Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

○○式教育法

2020年10月19日 | Weblog
○○式教育法というものが、時々、世の中に流行します。

しかし、色々な問題が、その提唱者に起こったり、それを導入した企業に起こったりしています。

思うのは、教育は、そう簡単なものではないということです。

何せ、紀元前に孔子が提唱したことも、ブッダが提唱したことも、イエスキリストが提唱したことも、なかなか人間は守ることができないのですから。

私は、人間学を深く学んでいくことが王道だと考えています。

How toの教育は、やはり浅いので、カンフル注射になって一時的に上手くいったように見えても、結局は、その人間の未熟さによって崩壊していくのです。

浅いものはわかりやすく、やりやすいと思います。

深いものはわかりにくくて、やりにくい。

しかし、正しい道は、険しい道なのだと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「大説」の滅びた時代に

2020年10月19日 | Weblog
自殺者が後を絶ちません。どんな理由かはわかりませんが、まずはご冥福をお祈りします。

「赤い公園」というバンドのライブ映像をYouTubeで見ました。熱気溢れる素晴らしい世界を生み出していました。

こうした人たちは、少し静かな時間が来ると、ふと「もういいかな。」と思ってしまうような気もします。強い光を浴び続けていると、いつの間にか、影も濃くなってしまい、その陰に飲み込まれてしまうのかもしれません。

吉田松陰は、「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」と言いました。

生死は問題ではないのです。ただし、この言葉は、あくまでも天下国家を考えた上での生死です。 

かつては、「大説」という言葉がありました。「大説」というのは、君子(徳のある立派な人間)が、国家や政治に対する志を述べたもののことです。

それに対して「小説」は、日常の出来事に関する意見・主張や噂話など、虚構・空想の話を書いたものです。

「大説」は死語と化しています。私たちは、そんな言葉があったことさえ忘れ果てています。哀しいことに、私たちは、「小説」しか知らない人生を生きているのです。

自殺しないためには、二度とない人生の意義と、命の連続性について、心から知っておく必要があるのかもしれません。また、常に未来を強く思い描く力が必要なのかもしれません。

それが志を立てるということなのだと私は思います。

それでも、死の誘いから逃れるのは、死に魅入られた人にとっては、ほとんど不可能なことなのかもしれません。

きっと私にはどうすることも出来ないのでしょう。

しかし、少しでもそこに可能性があれば、私は未来への可能性の芽を育むことに力を注いでみようと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする