山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

江戸消滅

2007-12-13 06:55:35 | くるま旅くらしの話

昨日は久しぶりに東京を往復した。元勤めていた会社の同期会というのがあり、その忘年会だというので、偶には皆の顔を見ておかないといけないな、などと殊勝にも考えて出かけたのだった。というのも、間もなく古希を控えており、既にカウントダウンに入っている人も居るし、幽界に旅立った人もおられるので、生きている間は、お互い時々現状を確認しあうのも必要なのだろうと思ったのである。

ところで、我が家からは、東京へはつくばエクスプレス(=TX)ではなく、高速バスを利用するのが第一なのである。バス停まで3分ほど歩けば、東京駅まで1時間くらいで行くことが出来るし、料金も安い。TXだと30分近く歩くことになり、電車は35分くらいで秋葉原に着くのだが、更に乗り換えないと東京には届かない。特に夜遅くなる帰りは、これはもうバスに限る。道路が空いていることが多いので、40分くらいで家に着いてしまうのである。

というわけで、14時過ぎのバスに乗ったのだった。忘年会は18時から、赤坂のホテルニューオオタニの別棟の何とか言う所で始まるとの案内だった。ずいぶん早い出発だが、これは久しぶりに江戸を歩いてみたいと思ったからだ。バス停は上野にもあるので、そこから歩いてもいいなと思ったが、横道に逸れすぎる傾向があるので、今日はおとなしく東京駅から歩くことにしようと決めたのだった。15時半近くに到着。

今頃が一番昼の短い時季なのか、もう薄暗くなり出している。東京は人が多い。いつの間にか背が高くなってしまっているビル街を急ぎ足の人が行き交っていて落ち着かない。かつて自分もその中の一人だったことを思い出し、苦笑する。まっすぐ江戸城に向かう。皇居と呼ぶ人が多いが、明治まではここは将軍様が住んでいた場所だ。江戸城といった方が、自分にはしっくり来るのである。ついでに言えば、皇居は京都の方が、本当は相応しいのではないかと思っている。御所という呼び方に歴史を感ずるのである。堀を一回りするのもいいなと思ったが、何しろ暗さは増すばかりなので、車の洪水の脇を歩くのはつまらない。それは止めることにした。

本当にいつの間にか丸の内や大手町のビル群は、背が高くなってしまった。45年前の入社当時は、丸の内にあった会社の入っていたビルは確か8階建てだったし、周囲のビルも10階を超す様なものは殆どなかった。東京タワーだってなかったのである。それが今は夕闇迫る中に、30階を平気で()で超えるビルが、幾つも建っている。以前はレンガ色のノッポビルで目立った東京海上のビルなどは、もはや背の高さというより背の低さの方が目立つようになってしまっている。もし江戸城に皇居がなかったら、このビル群は堀を越えて、もっと近くに迫ってきていたに違いない。その意味では、ここに皇居を置いたというのは正解だったのかもしれない。そのようなことを考えながら、二重橋前を左に曲がり、日比谷公園に向かう。

日比谷公園も久しぶりだ。ここが公園となっていることで、東京がどれほど救われているかと思う。江戸城の方は松の木が中心だが、ここには銀杏やプラタナスなどの大木があって、僅かだけれど、古い東京が残っている。朽ちかけ始めたガス灯や水飲み器、何度も火災から再建された松本楼など、我々の2世代くらい前の人たちの記憶に刻まれたものが残っている。しかし江戸は殆どない。

首賭けの銀杏というのが、松本楼のそばに立っている。相当の大木だ。樹齢もかなりのものだと思う。もともと日比谷見附(今はそのような呼び方は絶え果ててしまった)にあったものを、開発で切り倒す計画から、自分の首を賭けても枯らさずにここへ移植すると、それを実践された人が居て、そのおかげで生き残ってここにあるのだという。この樹は、間違いなく江戸を見て来ているに違いない。江戸だけではなく維新以来の来し方もしっかりと見て来たに違いない。しばらく佇(たたず)んでその逞(たくま)しい生命力を思った。未だ落葉に至っていない銀杏もある中で、この大木はすっかり葉を落として来春を待つ体勢に入っていた。もう既に新芽の準備は出来ているようである。

少し先の小さな池の傍に数本の山もみじがあって、未だ紅葉の残骸を止めていた。そこに置いてあるベンチに腰を下ろし、しばらく暮れてゆく時間を味わった。既に鴨たちの一家族が飛来し、池の中を忙しく動き回っていた。遠くに信号の灯りが見えるけど、この一角の空間は、東京の喧騒を浄化する力を秘めているなと思った。30分ほど座っていると、それが判るのである。

その後は霞ヶ関の味気ない建物の中を赤坂溜池方向へ。溜池など見たこともなく、名前だけが残っている。残っているのは近くの山王日枝神社だけなのであろうか。そう考え、暗い中を神社に参拝する。ここも初詣の準備を整えて、一稼ぎの体勢に入っているようである。これだけ原油価格が上がったら、神頼みの善男善女が殺到するのは間違いないだろう。

ようやく紀尾井町のホテルに着いたのだが、未だかなり時間が余っているので、紀尾井坂や清水谷などを歩くことにした。何処に紀州家があったのか、尾張家は、伊井家は何処だったのか、全く見当がつかないのは、勉強不足の賜物である。この辺の江戸は未だ不案内である。それにしてもあと50年後の考古学でも、この地に江戸を探すのは至難のことではないかと思った。紀尾井町を発掘しても、江戸は地下にも地上にもかけらも残っていないのではないか。名前だけが残る世界が東京の至る所で生まれているように思った。

さてさて、その後は帰り道を失って、30分ほど周辺をぐるぐる廻り続けたのだった。夜の灯りが点くと、東京は表情を一変し、田舎者には不親切極まりなくなるのである。10年前とはすっかり周辺の様子が変わってしまった中を、本物の迷子になってさ迷い続け、ようやくホテルを見つけ出し忘年会の席に着いたときは、辛うじて開催時刻にはセーフだったものの、もう皆はプレ乾杯をやっていて、最後に近い出席者となってしまっていた。

江戸は確実に消滅している。夜の東京のさ迷いの中で、間違いなくそれを実感したのだった。

コメント
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