山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

09北海道くるま旅くらし: 第33日

2009-08-13 05:19:59 | くるま旅くらしの話
行程:道の駅:メルヘンの丘めまんべつ→道の駅:流氷街道網走→道の駅:パパスランドさっつる(泊)


昨夜は思いがけなくも楽しい時間を過ごし、爆睡したせいか深夜の2時半にはすっきりと目覚めてしまった。その後5時まで掛かってブログの記事を作成する。このところ毎夜同じ様なパターンの暮らしぶりだけど、今日は少し長かった。朝になって、外を見ると空が一面の雲に覆われているのを知り、何だかホッとした。連日の猛暑にうんざりしていたので、雨は降らなくていいから、曇って欲しいという贅沢な願いが叶ってくれた様である。
女満別の道の駅はくるま旅の人には優しい。水汲みもゴミ箱もあり、トイレもきれいである。駅の事務長さんと親しいKuさんやTさんの話では、駅サイドとして現在電源の設置を予定されているとか。有料でコイン仕様のものだとか。実現すれば、我が国では最初の画期的な設備となる。くるま旅の基本設備の一つが電源だと思うが、これに関する旅の環境整備は手付かずの状況にある。以前無料のサイトを提供してくれた場所があったが、くるま旅の人が増えるにつれ、その好意を裏切る様な輩が出て来て、結局はその電源を取り去るざるを得ない結果となった。その最大の原因は、使う人の身勝手さが膨らみ合体して、地元の方たちを呆れさせ怒らせたからだと思うが、もう一つ大きいのは、無料ということにあった様な気がする。人は無料に馴れると、それを当たり前と思う様になり、感謝の気持ちや皆で大切に使おうという心遣いを忘れてしまうようだ。実に情けない話である。人間の道徳心などというものは、孔孟の時代から衰微の一途を辿っているのかも知れない。
ところで有料化すれば上手くゆくのかと言えば、これにも多くの不安が付きまとう。機器の管理の難しさである。善意を踏みにじる人間が横行している時代である。管理運営には相当の勇気と知恵が必要だと思うが、我が国最初のコイン電源装置を女満別の道の駅に実現して欲しい。そしてその管理運営には、くるま旅の人々は管理側以上にその使用に関して協力しなければならないと思う。我が国の車社会の貧困な環境の中に灯った一つの火を大切にしなければならないと思う。これから先を大いに期待すると共に事務長さんのご活躍に大いなるエールを送りたい。
思わず力が入ってしまったが、私はくるま旅というのは、車社会が生み出す新しい旅のスタイルだと思っている。大げさに言えば、従来からある旅という文化に新しく加えられるべき領域だと思っている。そしてそれは国の人口構成上多大の未知の課題を抱えたリタイア後の世代(高齢者世代と言っても良い)が、中心になって活躍する世界でもある。この世代の人たちの生き方のあり方が国の財政を左右するのである。もし健全なくるま旅を志向する人が増えれば、その分だけ医療費は減る方を向くに違いない。くるま旅にはその様な可能性が秘められている。治療に多大のカネをかけるよりも治療の必要のない高齢者を育て、健康を保持させる政策の方が遥かに重要ではないか。そう思うのだが、くるま旅の環境の現実は真にプアーである。車社会の先進国の欧米では、モーターホームを使った旅はしっかり認知されており、それを受け入れる施設も整備されていると聞く。我が国では、旅車はキャンピングカーと呼ばれ、週末休日のアウトドア暮らしのツールとしてしか認知されて
いない。たくさんのキャンプ場はあるけど、くるま旅を前提として造られているのは皆無に等しい。高額の料金と過剰な設備はくるま旅にはフィットしない。発想の転換を図ろうとするキャンプ場経営者もおられると聞くけど、既存施設と今までの利用方法とのギャップに料金の設定には難しさがあるのではないか。一泊するのに電源使用料だけで千円も掛かるような所には、年金暮らしの旅人は泊まりたくても泊まれない。一晩泊まって家に帰り、明日から元気に働こうという暮らしのスタイルとは異なるのである。
話は益々ヒートアップしてしまったが、くるま旅を認知して欲しいという思いは変わらない。くるま旅の者を疫病神みたいに考えている地元の扱いを真に残念に思う。福の神とは言えないのは承知しているけど、上手く活用して頂ければ、町や村を活性化させるに役立つ情報や知恵を持っている人はたくさん居るのである。悪さをする愚か者も多少は混ざっているかも知れないけど、まともな人生を送り真面目な考えで旅をしているひとが殆どなのだということを理解し、受け止めて欲しい。

大分トーンの狂った記述となったが、実は今日はあまり書くことがない。Kuさんたちと別れて、新しくオープンした網走の道の駅の傍で釣りをしょうと向かったのだが、途中目を皿にして探しても餌を売っている店が見つからず、今夜のカレイの唐揚げの夢を諦め、勘違いして遠回りの道をわざわざ走って、昼近くに清里町にある道の駅:パパスランドさつつる(札弦)に着いたのだった。今日はもう動くことは止め、ここに泊まることにして錨を下ろし、昼食の後は昼寝。起き出してパークゴルフの練習に励み、その後駅にある温泉に入って、一杯やって、たちまち寝床へという、いつものパターンを繰り返したのでした。前段の振りかぶった主張とは全く違っているのが我が実像であり、そんな旅暮らしのために、環境整備をせいというのか?と言われると一言もありません。しかし、この様な暮らしぶりこそが認知症から救ってくれているのかも知れませんぞ。今日はここまでです。
コメント
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