山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

天才飯塚伊賀七を知る

2007-12-27 01:16:14 | 宵宵妄話

家内のフォークダンスの練習に合わせて、つくばの研究学園都市の中心街まで歩きに行くことが多いのだが、その途中の谷田部という所に「五角堂」という建物があり、ずっと気になっていた。道路が狭く、駐車場も見過ごしてしまうほど小さかったので、毎回通り過ごしてから、あれは何なのだろうと思うばかりだった。

先日ようやくそこを訪ねて、その建物が「飯塚伊賀七」という江戸の中期の人(1762年~1836年)が建てたのだということを知った。往時の谷田部は、細川家(肥後細川家の分家)1万6千300石の領地(栃木県茂木町の領地と合わせて)で、町の中心部にお城(といっても城郭ではなく陣屋)があったという。茂木の方が領地は広かったが、江戸に近いためにこちらに陣屋を設けて領主が住まわれていたという。2万石に満たない小さな大名だったが、細川幽齋の流れを汲む名家としてのプライドは高かったようだ。

その谷田部藩領の中で、飯塚伊賀七という人物は、城下町近くの村の名主をつとめる傍(かたわ)ら、数々の優れた発明をされた方だったという。五角堂も彼の作ったものであり、その中には和時計が収められていたらしい。らしいというのは、彼の亡くなった後、ずっと長い間放置されたままになっていたらしく、近年(昭和30年)になって、その部品などが再発見されたというから、不思議な話ではある。

その五角堂を覗いてみたが何も無かった。和時計は郷土資料館にあるというので、先日そこへ行き、残されていた部品と、その後田村竹男さんという方が、長い時間をかけて紛失していた部品を自ら補完製作して作り上げたという原寸大の複製品を見せて頂いたのだった。谷田部藩のことや伊賀七という方に関する知識の大半は、その時ご説明頂いた郷土資料館の館長さんから教えて頂いたものである。和時計の技術的なことについては、さっぱり判らないが、各種の歯車などその殆どは木工製品であり、往時これだけのものを考案し、作り上げるというのは、常人にはとても出来るものではないと思った。伊賀七という方は、数理の理論と実践に詳しい天才だったのだと思う。

伊賀七という方の発明には、和時計の他に現存するものとして「天元術用そろばん」「十間輪(測量の距離計測器)」「脱穀機」などがあり、そのほかに「酒買い人形(ロボット)」「飛行機(実験を禁止されたとか)」「自転車」などがあり、更に建築関係では、「五角堂」の他に「布施弁財天の鐘楼」(柏市布施・東海寺)などが現存している。館長さんは、谷田部のレオナルド・ダ・ビンチだとおっしゃっていた。但し、彼は絵の方はやらなかったらしい。その方面では、谷田部藩には、伊賀七の肖像画を描いた広瀬周度(ひろせしゅうたく)という方がいたらしい。

このような凄(すご)い方が居られたというのは、自分にとっては驚くべき発見である。まだ名前を知ったばかりで、その多才ぶりも作品の項目を知った程度であるから、本当の凄さは知らないのだが、これから少し調べてみたいなと思った。先日の間宮林蔵といい、この飯塚伊賀七という人物といい、そのまま聞き過ごしてしまうわけにはゆかない偉人である。

それで、その手始めに、今日、伊賀七が設計したという、千葉県柏市にある布施弁財天の鐘楼というのを見に行ったのである。布施弁財天は東海寺というお寺の本尊で、関東三大弁財天の一つだという。特段弁財天に興味関心があるわけではなく、伊賀七設計の鐘楼がどんなものかを見たかっただけである。東海寺は我が家からは、利根川の新大利根橋を渡って直ぐの、片道20分ほどの所にあった。

弁財天のお寺は派手な構えが多いような気がするが、このお寺もハデハデの賑やかな装飾の建物だった。弁天様というのは、女性でもあるし、芸能の神様でもあるというから、派手なのは当たり前なのだろう。しかし境内は大木に囲まれて落ち着きのあるイヤシロ地だった。その中に伊賀七設計の鐘楼があったが、それは今まで見たことも無い姿形をしていた。八角形の基壇の上に円形の縁(えん)があり、そこに十二角形の柱が立っており、その中に鐘が納まっていた。何とも不思議な形の建物である。八角、円、十二角という様に、造形の中に数理的な美の感覚が織り込まれているのが良く解る建物で、伊賀七という方の美意識が何となく分る感じがした。

建設時、これを造った大工の棟梁が、その中に鐘を吊るすために、どのようにして入れたらよいのかそれが解らず、伊賀七に問い合わせたというエピソードがあるとのことだが、それは一体どのような方法だったのだろうか。又、戦時中に金属の供出でここの鐘も犠牲になったのだが、その時は出し方が分らず、鐘を小さく刻んで窓から出したという。現在は新しい鐘が収められているけど、これは一体どのようにして問題を解決したのだろうか。なかなか面白い疑問である。

伊賀七という方は、「からくり伊賀七」とも呼ばれたそうだが、飛騨の匠によるからくり人形は有名だが、(からくりというのは、糸の仕掛けで動かすという意味と計略・たくらみという意味があると広辞苑にあったが)伊賀七さんのからくりは、飛騨のそれを超えた、遙かに大きな構想、発想に基づいているように思う。飢饉で力を出せない百姓衆のために脱穀機まで考案したというし、彼の作った十間輪を使っての測量地図は、現在の地図と寸分も違っていないほど精巧なものだ。自転車もロボットも全て単なる遊びではなく、実用につながっているところが凄いと思うのである。

鐘楼を見ながら、この鐘楼から発する鐘の音()を聴いてみたいなと思った。此処からだと、利根川を渡って、先日訪ねた間宮林蔵の生家あたりまで、この鐘の音が届くかもしれない。間宮林蔵より20才ほど年長だった、同時代に生きたこの偉人を知ることが出来て、嬉しいと思った。直ぐ近くに2人もの偉人の縁(ゆかり)の地があることを知って、守谷に住んだことに感謝したい。この後も近所を歩き回って、新しい人物や史跡など見出し、学んでゆきたいと思っている。

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