goo blog サービス終了のお知らせ 

山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

最後の投稿記事です(しめくくり)

2025-04-20 03:47:00 | その他

今年の目標として、ブログに毎月3回以上の投稿をすることを掲げて実行して来ました。ボケ防止を兼ねて作文の楽しみを味わい、それを自分一人だけではなく世の中にオープンにして、時にはコメントなどを頂ければ刺激になってありがたいと考えたからでした。

 しかし、先日gooブログを開いてみたら、ページの上方に赤く太いラインが引かれて、そこには「ブログのサービス終了のお知らせ」」と書かれていて、そのスケジュールなどが書かれていました。突然なので驚いたのですが、考えてみれば今の時代で良くここまで頑張ってサービスに努めて頂いたものだと、その決断に賛同し感謝することにしました。

 思えば私が投稿を開始したのは、2007年の2月1日で、その頃はくるま旅くらしに全力を傾けていました。僭越ながらも世の中の方たちに「くるま旅くらし」という新しい旅の形を提唱して、一人でも多くの人にその魅力を知って頂きたいという思いがあり、goo brogさんにお世話になろうと決めたのでした。それまでは自作のホームページを活用して発信していましたが、それよりもブログの方が遥かに発信力が大きいと考えたからでした。

 それから今年で18年を経過しました。当時66歳だった私は既に84歳となってしまいました。くるま旅の情報をメインに投稿を続けて来ましたが、最近はそう簡単気楽に旅に出かけるのもママならなくなり、投稿内容もくるま旅の話よりも宵宵妄話などという老人の愚痴のようなものが多くなってしまいました。そろそろ幕を下ろす頃かと考えながらも、もうちょっと頑張ってみるかという未練があったのです。しかし、今回サービス終了という知らせを見て、これは未練にかまけるなどしないで、幕を下ろす丁度いいチャンスだと決断しました。

 記録を見ますと、18年間に2,585回投稿しましたが、これは年間約143回(≒12回/月)投稿したことになります。この間に約220万のアクセスと約80万の訪問を数えました。私の長文でくどい文章をこれほどたくさんの方に読んで頂いたことは、真に光栄なことであり、感謝に堪えません。ありがとうございました。

 これからは、斯様な投稿はもう全て辞めることにして、自分なりに今までの40万キロ超に及ぶ家内と二人でのくるま旅を振り返って、余命の範囲で、時間をかけながら締めくくりの記録のようなものを整理してゆきたいと考えています。勿論くるま旅の方も、これから先、心身の健康を保持できている間は続けて行くつもりです。

 

改めまして、これまでにお読み頂きました皆様に深く感謝を申し上げますと共に、18年に渡りお世話になりましたgooのスタッフ、関係者の皆様にお礼を申し上げます。ありがとうございました。

 山本馬骨 拝

コメント (2)
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未来志向から過去指向へ

2025-04-15 18:03:35 | 宵宵妄話

老の心境について少しばかり語りたい

 真老(75歳~85歳)世代となってから半ばを過ぎた頃、しみじみと思うようになったのは、次第に未来について考えなくなって来たということでした。その一方でだんだん過去について思いを馳せるようになってきました。

 現役をリタイアして古稀を迎える頃までは、時々こんなので良いのかと疑問を抱きながらも未来志向だったと思います。未来と言っても遠い未来ではなく、現在につながる近未来のことなのですが、この世がこれからどうなって行くのかに関心があり、それに係わる知識や情報にも関心大でした。パソコンの普及がまだ始まったばかりの頃は、これからはITの時代が到来するのだと大いなる希望と期待を持って、あれこれ情報を集めたりパソコンに触れたりしていたのですが、時間が経つにつれて、IT進化の所産であるSNS等の情報ネットワークは想像を超えて普及し、今では当たり前のこととなってしまっています。しかし、それはメリットばかりではなく、数々のデメリットが現れ出しています。この技術を悪用したり妨害したりする事件が次第に増え出すのを見ているうちに、これで良いのかという疑問が膨らむようになりました。

今話題のAIについても、その活用がまともならば、人間の能力を最大限活用して、世の中に絶大な貢献が期待できるのだと思いますが、しかし、もしこれを悪用したりすれば、今まで想像も出来なかったような犯罪などが頻発するのではないかと、そのデメリットを想像して不信感を抱くようになりました。

 人間(ホモサピエンス)は、これから先何を求めてどこへ進んでゆくのかを思う時、万人に幸せをもたらすバラ色の世界よりも、その反対の汚れた非人道の世界が幾つも現出するのではないかという不安が膨らむのです。

人間は、今まであらゆる分野において、科学を活用して利便性や効率性を追求し過ぎてしまっているのではないか。その重大性を忘れてしまっているのではないか、という疑問が消えないのです。科学のあらゆる分野は、人間としての善悪などには拘わらず、只管に日進月歩の問題解決に取り組んでいる感があります。これを批難することは出来ません。

しかし、人間の保有する心(精神)の世界に関しては、新しい展開は少しも見当たらず、それどころか、先人たちが営々と積み上げてきた人倫の道ともいえるものが逆に音を立てて崩れ退化して行くような気がしてならないのです。

世界各地で起こっている侵略や戦争(内戦を含む)は何を物語っているのかと、不信感は増すばかりです。国際平和などというものは、永遠に到来するものではなく、科学がどんなに進歩しても、人間の欲望は、個人レベルをはるかに超えて、国家に至るまで、その限りを尽くそうとしているようです。これは、生き物として最高の発達を遂げて地球を支配するようになった、人類であっても抑えることのできない本能というものなのかもしれません。未来に抱くイメージは楽観的なものは殆ど見当たらず、悲観ばかりなのです。傘寿を超えてしまった老人には最早何をなすことも出来ず、只暗い未来を想像するだけなのです。

 

そしてその結果、今は過去に目を向けることだけが考える楽しみとなってしまいました。過去は、度を越した暗く辛い経験でない限り、その多くをかなり浄化することが出来るのです。老人となった今では、大抵のことは浄化して忘れ去ることが出来るのです。そうしなければ今を生きている意味がないように思えるのです。嫌な思い出は全て忘却し、楽しく懐かしい思い出を膨らませるだけで安堵出来るのです。その様な思い出は時間には関係なく何時でも自在に過去から引き出せるのですから、老人にとってこれほどの楽しみは無いのです。

 この頃はもう未来を考えることは止めにして、懐かしく楽しい過去を自分なりに脚色したイメージを膨らませて毎日を楽しむことにしています。ただし、その度が過ぎて、認知症などへ舵を切ることが無い様に気をつけながら、残された時間を楽しみながら生きて行こうというのが最近の心境です。

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思い上がりは身を滅ぼす

2025-04-12 18:53:27 | 宵宵妄話

、全世界で一番思い上がっている人物はだれだろうか、それは言わずと知れたUSAのトランプという人だ。彼の他にも思い上がっている人物は幾らでも居るのかもしれない。しかし、彼の思い上がりは尋常ではない。何故ならば、世界中に影響を及ぼしている人物で彼の右に出る者はいないからだ。現代には、彼の他にも思い上がっている人物には、ロシアのプーチンだとかミャンマーの軍事政権のリーダーだとか、或いは北朝鮮の金何とかなどという顔をしかめたくなる人物がいるけど、大国USAの最高責任者たるトランプという人は別格だ。

日本の田舎に住む一老人が斯様なコメントをつべこべ言ったところで、全くどうってことない話なのだが、思い上がりの結果がどのようなことになるかを様々な国の歴史を覗いてみると、答えは失脚・転落・抹殺などという負の答えが圧倒的で、プラスの高い評価を得た人は皆無に等しい。そもそも世間から高い評価を得られる筈だという信念に基づいての言動こそが思い上がりというものなのである。 

最も基本的なことだが、人間社会というのは、それがどのようなものであれ、己の己に対する絶対評価で成り立つものではなく、あらゆる他との関わり合いで成り立つものなのだ。あらゆる他との関係とは、必ず利害関係がそこにあるということでもあり、ましてや今の世は、全世界が何かしらの利害関係で成り立っているのだから、他を省みず己だけの利害の主張など通用する筈がないのである。それは、USAという巨大な国の責任者であっても全く同じことなのだ。トランプ氏はこの絶対的ともいえる人間社会の基本を忘れ(あるいは無視して)USAの名を借りて、己の主張にのみ拘って関税政策などを展開している。

これはまさに思い上がりそのものではないか。この思い上がりを貫けば、USAを豊かにし、大統領として国民の付託に応えることが出来るのだと、その信念を曲げることをしない。しかし、それは人間社会の中では一方通行の行為であり、ましてや現在も世界最強の国であることを忘れた、極めて狭隘な人気取り政策に過ぎないのではないか。

彼がやろうとしている、やっていることは、金儲けに目が眩んだ悪徳商人の行為と変わらないのではないか。自国だけが利益を得て、他国のことなどどうでも良いという、今の世には珍しい浅薄な商人のごとき振舞いである。自国のある種の人々からの賛同は得られるのかもしれないけど、世界の巨大国としての責任を考える人ならば、自国の利益だけに拘ることに対する少なからぬ危機感を抱くに違いない。今は、USAの身勝手が許されない地球になっていることを忘れてはならないのではないか。

それにしてもこの人物の発想と言動には驚くばかりだ。それと併せて、この人物を選んで善しとする人の多く住むUSAという巨大国には恐怖を覚えざるを得ない。この人物の思い上がりが,過去の歴史の人物たちと同じ運命を辿ることにならないよう願うのみである。

「思い上がりの人は身を滅ぼす」というのは、この田舎に住む一老人のたわ言などではなく、何千年と積み上げてきた人類の歴史の証明する必然なのである。

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老進化下り階段 説

2025-04-07 04:22:59 | 宵宵妄話

老の心境について少しばかり語りたい

私は古稀を迎える頃に老についての世代論として、準老(65歳まで)→ 順老(65歳~75歳まで)→ 真老(75歳~85歳まで)→ 深老(85歳~95歳まで)→ 超老(95歳~)の考えを唱えたことがあります。それは今でもその通りだと思っており、例えば国や自治体のいわゆる高齢者に対する治世のあり方は、前期・後期などという大雑把な区分ではなく、自分の世代論の様により細分化して対応を考えるべきではないかと思っているのです。

私は現在真老の最終段階に居て、間もなく深老の世界、即ち老を深く味わう世代に入ることになります。私の考えでは、実はこの真老の世代まで到達するのはそう簡単なことではなく、到達できない人もたくさんいるのです。私の知人の中にも順老までさえ届かなかった人もおり、ましてや真老に届いてからは何人もの知人のあの世への旅立ちを見送っています。

それで、老の進み方について考えてみました。 老進化と言いましたが、これは実は老退化というべきことなのかもしれません。ま、どのように言ってみたところで、中身は同じことなのですから、こだわる必要もありません。老化というのは、時間的にはどのようにして進むのだろうか?それを考えてみました。

それは下降線を表す曲線(又は直線)で表すことが出来ると思います。すなわち、老のレベルを縦軸とし、横は時間軸とした場合、例えば老の始まりを60歳とした場合では、60歳を始点として、命が無くなるまでの時間は、それが直線であっても曲線であっても右下がりとなります。この下降線について、私はその線は、下り階段を降りるような形をしているのではないかと思っています。しかもこの階段は、その高さも幅も様々であって、或る時は昨日と少しも変わらない段差だったのに、そのあと突然踏み外してしまうような高さや幅になったかと思えば、しばらく平安が続いていていたと思ったら、そのあと再び落差の大きな階段が待っているという風に、下っていることは確かなのですが、その下り方はさっぱり先が読めない、個々人が皆異なっている怪しげで不可解な階段なのです。そして確実なのは、決して上りは無いと言うことなのです。ホンの少し止まることが出来たとしてもそれは錯覚のレベルであり、決してその平安は長続きはしないものなのです。

先日私は突然の不整脈(頻脈)に見舞われカテーテル療法を受けました。4年前には前立腺癌で放射線治療を受け、現在もフォローして頂いていますが、これらの出来事も、これから起こるであろう全ての身体や精神に関わる異常事態も、皆いわばこの階段を踏み外すという出来事なのです。最後にどうもがいてもあがいても身体が動かなくなって、下ることが出来ずにそこに蹲(うずく)まったときが老の終りとなるのだと思っています。

ところで、自分は今この下り階段のどの辺りに居るのでしょうか。残念ながら見当もつきません。判っているのは、自分に用意された階段のかなり下方に居ると言うことだけです。

このように自覚すると、階段の底に着くまでに何をしたいかということが課題となります。別に何もしなくてもいいのですが、私は身勝手な人間なので、今考えているのは、未来ではなく可能な限り過去を知りたいということです。過去とは歴史ということです。先ずは自分の歴史から始めて、日本国の歴史、世界の歴史、地球の歴史、そして最後は宇宙の歴史ということになります。歴史というのは全てのものや出来事には始まりがあって、その経過の記憶や記録を辿ることと考えます。学者ではないので、それら様々な歴史については叉聞きしている断片的な知識を膨らませてのイメージしか作れませんが、それらを思う時には何とも言えない神秘的な歓びのようなものを感じるのです。

「我々はどこから来てどこへ行こうとしているのか」という絶大なるテーマがありますが、このテーマはどのような歴史にも当てはまるものだと思っています。しかし、このテーマである程度の解が求められるのは、どこからどのようにしてやって来たかということだけであって、これから先どこへ行くのかは不明なのだと私は思っています。

しかし、私の密かな思いとしては、その解は宇宙から来て宇宙に還って行くのではないかと考えています。突き詰めて考えれば、自分というこの私は、宇宙からやって来て、やがて宇宙に還って行くに違いありません。今は、その微小なる瞬間を生きているに過ぎないのです。

階段をズッコケて(ズッコケさせられて)動けなくなった時が私の宇宙への旅の始まりなのだと考えています。その世界は多分時間も空間も意味をなさない世界なのだと思います。科学の各分野がどんなに発達・発展しても、その世界の解明は不可能なのだと思っています。

 

現実に戻って、残されている僅かな余命の時間を、私は様々な歴史の世界に野次馬として首を突っ込んで楽しんでゆきたいと考えています。当面はくるま旅と一緒に、この日本とうい国の石器時代から始まる歴史を、あれこれと齧り回る時間を優先させたいと考えています。現在、ようやく縄文時代まで辿り着きました。これからが楽しみです。階段から落っこちるのは、なるべく少なく遅く発生することを願いながら。

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「追い抜き・追い越せ」から「追い抜かれ・追い越され」へ

2025-04-02 10:31:55 | 宵宵妄話

老の心境について少しばかり語りたい

私は守谷市の北守谷地区に住んでいるのですが、ここには北守谷遊歩道という1周約2kmの散策路が造られています、その路の両端には多くの高・低木が植えられており、季節の移り変わりを味わいながら多くの人たちが散歩やジョギングなどを楽しんでいます。私もその愛好者の一人です。春の季節は、それらの樹木たちが多彩な花を咲かせ、新緑が過ぎて夏になると蝉たちの鳴き声が溢れ、秋は僅かながらも紅葉が見られて、たっぷりとそれぞれの季節を味わい楽しんでいます。

先日その道を歩いている時にふと気付いたことがありました。後ろから来た人たちが私を追い越して行くのです。次の人もその次の人も、私が意識してゆっくり歩いているわけでもないのに、です。今まで普通に歩いている時に追い越されるというようなことはあまりありませんでした。それなのに、今だって普通に歩いているのに追い越されているのです。これはちょっとショッキングな気づきでした。

何故なのかをあれこれ考えてみたのですが、思いついた結論は、我が身の老化ということでした。80年以上人間をやっていると、頭の中の意識や感覚は不変と思っていても、身体の方はそうはゆかず、体力が低下して知らず遅くなっているのでした。無理をすれば追い越されないように出来るかもしれませんが、そんなことをしていたら、身体は悲鳴を上げ忽ち壊れ出すに違いありません。最早逆らうことも出来ず、又その必要もないことを思い知ったのでした。

思うに、振り返ってみれば、これは私がこれまでの人生を送って来た考えかたと同じだなと気づきました。子どもの頃から追い越されてもいいなどと思ったことは一度も無く、学校時代も就職してからも他人に遅れてはならないという意識があって、ずっとその考えでやって来たのです。生きる為には、いい意味でも悪い意味でも競争は不可欠であり、それに勝つために多大のエネルギーを消費し続けてきたのでした。時々チャレンジを止めてゆっくりしたいと心が動くこともあっても、休み続けることはできなかったのです。言わば世の中全体の仕組みがその様な考えを基にして出来上がっているからなのでしょう。とにかく落後者にならないためには、追い越されてはならないのです。その考えは、自分のあらゆる言動の中に無意識的に働いて、負けてはならない、勝たねばならぬと沁み渡っていたのです。

しかし、これは心と身体が違い無く働く時に可能なものであって、そのバランスが崩れてしまうと、競争力は途絶えてしまうものなのでした。賢者はいち早くこのことに気づいて、無意味とも思われる言動を控えることが出来たのでしょうが、私のような凡人にはとてもとても出来ないことなのでした。80を幾つも越した年齢になって。初めてそのことに気づかされたのです。少し楽になった気がします。

ところで、追い越されることにもメリットがあることに気づいてもいるのです。というのも、これは30年ほど前に糖尿病を宣告されて以来、運動療法の中心に歩きを置きその実践に努めてきたのですが、その始まりの頃に気づいたのは、走るよりも歩きの方がものが良く見えるという当たり前のことなのです。そして歩くよりも停まっている時の方がもっと良くものが見えるということにも気づきました。これはその当時歩くことが三日坊主で終わらないようにするために、道端の野草観察を始めた時に気づいたことなのです。

その様なことに気づきながらも日々の暮らしの中では、追い越せ負けるなという気持ちが大半を占めていたのです。それはまだまだ身体が意のままに動いていたので、直ぐに忘れてしまっていたのだと思います。その頃から30年が経ってようやくあの時の気づきが本物だったことに辿り着いたのです。

糖尿病というのは不治の病であり、少しでも身体の管理を疎かにすると一見健康レベルに戻ったかのように見えても、たちまち病のレベルとなってしまうのです。私はそのことをよく良く承知しながらこの30年間をやって来ており、今でも毎日5~6kmの歩きを身に課して実践しています。これは私の終生の課題であり、生ある限り続けなければならないと思っています。なので、これからは追い越されてもそれは当たり前と考え、ゆっくりとしたマイペースでものごとをしっかり見ながら生を楽しんで行きたいと考えています。

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