この頃は順次少なくするように努めて、それでも今年は300枚を少し越える枚数となっている。服喪中の人やご本人が亡くなったりして、これからは増えるよりも減る方が多くなってゆくに違いない。

 今年から郵便事業の運営が変わって、JP(日本郵政グループ)というのが生まれ、経営がそれに委ねられることとなった。郵便局に行くと、年賀状は挨拶状ではなく贈り物だ、という様なキャッチコピーが書かれている。なかなか上手いことを言ったものだと感心した。今までの郵便行政には、このような気が利いた台詞を聞いた覚えがない。民営化すると、人の気持ちのことに思いが届くのかなと思った。

 その、年賀状は贈り物という考え方は、自分のこのところの年賀状に対する考え方と一致する。今までは、同じ会社の中の人で、同じ職場で新年になれば顔を合わせる人にでも、ずっと年賀状を出してきていた。また、知り合って年賀状を一度頂戴した方には必ずその翌年にも出すようにして来た。形式的だから止めにしようと思ったことはない。一度だけ、全ての賀状を何年間かしばらく停止しようかと考えたことがあるが、それは別の理由からだった。しかし、行き過ぎだと反省し、直ぐに取りやめたことがある。

 年賀状は文字通りに考えれば新年の挨拶状だと思うのだが、ある時から年に一度の贈り物にしようと考えるようになった。そのため、一人ひとりに通ずるような言葉や写真などを工夫したいと思ったのである。といっても、その贈り物の内容といえば、所詮は自分自身や家族などの有り様などを、より解りやすく伝えるに過ぎないのであるが、決まり文句やスタンプなどで済ませるようなことは決してしないことにしたのである。

本当は贈り物ならば、個々人ごとに全てその人に合わせた言葉や表現内容を工夫すべきなのだが、それは物理的に無理と勝手に考えて、失礼を続けている。この辺に自分の横着心のいやらしさを覚えるのである。というのも、以前お聞きした話では、作家の池波正太郎先生は(私が崇敬してやまない方なのだが)、賀状の作成を、年賀のシーズンから翌年分の作成を開始され、全て手書きの絵入りでお書きになっておられたとのことだった。世の中には、このような方もいらっしゃるのである。賀状を頂戴した方は、毎年宝物を頂いていたのだと思う。

ところで、ここ数年来パソコンの活用が進み、宛名書きも手書きを省略し、一昨年辺りからラベル印刷に切り替えることにした。本当は年に一度下手な自筆の書を期待されているかもしれないので、ペンや筆書きの方がベターだろうとは思っているのだが、何しろ時間がかかるのである。その意味で贈り物の質は下がるばかりである。

その代わりに今年から考えているのは、楽をした分だけ、必ず個々人のことをしっかり思い起こして、一言を付加させて頂こうということである。自分の気持ちを一言お伝えすることが、この贈り物の一番大切なところではないかと思うからである。ま、そうは言うものの実際はそっけない言葉で終わってしまうかもしれない。充分に気をつけたいとは思っているけど。

今年の年賀状はもう既に印刷を終了し、宛名ラベルも貼付済みである。そのまま投函しても差し支えない状態となっているのだが、これから贈り物の言葉を書き込まなければならない。元旦に遅れないように、なるべく早く取り組みたいと考えているが、いつもこれから先が、何故か手間取ることになるので、要注意である。

まことに閑話でありました。

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誕生日に思ったこと

2007-12-18 03:05:13 | くるま旅くらしの話

 3日前に一つ歳をとってしまった。古希まであと3年となった。誕生日というのは、この頃はあまり嬉しくはない。今までも誕生日が本当に嬉しかった時があったのか、自分でも良くわからない。ま、ここまで無事に生きて来られたのだから、嬉しくはなくても感謝はしなければならないと思っている。両親を初め、ここまで来るのに係わった大勢の方たちにも感謝しなければならないし、感謝している。

 さて、仕事をリタイアして早くも4年が過ぎてしまった。自分に残されている時間がどれほどなのかわからないけど、せめて八十路に辿り着くまでは生きてみたいと思っている。特にくるま旅は第一目標が80歳、そして願わくば88歳までは続けたいと思っている。というのも既に米寿を超えながらも車を駆って旅をされている方が居られるからである。その金沢市隣の野々市町にお住まいのFさんにあやかって、新しくご当地ナンバーの「つくば」が生まれたのを機に、車のナンバーを「88-55」に変更したのだった。88歳まで旅にゴーゴーという意味である。

 どうしてそれほどくるま旅にこだわるのかといえば、要するに好きだからなのだろう。その気になりさえすれば、日本国内の何処へだって、自由に行くことが出来るし、他の手段よりはお金もかからない。そして何よりも、旅に出かければ様々な未知との遭遇が至るところに待っているのである。日々是新なのである。毎日が新鮮というのは、生きていることを実感できる最大の力となるように思っている。生き生きと生きている人は、皆毎日が新鮮な生き方をされているのではないか。自分もそのような生き方をしたいと思っている。そしてその新鮮さの発見や実感をくるま旅に求めているのである。

 尤も、この様なことを言っていても、己の感性が磨り減ったらダメだと思う。新鮮さを感じられない感性に取り付かれてしまったら、その時は老人化する以外にない。一旦老人化が始まったら、あっという間に心までもが萎え果てた老人となってしまうように思う。身体が衰退しても、感性が働いている間は、老人化は進まないと信じている。くるま旅は、感性の磨耗を防ぐための大きな力を持っているように思っている。感性が働かなくなったら、自分のくるま旅は終わるだろうし、人生も終わるに違いない。

 少しややこしい話となったが、自分の人生の中で、古希までのこれからの3年間が、一番大切な時期だと思っている。旅の中に何かを見つけたいと思っている。それが何なのかは、未だ良く見えて来ていない。自分ひとりが喜ぶようなものではなく、世の中の一人でも多くの方が、くるま旅の中に人生の楽しみや喜びを実感できるようなガイドをしたいと考えている。そのためには、まず何よりも自分自身がそれをしっかり見つけていないと、他人様にガイドなどおこがましい話となってしまう。

 又、くるま旅には課題が山積している。世の中では、くるま旅などというものは、殆ど認知されていない。旅車の製造に係わる方でさえも、くるま旅の実態をあまり知らないことが多いように思う。世界でも有数の車の保有国でありながら、わが国では車を使った旅の発想は貧しく、せいぜいアウトドアの休日を楽しむキャンプレベルのことくらいしか認知されていない。キャンピングカーなるものが、たったそれだけの目的で作られ、使われているとしたら、勿体なくもお粗末な話ではなかろうか。現役世代は、それでもやむを得ないと思うが、リタイア後の世代では、そのような狭い使い方ではなく、くるま旅に使いたいと考えるのは自明のことであろう。しかし、その車を使っての旅の実際の場面では、受け入れ環境の不整備は歴然としているのである。

 このテーマも、自分のこれからの取り組まなければならないものの一つだと思っている。思い上がって、足を踏み外すようなことは厳に慎まなければならないけど、何か具体的な行動を起こさなければ、事態は変わらないと思われるので、動かなければならない。

 一つ歳をとるということは、それだけ残りの時間が少なくなったという証明でもあるから、褌(ふんどし)を締め直して、前進しなければと思った次第である。

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二つの忘年会

2007-12-16 05:27:43 | 宵宵妄話

このところ忘年会が二つ続いた。最近はあまりその機会がなかったので、珍しい出来事である。例年だとこの時期は、まだ旅先にあることが多く、声を掛けられても、不在であるため出席できなかったのである。今年は、秋の旅を早く切り上げたこともあって、お誘いへの参加が可能となったのだった。

忘年会というのは、そもそもいつ頃から誰が始めたのだろうか?江戸時代にもあったのだろうか?外国ではどんな様子なのだろうか? 等などとちょっぴり疑問も抱いたりするが、ま、1年に一度くらい有志が集まって一杯やりながら今年のあれこれや普段のご無沙汰を埋めるような話をするのは有意義のような気がする。

しかし、実際は名目だけの話であって、年などは最初から忘れているというのが現実の暮らしぶりなのだから、忘年会というのはその忘れていた今年を思い出すというのが本当の意味なのかもしれない。という言い方をすると、これまた現実を反映しない堅苦しい話となってしまう。

そのようなことではなく、要するに何にでも当てはまる酒飲みや宴会の口実のようなものなのではないか。それを年末に持ってきているのは、ボーナスなどを貰えるサラリーマンが普及させたに違いないように思う。「宵越しの金はもたねえ」などのやせ我慢の啖呵を切った江戸時代の町人の世界からの影響も多少は受けているのかもしれない。

ま、そのようなことは実(まこと)にもってどうでもいいことなのである。

サラリーマン時代は、結構多くの忘年会なるものがあって、毎日酒を食らっていないと気がすまない自分には、正直あまり嬉しいイベントではなかった。酒は外ではなく家で飲むというのが自分の主義だったので、宴会的なものは歓迎したい気持ちにはなれなかったのである。何故かといえば、酔ったら直ぐに寝られる環境が欲しいからなのである。せっかくいい気持ちになったのに、わざわざタクシーや電車を使って家まで帰るのを余儀なくされるのは、面倒なことだからである。せっかくの酔いが醒めることもあり、もう一度飲み直したりすることもあった。糖尿以来そのような無謀なことはしなくなったが、天国に届く眠りには酒は不可欠だった。

それが現役をリタイアしてからは、忘年会のお誘いなどは殆ど無くなった。お誘いが来ていても旅に出かけていて、知らん振りという結果になってしまうので、だんだんと忘れられた存在となっているのだと思う。それはそれでいいのだと思っている。いつまでも過去の柵(しがらみ)に縋(すが)ってウロウロしているのはいい加減止めにしなければならないと思うからだ。

ところが今年は二つもの忘年会のお誘いを頂いた。一つは元勤務先の同期会という奴で、入社年度の同じ者の集まりだった。こちらの方は今まであまり出席率が良くなかったので、今回は久しぶりに皆の顔を拝しようと出かけたのである。もうリタイアしてから上の方(自分は上の方)は7年、若い方も3年が経っており、その後の暮らしぶりなどの近況報告を各人が披瀝すれば良いのではないかと、事前に厚かましくも幹事さんにお願いしたのだったが、それを取り入れてくれたものの、真面目に受け止めて話を聴く者が少なく、せっかくの話にただ雑音を流すという現役時代からの悪い癖が抜けない人の方が多くて、少々がっかりしたのだった。この同期会というのは、一体に同じ会社で名前も顔も、大体の仕事ぶりも知っているという安心感というか、安易感が支配していて、楽しくやるというのは昔に戻ることなのだという考えがあるのかもしれない。そのような考え方があっても良いとは思うけど、最早仕事は終わってそれぞれが新しい人生をスタートさせているのだから、それを伝え合うというのも大切なのではと思うのだが、どうやらそれは難しいらしい。少しがっかりしながら、それでもいい話も聴くことも出来て、まあまあの気分で家に戻ったのだった。

その二日後、もう一つの忘年会のお招きに与った。こちらの方は地元に一大キャンピングカーの展示場を有し、キャンピングカーの製造、販売も幅広く手がけられているRVランドさんの阿部社長からのお声だった。自分の他に何人かの方がご一緒することになっており、(その方々のお名前は記さない)存知上げない方もいらっしゃるので、忘年会といってもやや緊張感を持っての出席だった。

RVランドさんは大変にスケールの大きい事業を展開されており、関東エリアのみならず日本全域レベルでのお客様に対処されておられるようで、ずいぶん遠い所からの来訪車が居られるのに驚いたのだった。この業界では、製造・販売・メンテナンスまでを手がける業者さんは多いが、それらの全ての領域でお客様の満足の行くレベルを達成しているところは少ないように思う。とくにメンテナンスに関しては、手が回らない所が少なくないように思う。その中でのRVランドさんの健闘ぶりには大いなるエールを送りたいし、更なる充実発展を祈念したいと思っている。

さて忘年会だが、これが実に野生的で、且つ家庭的だったので、こんなやり方もあるのかと驚き感嘆したのだった。1次会は展示場内に設けられているキャンプ場の中にある蒙古のパオのような形のアメリカ製ドームの中で、薪ストーブを焚いての夕食から始まった。今頃薪ストーブにあたられるというのは、古い時代を経験している自分などには懐かしくも新鮮さを感ずる嬉しい世界である。豚汁の夕食も野外料理の定番であり、それを中心に持参した惣菜などを出し合って、実にいい雰囲気だった。3家族と3人の集まりだったが、阿部さんのおしゃべりを中心に、様々な楽しい話題に話が弾んで、あっという間に2時間近くが過ぎてしまった。

その後は、カラオケルームに場所を移してカラオケ大会のようなものとなったのだが、これがなんとコタツの中なのである。コタツの中で最新のカラオケ装置を縦横に使いながら、全員(我が愚妻だけが歌わず)が歌を楽しんだのだった。カラオケがこんなに楽しいものだったと実感したのは久しぶりのことだった。本物の古酒久米仙を飲んだのも久しぶりで、密かに沖縄の一夜を思い出したりした。皆さんそれぞれに思い思いの歌を唄って、その後3時間近くをあっという間に過ごしたのだった。我々は持参した旅車の中で、たちまち爆睡の世界に突入したのだった。

忘年会というのは、新しい年を迎えるために、今年の終わりを目一杯楽しむイベントだと思った。楽しめないイベントは忘年会ではない。今年の最後は、いい形で締めくくれるように思った。阿部社長に深謝である。あわせて美味しい豚汁などの料理やその他の準備にご配慮頂いた、ご家族の方にもお礼申し上げたい。来年はきっと良いことがたくさんあるぞ、と本物の忘年会に出会った喜びを噛みしめたのであった。

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急ぎ旅の記録の急ぎ作成

2007-12-14 06:25:46 | くるま旅くらしの話

何だか忙(せわ)しないタイトルになってしまった。先月11日から25日まで15日間の旅の記録を、昨夜書き終えたという話である。旅から戻って半月もかかっているのだから、あまり早い仕事ぶりではないのだけど、気分的には急ぎの作成だったと思い込んでいるところがある。まだ年賀状も作成しておらず、何かと慌(あわただ)しい気分でこの頃を過ごしているからなのかもしれない。

旅の記録をまとめるのは、後楽のメーンイベントのようなものだ。15日間の出来事を、メモと地図とデジカメ日記と辞書と若干の資料などを見ながら、たっぷりと振り返ることが出来るのである。辞書を引くのが一番楽しい。旅の中で不確かだったことを辞書の説明で確認することが出来るからである。電子辞書なのだが、万能といってよい。日本人向けなのに、古語や仏教などに関するボキャブラリーが少ないのが残念であるが、それらは別の辞書や辞典を見ればよい。辞書を引くのを面倒くさがる人がいるが、何故なのか良くわからない。我が相棒などもその一人で、いつも自分で調べずに身近な人に訊くばかりである。そしてその多くは直ぐに忘れ去り、また同じことを訊くことになる。

今回の旅を急ぎ旅と名付けることにした。急ぎとは行為に掛ける時間の短いことを言う。トータルでは長くても、個々の行為が時間不足であれば、それは忙しいということになる。そして多くの場合、忙しいというのは何処か満足に欠けるものがある。今回は何人かの友人知人にお会いし、親交・旧交を温めたのだったが、心のどこかにもっとゆっくり共有する時間を持ちたかったなあという思いがある。欲張りなのかも知れない。

しかし実際はそんなに長居をしなくて丁度良かったのかもしれない。淡交とは、余韻を残すようなお付き合いを言うのだとすれば、満足に浸るなどというのは、誤ったイメージの部類に入るのであろう。思い入れは最小に止めることが淡交の極意なのかもしれない。

毎年この季節には、日本の西の方を訪ね、北陸・信州経由で戻ってくることが多いのだが、今回は関西止まりだった。四国や九州そして山陰地方にも会いたい人は何人か居られるし、新しい出会いも待ち受けていてくれるに違いないのだけど、今回はそれを諦めざるを得なかった。それゆえに欲張っての急ぎ旅となったのだと思う。

しかし、旅の中では結構ゆっくりした時間もあった。室生寺や明日香村、山の辺の道などの散策は天気にも恵まれて、存分に楽しむことができた。15日間の歩きの平均は1日12,800歩だったから、これを距離に換算すると少なくても毎日7km以上は歩いていたことになるはずだ。いつもよりは少し少ないのだが、旅先では歩けない日もあることを思えば、まあまあ良く歩いた方だといってもよいのではないか。ということはそれほどの急ぎ旅ではなかったということにもなる。

結局のところ人に対しての思い入れが強いため、自然とのふれあいの部分を忘れてしまうからなのだと思う。旅というのは、人も自然も飲み込んだ、ゆったりとした時間の流れの中で過ごすことが出来るのが、やっぱり理想なのではないかと思う。どんな種類の旅であれ、旅の楽しみは変わらないけど、急ぎの気持ちはなるべく少ない方がいいなと思った次第である。

但し、記録の整理の方は、これは急いだほうが良い。何事も仕事というのは迅速をモットーとすべきで、例え拙速であってもグズグズしていてタイミングを失うよりは、遙かに上策である。自分としてはその信念で現役を通してきたのだったが、この頃になってこの信念の土台が少し痛み出して来ているようだ。要注意である。

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江戸消滅

2007-12-13 06:55:35 | くるま旅くらしの話

昨日は久しぶりに東京を往復した。元勤めていた会社の同期会というのがあり、その忘年会だというので、偶には皆の顔を見ておかないといけないな、などと殊勝にも考えて出かけたのだった。というのも、間もなく古希を控えており、既にカウントダウンに入っている人も居るし、幽界に旅立った人もおられるので、生きている間は、お互い時々現状を確認しあうのも必要なのだろうと思ったのである。

ところで、我が家からは、東京へはつくばエクスプレス(=TX)ではなく、高速バスを利用するのが第一なのである。バス停まで3分ほど歩けば、東京駅まで1時間くらいで行くことが出来るし、料金も安い。TXだと30分近く歩くことになり、電車は35分くらいで秋葉原に着くのだが、更に乗り換えないと東京には届かない。特に夜遅くなる帰りは、これはもうバスに限る。道路が空いていることが多いので、40分くらいで家に着いてしまうのである。

というわけで、14時過ぎのバスに乗ったのだった。忘年会は18時から、赤坂のホテルニューオオタニの別棟の何とか言う所で始まるとの案内だった。ずいぶん早い出発だが、これは久しぶりに江戸を歩いてみたいと思ったからだ。バス停は上野にもあるので、そこから歩いてもいいなと思ったが、横道に逸れすぎる傾向があるので、今日はおとなしく東京駅から歩くことにしようと決めたのだった。15時半近くに到着。

今頃が一番昼の短い時季なのか、もう薄暗くなり出している。東京は人が多い。いつの間にか背が高くなってしまっているビル街を急ぎ足の人が行き交っていて落ち着かない。かつて自分もその中の一人だったことを思い出し、苦笑する。まっすぐ江戸城に向かう。皇居と呼ぶ人が多いが、明治まではここは将軍様が住んでいた場所だ。江戸城といった方が、自分にはしっくり来るのである。ついでに言えば、皇居は京都の方が、本当は相応しいのではないかと思っている。御所という呼び方に歴史を感ずるのである。堀を一回りするのもいいなと思ったが、何しろ暗さは増すばかりなので、車の洪水の脇を歩くのはつまらない。それは止めることにした。

本当にいつの間にか丸の内や大手町のビル群は、背が高くなってしまった。45年前の入社当時は、丸の内にあった会社の入っていたビルは確か8階建てだったし、周囲のビルも10階を超す様なものは殆どなかった。東京タワーだってなかったのである。それが今は夕闇迫る中に、30階を平気で()で超えるビルが、幾つも建っている。以前はレンガ色のノッポビルで目立った東京海上のビルなどは、もはや背の高さというより背の低さの方が目立つようになってしまっている。もし江戸城に皇居がなかったら、このビル群は堀を越えて、もっと近くに迫ってきていたに違いない。その意味では、ここに皇居を置いたというのは正解だったのかもしれない。そのようなことを考えながら、二重橋前を左に曲がり、日比谷公園に向かう。

日比谷公園も久しぶりだ。ここが公園となっていることで、東京がどれほど救われているかと思う。江戸城の方は松の木が中心だが、ここには銀杏やプラタナスなどの大木があって、僅かだけれど、古い東京が残っている。朽ちかけ始めたガス灯や水飲み器、何度も火災から再建された松本楼など、我々の2世代くらい前の人たちの記憶に刻まれたものが残っている。しかし江戸は殆どない。

首賭けの銀杏というのが、松本楼のそばに立っている。相当の大木だ。樹齢もかなりのものだと思う。もともと日比谷見附(今はそのような呼び方は絶え果ててしまった)にあったものを、開発で切り倒す計画から、自分の首を賭けても枯らさずにここへ移植すると、それを実践された人が居て、そのおかげで生き残ってここにあるのだという。この樹は、間違いなく江戸を見て来ているに違いない。江戸だけではなく維新以来の来し方もしっかりと見て来たに違いない。しばらく佇(たたず)んでその逞(たくま)しい生命力を思った。未だ落葉に至っていない銀杏もある中で、この大木はすっかり葉を落として来春を待つ体勢に入っていた。もう既に新芽の準備は出来ているようである。

少し先の小さな池の傍に数本の山もみじがあって、未だ紅葉の残骸を止めていた。そこに置いてあるベンチに腰を下ろし、しばらく暮れてゆく時間を味わった。既に鴨たちの一家族が飛来し、池の中を忙しく動き回っていた。遠くに信号の灯りが見えるけど、この一角の空間は、東京の喧騒を浄化する力を秘めているなと思った。30分ほど座っていると、それが判るのである。

その後は霞ヶ関の味気ない建物の中を赤坂溜池方向へ。溜池など見たこともなく、名前だけが残っている。残っているのは近くの山王日枝神社だけなのであろうか。そう考え、暗い中を神社に参拝する。ここも初詣の準備を整えて、一稼ぎの体勢に入っているようである。これだけ原油価格が上がったら、神頼みの善男善女が殺到するのは間違いないだろう。

ようやく紀尾井町のホテルに着いたのだが、未だかなり時間が余っているので、紀尾井坂や清水谷などを歩くことにした。何処に紀州家があったのか、尾張家は、伊井家は何処だったのか、全く見当がつかないのは、勉強不足の賜物である。この辺の江戸は未だ不案内である。それにしてもあと50年後の考古学でも、この地に江戸を探すのは至難のことではないかと思った。紀尾井町を発掘しても、江戸は地下にも地上にもかけらも残っていないのではないか。名前だけが残る世界が東京の至る所で生まれているように思った。

さてさて、その後は帰り道を失って、30分ほど周辺をぐるぐる廻り続けたのだった。夜の灯りが点くと、東京は表情を一変し、田舎者には不親切極まりなくなるのである。10年前とはすっかり周辺の様子が変わってしまった中を、本物の迷子になってさ迷い続け、ようやくホテルを見つけ出し忘年会の席に着いたときは、辛うじて開催時刻にはセーフだったものの、もう皆はプレ乾杯をやっていて、最後に近い出席者となってしまっていた。

江戸は確実に消滅している。夜の東京のさ迷いの中で、間違いなくそれを実感したのだった。

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旅車の電源管理

2007-12-12 10:28:18 | 宵宵妄話

このようなタイトルを書くと、私がいかにも電気のことに詳しいように思われると、大へん困惑してしまうのだが、今日の話題は私の旅車の電源管理のことについて話してみたい。

毎々愚かにも強調しているのは、自分が電気やガスに関して殆ど知識も技能も持っておらず、無能力者であることなのだが、それにも拘らず旅車の電源のことはずーっと気にして来たのである。

旅車を使い始めた頃は、発電機さえあれば何とでもなると考えていた。能力の大きな発電機を用意すれば、電子レンジだって、クーラーだって、電気釜だって自由自在に使ってビクともしないなどと思っていたのである。それは今だって、確かにその通りなのだ。しかし、その通りにやったとしたら、世の中の大勢の人からひんしゅくを買うのは間違いない。他人が何を言おうと俺の勝手と、好きな所で好きなように発電機を回して、我が世の春を謳歌できるほどの蛮勇は持ち合わせていないので、旅の実際では、発電機というのは使いにくいものだということを知ったのだった。

使うとなれば、肝心のキャンプ場や道の駅などではなく、空き地や港の岸壁の外れなどの、誰も居ない場所や近隣に迷惑のかからない場所を探さなければならない。きわめて不自由でわびしいことなのである。何のために発電機を持っているのかと、何度も思ったことがある。

その結果どうしたかといえば、基本的に調理には電源を使わないこと、煮炊きは全てガスを使うこと。TVやDVDなども(AC)電源が確保できる場所以外は、必要最小限の使い方に止めること。夜は早く寝ること。等などのケチケチ作戦をとらざるを得なかったのである。旅を楽しむには、そのような不便さ、惨めさを乗り越えなければならないのだと考えていた。日の出と共に起き、日の入りと共に眠るというのが旅くらしの基本なのかな、などとも思ったりしていたのだった。

ところが在宅時の自分といえば、夜中は起きていることが多いのである。考えごとや物書きの時間というのは、刺激の多い日中は向いていない。夜中の11時頃に起き出して、朝まで起きているということも多い。だから正直のところ、旅に出た時の夜の時間が勿体ないなと、ずーっと思い続けていたのだった。しかし、何とも出来ない現実があり、諦めざるを得なかったのである。

ところが、最近ソーラーを取り付ける仲間が多くなり、彼らの話を聞くと、かなり有効だという。日常の生活に必要な電気の殆どは賄えるという話だった。勿論太陽がしっかり顔を出してくれているというのが絶対条件なのだが、それにしても近隣に迷惑をかけないで電源を確保できるというのはありがたいことである。これは是非検討しなければならないと考え始め、ようやく今年中に何としても取り付けようと決心したのだった。

そのソーラーの取り付けが完了し、昨日車が戻ってきた。今回は思い切ってサブバッテリーを1個増やし2個とした。ソーラーの容量は130Wである。これで夜間の照明とパソコンの使用は大丈夫ではないかと思っている。(しかし本当のところはこれからやってみないと判らない)勿論、電子レンジや電気釜などを使う予定はない。TVなどもそれほど見たいとは思わないので、今までの使い方と大して変わらないと思う。在宅時と同じペースで家電製品を使いたいというのが多くの方たちの考えだと思うけど、自分たちの旅くらしは懐古趣味的なところがあり、不便さも味わってみたいと思っているのである。

さて、電気という奴は、私にとっては正体不明の存在であって、何やら書かれた説明書を読んでもさっぱりイメージが湧かないのである。一応電気の容量だとかは解ったようなつもりになって、アンペアやワット、ボルトなどという言葉を使ってはいるのだけど、それが実のところどんなものなのかは見当もつかないのである。だから、ソーラーを付け、バッテリーを増やしたものの、今現在電源がどのレベルにあるのかというのはさっぱり判らない。一応ランプ表示があり、グリーンや赤でレベルが示されるようにはなっているけど、それが本当なのかどうか良くわからず、これはもう信ずる外ないと思っている。

それで、例によってアバウトに考えていたのだったが、力強い味方が現れたのだった。私がソーラーを取り付けるのを知った、同じ市内に住むKさんが、ご自分の旅車でわざわざ拙宅を訪ねて来られ、旅車の電源管理をどのようにされているのかを教えて下さったのである。Kさんの車は最近納入された新車で、5年前の我が車と比べて、かなりハイレベルの装備で満たされているのだが、その電源管理をデジタル表示のメーターを使って為されているとのことだった。切り替えスイッチなども取り付けられており、電気のロスを最小限にとどめるように、いろいろ工夫をされていた。全くそのようなことを知らない自分には、大いに参考になりありがたかった。

そのKさんが、昨日ご自分が使われているのと同じ装置を用意されて持って来て下さったのである。あわせてネット上から探されたバッテリー管理のデータもお持ち頂いたのだった。不断殆どネットでの検索をしない自分には、大変ありがたいデータだった。これをお書きになった方にもお礼申し上げたい。電気の正体は依然として良くわからないけど、デジタルで表示されているのはわかりやすく、判断材料としては納得性が高いように思う。Kさんのおかげで、これからはより安心なくるま旅くらしが保証されたように思う。今まで無駄の多かった夜の時間が、これからは大いに活用できるのではないかと楽しみにしている。

他力本願の身には、真に心強いKさんの存在であります。これからもご指導よろしくお願いいたします。

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守谷と守屋

2007-12-11 06:57:56 | 宵宵妄話

守屋という話題の人がおられる。四面楚歌の人だ。その人の名が、我が棲む守谷と同じ発音なので、少し嬉しくない気持ちでいる。TVのニュースを見る度に、我が棲む町と同じ名前が、毎回何度も流れるので、何だか変な感じになるのだ。人名と地名の差があるのだから、気にしなくても良さそうなのだが、耳という奴は、ついつい反応してしまうものらしい。

守屋という人のことは全く知らない。少し前、女性の防衛大臣が誕生したとき、人事に関して何か軋轢があって、その時は防衛大臣が辞めたような事件があったが、その時の当事者の次官が守屋という人だったというのも、最近のニュースを聞いていて判ったという程度なのである。それにしてもお粗末な話だと思う。

私は、守屋という人は何処にでもいる普通の人なのではないかと思っている。世の中の多くの組織の中では、○○天皇だとか、○○教祖だとかと呼ばれる人がいるものであるが、私としてそのような人物を殆ど尊敬しない。尊敬しない理由は、そのような人物は己の存在を過信し、思い上がっている人が多いからである。勿論思い上がりなどとは無関係の方もおられるわけで、そのような場合は、これは甚(いた)く尊敬せずにはいられないのである。

思い上がる人は普通の人だと思っている。日本の歴史の中で、思い上がって自分を失い、知己を失い、家族を失い、一族郎党を失った人は多いのではないか。その最たる人物が豊臣秀吉なのではないかと思っている。彼はもともと普通の人であったがゆえに、思い上がりを極めたのではないかと思う。権力によって己の欲望が叶えられることに味を占めると、人間は思い上がりに自信を持つようになり、その振幅は果てしなく広がってゆくのではないか。秀吉の場合は己の死によってもそれを止めることができなかったように思うが、現代で話題になる人は、行過ぎた事件によって思い上がりに止めを刺されるようである。

秀吉の犯した思い上がりの大きさに比べれば、守屋という人のレベルは、天皇などと呼ぶには値しない小さなものなのではないか。今の世情を見ていると、これらの情報はマスコミが担っているわけだが、多くの人はそのこれでもか、これでもかという事実らしきものの暴露追求を、怒りの気持ちと一緒に密かに楽しんでいる傾向があるような気がする。また、マスコミもそのように仕向けているような気もするのである。守屋という人物が、とんでもない大罪を犯したように報道が為されているが、よく考えてみれば、バカバカしい滑稽な話ではないだろうか。

勿論その人の立場から見て、大罪には違いないのだが、なんともセコイ話である。恐らくこれ以上の大罪が、世の中にはまだまだ隠れ潜んでいるに違いない。思い上がらない人が起こしている犯罪は、このような小人の犯罪の比ではないように思えるのである。

たとえば、投機筋の原油の値上げ操作などは、世界規模の犯罪に相当するのではないか。法の許容範囲の中の行為であるがゆえに、その正当性は保証されているのかもしれないが、世界中の善人を苦境に貶めるような行為を許してよいものなのかどうか、大いに疑問を感ずるのである。そしてその根源では、恐らくたった一人の人間が知恵を働かせ、周囲の人間を操作しているに違いない。思い上がらないがゆえに、その存在は不確定で、見当がつきにくいのである。

それにしても、地名と人名の差があってよかった。あと1ヶ月も経たない内にこの人物の名も世情の話題からは疎んぜられ、消えてゆくことであろう。旅の話とは全く無関係だったけど、家に籠もっていると、バカバカしい話ばかりがやたらとTVや新聞から流れ伝わってくるので、いささかうんざりしているところである。

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秋の終わり

2007-12-09 09:36:06 | 宵宵妄話

昨日、一昨日と木立ダリアの処理をした。昨日は畑の分を5本、一昨日は庭の分を7本切り倒し、細かくしてゴミとして処理をしたのだった。草なのだけど、何しろ背丈が4m近くもあるので、大木を切り倒すような感じがある。一番太いものの幹周りは30cm近くあったのではなかろうか。切り倒すのは鋸でないと無理である。しかし、木とは違って実に柔らかいので、切り倒すのに苦労は要らない。

今年も花の最盛期を不在にしていて、堪能することは出来なかったが、畑に植えた方は、そこが市の菜園なので、野菜の収穫や手入れ等に来られる方には楽しんで頂だけたようで良かった。2、3の方からは、花が咲き出す前に「これは一体どの様なものなの?」と訊かれており、皆さん結構興味・関心を示されていたようだ。とにかく3mを超すような得体の知れない植物が何本も畑の中に立っているのであるから、あれは何だと思うのは当然だったと思う。そのような方にも、花を見て頂いて納得して貰えたのではないかと思う。

木立ダリアは、メキシコ原産の植物というから、暖かい地方の出身なのであろうか。まだまだ花を楽しめると思って、残っている蕾を数えたりしていたのだが、数日前の冷え込みを凌(しの)ぐことが出来ず、一夜明けると殆どの花が打ち萎(しお)れ、翌日には蕾さえもが花を開かせる元気を失ったようだった。霜にやられてしまって、もはや再起は不可能となったようである。それで、やむなく切り倒すことにしたのだった。

季節というのは、基本的には夏と冬しかないと、どこかで聴いたことがある。日本のように四季があるというのは、地球では恵まれたロケーションにあるということなのかも知れない。一年中夏だったり、冬だったりしたら、そこに棲む人たちは生活の仕方も考え方も我々とは大いに変わったものとなるに違いないと思う。未だそのような国に行ったことがないので、どう違うのかは行った人から聞くばかりである。

ところで、四季というのは1年12ヶ月を4等分して春夏秋冬と呼んでいいものなのだろうか。どうやら違うのではないかと思っている。特に最近では地球温暖化の影響があるのか、暑さの季節が増えだしている感じがある。夏は6月の半ばから10月半ばくらいを占めているのではないか。そしてその反動としての冬は、11月半ばから3月半ばくらいまで続いているような気がする。そうすると、春秋はそれぞれ2ヶ月くらいの期間しかないように思えてくる。やっぱり、季節というのは、夏と冬が中心であり、春と夏はその移り変わりの過渡期であって、その期間が縮まっているということなのかも知れない。いずれにしても最近の気候にはただならぬ異常性を覚えることが増えている。

昔から秋と冬の境目は何なのかについて興味関心を持っていた。子供の頃は、庭先に植えられた柿の木の100匁柿(今の富有柿)の最後の実が無くなった時が、冬が来た時だと思っていた。それは毎年12月に入る少し前の頃だったと思う。当時は富有柿を植えている家は少なくて、我が家には渋柿と小粒の甘柿がなる木しかなかった。だから、その判断基準となった柿の木は、他所の家の庭に植えられたものである。通学の途中に、物欲しそうにそれを見ながら、その最後の1個が無くなった日を、今年の冬の始まりと決めていたのだった。

それから50年以上が経って、ずーっと季節のことも冬の到来のことも忘れ果てていたのだったが、一昨年我が家に木立ダリアがやってきて、去年、今年と大輪の花を咲かせてくれていたのが、一夜の霜であっという間に花を萎れさすのを見て、改めて冬の到来をこの花が教えてくれているのに気付いたのだった。これから先、この花は毎年秋の終わりを決め、冬の到来を教えてくれる役割を果たしてくれるに違いないと思っている。

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冬の旅

2007-12-08 07:02:08 | くるま旅くらしの話

冬という季節は旅にとってはなかなか魅力ある季節なのだが、今のところ旅をするのは封印してある。その最大の理由は安全が保障されないと思い込んでいるからである。安全を保障するためのコストがかなりかかるというのも大きいのかもしれない。とにかく寒いというのは、暑いのよりもいろいろな面で危険とコストを伴うようだ。雪が降ったり、路面が凍ったりすれば、たとえチエーンを付けたとしても、平気で車を運転する自信は自分にはないし、相棒はもっと恐怖感を抱くに違いない。又暖房の費用もバカにならない。凍てつくエリアに行ったならば、わが車のFFヒーターは、使い方によっては5kg入りのLPガスを2日くらいで空にしてしまうに違いない。いや、もっと早くなくなるかもしれない。

それならば、寒い所へ行かずに暖かい所へ行けばいいのではないかと考えるのが普通だと思う。それで、冬の間は鹿児島や沖縄などへ向かわれる方もおられるのだが、自分としてはそのような地方での中途半端な冬を味わうのにはあまり関心がないのである。沖縄ならば少し違うと思うが、コストがかかり過ぎるし、今のところ行って何をするのかのテーマも見出していない。

というような理由(わけ)で、冬の間はせいぜい2、3日で近場の温泉に入る程度の外出にとどまっている。もともと冬のスポーツ、たとえばスキーやスケートなどの類は全く関心がなく、冬といえば秩父辺りの雪山を歩いて遭難しかけて、それ以降は山行もやめてしまったというようないい加減な人間なのである。

しかし冬の旅には魅力を感じている。それは次第に膨らんでくるような予感がするのである。特に冬の北国へのくるま旅には憧れを持っている。空も大地も判別できない雪の世界、真っ青な空と真っ白な大地の対比の世界。その中にいる自分を思い浮かべるだけで、ワクワクとした思いに駆られるのである。

何年か前、車ではなく航空機で札幌に行き、1週間ほど知人宅にお世話になって雪祭りの雪像作りを見に通ったことがある。雪祭りの完成された雪像も素晴らしいが、それらがどのようにして作られているかにも関心があった。その時は、日中は足を滑らしながら市内各所やスキージャンプ場などを歩いて覗き廻り、夜になると雪像作りの現場を訪ねたのだったが、そこは建設現場の雰囲気があって、大勢の人たちが汗を流しながら、シャーベット状にした雪を練り固めていたのが印象的だった。雪祭りの本番が始まる前には家に戻ったのだったが、あの1週間は今でも懐かしい思い出として残っている。

しかし札幌は大都市であり、本当の雪国の世界は東北の黒石や北海道の別海など、今年もお世話になった地方の中にあるように思っている。白銀に埋まる家々や豪雪吹きまくるハザードの世界は、恐らく想像を遙かに超えた荘厳で厳しい世界だと思うが、そこを車で旅する手立てがあるものなのか、見当がつかない。我が旅車では到底不可能だと思っている。

先日TASの集まりに参加させて頂いたが、Trail  dventure  Spirits というのは、このような厳しい冬の季節でも野山に旅する精神を汲んだものなのであろうか。冒険する意欲が途絶えることには不安があるが、この頃無謀に対する警戒心が強くなって来ているのは、老化現象の始まりなのかもしれない。間もなくやってくる雪のない、ただ殺風景なだけのこの地の冬を、今年もどのように料理するか、いろいろ思いを巡らしているところである。

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喪中欠礼のはがき

2007-12-07 06:08:52 | 宵宵妄話

毎年この季節になると、今年の哀しい出来事を知らせるはがきが送られてくる。服喪中なので、新年の挨拶を控えさせて頂くという挨拶状である。その多くは父母を失い、兄弟を亡くしたというものであるが、中には連れあいや我が子を亡くしたというのもある。真に悲しい知らせである。

服喪というのは、幽界に旅立ったその人との別れの悲しみを癒すための時間をいうのだと思う。人それぞれにその悲しみの期間は異なり、癒しのための時間には差があることだろうが、悲しみの本質は変わらない。それがどのようなものであれ、二度と生きては会えないというのが、服喪の悲しみの本質であろう。

私は年賀状よりも服喪欠礼のはがきの挨拶状を大切にしたいと思っている。何故なら、人間にとって最も大切なのは、悲しみを知るということではないかと思っているからだ。悲しみの対極に喜びがあるが、その重さは悲しみの比ではない。喜びというのは一時的な心の通過現象に過ぎず、二度と同じ感激や感動を味わうのは不可能だ。しかし悲しみは重く、何年経っても消え去ることはない。時には一層その重さや深さを強くしてゆくこともあるのではないか。

世の中には悲しみを知ることなどには無頓着で、喜びや快楽の追求にばかり生きる価値を求めている人もいるようだけど、そのような人ばかりが増え続けたら、この世は末世となるに違いない。存命の間中、悲しみ無しに生きられることなどあるはずもないのに、その悲しみを軽くあしらって生きてゆこうとするのは無上の欲張りであり、思い上がりのような気がするのである。

今年は例年以上に服喪欠礼のはがきが多かった。毎年350通ほどの年賀状を受け取っているが、今年は服喪のはがきが既に20数枚も届いており、猛暑の夏などのこともあって、健康を害された方も多かったのかもしれない。その中に旅で知り合った方から、奥様を亡くされたという1通があった。何年か前、昨年北海道の旅でお会いし、再会を楽しみにしていた方からだった。

定年後の人生を夫婦で旅をしようと考えられる方は多いが、くるま旅を指向し、実行されている方はそれほど多くない。どちらか一方の事情や都合で、一人旅を余儀なくされている人が結構多いのである。だから夫婦二人旅のできている人たちは、自分たちも含めて、ある意味でラッキーなのだと思っている。それなのに、これからという時、大切なパートナーに逝かれてしまったご主人の悲しみと落胆は如何ばかりかと思う。心から亡き奥様のご冥福と残されたご主人の悲しみの心の癒されるのを祈念している。

それにしても人が生きるということには、油断も隙もないように思う。日々是新とか、一期一会とか、生きる瞬間、瞬間を大切にしたいとする考えがあるが、我々の日常は常に油断と隙の連続である。年末になると送られてくる悲しみの知らせに思いを馳せながら、せめて自分たちは、年末の悲しみの書状を倅どもに書かせるのは遅らせるように努めようと思うこの頃なのである。
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