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山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

歩く力

2025-03-26 17:07:28 | 宵宵妄話

老の心境について少しばかり語りたい

私は、長いこと暮らしの中心に「運動」というのを置いてやって来ました。幼い頃は病気になり易い虚弱体質だったので、これを何とか克服しようと様々なスポポーツなどに挑戦して来ました。特に中学生になってからは、バスケットボールに興味関心を持ち、これを高校。大学と続けて、社会人になってからもしばらくの間続けていました。それが出来なくなってからは、登山などに挑戦したこともありましたが、30代後半になって仕事が忙しくなってからは、休日のジョギングなどを楽しみにしていました。お陰で健康に自信の持てる身体となりました。しかし、それが過信となり暴飲暴食がたたって、50代半ばの頃に糖尿病を宣告されました。この病は食事、薬、運動の3つのメイン療法があり、それ以降体重管理を中心に過食を抑え、運動は歩くことを中心にして、薬は可能な限り少なくて済むように努めてきました。それは習慣となって、老に入る前(70代)までは、定期的に専門医の診断を受けながら、合併症とは無縁の暮らしを保って来ました。そのために、いろいろ工夫をしながらやって来たのですが、その中心は「歩き」でした。走るのは糖尿になった時点で止めて、只管歩くことにしました。歩きについても、ただ歩くだけでは持続が難しくなると考え、毎日万歩計の記録を残し、歩くコースなども変化を持たせて、ラジオを聞いたり植物の観察をするなど、歩きに楽しさを加えた取り組みを続けました。

今まで50歳以降約30年間の記録では、年間歩数が500万歩を下ることはなく、多い時には700万歩を超えた年もありました。その功あってか、糖尿の血糖値の状況を示すHa1Cの数値も6%台以下を維持してきました。昨年も500万歩を超えていて、これが実現できているのは暮らしの中心に運動があるからと信じて、今年は(2025)は年齢を考えて、昨年までの歩き過ぎを抑えることにして、年間400万歩の目標を設定したのです。これは月々30万歩(=毎日1万歩程度)の歩きなので、楽勝できると思って取り組んだのです。

ところが昨年の11月下旬のある日、突然頻脈が発生したのです。高血圧気味なので、毎日血圧測定をしているのですが、その時は計測が出来なくなり、辛うじて測れた時の数値を見たら、何と1分間の脈拍が180にもなっていたので驚きました。特に心拍数が増える様なことは何もしていないし、自覚症状は全くないのに脈拍数だけが異常に多いのです。これは自分での対策は無理と考え、循環器内科を受診しました。結果は不整脈の一種で心房細動ではないかということでした。それで薬を処方して頂きしばらく飲んでいたら脈拍は平常に戻ったのです。もう大丈夫かと安堵したのですが、それからしばらくすると又また頻脈が再発したのです。以前よりは少し下がって、130/分台となったのですが、平常の50/分と比較すれば倍以上もあるので困惑しました。再度医師に相談すると、一度カテーテル療法の専門医の診察を受けてはどうかと、都内の大病院を紹介されました。そこでの診察の結果もやはり心房細動・粗動と診断され、この症状は薬では完治が難しいので、物理的療法としてのカテーテル療法が必要と言う説明を受けて、施術して頂くことを決意しました。

この頻脈騒動は凡そ2か月続いてのですが、寒い時期でもあり、無理して歩けば何が起こるか判らないと考え、1月からは歩くのを中断しました。約2か月という、これほど長期間歩くのを休んだのはわが人生では初めてのことでした。

3月上旬に3泊4日の入院でカテーテルの施術を受けました。施術は無事に終って、4日目には退院することができました。その後1週間が過ぎましたが、この間の脈拍は正常の50/分に戻って安定するようになりました。もう大丈夫なので休んでいた歩きを再開・回復させようと取り組むことにしました。

先ずは2~3km程度の歩から開始しました。大丈夫そうなので、少し歩く距離を増やして5kmほどにしました。頻脈になる前は、1日7~8km以上歩いていたので軽く考えていました。ところが5kmのペースで歩き始めると、何と右足の太股の後ろ側の筋肉に痛みを感ずるようになったのです。どうしたのだろう、また妙な病に取りつかれたのかと不安が過ぎりました。とにかく継続することが肝要だと歩きを続けていると、しばらくすると痛みは少なくなって来たので、なあんだ只の筋肉痛だったのかと安堵しました。しかし、今度は歩きの途中で腰が痛くなり出したのです。今まで10km以上歩いてもその様なことは無かったのに、2kmほど歩くだけで休みが必要となってしまったのです。今までの歩きでは、家を出発してから戻るまでが2時間以上に及んでも途中で休むなどということは一度も無かったのです。たった2か月の休みでもこれほど歩きに障害が出るものなのかと、改めて己の老の進捗を思い知らされました。

歩くというのはすべての動物の生きるための基本なのです。身近な動物のどれをとっても、歩けなくなって自力で代謝のためのエネルギー摂取が出来なくなったら、死を待つだけなのです。人間だけは例外で、他者の力を借りて生きて行くのが可能な存在であり、その力を人間以外の動物にも及ぼすことが可能なのです。

この動物の根源的な歩く(=動く)という能力を保持する重要性は、人間であっても何ら変わることは無いのだと自分は考えています。老化が進んで、或いは何かの事件で自力で身体を動かせなくなった時が自分の人生の終着点(=死)なのだと自分は考えています。

今回の頻脈事件は、幸いに自力で生きて行くことを可能にしてくれました。今年の初めに我が人生のゴールを90歳という目標を設定したのですが、これほど早く一つの障害がやって来るとは思いませんでした。これから先どのような障害がやって来るのか、見当もつきませんが、老の進展が思わぬ障害を招くという必然を改めて思い知らされる頻脈事件でした。

これからは、過去の自信を過信しないようにして、歩ける力を確保するために、脳や心臓を初め身体維持のために必要な全ての臓器類の働きに注意して、より慎重に我が身を維持して行かなければならないのだという心境になりました。人生生きていてなんぼなのですから。

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誰が五木村の悲劇を生み出したのか?!

2025-03-17 07:34:31 | くるま旅くらしの話

 くるま旅をしていると、思わぬ所で、思わぬ出来事に出会うことがあります。この話もその一つなのです。

 偶々TVでNHKの「新日本紀行」という番組を見ていたら、五木村のことが出ていました。この番組は50年ほど前の取材と現在の状況を一緒に紹介してくれるので、大変興味を持って見ています。全国各地の昔と今が紹介されていますが、その中には旅先で訪ねた箇所が幾つかあり、その時のことを思い出させてくれるのです。

九州の旅は今までに3回行っていますが、2012年に初めて五木村を訪ねました。今から13年前となりますので、その時はTVで紹介された50年前の五木村とは大きく変わっていたのだと思います。林業のための小屋や焼き畑農業などはあとかたも見られませんでした。

2012年には九州の南部を中心に昔を訪ね回って、屋久島まで足を延ばしてその帰途に人吉市の昔の城址や国宝青井阿蘇神社などを訪ねた後、その夜は比較的近い五木村にある道の駅を訪ねて1泊しました。その時の印象です。

 五木村と言えば、何と言っても子守唄が有名です。道の駅も「子守唄の里五木」となっています。ここは五家荘や椎葉にも近い大変な山奥の里です。その昔平家の落人たちがここまで逃げ延びて、その末裔の人たちが営々と今日まで暮らしを保ってきた場所でもあると理解していますが、いつも思うのは、源氏というのは随分としつこい連中だという嫌悪感です。それは今日だから言えることなのかもしれません。とにかくとんでもない山奥での暮らしは、当初から困難を極めたものだったのではと同情せずにはいられません。五木の子守唄は、そのような源平の争いなどが過ぎたずっと後になって生まれたものだと思いますが、山奥の里での暮らしは貧しくて、幼い子供でも村の生活に安穏することは許されず、物心がつく頃になると村を出されて子守の仕事に就かされるなどして、背負った子をあやしながら涙ながらにふる里を思い口ずさんで生まれたに違いありません。幾つか知っている子守唄の中で、これほど哀しいメロディと歌詞の唄は無いのではないかと思うのです。現代の貧しさとは異種のどん底の貧しさの中で生まれた唄なのです。

 道の駅に着いた時には、あの哀しいメロディが夕刻までスピーカ―から流れていました。しかしそこで見た景色は意外なものでした。そこには昔の五木村を思わせるような景色は全く無く消え去っていたのです。山の中腹にある家々は皆新しくて、街の中で見かける家と変わらないものばかりでした。茅葺の家など全く見られないのです。初めて来たので、予想とは全く違っている景観に驚きました、あの子守唄のメロディからは想像もできない景色なのです。どうしてなのかとその違和感に戸惑いました。

 その夜は東北から一人旅で来られたという人と遅くまでくるま旅の談義をしました。そして翌朝、旅先では必ず付近の散歩をするのですが、道端に立派な記念碑のようなものがあるのに気づきました。そして近くには深い谷を跨いだ造りかけの大きな僑が見られました。なんだか五木村には相応しくない景色だなと思いました。その記念碑に近づいて、それを読んでみるとこの違和感の原因が何かということが解りました。

 五木村の現在の道の駅辺りからは深い谷が見下ろされて、そこを一条の川が流れているのが見られます。五木村の集落は、昔はその河辺川という細い川に沿って営まれていたのです。しかし、30年ほど前からこの川をせき止めてダムをつくるという話があり、村の人たちはこの計画に真っ向から反対し、村を挙げての反対運動に取り組んで来たのです。生まれ育った故郷を出て行けというのですから、どんなに貧しい村でも、そこに住む人たちから見ればハイ解りましたと頷けるわけがありません。ダムの建設理由は、河辺川はあの急流の球磨川の支流で、その下流域では過去何度も大きな水害に見舞われて、これを防ぐためということなのでした。長い反対運動の結果、下流域の人たちのためにという説得を受け入れて、ようやく反対運動を止めて建設に同意したということでした。その様なことが「新たなるふる里をめざして」というタイトルでその経過が記念碑に書かれていたのです。

記念碑には、村人たちの悲しみと強い無念の思いが綴られていた。

 その補償金などで谷底からこの中腹に新しく開けた土地に多くの村人が移住したのだと思いました。だから新しい現代建築の家が建ち並んでいたのです。ここはもう昔の五木村ではないのだというのを実感した次第です。

 しかし。その後の話がまだあるのです。その記念碑の傍から見る谷を跨いで新しい橋が造りかけているのはどういうことなのかと思ったのです。それで近くの方に訊いてみると、何とその後ダム造りが中止になったということなのです。往時の政権が税金の無駄遣いの一つとしてこのダム造りを取り止めにして、その代わりに橋を造ることになったという話なのでした。そう言えば、2009年に政権交代劇があって、国会などでいろいろ議論されていたのを思い出しました。その様な理由でダム建設が止めになって、今は故郷に戻ることも出来ない村人たちは、一体今どのような思いでこの経緯を見ておられるのかと、その無責任とも思える政治のあり方に怒りがこみ上げました。

 さて、それから13年が過ぎて、昨2024年に再度五木の道の駅を訪ねて1泊したのですが、新しい家並はそのままであまり変わってはいませんでした。でも道の駅にあの子守唄は流れておらず、13年前にその味の虜になった豆腐(堅めの豆腐で絶品なのです)はもう手に入らなくなっているのかと心配したのですが、何とあの豆腐は自動販売機で売られていたのです。安堵しましたが、最近の世の中の移り変わりを見せつけられたようで、少し複雑な気持ちになりました。その後橋はどうなったのか見てみましたが、よく判りませんでした。只、ダムはまだ造られてはいないようでした。とにかく変わりゆく村の様子を見て、複雑な気持ちで道の駅を後にしたのでした。

 ところが先日「新日本紀行」を見ていたら、何と、現在五木ダムが造られているというではありませんか! 昨年の旅ではそのことには気づかなかったのですが、ダム建設の中止からしばらく経って、下流域の人吉市では大洪水に巻き込まれて、大きな被害を蒙ったというニュースを見ていて、ダムの建設を中止せずに完成を見ていたら、あれほど酷い災害にはならなかったと思ったのを思い出しました。それが現在は再びダムが造られているというのです。そのこと自体は下流域の洪水防止のためにもその必要性は理解できるのですが、この間の政治のありようについては、国も県も随分と無責任であり、五木村の人たちはこの有様をどんな思いで見ているのかと怒りを覚えました。政治が中途半端な先見性で行われると、一つに村の存在までが翻弄されるのだというのを思い知りました。

 現在の村人たちには、どうせ元には戻れないのだから、もうダムを造ろうと止めようとどうでも良いという気持ちになるのかもしれません。でも、私はこのような政治の誤りを許すべきではないと思うのです。今でもあの「新たなるふる里をめざして」という記念碑は健在なのです。今回の新日本紀行の中では、NHKはあの碑のことには一つも触れてはおらず、これは歴史を見る目の片手落ちではないかと、そう思ったのです。

くるま旅をしていると、思わぬ所で、思わぬ出来事に出会うことがあります。この話は、期せずして政治のいい加減さと国を運営することの難しさを教えてくれたのです。

 

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人類は絶滅を乗り越えられるのか 

2025-03-12 08:16:22 | 宵宵妄話

 最近読んだ中で最高の面白さを味わい、感動し、考えさせられた本があります。それは、「地球の歴史」(上・中・下)鎌田浩毅著・中公新書刊」という本でした。

 私はもともと地学という学問が好きで、今から60年ほど前の学生時代には、地球の歴史や宇宙との関係などについて、門外漢ながら興味を持って関係する本を集めて読み漁っていました。その頃の理解で記憶に残っているのは、恐竜が絶滅したのは地球に巨大隕石が衝突して、それがもとで地球全体が大規模な気候変動を起こして、当時生物の頂点で地球を我がものとしていた恐竜たちを初め多くの生物が絶滅したという話くらいでした。

 ところがこの本を読んで、生物の絶滅というのは、そのような出来事だけではないということを思い知らされました。現代では、地球惑星科学という学問があり、数多い学問・研究分野を総合した考え方があって、それは現在の人類(ホモサピエンス)が持つ様々な叡智を集めた学問だというのを知りました。

 地球の生い立ちを粒子の世界から解き明かしている本を読んだのは初めてでした。地球が太陽から生まれたくらいの感覚しかなかったのですが、そのような単純なことではなく、物理や化学の理論等を用いて総合的に地球が成り立っているという説明を読んで、目からウロコの感動でした。

 それだけではなく、地球という惑星が太陽系惑星の中では水の惑星として特別な存在であり、生きているのだと知り、今までの理解とは随分とかけ離れていたのだと知り、その無理解を恥ずかしく思いました。地球というのはその内部で複雑な動きをしており、それはとてつもない力なのです。我々が地上の生き物として体験している様々な自然現象は、何かが起こった時に聞く専門家の解説にはそれなりの理由や原因があるのでしょうが、その奥にはこの地球そのものが持っている力、働いている力があるのだということを知りました。専門的なことは言葉も理屈も殆ど解らないのですが、地球の歴史の大きな流れについては、朧ながら理解できたように思っています。

 その中で気になるのは、「絶滅」ということばです。絶滅というからには生物が生きられなくなって全て死滅するということなのだと思います。その絶滅はこの地球では恐竜世代の絶滅だけではなく、過去にも何度か起こっているということなのです。それは巨大隕石の衝突だけではなく、地球自体の内部の動きが大きく関わる要因なのです。生命を誕生させたのはこの地球なのですが、それを何度か絶滅させたのも地球なのです。そして絶滅を乗り越えて生き残った生物がその後の進化により新たな世界を拡大し、今日に至っているということです。そして現在、その頂点にいるのが我々人類(ホモサピエンス)なのありましょう。

しかし、地球は無機質ながら生きており、ある種のサイクルで寒冷化や温暖化を繰り返しているということです。現在我々は幸いにしてそのような危機のサイクルの真っ只中には入っていない様ですが、何時そのとばっちりに見舞われるか判りません。今、温暖化による地球環境の変化が問題視されていますが、それも当面重要な課題ですが、もっと大きな視点で見れば、二酸化炭素増加の問題は、過去の地球の歴史に於いては、現代のような生易しいものでは無かったということなのです。僅か百年ばかりの人類の一生では、温暖化問題は生死に係わる喫緊の課題ですが、千万年、億万年単位の時間で見れば、そのような騒ぎは些細な出来事に過ぎないのかもしれません。その恐ろしい危機が来た時、人類は果たして絶滅を逃れられるのか。遠い遠い未来のことなのですから、そのようなことを考えても無駄なのかもしれません。

 現在の人類(ホモサピエンス)が誕生したのは僅か20万年ほど前で、5万年前にアフリカを出て世界各地に拡大していったということですが、これも地球という無機質な生命体から見れば、瞬間に等しい可愛いい(?)生き物たちの時間に過ぎないのだと思います。そのホモサピエンスが更に進化を遂げて、現代に至り、陸地だけではなく空も海もその他のあらゆるものを支配し、生物の頂点に立ったのは、僅か数百年にも満たないつい最近のことなのですから、これは驚くべきことです。

 でも誕生してから45億年とも言われる地球という生命体から見れば、そのようなことは知ったことではなく、もっともっと巨大な力で、己の内部を動かし、地表を動かし、自在に温暖化や寒冷化を発動するのでしょうから、その時に果たして過去の生物とは違った形で生き残れるのか。ま、今からそのようなことを考えるのは滑稽なことなのでしょうが、この本を読んでいると、科学文明が進んでいると言っても、人間のやっていることが如何に小さいことかと思うのです。そして我々が大自然と呼んでいる地球という無機質な生命体の持つパワーが如何に凄いものなのかを思わずにはいられなかったのです。

思えばあの東関東大震災に見舞われてから、今月11日は満14年を迎えることになりました。未だ故郷を失いさ迷う人も多いと聞きます。先年の能登の大地震も耳に新しい大事件です。これらの原因はプレートが陸に沈む時のひずみによって起こると聞きますが、もしかしたら地球そのものから見たら、今度のこれらの大地震は、ホンの小さな活動の一端なのかもしれないと思ったのです。過去には300mを超える津波が押し寄せたという大事件もあったということですから、もしマグニチュード10などを遥かに超える大地震に見舞われたら、それがどこで起こったとしてもこの日本国は壊滅の極みとなるに違いありません。恐ろしいことです。 

 過去の地球上で栄えた生き物とは違った存在であるとしても、どんなに科学や文明を進化させたとしても、その基盤となっている地球そのものの力に逆らうのは到底不可能と思いました。

ならばどうすれば良いのか。ホモサピエンスは、己が生き残るというよりも魂の世界を鍛えることで乗り越えることこそが重要なのではないかと思うのです。物理や化学などのどのような自然科学であっても、現在は魂〈=精神〉を科学することは不可能です。如何なる科学でも地球の絶大なる力には抗することが出来ないのであれば、ホモサピエンスは科学とは異なった力を持つ魂〈=精神〉を鍛えて如何なる困難もを乗り越えて行くしかないのではないか。そう思いました。

しかし、その具体的な方法は分かりません。それは恐らく全体ではなく個々人の課題なのかもしれません。「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言って焼き打ちの業火の中にこの世を去った快川和尚のような精神・心境を持つことなのかもしれません。その様なことを想いました。

 

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3泊4日無意識世界への旅

2025-03-10 15:13:54 | 宵宵妄話

現役をリタイア後、くるま旅でこの国の未知の世界や来し方などを訪ねて20年余を過ごしてきた。旅は同じ場所に止まることは少なく常に新しい世界を迎えると言うまさに日々是新の暮らしだった。リタイア後の人生の暮らし方としては正解だったと思っている。

今回は思いもかけず3泊4日の短い旅をして来た。くるま旅ならば月単位が殆どなので、短い旅には不慣れなところがある。バッグ一つを持っての旅ならば、気軽な楽しさがあるのだろうけど、今回の旅はそのようなものではなかった。意識の無い無意識の世界を垣間見る旅だった。

今月の初めバッグ一つを持って歩いて自宅を出発した。バッグの中には旅に必要な洗面具一式や電気カミソリと若干の下着類などが入っている。特別なものとしては、ガウンを持参して来ている。これは普通の旅ではバッグには入れないものだ。そこにこの旅の特徴がある。向かい先は東京お茶の水駅近くにある大病院なのである。

楽しい気分になれる筈がない。

 昨年末から不整脈(頻脈~心房細動)が続いて収まらなくなり、これを何とかしようとして診察を受けたら、担当の医師からカテーテル療法を勧められた。どうやら薬などでは完治しない病の様で、物理的な処置が必要とのことだった。自力で治せないのであれば、これは医師の力に頼るしかない。多少の危険は拭えなかったが、とにかくお願いすることにした。そのための旅だったのである。

 大病院の中は、よくもまあこんなに人が集まっているものだと思うほどに混雑していた。この建物の何処に宿があるのか見当もつかない。とにかく必要な手続きを済ませて指示されたのは、隣の建物の10階の1室だった。そこに行くと看護師の方からいろいろ説明があった。今日は何種類かの検査の後は着替えて休むだけで施術の本番は明日だという。検査から戻ると寝るだけかと思っていたら、胸に心電図計という機器を括りつけられ、点滴が始まった。少しは読書が出来るかと2種3冊の本を持参したのだが、このような邪魔なものを取り付けられては、その気にはなれなかった。4人の相部屋なので、カーテンで仕切られただけの空間では照明は遮られても音は遮断できない。4日間の暮らしでは個室など贅沢なので、相部屋をお願いした。満室だったので、自分を含めて他3名の方の発する様々な種類の音には、聴力に自信の無い自分でも何度も安眠を妨げられて浅い眠りしか出来なかった。

 翌日は施術の本番で、7時半にはそのための着替えを済ませ、8時20分施術台に乗せられて施術室へ。エレベーターに乗ったので、10階ではない他のフロアだったのだと思うが、よく判らない。今日の施術は自分が一番最初で、8時30分から開始とのこと。さすがに手際よくスケジュールが運ばれているなと思った。1~2分の後施術が始まった。麻酔は注射なのかと思っていたら、どうやら点滴で行うらしく、何やらやっているなと思っていたら、たちまち意識が無くなった。眠気などというものではない。あっという間に何もかも消え去って、夢など見るどころではなく、一気に生の世界が消えてしまった。施術前に知人などから聞いていた話では、血管の中に細い管を入れるのだということだが、意識の無い世界では何がどうなっているのか、されているのか全く分からない。痛くもかゆくも全く無くて、生きているという実感は微塵もなく、死んでいるのかも不明なのである。死ならば施術の必要はないのだから、やはり生きている時間なのだろうけど、本人には全くそれが自覚できないのだ。勿論それがどれくらいの長さなのかも全く不明なのだ。「

 意識が薄れて目を開けて天井が見える頃になって、「終りました」という医師の声が聞こえた。それで、ああ、俺は生きていたのだと思った。しかし、あまりその実感はなかった。考えてみれば、これは恐ろしい時間だったのだ。そこは天国も地獄も無く明るさも暗さもない世界だった。生きているということは意識があることなのだなと改めて思った。この無意識時間の経験は、意識できることがどれほど重要で意味があることかというのを思い知らせてくれた。やがていつか訪れる本物の無意識の時間は、やはりこれと同じようなものなのだとも思った。違うのはその場合は、意識は永遠に戻らず、生は終りとなることだと思った。 施術が終って病室に戻る途中で時刻を聞いたら、11時半頃だという。なので、凡そ3時間ほどの無意識の時間だったのだと判った。この世界への旅は、短かったけど、貴重だったのかもしれない。

 その日はとにかく安静にして動かず、トイレにも行ってはいけないという厳しい医師のお達しがあったようで、下腹が痛くなってきたので看護師の方にトイレを頼んでも絶対ダメということで、一件が収まるまで往生した。夕刻になって、施術の医師チームの人たちが訪れて、術後の身体の状態を見て大丈夫だと言って頂いたので、少し安堵した。あとで看護師に訊いたら、カテーテルは動脈の中に入れるのだという。静脈とばかり思っていたのだが、動脈と聞いて、これは大ごとだったのだと改めて思った。静脈なら止血に苦労はすくないけど、動脈の場合は難しいのだと思った。それで医師のチームや看護師が足の付け根や首周りをやたらに覗き込むのだと理解した。

 翌日は終日安静に寝るだけ。少しばかり本を読むことが出来た。地球の歴史という本は、施術のことなどすっかり忘れて面白かった。しかし現実はロクに身動きもできず、落差が大きい。夕刻になって回診の医師から明日は退院しても大丈夫と言われてホッとした。この厳しい旅も明日で終わるのかと思った。もっと長居をしたいなどとはゆめ思わないけど、かといって嬉しさもあまりないという心境だった。とにかくこの旅が終ることで、今度はも少し経ったら本物の旅が出来ることが嬉しかった。

 かくて小旅行は終わり、翌日妻に精算支払いをして貰い、久しぶりに二人一緒に電車に乗って帰宅した次第。

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頻脈で入院となる

2025-03-01 05:20:46 | 宵宵妄話

思えばつまらない話である。でも、生命に係わることでもあるので、ちょっと話しておきたい。

 

昨年の11月下旬、ある日の夕刻にいつものように腹筋を鍛えようと器具を使っていたら、少し気分が悪くなったので、どうしたのか血圧が上がったのかと測ってみると、血圧は何時より少し高かったけど、何と脈拍が180/分にもなっていたので驚いた。今までそのようなことは無く、むしろ若い頃からスポーツ心臓と言われていて、その頃の脈拍は30台から40台だった。老人になってからは50台で過ごしていたので、まさかこれほど多くなるとは思わなかった。他に興奮することなど何も無いのにこんなに脈が速いのは何故だろうと思った。しばらく経てば収まるのだろうと思い、一応腹筋は止めて様子を見ることにした。しかし、その後は夜になっても元に戻らず、少し下がっても170台なのだ。翌朝になって血圧を測ると、少し高めは変わらなかったが、脈拍の方も依然収まっていない。胸が痛いとかドキドキするとかの自覚症状は全く無い。これはやはり心臓に何か問題が起きているのだと考え医者に診てもらうことにした。街の病院の循環器内科を訪ねて診断をして頂いた結果、しばらく様子を見るということで2種類の薬が処方された。その後しばらく頻脈が続いたが、間もなくそれが収まったので、薬が効いたのかと思った。1ヶ月が経って、再度受診したのだが、やはり時々頻脈が収まらなくなって不安定な状態が続いていた。その治療にはより大きな病院を受診した方が良いという担当医からの話があり、東京の大学病院受診の紹介状を書いて頂いた。それで、2月の半ばにそこを受診したのだが、やはり頻脈は収まっておらず。検査の結果「心房細動」「心房粗動」と診断された。そのような病があるとは知らなかったが、放置しておくと血栓が出来易くなって,それが脳の方へ行って詰まると、脳梗塞や脳溢血が起こる危険性があるのだという。

その治療法はと伺うと、薬での完治は難しいと思われるので、物理的な療法としてカテーテル療法を行った方が良いと言われた。何人かの知人たちからカテーテルの話は聞いていたのだが、自分には無関係と考えてもみなかった。しかし、俺にもとうとうそのような病が巡って来たのかと覚悟をしてそれをやって頂くことに決めた。カテーテル療法には3泊4日の入院が必要ということで、入院は来る3月4日に決まったという次第。

自分的には、4年前に前立腺癌の検査で2回も1泊2日の入院経験があり、2度目の時に癌が見つかり、その後約1年ほどかかって薬物療法と放射線治療を受けた経験がある。癌の方は早期発見だったので、放射線治療はあまり苦労せずに無事終了して、現在は半年に1回ほどのアフターケアに通っている。放射線治療は入院不要で、1カ月ほどの通院で済んだのであまり負担は感じなかった。今でも癌のことは殆ど気にせずに過ごしている。

 我が人生を振り返ってみると、この84年の間に6回もの入院の経験をしている。最初は学生時代に盲腸で、2回目も学生時代に合宿時に一人だけ疑似赤痢に掛って隔離病棟へ。3度目は会社勤めの現役時代に喉にポリープが出来てその除去のために。そして4.5度目は前立腺癌の検査のためだった。身体は若い時に鍛えてきたつもりで、事業自得の糖尿病以外は皆ちょっとした事故のようなものなのだと大して気にもしていなかった。それが、今度は予想もしていなかった心臓という箇所にトラブルが起こるなんて、やっぱりこれは老化の一端なのだろうと、そう思うことにした。何しろ壊れてしまったら生命が危うくなる箇所なので気にしないわけにはゆかない。入院を控えて今は俎板の鯉の心境である。鯉と違うのは料理されて生命が無くなるというのではなく、生命の保証のために俎板に横たわるということで、これは幸いと感謝するしかない。

 何はともあれ、まだあの世へ向かう旅をする気にはなれないので、この頻脈を収めて先ずは卆寿までは生き残って、この世のあり様を確認してみたい。医師を信頼し、あとは天運に委ねるしかない。

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