山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

年賀状のこと

2007-12-19 06:57:22 | 宵宵妄話

 年賀状の時季となった。少し前に、その受付が開始されたというニュースがあった。以前は、毎年500枚くらいの年賀状を出していたが、この頃は順次少なくするように努めて、それでも今年は300枚を少し越える枚数となっている。服喪中の人やご本人が亡くなったりして、これからは増えるよりも減る方が多くなってゆくに違いない。

 今年から郵便事業の運営が変わって、JP(日本郵政グループ)というのが生まれ、経営がそれに委ねられることとなった。郵便局に行くと、年賀状は挨拶状ではなく贈り物だ、という様なキャッチコピーが書かれている。なかなか上手いことを言ったものだと感心した。今までの郵便行政には、このような気が利いた台詞を聞いた覚えがない。民営化すると、人の気持ちのことに思いが届くのかなと思った。

 その、年賀状は贈り物という考え方は、自分のこのところの年賀状に対する考え方と一致する。今までは、同じ会社の中の人で、同じ職場で新年になれば顔を合わせる人にでも、ずっと年賀状を出してきていた。また、知り合って年賀状を一度頂戴した方には必ずその翌年にも出すようにして来た。形式的だから止めにしようと思ったことはない。一度だけ、全ての賀状を何年間かしばらく停止しようかと考えたことがあるが、それは別の理由からだった。しかし、行き過ぎだと反省し、直ぐに取りやめたことがある。

 年賀状は文字通りに考えれば新年の挨拶状だと思うのだが、ある時から年に一度の贈り物にしようと考えるようになった。そのため、一人ひとりに通ずるような言葉や写真などを工夫したいと思ったのである。といっても、その贈り物の内容といえば、所詮は自分自身や家族などの有り様などを、より解りやすく伝えるに過ぎないのであるが、決まり文句やスタンプなどで済ませるようなことは決してしないことにしたのである。

本当は贈り物ならば、個々人ごとに全てその人に合わせた言葉や表現内容を工夫すべきなのだが、それは物理的に無理と勝手に考えて、失礼を続けている。この辺に自分の横着心のいやらしさを覚えるのである。というのも、以前お聞きした話では、作家の池波正太郎先生は(私が崇敬してやまない方なのだが)、賀状の作成を、年賀のシーズンから翌年分の作成を開始され、全て手書きの絵入りでお書きになっておられたとのことだった。世の中には、このような方もいらっしゃるのである。賀状を頂戴した方は、毎年宝物を頂いていたのだと思う。

ところで、ここ数年来パソコンの活用が進み、宛名書きも手書きを省略し、一昨年辺りからラベル印刷に切り替えることにした。本当は年に一度下手な自筆の書を期待されているかもしれないので、ペンや筆書きの方がベターだろうとは思っているのだが、何しろ時間がかかるのである。その意味で贈り物の質は下がるばかりである。

その代わりに今年から考えているのは、楽をした分だけ、必ず個々人のことをしっかり思い起こして、一言を付加させて頂こうということである。自分の気持ちを一言お伝えすることが、この贈り物の一番大切なところではないかと思うからである。ま、そうは言うものの実際はそっけない言葉で終わってしまうかもしれない。充分に気をつけたいとは思っているけど。

今年の年賀状はもう既に印刷を終了し、宛名ラベルも貼付済みである。そのまま投函しても差し支えない状態となっているのだが、これから贈り物の言葉を書き込まなければならない。元旦に遅れないように、なるべく早く取り組みたいと考えているが、いつもこれから先が、何故か手間取ることになるので、要注意である。

まことに閑話でありました。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする