昨日はクリスマスイブ、そして今日はクリスマスだ。クリスマスというのは、キリストの誕生日を祝うお祭りのことを言うのだということは知っていたが、念のため広辞苑を引いたら、「元は太陽の新生を祝う『冬至の祭』がキリスト教化されたもの」、とあった。してみると、キリスト教というのは、元々は太陽信仰から来ているのかな、などと単純に思ったりした。キリストがお天道様になり代わったのだ、などというと、敬虔(けいけん)なクリスチャンからは非難・軽蔑されることは必至だ。
しかし今日(きょうび)のこの降誕祭に絡む世の中の狂気は、本物のクリスチャンにとってはどのように映るのだろうか? 俄かに出現したサンタクロースが、ビルの外壁の拭き掃除までもこなしたり、一夜だけのもみの木に過度の電飾を灯し、手に手にケーキなどを持った人々が街に溢れる、この日本という国の様子は賞賛に値するものなのだろうか。一時的ではあれ、キリスト教の信者のごとくの振る舞いは、クリスチャンにとって歓迎される風景なのであろうか。
私は日本のクリスマスの本質には、キリスト教という信教は殆ど無関係だと思っている。コマーシャリズムの煽動に乗って、楽しめることは何でも楽しんじゃおう、というこの国の人の軽い遊び心のなせる業のような気がする。キリストさんなどは、ついででいいのである。いや、ついでにもならない存在に違いない。それがお釈迦様でもアラーでも何でもいいのかも知れない。
この国の人々の節操の無さを批判するつもりは無いけど、賞賛するつもりも無い。生きている時間をどのように楽しむかは、他人に迷惑をかけない限りは、その人の自由であり、勝手であって良いからだ。コマーシャリズムの尻馬に乗っていようといまいと大きなお世話だ、というべきかも知れない。
我が家は今年も何も無い。孫でも同居していれば、他所(よそ)様と同じようにケーキなどを買い、ついでにワインなども買ってくるのかもしれない。やっぱり同じように不節操な思いのひと時を知らん振りしながら送るのであろう。キリストが神としてこの世にお生まれになったことを喜び、感謝するなどということは一切抜きにして、久しぶりのワインの味だけを楽しむに違いない。
今の世には、この種の世過(よす)ぎが溢れている。バレンタインデーもマシュマロデーもハロウィンもその本質は皆同じであろう。これらは皆国際化、グローバル化という奴の恵みなのだろうか。どうも良く分らない。何だかある種の危険性のようなものを感ずるのだが、それは国粋主義者的な精神の傾向をもつ自分だけの過剰反応なのだろうか。自分自身もそのような楽しみのイベントに結構巻き込まれながらも、このような輸入品尽くめのような新しい日本の文化が出来上がってゆくのを、本当にこれで良いのかと、時々大いなる疑念に駆られるのである。
間もなく初詣のイベントがやってくる。これもクリスマスと同じようなものなのであろうか。一体初詣とは何なのだろうか。本当のところ不可解なのだが、やっぱりクリスマスとは、その本質が違うような気がする。日本的だと思う。神が何であれ、この国の中で、千年を超える回数の初詣が続けられてきたことには、この国に住んできた人々の本物の祈りがあるように思えるのである。
この意味では、クリスマスは、敬虔なクリスチャンの国では、初詣と同じようにそこには本物の祈りがあるに違いない。クリスチャンの人たちは、護符や破魔矢などを買ったりして、日本の初詣の真似をはしゃいでするようなことは決してしないであろう。それなのに日本人はといえばクリスマスにはひと欠片(かけら)の祈りを奉げることもなく、手に入る物理的な楽しさばかりを貪(むさぼ)っているのである。これで良いのかと、自己嫌悪に陥りながら、やっぱり疑念を感じざるを得ないのである。
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