山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

鬼平犯科帳のこと

2007-12-20 07:05:35 | 宵宵妄話

 今日の新聞を読んでいたら、先日来防衛省の贈収賄事件で贈賄側の主役だった人が、塀の中で取り調べの時間以外は、差し入れされた「鬼平犯科帳」を読んでいるという記事があった。別に、あ、そうと思えばそれだけの話なのだが、池波正太郎先生の作品に特別の思いを寄せている自分としては、何だか少し気になるのである。

 鬼平犯科帳は、毎年1回は繰り返し全巻を読んでいる。それが、もう10年以上続いている。江戸時代の凶悪犯の犯罪捜査に係わった、加役の長谷川平蔵を中心とするいわば捕物帖とも言うべき物語集なのだが、池波先生の文章、文体は往時の江戸庶民の心情を飛び越えて、現代の我々にもたくさんの教訓、示唆を与えて下さっていると思うのである。

 池波先生の作品では、正義と悪との関係を人間の心根の原点に立って描いているものが多い。悪の世界にも正義があり、正義の中にも悪が潜んでいる。それらのことを実に明快に浮き上がらせて登場人物に語らせているのである。歯切れの良い文章には、江戸っ子そのもの粋が一杯詰まっている。何度読んでも、益々その魅力にとらわれてしまう。

 何回も読んでいるので、おおよそのストーリーも登場人物も殆ど判っており、結末がどうなるかも承知しているのだが、それでも読みたくなり、同じ所を読めば同じように涙したりしているのである。これぞ本物の小説といえるのではないか。ノーベル賞を貰った人の書かれるややこしい文章よりも、自分には池波先生のような、人間の正邪入り乱れたぎりぎりの生き様を描いた話の方が遙かにわかりやすく、本物のような気がする。コメントの視点が多少ズレているのは承知しているけれど、真理というのは解り易さと大いに関係があるのではないか。

 鬼平犯科帳だが、この物語集における長谷川平蔵の断罪のあり方は明快だ。法で裁けないものは、世の中の正邪判断の物差しに照らして、己の判断で処断している。読んでいる人は自分が平蔵さんに成り代った気分になってそれを支持しているのではないか。支持できない人はこの本を読めないし、庶民の心根というものを掴み、知ることも出来ないだろう。

 しかし、このような断罪のあり方は現代では不可能だ。オーム真理教のようなとんでもない邪悪な教祖の行為に対しても、無駄な時間と税金をかけて、もう判っている筈の結論を出せずにいる。また、何の係わりもない他人を、己の欲望や狂気のために殺したとしても、殺された者よりも生きている殺人者を保護するかのごとくにダラダラと時間をかけて結論を出せないでいるのだから、殺された側の思いは如何ばかりかと思うのだ。殺人者は即刻死刑にせよ、というほど乱暴なことは言わないけど、殺人者を保護するような甘ったるいやり方は何とかならないものなのか。こんな調子で世の中が移行してゆけば、人の世は再びカオスの中に没落してゆくに違いない。

 ところで、言いたいのは何かといえば、彼の塀の中のお人は、一体どのような気持ちで鬼平犯科帳を読んでおられるのかということである。加役の出番は火事や凶悪犯罪なのだから、贈収賄とは無関係だとは言えるかもしれないけど、犯罪という本質に変わりはない。とすれば、自分を忘れ果てない限りは、読みにくいのではないかと思ったのである。まさか鬼平になったつもりで読むなどということはないと思うけど。

ま、余計なお世話の話だということは承知しているけど、この本をどのような読み方をするのかについては、大いなる関心を持ったのだった。願わくは、興味本位に読まれることなく、作者の本当の心情に触れながら、深い反省の念を持って読んで頂きたいと思った次第である。

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