旅くらしの話はちょっとやめて、今日は飛び入り閑話です。
今日(3/16)の東京地裁の判決で、堀江貴文被告に対して懲役2年6月という有罪判決が言い渡された。これは彼にとっては想定外の重い判決だったのかも知れないが、世間というものを甘く、オチョクッテ見ることしかない彼の心の中では、その重さを実感することはないだろうと思う。今日は、旅から少し離れて頑固爺の辛口のコメントをして見たい。
若者が好きだ。明るく元気な奴も、暗く悩みの塊のような奴も、みんな好きだ。何故なら自分も若者だからである。錯覚をして我が身を他責で縛り付けているような若者を除けば、若者には未来がある。大志を抱くに相当する時間が与えられている。若者達はそのことを自覚すべきだ。この頃はその自覚が不足し、心が歪んでいる者が多く見受けられるのが残念である。
さて、ホリエモンなどと浮世の泡(あぶく)におだてられ、今回のような騒動を起こした堀江という人物は若者なのか?私から言わせれば世間知らずの幼児に過ぎない。今回の一連の事件は児戯による大騒動ということであろう。彼は検察の捜査・取調べを茶番と一蹴したが、彼のこの事件に対する一連の振る舞いは、児戯の域を出ているとは思えない。彼の頭の中は、自己中心的な成り上り者の濁った怨念のようなものが渦巻いているだけで、事実を正確に受け止め、謙虚な判断と対応を考える能力は、塵みたいな存在となっているようである。
世間を知らないままに、若い年齢で成功を収めてしまった者には、幾つかの危険性が内包されているような気がする。その最大のものが、思い上がるということだ。思い上がるとは、自分の勝手な理屈で多くの物事を正当化することである。彼の場合は、金と理屈が通れば、世の中には大して怖いものは無いという価値判断が定着しているようである。そして価値判断の基準(=物指し)となっているのは、「損か得か」という考え方である。法律の抜け穴を探し、そこに正当性を見出して事業展開を図るようなやり方は、規制緩和の発想とは遠くかけ離れたものであろう。法律に準拠して罪の有無を論ずるのが裁判だが、それは社会秩序を維持するための最低のモラルの世界の悪あがきを対象にしているように思う。今回の事件の裁判は、堀江という人物の児戯に絡む最低レベルの正当性の争いに過ぎない。もし堀江という人物が、損得の前に善悪や正邪の物指しを誤り無く使える人物であったなら、斯様な児戯など起こりうるはずも無かったと思う。
思うに、堀江という人物は、1と0が無数に詰まったブラックボックスを相手に、多くの時間を過ごしつつ育って来たのであろう。ブラックボックスから出てくるアウトプットは、基本的にバーチャル(仮想)な産物に過ぎない。虚像なのであるが、今の世ではITなるものの進歩に伴い、この虚像が恰も実像のような錯覚を覚えるほど巧みに人々の意識の中に浸透している。これらの技術を巧みに使った事業展開の能力はそれなりに評価して良いと思うが、その事業展開の相手が、虚像ではなく実存の世界に住んでいる人間であることを忘れてはならない。彼の事業の核に居た人物の全てといっていいくらいが、これを忘れて、ゲーム感覚で経営を進めていたのではないか。真に危うい話である。損得だけを考える利口な若者の集まりが世間を恐れるはずも無く、偶像を作り上げるのが好きなマスコミの世界が側面から囃し立てれば、ブタも煽てりゃ木に登るという類の話となる。浮世の泡(あぶく)喧騒の人気に阿(おも)ねて、政党までもが彼を選挙に借り出したというのだから、開いた口が塞がらない。政治不信が深刻になるのは当然のことであろう。
なぜ彼のような世間を知らない者が事業に成功するのだろうか?それは彼らがいち早くブラックボックスを操作できる知識を獲得したからであり、それを使って金を稼ぐ知恵を見出したからであろう。そのことは批判の対象とはならないが、問題は、実存の世界に住む者が、彼らがブラックボックスをもてあそぶ前に、損得よりも善悪・正邪の物指しを使うことの大切さをしっかり教えなかったことにある。東大卒というからには、少年時代から頭脳の働きは人に秀でていて、その働きに周囲が怖気(おじけ)づいて躾が行き渡らなかったに違いない。ことの善悪・正邪を真っ当に使い分けるという最も基本的な躾は、親の責任であり、幼少時の彼を取り巻く大人どもの責任と考えるが、今の世に多い、子にへつらうような親や教育環境では、彼は不幸な無躾(む・しつけ)を経験して来たに違いない。善悪や正邪のことよりも理屈と損得の物指しで巧みに冨を獲得する知恵を、少年時代から磨いていたのではないか。なまじ成功者として崇められていただけに、この顛末は思い上がりの怖さを証明しており、その原点での親や教育者のあり方と責任の重さを示唆している。
バーチャルな世界を相手にしている者は、自然というものを軽視しているような気がする。画面に現われる映像が本物だと錯覚している部分が多い。どんなに優れた画質の巨大画面でも、そこに鮮やかに映し出されている大自然の映像は本物ではない。あくまでも画面の中の虚像なのだ。パソコンの中でやり取りされる諸々の情報も、人間という生き物のつくり出した大自然とは無縁の記号の世界なのである。世の中を動かす主体はあくまでも複雑多岐な心を持つ実存の個々人なのだ。この個々人が1億2千万余集って作っているのが日本という国家であり、世間である。この世間の総意というのは、漠然としているけども明らかに存在し、それは善悪・正邪の物指しによって動いていると思う。決して損得の物指しなどで動いているのではない。一見この世は損得で動いているように見えるし、周囲はそのような人間どもの行為で溢れていると感ずるが、いざとなればその物指しで世の中を制することはできない。損得に拘り続け、成功を収めた者の人間的終末は貧しいように思う。金持ちになったからといって、あらゆる願望が金銭で叶えられたからといって、その人の人間性や心の深奥がリッチであるとは限らない。世の中・人のために本物の貢献をした金持ちだけが心豊かに人生を全うできるのだと思う。
堀江君は(君付けなどで呼んで、少し調子に乗りすぎたか)、旅に出るべきだ。今までのバーチャルな世界を離れて、本物の青い空、碧い海、足元の生き物たち、そして貧しそうだけど本物の笑顔に汗を流して働いている田舎の人々やそれらを包んでいる大自然の中に身を置いて、おのれの来し方を省みてはどうか。自家用ジェット機などで海外の保養地などへ行くのではなく、日本の現地・現状の世の中を、くるま旅くらしをしながらじっくり眺めてみて貰いたい。旅というのは通過するものではない。目に触れ耳に届くものなどのすべてを自身で受け止め、それらと心行くまで触れ合うことなのだ。
そして、その後で自分の専門知識を活かしたビジネスに再チャレンジしたらどうか。そうするならば、たとえ同じことをはじめたとしても、成功は疑いなしだろう。そしてその成功は永く続くに違いない。堀江君、くるま旅くらしに出給え!