山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

表現についてのあれこれ(1)

2007-03-04 00:20:58 | 宵宵妄話

旅車についての話が一段落しましたので、ちょっと休憩して別の話をすることにします。実はこのブログのカテゴリーを変更しました。今まで6項目に分けてやって見ましたが、どうも窮屈で、何も旅のことばかりでなくてもいいのではないかと思うようになりました。それで、項目を見直し、「くるま旅くらしの衣・食・住について」を「くるま旅くらしの情報・ガイド」に含めることにし、「くるま旅くらしの雑感」を止め、新たに「閑話」という項目を設けました。「閑話」いうのは、「むだ話」という程度の意味です。今までの「くるま旅くらしの雑感」は、全てこの閑話の中に入れることにしました。

さて、今日の話題ですが、閑話です。タイトルのように「表現について」思うことを書いてみたいと思います。

私は、人間というのは表現をするために生きているような存在だと思っています。どのような人も自分を表現するために生きています。では何を表現しようとしているのでしょうか? それは勿論「自分自身の存在」をです。それがどれほど間接的なものであっても、或いは自覚のあるなしに係わらず、人はどこかで自分を表現しようと考え、行動しています。なぜなら、人はたった一人では生きては行けない存在であり、自分以外の人との係わり合いにおいてだけ生きて行けるからです。たった一人で生きてゆけるのなら、言葉は不要だし、表現もいらないのだと思いますが、そのような世界はありえません。何故なら、人は生まれた瞬間から、先ずは父母という関係において社会的存在となるからです。そして、成長するにつれて、様々な人たちとの係わりの中で人間となってゆくからです。

 表現というのは、人間の本能の一つであり、他の動物には無い磨かれた本能のように思います。犬や猫、牛や馬も自己表現をしていると思いますが、人間のレベルには遠く及びません。人間以外の動物には、表現の手段が限られており、大変狭い範囲でしか自分を語り、伝えることができないように思います。

 では、人間の表現とは何かといえば、それは自分の心や思いを自身に備わる五感の全てを用いて表すことだと私は思います。表現は、意思疎通という意味でのコミュニケーションと重なる部分が大きいと思いますが、一般的にはコミュニケーションの中での特化した部分について表現を論ずることが多いようです。少し難しげな話となりました。要するに、映像も文章も演劇も音楽も工芸も全て表現の範疇だということです。

 さて、今回何故こんなことを書いているのかといえば、実はリタイア後の人生を考える上で、何らかの表現に取り組むということが人生を心豊かに創ってゆく上で大きな力となることを強調したいからです。サラリーマンの定年後の夢の多くは、この表現することに大きく係わっているように思います。自分をどのような分野・方法で表現してゆくかというのが大切であり、夢を持っている人は、その分野も方法も見定まっているということでありましょう。未だ夢の定まらぬ人も、恐らく何らかの表現方法を模索しているに違いない様に思います。

 斯く言う私は只今のところ、くるま旅くらしを通して拾った出会いをエッセーを中心に書き留め、ブログや著作を通して世に問い、役立たせて頂きたいと願っています。これが只今のところの私の表現の目的であり手段ですが、これから先どのように変化して行くのかは自分にも分かりません。このようなことを始めてから数年が経ちましたが、おかげさまでリタイア後の人生はそれなりに充実しているように思います。

 私と同じことを他人様に勧める考えは全くありませんが、一人でも多くの方が自己の表現の目的と方法を見出されて、それを通して自分の思いや心を伝える取り組みをされたらいいなあと思っています。思うに何もすることが無いほど哀しいことはありません。私は認知症にはかなりの関心がありますが、あれは何もすることが無い人が招かれやすい病なのだと思っています。何もすることが無いというのは、表現するものが何も無く、その気も起こらないということでもありますから、それが長い間続けば認知症の世界へ入って行くのは当然のような気がするのです。認知症の世界へ入ってしまった人を少しでも引き戻すために、何らかの表現をさせるような治療法もなされているようですが、本来の治療というのは予防が中心であるべきで、その意味では、自分で何かの表現方法を見出し、それに熱中することは、認知症の自己防衛策として優れているように思います。私がくるま旅くらしにこだわり、エッセーなどに熱中するのも、このためなのかもわかりません。(笑)

 ところで、表現というのは、自己満足のレベルではやはりマンネリに陥り、進歩が止まり易くなってしまうようです。他人の力を借りて自分のポジションやレベルを出来る限り正確に把握して、それを励みに精進することが大切のような気がします。その場として、様々なものが考えられますが、現代ではホームページやブログなどが大きな力となるような気がします。いわゆる高度情報化社会が到来して、その基盤は不動のものとなりつつありますが、高度情報化社会がもたらした貢献の最大のものの一つが、ネットワーク社会を通しての新たな表現の場の創出ではないか、と私は考えます。そのツールとしてホームページやブログを活用しない手はないと思います。

 ところが還暦を迎えた世代では、この高度情報化という奴が苦手で、何のことかよくわからないという人が多いのです。私は、これらの世代の人に対する基本知識の付与は、国の大きな課題だと思っていますが、現実には細々と市民講座などでパソコン教室を開いている程度で、全く真剣みが見られません。パソコンを扱うかどうかは個人の問題であり、深く係わる必要は無いと考えているようですが、それはそうだとしても、国全体の近い将来(=超高齢化社会の到来)を思えば、もう少し打つべき手はあるように思うのですが、……。これは愚痴になりました。先ずは自らが前向きに取り組むことが第一ということでありましょう。

 先日嬉しい話がありました。メールを開いていたら、久しく連絡の無かった先輩の一人から、ブログを開設したという案内を頂戴しました。この方は、リタイア前はゴルフ狂で、リタイア後は全国の全てのゴルフ場を行脚するなどと張り切っておられたのですが、引退間際に膝を痛められて、ゴルフどころではなくなってしまったのでした。ところがその後しばらくして絵画を始めたとの話がありました。最初は半信半疑でしたが、その内共同絵画展の案内があり、私は都合で見に行けなかったのですが、その後も何度も出品され次第に絵画への熱が高まったようでした。ご自宅にお邪魔し、書き溜めたたくさんの絵を見せて頂いたりしましたが、次第に本物になってゆくのを感じました。その彼が、先日のメールでブログを開設したというのです。それも、私がブログを開設したのが刺激となって、それ以前にチャレンジして挫折しかけていたのを再度一念発起して娘さんの力も借りて開設にこぎつけたとのことでした。

 これは嬉しい話です。絵画という表現をブログというもう一つの表現の場を通してより多くの人びとの目に触れ、何かを得ようとする姿勢は大切だと思います。数年前までは只のゴルフ狂に過ぎないと思っていた方が、僅かな時間でここまでこられていることに絶大なエールを送らずにはおられません。彼の精進はこの先も続くに違いありません。(彼のブログはこちら

 リタイア後の人生では、このような生き方がとても大切なのだと思います。何でも良い、表現への熱中こそが、これからの人生を心豊かにさせてくれるに違いありません。

コメント
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