山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

秋の終わり

2007-12-09 09:36:06 | 宵宵妄話

昨日、一昨日と木立ダリアの処理をした。昨日は畑の分を5本、一昨日は庭の分を7本切り倒し、細かくしてゴミとして処理をしたのだった。草なのだけど、何しろ背丈が4m近くもあるので、大木を切り倒すような感じがある。一番太いものの幹周りは30cm近くあったのではなかろうか。切り倒すのは鋸でないと無理である。しかし、木とは違って実に柔らかいので、切り倒すのに苦労は要らない。

今年も花の最盛期を不在にしていて、堪能することは出来なかったが、畑に植えた方は、そこが市の菜園なので、野菜の収穫や手入れ等に来られる方には楽しんで頂だけたようで良かった。2、3の方からは、花が咲き出す前に「これは一体どの様なものなの?」と訊かれており、皆さん結構興味・関心を示されていたようだ。とにかく3mを超すような得体の知れない植物が何本も畑の中に立っているのであるから、あれは何だと思うのは当然だったと思う。そのような方にも、花を見て頂いて納得して貰えたのではないかと思う。

木立ダリアは、メキシコ原産の植物というから、暖かい地方の出身なのであろうか。まだまだ花を楽しめると思って、残っている蕾を数えたりしていたのだが、数日前の冷え込みを凌(しの)ぐことが出来ず、一夜明けると殆どの花が打ち萎(しお)れ、翌日には蕾さえもが花を開かせる元気を失ったようだった。霜にやられてしまって、もはや再起は不可能となったようである。それで、やむなく切り倒すことにしたのだった。

季節というのは、基本的には夏と冬しかないと、どこかで聴いたことがある。日本のように四季があるというのは、地球では恵まれたロケーションにあるということなのかも知れない。一年中夏だったり、冬だったりしたら、そこに棲む人たちは生活の仕方も考え方も我々とは大いに変わったものとなるに違いないと思う。未だそのような国に行ったことがないので、どう違うのかは行った人から聞くばかりである。

ところで、四季というのは1年12ヶ月を4等分して春夏秋冬と呼んでいいものなのだろうか。どうやら違うのではないかと思っている。特に最近では地球温暖化の影響があるのか、暑さの季節が増えだしている感じがある。夏は6月の半ばから10月半ばくらいを占めているのではないか。そしてその反動としての冬は、11月半ばから3月半ばくらいまで続いているような気がする。そうすると、春秋はそれぞれ2ヶ月くらいの期間しかないように思えてくる。やっぱり、季節というのは、夏と冬が中心であり、春と夏はその移り変わりの過渡期であって、その期間が縮まっているということなのかも知れない。いずれにしても最近の気候にはただならぬ異常性を覚えることが増えている。

昔から秋と冬の境目は何なのかについて興味関心を持っていた。子供の頃は、庭先に植えられた柿の木の100匁柿(今の富有柿)の最後の実が無くなった時が、冬が来た時だと思っていた。それは毎年12月に入る少し前の頃だったと思う。当時は富有柿を植えている家は少なくて、我が家には渋柿と小粒の甘柿がなる木しかなかった。だから、その判断基準となった柿の木は、他所の家の庭に植えられたものである。通学の途中に、物欲しそうにそれを見ながら、その最後の1個が無くなった日を、今年の冬の始まりと決めていたのだった。

それから50年以上が経って、ずーっと季節のことも冬の到来のことも忘れ果てていたのだったが、一昨年我が家に木立ダリアがやってきて、去年、今年と大輪の花を咲かせてくれていたのが、一夜の霜であっという間に花を萎れさすのを見て、改めて冬の到来をこの花が教えてくれているのに気付いたのだった。これから先、この花は毎年秋の終わりを決め、冬の到来を教えてくれる役割を果たしてくれるに違いないと思っている。

コメント
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