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山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

過ぎたるは? トランプさんは?

2025-01-25 06:45:23 | 宵宵妄話

 箴言に似たようなものが二つあります。一つは「過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し」であり、もう一つは「過ぎたるは及ばざるに如(し)かず」というものです。前者は論語にあるもので、目標をオーバーし過ぎるのは、目標に至らないレベルにあるのと同じようなものだという意味で、過度の行為を戒めるといった意味かと思います。もう一つの方は、どなたがいつ言い出したのかは分かりませんが、その意味は、やり過ぎるというのは、そこまでやれなかったことよりももっと劣るということで、つまりは同じではなく目標を台無しにする、ずっと劣る行為なのだという強い否定のことばではないかと思います。

 80余年の人生の中では、この箴言の持つ恐ろしさを幾度となく見て来ているのですが、それは前者ではなく、後者の「如かず」の方なのです。過ぎることにはいろいろのケースがあると考えられますが、人生において最も重要なのは、「おのれ自身の思い入れ」ということであり、それは自信ということでもあり、その過ぎたるとは、過信のことなのです。別の言い方をすれば、過信と言うのは「思い上がり」ということになりましょう。

 人生において、「自信を持つ」ことは極めて重要です。それがどのようなものであっても、人は自分に対して何らかの自信を持つことが出来て安心して生きることが出来るのですから。もし、自分に対して何の自信も持てない人がいるとしたら、(そのような人がいるとは思えませんが)その人は生きるのが難しい存在となることでしょう。人が今生きているのは、少なくとも今生きていることに自信が持てるからなのです。

 さて、自信は大切なのですが、問題はそれが強過ぎて過信となることなのです。過去、政治家などで思い上がって失敗した人は無数にいます。一々名前を挙げることは控えますが、有名人が一挙に名を落としたという話は、政治の世界でなくても芸能界などでも幾つもあるのではないかと思います。それは人間の持つ根源的な弱さなのだともいえるのかもしれません。

 一般的には、過信は本人が気付かないもののようです。己は何にも誤ったことをしているのではないというのが自信なのですから、それが強くなればなるほど自分が見えなくなる状態に知らず落ち込んでしまう危険性があるのです。

 少し解り易い例を挙げると、日本国が太平洋戦争などと言う愚かな行為に走ったのも,一部の人間の思い上がりによるのではないかと思うのです。力があると思いこんでいる、そう思われている人の思い上がりほど恐ろしいものはありません。

 そのような視点で今の世を見てみると、危い人物はどの国にも存在しているような気がします。今、戦争を起こしている人物は勿論、戦争に備えて準備をしている人物もそうだし、世界中に溢れるほどにそのような人物が存在しているのは、真に恐ろしいことだと思わずにはいられません。

 そして、現在世界の中で最も心配なのは、つい先日大統領に還り咲いたUSAのトランプ氏ではないかと思うのです。勇気と過信は常時共存するのかもしれませんが、彼は己の信念を平然と世界中に公言しています。今世界中の人々が彼の言動に注目しています。USAの多くの人々は、彼の一見メリハリの利いた言動を支持しているのかもしれません。しかし、彼の言動が世界中の人々に支持されているわけではなく、反対や疑念を抱いている人たちも数多く存在しています。それらを己の力を過信して覆い被せて無視するような事を続けているとしたら、「及ばざるに如かず」と言うようなことが必ず起こるのではないかと。心配が膨らむのです。とにかく、過信と言うものは、人をして成功よりも破滅に導くものなのだということを強調しておきたいと思います。トランプさんに届くとは思いませんけど。

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湊川親方(元貴景勝)の解説は最高レベルだ!

2025-01-18 01:37:16 | 宵宵妄話

 大相撲初場所が開催中である。相撲が好きで、70年も前のラジオ放送しかなかった時代からのファンだった。TVの時代となってからも取り組みが始まると、ずっと関心を以て観戦し続けてきた。特に郷土(茨城県)出身の力士は、どうしたって贔屓目にみないわけにはゆかない。なので、最近では武双山や稀勢の里が横綱を目指す頃には、相当にイライラさせられた。稀勢の里はようやく横綱になってくれだけど武双山は届かなかった。何故なのかは詮索しないことにする。

今回は相撲の実況放送の解説者について感ずることがあったので、ちょっと触れておきたい。ラジオ放送の時代にも名解説者がおられたが、今は忘れてしまってどうしても思い出せない。TV放送が始まってからは、神風、玉の海など何人かを見続けている。皆さんそれぞれに特徴があって、なるほどなあと感心させられて、相撲を理解する上で大いに役立たせて頂いている。

近年では北の富士さんが健在で、舞の海さんとのコンビで、結構面白い会話のやり取りで相撲を楽しませてくれていた。北の富士さんは、自分とほぼ同世代(自分より二つ下)だったので、相撲の世界は別として、戦後の厳しかった同時代を生きてきたので、舞の海さんとのやり取りでは北の富士さんの方の話に軍配を上げるのが常だった。舞の海さんには悪いけど、やっぱり元横綱を張った人と小兵で活躍した人とでは、話のスケールがちょっと違うと思ってしまうのだ。大男というか巨人ばかりの身体を張った勝負の世界で三役にまで届いた舞の海さんの努力と根性には頭が下がるけど、大相撲の世界全体を見た場合は、やっぱり北の富士さんの言葉に首肯できるものが多かったのは仕方がないことだと思う。

ところで、舞の海さんは健在だけど、北の富士さんは亡くなられてしまった。まだまだ健在で活躍されるものと思っていたのだが、真に残念で仕方がない。しかし、自分の現在の老化の進展の実感からは、彼も気持通りには動けない身体の扱いに相当苦労されていたのだと思う。人間傘寿を過ぎると心の方は老化とは無関係でも身体の方は確実に衰退するのだ。生命の限界がどのように決まるのかは知る由もないけど、彼の場合はやっぱり少し早過ぎたと思う。改めてご冥福をお祈りしたい。

 

ところで、北の富士さんが亡くなられてしまったので、この後の解説はどうなるのかと気になっていた。舞の海さん一人では重すぎる仕事だと思うし、その他にも何人かが解説をされているようだが、まだまだ北の富士さんのレベルには届かない。どうしても面白さの味不足というところがあるのである。今までは常連の二人を除いては臨時的な解説者の役割が多かったので、本当はこれらの方の中にも味のある解説が出来る力を持った人がいるのかもしれない。

ま、そのようなことを考えながら、今場所を見ていると、一人新しい解説者がいるのに気がついた。湊川という名を聞いて、今一ピンとこなかったのだが、つい最近引退を発表した元大関貴景勝だという。すっかりお馴染みの顔だった。まだ頭に髷が載っていた。どのような解説をされるのかと興味津津で聞いていた。これが素晴らしい内容だった。話がクリア―(明晰)なのだ。ついこの間まで現役だった人の体験が、解説の中に実に解り易く含まれていて、最近聞いた解説の中では、一番心がすっきりするものだった。

自分は、貴景勝という相撲取を高く評価していた一人である。この人の半端な相撲をあまり見たことがない。貴乃花の部屋に居た時もその後も、相撲に対して真正面からぶつかって勝負をしていた。上背が少し足りなくて、その分をかなり無理をして体重を増やして身体をつくっていたのだと思う。大関までで終わってしまったのは残念だが、この人にあと10センチの上背があったら、体型も変っていたろうし、相撲内容も変わっていて、横綱になっていたに違いないと思う。身体の問題は天が決めてしまっているので、体重を除いては、上背などどうにもならない。彼はそのようなハンディの中で目一杯の努力をして相撲を取って来たのだと思う。優勝4回は見事なものだ。彼の大相撲人生を心の底から讃えたい。

そのような人の解説は、実に心地良いものだった。初めて聞いたのだが、その人間性にも共感できるものが多い。傘寿を過ぎた老人には、著名とされている若者の中で褒めるに値する人物は極めて少ないのだが、この人は褒めるに値する人物だと思う。これからは相撲解説ばかりではなく、新たな相撲人生が待ち受けているのだと思うけど、何ごとにも相撲と同じように全力で取り組んで頂きたいと思う。人生の名横綱になって欲しいと思う。

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世を渡るための二つの物差し

2025-01-13 09:45:56 | 宵宵妄話

 この頃は、人生の晩期をかなり意識していて、もの心ついてから80余年の来し方を振り返りながら、今の世を想い、更にはこの先の世がどうなるのかを考えたりしています。これは老人の妄想なのかもしれません。それを少しばかり書いてみたいと思います。

 

先日今の世の人倫の乱れのことを少しばかり書いてみましたが、自分的には、今の世の人倫はかつてなかったレベルのカオスの中にあるような気がしています。人が生きて行くために不可欠な判断の物差しが二つあると考えるのですが、それは①善悪の物差しと②損得の物差しです。人は常時大小様々な岐路(=どうするかを決めなければならない場面)に出会っており、いつもそれを決めながら生きているのだと思います。その時に用いるのがこの二つの物差しのいずれかなのです。尤も本能だけが働くような場合は、物差しなど不要なのだと思いますが、社会的な存在となった時には、人は己の物差しで生き方を決めなければなりません。その時にこの二つの物差しが必要となるのです。

私は、人倫の道のメインを為すのは①善悪の物差しであり、②の損得は控えめな存在として活用しなければならないのではないかと考えるのです。つまり、さあ、どうする!?と判断を迫られた時には、先ずは①それが自分と社会にとって善いことなのか、そうでないのかを篩(ふるい)にかけるのです。そしてその次に使うのが②の損か得かという判断です。善い事をして得するというのがベストであり、善いことをしても損をするという選択もあるのです。しかし、悪いことをして損するというのは当たり前ですが、悪いことをして得をするというのは最悪の選択となるのです。

 

今の世のこの二つの物差しの使い様はどうなっているのでしょうか。それが問題なのです。世の中が善良な人(=性善説に立脚した人)を中心に構成されている時には、先ずは①の物差しで物事を判断し、次に②の物差しを使いながら生きて来たと思うのです。それが普通の世の中でした。

 

しかし、この頃の今の世は、なんだかその物差しの使い方が違ってきているようです。①の物差しは後退し、②の物差しこそ第一だと考える人が急速に増加している感じがするのです。それは最近発生している犯罪の悪質化を見ていると、それを証明している様に思うのです。

極端なことを言うと、何よりも得をすることが第一であって、そのためには①の物差しなどどうでもいいのだという考え方の蔓延です。悪をむき出しにして、ひたすら己の得だけを求めるという反社会的な行為です。得するためには人を騙し、殺傷しても構わない。良心などどうでも良いという考え方です。独りよがりの自分勝手主義と言ってもいいのかもしれません。

そして、それは個人レベルだけではなく。国家というような巨大組織に於いても浸透し始めているのです。本来自国第一という考えは当然だとは思うのですが、しかし。世界のすべての国が自国の利益だけを考え、形振り構わずに自国以外のことなど全く意に介さずに突き進んだとしたら、この世の中はどうなってしまうか?善悪の物差しはどうなってしまうのか? 人類が過去長い年月をかけて積み上げてきた平和とか安全・安心というコンセプト実現のための叡智はどうなってしまうのか? 見えてくるのは人類と地球の破滅という恐るべき未来なのではないか。特に世界に冠たる大国がそれを主張し、他をかえりみない振舞いをするようになったら、一体どうなるのか。ロシアのウクライナ侵攻もその一例だし、USAのアメリカ第一主義の内容もそれに近い感じがします。自国優先は当然だとしても、それゆえに他国はどうなってもいいというのは、①を無視した人間性にもとる行為だと言わざるを得ません。今、この大国のリーダーは①を当然のようにないがしろにしています。この他にも①を無視して自国や他国をダメにしているリーダーが何人も居るのは人類の不幸であり、人類と地球の破滅への道案内者の様に思えてなりません。

 

人生の晩年になって思うのは、この80余年の間に利便性を求めての科学の発展は驚くべきスピードであり、物的な暮らしは豊かになり自分もそれなりに成果を享受しているのですが、さて、果たしてこの80年間の歩みの方向は正しかったのか?誤りはなかったのか?という疑問です。贅沢任せに生きてきた筈の裏切り者の考えなのかもしれません。人生を生る上で不可欠なこの二つの物差しの内で、最も大切な①善悪の判断がないがしろになって来て、今は②損得ばかりの考えが世に蔓延(はや)り過ぎている、その危険さと不安を覚えずに居られません。子や孫たちが誤った道に為すすべもなく引きづられて、損得の欲まみれの人生に墜ち込まれないことを願うばかりです。今、この老人の考える未来は、科学は益々発展するかもしれないけど、人間の心の世界はそれに反比例して退化し続けるのではないか。国内を見ても世界を見ても穏やかな明るい未来は存在せず、いわゆるハルマゲドンとそれゆえの人類のカオスの世界の到来が間近なのではないか。そう思わずにはいられないのです。

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年賀状雑感

2025-01-05 09:09:09 | 宵宵妄話

 1月初めは年賀状の時節です。今年も200通ほどの賀状を受け取り、出したのもほぼ同じでした。相手が遠くても近くても直接会えないので、ハガキに頼って新年の挨拶をしているだけのことだと思っています。なので、これを無駄な習慣などとはさらさら考えてなどいないのですが、この頃はなんだか自分の考えが時代感覚からずれているのではないかと思うような状況になって来ている感じがして、ガッカリしています。「絆」ということばが大地震の後盛んに世間を賑わせましたが、今は少しその力を失いつつある気がしてなりません。絆というのは、一時の流行り言葉であって、事件や大事が収まったら蔵や金庫の中に仕舞っておくようなものではないと思うのですが、どうやら非常時以外は無用の言葉になっているようです。

 私は絆というのは、日常の普段の人とのつながりがベースとなって、お互いをよく知り合い、助け合うという行為によって生まれ出て来るものであり、急場に突然生まれるようなものではないと思うのです。ま、そのようなものがあっても構わないとは思うのですが、本当の絆というのは、日常的で泥臭い人と人とのつながりから出来上がっていると思っています。

 今の世はそのつながりが薄れる方に向かっているようです。その要因は様々だと思いますが、その最大のものは、社会が誤っている個人の考えや行為を修正したり止めたりする力を失ってきているからのように思えてなりません。個人は尊重されなければなりませんが、反社会的であってはならないのです。社会の一員であることを常に自覚した個人でなければならないのです。このしっかりした自覚があって、はじめてそこから絆が生まれてくるのだと思います。そして、それは理屈やきれいごとではなく普段の、毎日毎日の暮らしの中で泥臭く積み上げられた人と人との付き合いから本物となるのだと思います。

 話が大げさになりましたが、高が年賀状の話です。昨秋に大幅な郵便料金の値上げがあり、ハガキは一挙にそれまでの手紙の料金を超えるレベルとなりました。庶民の怒りは、もうそんなものは買わないぞ!という不買心理に向かうのは当然です。今まで滅多にハガキなど書かない人も年に一度の年賀状だけは仕方ないなと世間につられて書いていた人も、この際思いきって賀状も止めることにしようと、多くの人がそう決めたに違いありません。年賀の挨拶なら何もハガキだけではなく、電話やメールなど幾らでも他の方法があるのですから、それを活用すれば良いのだと、そう思った人も多いに違いありません。これは郵便事業の大いなる失態に違いありません。もしかしたら重大なる社会に対する犯罪行為なのかも。なぜならば、世の中の絆づくりの一環として重要な年中行事である賀状の交換を、人々に止めさせるほどの動機をもたらしたからです。それは売り上げの問題だけではなく、この国の人々の善良なる行為を止めさせるほどのものなのだからです。

 私もこの度の値上げには怒りを覚えますが、生きている限り、ハガキを買う財力が残る限りは年賀状を止めることはしません。既にかなりの老人となっている私は、年賀状は知人に対する年に一度の新年の挨拶だけではなく、昨一年の近況報告と今年の取り組み予定などを知らせ、更には老人としての心境感慨を伝えるための重要な手段と考えているからです。但し、もう交誼は勘弁してくれとおっしゃっている方には、押し付け的な年賀状は止めることにします。だんだんと善良な行為が先細りになって行く今の世を嘆きながら今年を迎えています。

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人倫の衰退と頽廃を憂う

2025-01-03 07:41:31 | 宵宵妄話

 今の世の中、人類の文明は驚異的に進化しています。20世紀以降、それまで何百年かけても出来なかったことを数年も掛らぬうちに実現してしまうようなことが起こり出して、それが今では、1~2年で実現してしまうようになったのです。その文明の核となっているのは勿論科学技術文明です。 昭和から平成そして令和と三代を生きて来て今80歳半ばとなった私から見ると、特に昭和の終わり頃から情報革命が話題となり、平成になって急激に進展したITの世界は、もはや世の中を大きく変化させようとしています。

 しかし、冷静にこの事態を考えてみると、果たしてこれは人類の進歩につながっているのか?という疑問が頭をもたげて来ます。科学技術というのは、本来人類の抱いて来た様々な問題を論理的本質的に解決し、人類の利益に貢献し、不安や心配を取り除くことを目的として発展して来たものと思うのですが、この頃の特にIT領域での科学技術の進歩は、人類の本来の目的を逸脱し、逆効果につながっている感じさえ思わせるのです。それはどういうことなのかと言えば、この科学技術の発展がもたらした成果を活用すべき人の道(=人倫)が歪み出しているからなのです。

人倫というのは、簡単に言えば人の道すなわち人道ということですが、その意味は、人が世の中(=社会)の中で安全・安心に生きて行くために守らなければならない最も基本的なルールということになります。それは身勝手な個人尊重などいう考えではなく、世の中、人のためを常に考えて己の行動を律する個人の尊重という考えであって、常に社会の安全・安心を自覚した個人でなければならないという人間としての存在なのです。

 今、この人倫の道が衰退し廃頽する方向に進んでいます。IT技術の進歩がもたらしたSNSなどの情報活動が、本来の目的を逸脱無視して人倫の破壊に挑んでいる感すらある事件が多発しているのです。科学技術の悪用の蔓延です。詐欺犯罪は巧妙を極め、己の欲望を満たすために、己は身を潜めて他者を使って殺人に至るような犯罪行為をけしかけ、手を汚さずに悪益を貪るというような事件が頻発するのは、昭和の時代では考えられないものでした。

 人類はその利便性を追求するために科学技術を発展させ活用して来たのですが、愚かにもひたすら利便性を追求するあまりに、それが生み出す負の部分には殆ど目を向けずに来ています。要するに目的を達成さえすれば、そのプロセスや結果から生み出される負の遺産など無視してやって来たのです。確かに世の中は想像以上に便利になり、科学技術が生み出した成果を享受しています。

 しかし、ここに来て気付き始めたのは、地球環境の異常さでした。温暖化、異常気象などがもたらす、人類の力では防ぎようのない大自然の恐るべき怒りのパワーは、人類既得の利便性など一挙に踏みつぶすかの如く荒れ狂っています。人類はこれから果たしてこれに耐えて生き残ってゆけるのか?大いなる疑問ですが、その答えを想像出来ません。

 それは措くとして、人倫の衰退と頽廃の問題は、地球環境問題とは異質のもので、これは人類自体が何としても解決しなければならない課題なのではないかと思います。今の世の中を見ていると、人倫の問題は、個人レベルに止まらず、国家レベルにおいても表出している感じがします。SNSを悪用した詐欺や殺人などの犯罪のみならず、国家間においてもロシアや北朝鮮、イスラエルやレバノンなどの国々が、人道などを無視して戦争という殺人と破壊行為に国を挙げて突き進んでいるのです。これほどの大悪は無いと思うのですが、小悪も大悪も誰も止めることが出来ない状態です。環境と併せて、人類は自らが住むこの地球と、人類自体そのものを破滅の方向に進んでいるかの如くです。数億年前に恐竜たちが消え去ったのは、宇宙レベルでの外因によるものだと考えられていますが、人類はそれとは全く異質の方法、すなわち自らの奢りと破壊行動で自らの首を絞めてこの地球から消え去ったのだと、数億年後には何者かにそのようなコメントをされることになるのかもしれません。

 人倫の道は、2千年以上も前から人類が見出して取り組んできた貴重な考えの筈なのですが、今はそれを発展させるのではなく、まさに退化させ抹消しようとしているかの感じがするのです。2千年以上も前に孟子が見出した人倫の道は、性善説に基づくものでしたが、これに反対した荀子は性悪説を唱えました。これは一見正反対のように見えますが、荀子は人は性悪なるが故に礼を以て対峙する必要があると説いたのです。しかし、今はまさにその礼なるものが崩れ去り消滅しようとしているかの如くです。となれば、この世は性悪な人間の溢れる不安と危険渦巻くものとなってしまうという恐るべき予感が襲ってくるのです。

 2025年を迎えて、老人とは言え過去のことばかりではなく未来のことも考えなければならないなと思いを巡らしたのですが、残念ながら80歳半ばに至った老人には、このような未来展望しか出来ないのでした。

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2025年のチャレンジ

2025-01-01 00:23:02 | 宵宵妄話

 このブログを始めてから18年を迎えようとしています。当初は、タイトルと同様、くるま旅くらしの記録を報告する目的で記載していました。しかし、10年以上が過ぎると、旅くらしの時間は減って来て、時々の長旅だけとなり、大して記事になるようなこともなくなって、休みが多くなり出しました。開始時は60歳台だった自分の年齢も、最早80歳台の半ばに達しています。体力的にも意欲的にも衰えがやって来て、くるま旅の記事はなかなか書けない状況となって来ました。

 しかし、止めるわけにはゆきません。細々でも書き続けることにしました。くるま旅は、2025年も幾つかの行き先候補は浮かんでおり、何とかチャレンジするつもりでいます。なので、ブログの方もその記録について紹介したいとは考えていますが、それはどうしても終わった後になってしまうと思いますし、もしかしたらもっと長引くことになるかもしれません。

 そのようなことから、今年は、これからはあまりくるま旅のことに拘らずに書くことに努めることにしました。というのも、同世代の知人や友人の中には、いわゆる認知症という病に取りつかれて己を失いつつある人も散見されて心を痛めているのですが、その要因は何かと考えると、この病は己が成長するという意欲を失い、諦めた時にふっと取りつくのではないかと自分は考えているのです。だから、人間というのは、この世とおさらばしなければならない絶対的な時間が来るまでは、成長をし続けなければならない存在なのだと思うのです。そして人の成長は、頭を使い考えることによって叶うのです。この世の病の中で認知症ほど恐ろしい病は無いと考えますが、その最高の予防法は頭を使い己を成長させる取り組みなのだと信じて疑いません。その取り組には、人によって様々なものがあるのだと思います。

私が成長し続けるために何が必要なのかを考える時に、その答えは、「書く」ということになるのです。書くためには考えることが必要不可欠です。考えなしで書くということは出来ません。否応なしに頭を使うことになるのです。そして書いた結果をオープンにする場として、このブログが必要なのだと考えました。

そこで、今年の目標の一つとして、毎月3篇以上のブログへの投稿を実行することを決めました。くるま旅をしないことも多くなるので、テーマとしては、くるま旅の思い出などを多く取り上げてみたいと思っています。その他80歳台の老人の愚痴や妄話なども取り上げたいと考えています。これが今年のチャレンジの内容です。さて、どうなりますことやら。

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