山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

Ⅱ.旅くらしの実際:5.旅くらしのトイレ(その1)

2007-03-14 00:02:34 | くるま旅くらしの話

今日から再び入門講座を開始します。早く終わりにしたいのですが、もう少し時間がかかりそうです。現在ホームページを作成中ですが、なかなか思うように行かず、四苦八苦しています。

くるま旅くらしの健康に関連して、食事や眠りの他に、私が考える3本柱の一つとして、トイレ(排泄)の問題があります。ここで言うトイレには二つの意味があって、その一はハードとしての使われるトイレと、もう一つはトイレを使う人間サイドのあり方ということです。

最初のハードの面については、既述した「旅車のマナーについて」の中で取り扱いについて簡単に触れていますが、カセットトイレであれ、ポータブルトイレであれ、使用後は早めに処理をして、その際は洗浄水をキチンと流して、迷惑をかけないことが肝要です。

問題は、ハードのことではなく、言うなれば「いかに快便を引き出すか」という、生き物としての人間サイドのことでありましょう。旅くらしという、毎日が不慣れで未知の環境では、快便の問題は、睡眠とあわせてなかなか思うようにはならないというのが、多くの方の現実ではないかと思います。気を使えば使うほど快便とは反対の方向へことが行ってしまって、便秘となるようなことが、あちこちで起こっているような気がします。

私の考え方では、健康のバロメーターとしての3本柱の中で、最重要がこの「快便」だと思っています。「初めに快便ありき」と思うのです。全ての物事において、アウトプットは、インプットのあり方によって決まるものであり、いい加減な食事やいい加減な眠りでは決して快便はもたらされないというのが私の考えです。別の言い方をすれば、便秘に悩むのは、インプットの仕方が不適切だからであり、食事のあり方に問題があるからでありましょう。不眠もまたこれらの現象に深く係わっているような気がします。私は医者ではなく、医学の知識も乏しいのですが、自分自身の長年の健康管理の経験からは、体調を維持するに当っての「快便」の重要さは不動の真理だと思っています。

一般に女性の方に便秘が多いと聞きますが、それは美容への神経を使うことやそれに関連したダイエットなど、食事の貧弱さが大きく関与しているような気がします。不自然、不適切な食事をしているのを忘れて、薬などに頼って通じを求めるという行為は、あまり賢いとは思われません。便秘に悩む人の殆どは、食べ方が間違っているからだというのが持論ですが、例えば家内などもいくら言っても私と同じ食事の仕方はできないというわけで、今でも時々便秘に悩まされているようです。

女性のことはともかく、旅くらしでは外部のトイレを使う(小用の方は車のトイレでOKでも、大の方は外部に依存するのが普通だと思います)ことが多くなりますので、いうなれば毎日使うトイレが変わるということになり兼ねないわけで、何だか落ち着かない気分となるのは否めません。何といっても出るものが出ないと、これは必要以上の不安に囚われることになります。1日ならまだしも2日も3日もとなりますと、心配が増して旅どころではなくなってしまいます。

然らばどう対応すれば良いのかということですが、私の場合は、次のようなことを守るように努めています。

⑴先ず、うまい・まずい、好き・嫌いという食事へのわがままを捨て去り、捨てた後で、ほんの少し本物のうまさを拾う。

何といっても基本は、最初に快便があり、そのために何をどう食べるかが決まるという考え方を定着させることが大切と考えます。何を食べたいかを決め、その後でどう出すかを考えても、それは不可能に近いのではないかと私は考えます。先に述べたようにアウトプットはインプットによって決まるからです。正しいインプットをすれば正しいアウトプットが結果されるのです。人間の身体は別なのだなどと思ったらとんでもない間違いになります。

遺伝体質というのがあるらしいですが、思うに、身体の体調を左右させているのは、圧倒的に不断の食べ物に関するインプットとアウトプットの関係ではないでしょうか。例えば癌などというのも、体質よりは不断の食生活がそれを誘引する最大の原因となっているように思えるのです。この主張は、医学的に実証されているものなのかどうかよくわかりませんので、あまり大きい声では言えないことなのかもしれませんが、人間を65年以上もやってきた自分の経験と勘をもってすれば、身体を作っているのは、食事以外にはないように思えるのです。

前置きはこのくらいにして、とにかくアウトプットを前提に食事を考えるとしたら、先ず心がまえとして大切なのは、うまいとかまずいという嗜好に関する自分のわがままを封じ込める必要があると思います。最良の方法は、何を食べてもうまいと感ずることだと思いますが、飢饉に遭遇した古(いにしえ)の人びとのような食に対する感謝の気持ちのない現代人には、これは大変難しいことかもしれません。生理的に不適合の食べ物は別として、本来は何でもうまいと感じながら食べるのが自然人の感覚なのではないでしょうか。今は、特に日本人は飽食の中で、うまいとかまずいとか天に逆らうようなご託を並べて、それが恰(あたか)も正論のように勘違いしている輩が多いように思いますが、飽食の結果は、生活習慣病というザマです。斯く言う私も糖尿病患者であり、真に慙愧(ざんき)に堪えません。自分に対する痛切な反省から、私は現在の自分の食生活に気づいたのであり、何でもうまいという食べ方を会得することができたのだと思っています。

ちょっぴり本物のうまさを拾うと書きましたのは、何でもうまいと感じても、やはり本物のうまさという奴が厳然と存在するものです。それもなくなってしまったら、やはり寂しい話となります。ですから、本物のうまさというのは、たくさんではなくほんのチョッピリでいいから、深く、深く味わうという心がけが大切だと思うのです。

(以下は明日に続きます)

字数制限があるため、毎度2回に分けて書かねばならず、読みにくいと思いますがご容赦あれ。

 

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