山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

守谷と守屋

2007-12-11 06:57:56 | 宵宵妄話

守屋という話題の人がおられる。四面楚歌の人だ。その人の名が、我が棲む守谷と同じ発音なので、少し嬉しくない気持ちでいる。TVのニュースを見る度に、我が棲む町と同じ名前が、毎回何度も流れるので、何だか変な感じになるのだ。人名と地名の差があるのだから、気にしなくても良さそうなのだが、耳という奴は、ついつい反応してしまうものらしい。

守屋という人のことは全く知らない。少し前、女性の防衛大臣が誕生したとき、人事に関して何か軋轢があって、その時は防衛大臣が辞めたような事件があったが、その時の当事者の次官が守屋という人だったというのも、最近のニュースを聞いていて判ったという程度なのである。それにしてもお粗末な話だと思う。

私は、守屋という人は何処にでもいる普通の人なのではないかと思っている。世の中の多くの組織の中では、○○天皇だとか、○○教祖だとかと呼ばれる人がいるものであるが、私としてそのような人物を殆ど尊敬しない。尊敬しない理由は、そのような人物は己の存在を過信し、思い上がっている人が多いからである。勿論思い上がりなどとは無関係の方もおられるわけで、そのような場合は、これは甚(いた)く尊敬せずにはいられないのである。

思い上がる人は普通の人だと思っている。日本の歴史の中で、思い上がって自分を失い、知己を失い、家族を失い、一族郎党を失った人は多いのではないか。その最たる人物が豊臣秀吉なのではないかと思っている。彼はもともと普通の人であったがゆえに、思い上がりを極めたのではないかと思う。権力によって己の欲望が叶えられることに味を占めると、人間は思い上がりに自信を持つようになり、その振幅は果てしなく広がってゆくのではないか。秀吉の場合は己の死によってもそれを止めることができなかったように思うが、現代で話題になる人は、行過ぎた事件によって思い上がりに止めを刺されるようである。

秀吉の犯した思い上がりの大きさに比べれば、守屋という人のレベルは、天皇などと呼ぶには値しない小さなものなのではないか。今の世情を見ていると、これらの情報はマスコミが担っているわけだが、多くの人はそのこれでもか、これでもかという事実らしきものの暴露追求を、怒りの気持ちと一緒に密かに楽しんでいる傾向があるような気がする。また、マスコミもそのように仕向けているような気もするのである。守屋という人物が、とんでもない大罪を犯したように報道が為されているが、よく考えてみれば、バカバカしい滑稽な話ではないだろうか。

勿論その人の立場から見て、大罪には違いないのだが、なんともセコイ話である。恐らくこれ以上の大罪が、世の中にはまだまだ隠れ潜んでいるに違いない。思い上がらない人が起こしている犯罪は、このような小人の犯罪の比ではないように思えるのである。

たとえば、投機筋の原油の値上げ操作などは、世界規模の犯罪に相当するのではないか。法の許容範囲の中の行為であるがゆえに、その正当性は保証されているのかもしれないが、世界中の善人を苦境に貶めるような行為を許してよいものなのかどうか、大いに疑問を感ずるのである。そしてその根源では、恐らくたった一人の人間が知恵を働かせ、周囲の人間を操作しているに違いない。思い上がらないがゆえに、その存在は不確定で、見当がつきにくいのである。

それにしても、地名と人名の差があってよかった。あと1ヶ月も経たない内にこの人物の名も世情の話題からは疎んぜられ、消えてゆくことであろう。旅の話とは全く無関係だったけど、家に籠もっていると、バカバカしい話ばかりがやたらとTVや新聞から流れ伝わってくるので、いささかうんざりしているところである。

コメント
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