『学ぶということ』より 考える方法
家族形態の違いが「考える」ことに影響を及ばす
日本の社会は今、劇的に変わろうとしています。どのように変わろうとしているのでしょうか。日本が開国して明治元年から数えて一五〇年になりますが、江戸時代までの社会と、開国以後の社会ではかなり違いますし、また、戦後、アメリカ的なライフースタイルが入り込んできてからは、考えるということ自体の目的がまったく違ってしまいました。
何のために考えるのか。それは先ほど言いました。「自分にとって何が一番得なのか」を考えることです。しかし大昔からそうだったわけではありません。
第一、「自分にとって」と考えること自体が、私たちが明治以後、西洋的な考え方を取り入れたことの証拠なのです。江戸時代までの考え方には、「自分にとって」という思考はなかったからです。
エマニュエル・トッドというフランスの家族人類学者がいます。彼は次のようなことを言っています。
西洋、なかでも英米やフランスといった国と日本はいろいろ違うのだけれど、もっとも根本的な違いは、家族形態の違いだ。家族形態の違いが、現在の私たちの「考える」ことにまで影響を及ぼしているのだと。
つまり、こういうことです。
イギリス、アメリカ、フランスを中心とした国の家族形態は「核家族」です。お父さん、お母さん、子どもの組み合わせが家族の最小にして最大の単位を形づくっています。子どもは大きくなって独立した生計を営むようになると親元を離れ、結婚して新しい家庭をつくる。成人した未婚の子どもでもあまり親と一緒に住むことはない。子どもが独立した時点で、親子はそれぞれの人格を認め合って互いに干渉しなくなる。そんな家族形態が、核家族というものです。
それに対し、日本、韓国、ドイツ、スウェーデンといった国の家族形態は「直系家族」といいます。これは、子どもが成長して生計を立てられるようになっても、親はそのうちの一人の子どもと同居するという家族形態です。結婚して子どもができても、おじいさん、おばあさんと同じ屋根の下に住む。他の子供は結婚すると家から出ていきます。こういうタイプの「親こナ・孫」の縦型の家族が「直系家族」と呼ばれる形態です。
日本には「二世帯住宅」というものがありますね。これは、もともと直系家族だったものが核家族的に変化したけれど、完全な核家族にはなれないということで、便宜的に発明された住居形態です。したがって、フランスやイギリスには、そもそも二世帯住宅という言葉がないし、そういう住居もない。そんな考え方はないからです。子どもが独立したら、同じ町に住むことはあっても、隣には住まないし、ましてや同じ屋根の下には住まないのです。
その代わり、独立したらもう、お父さん、お母さんに頼ることはありません。経済的に親がすごい金持ちでも子どもは貧乏なんてこともあるし、その反対もあります。いずれにしろ、独立以後は、完全な自由を得る代わりに、すべて自分で決めたことの責任は自分一人で引き受けなければいけない、一面では厳しい社会です。
ところで、戦後、日本は、そういうタイプの核家族的社会へ移行すべきだと考えたのですが、あくまで意識のレベルにとどまって、無意識のレベルには達していません。無意識ではあいかわらず直系家族のままなのです。
ただ、社会の表面の部分では、核家族への移行は始まっているし、移行は必然的なものです。というのも、直系家族型の家族形態とは対立するけれど、核家族型の家族形態とは相性のいい社会システムが戦後、アメリカニズムとともに日本の社会に入ってきたからです。
それは英米型の「マネー資本主義」です。このマネー資本主義のすごいところは、国境を軽く越えていくということです。世界通貨であるドル(マネー)を持っていれば、どんな辺境にいってもドルでものが買えます。これが現在、マネー資本主義とかグローバル資本主義と呼ばれるもので、世界中のモノを買い占めては市場を混乱させ、売り抜けては大儲けしているのです。
その結果、それぞれの国が固有の家族形態と文化を持っていても、このマネー資本主義が入り込んでくると、どんどん均一的な方向に変化していきます。最終的には、世界中がマネー資本主義と最も相性のいい家族形態、つまり核家族形態に近づいてくることになるのです。
ところが、意識のレベルにおいては、核家族とマネー資本主義で世界中が支配されはするのですが、無意識のレベルとなると、そうはいかない。というのも、長い間、それぞれの国特有の家族類型でくらしてきたため、個々人の考え方を超えた集団的なレベルでの考え方がその特有の家族類型の影響を受けて固定してしまっているからです。そのため、表面のレベルでは核家族類型の考え方を受け入れても、無意識のレベルでは前の家族類型の考え方が強く残っていますから、この二つの間で矛盾が生じ、軋轢が起こることになるのです。
以上が、エマニュエル・トッドの言っていることです。
「考える」とは答えのないことについて考えること
日本を例にとって考えてみましょう。日本は直系家族類型です。あるいは少し前までは直系家族でした。そのため、この直系家族の考え方、メンタリティーが強く残っていて、私たちの無意識を規定しています。
どんなふうに規定しているかというと、一つは、「自分の頭で考える」ということをしないということです。
直系家族の特徴は、自分の頭で考えなくとも、誰か他の人が考えてくれるという点にありました。お父さん、あるいはお母さんの言う通りにしていれば、それで良かったのです。「この学校があなたに一番向いているから行きなさい」「この会社がいいから入りなさい」「この人と結婚するのが一番いいから結婚しなさい」と、そんなふうに、お父さん、お母さんが人生の大事なことまで全部決めてくれたのです。そういう社会が日本にもかつてはあったし、あるいは、今もあい変わらずあるかもしれません。
これに対して、核家族類型の国というのは、親と子どもの関係が権威主義的ではなく、切れていますから、親が子どもにいちいちああしろこうしろと命ずることはありません。そのため、子どもは自分を守るために自分の頭で考えることを学ばざるを得ないのです。こうした核家族類型の思考法が産んだ物語の典型が『ロビンソン・クルーソー』です。
ロビンソン・クルーソーは、無人島で誰も助けてくれない状況でサバイバルするために、徹底的に自分の頭で考えて行動する他はありません。核家族類型の子どもと同じ立場なのです。
このロビンソン・クルーソーの物語を読んでわかるのは、何をどうすれば一番自分に得になるかを日々考えるということが考えることの本質だということです。
言い換えると、すべて自分の責任で、リスク(危険=もし失敗したらどれほど損するか)とベネフィット(便益=もし成功したらどれくらい得するか)をはかりにかけて、最小リスクの最大ベネフィットを得る方法を考えるということです。これがまさに核家族類型の産んだ考え方、マネー資本主義もそこから生まれたのですが、マネー資本主義の浸透とともに、いまや、この考え方が世界水準になりつつあるのです。
ところが、長い間、直系家族でやってきた日本人は、この「自分の頭で考える」ということ、つまり、リスクとベネフィットをはかりにかけながら短期的ではなく長期的にみて何が二番自分にとって得になるかを考えることが一番苦手なのです。それは当然です。「自分の頭で考えるな」と親や先生から言われ、自分の頭で考えたくても、その方法を教えてもらっていないからです。ですから、日本で親や先生から「自分の頭で考えろ」と言われたら、「でも、自分の頭で考える方法をならっていないからできません」と答えていいのです。だって、実際に教えられていないのだから、仕方ないじゃないですか?
そうなんです。「考えろ!」と言われたって、「どうやって考えたらいいの?」と思いませんか? そこが一番の問題です。
日本の教育では、残念ながらあまり考える方法を教えません(この桐光学園は違うと思いますが)。それは、日本の学校で教えるのは試験勉強が主だからです。試験には必ず正解があります。日本では、正解がない試験問題をつくってはいけないことになっています。例えば正解のない入試問題をつくったら、まず予備校や高校から文句が出ますし、文部科学省の指導が入ります。そんなですから、考える方法を教えたりするよりも簡単に正解に到達できる方法を教えて、覚えさせたほうがいいということになります。
しかし、本当に「考える」ということは、答えがないことについて考えることなのです。ところが、日本の学校では、覚えることは教えるけれど、考える方法については教えないのです。
皆さん、「試験があって大変だな」と思っているでしょう? でも、実をいうと、試験なんて楽なもんですよ。答えが決まっているからです。答えのない試験はありません。必ず正解がある。それを考えればいい。こんな楽なことはありません。
でも、これから皆さんが学校を卒業し社会へ出ると、正解のないことを考えなければいけません。社会は正解を用意してくれてはいないからです。
それゆえ、正解のないことを自分の頭で考えるには、「考える方法」を身につけることが第一なのです。
家族形態の違いが「考える」ことに影響を及ばす
日本の社会は今、劇的に変わろうとしています。どのように変わろうとしているのでしょうか。日本が開国して明治元年から数えて一五〇年になりますが、江戸時代までの社会と、開国以後の社会ではかなり違いますし、また、戦後、アメリカ的なライフースタイルが入り込んできてからは、考えるということ自体の目的がまったく違ってしまいました。
何のために考えるのか。それは先ほど言いました。「自分にとって何が一番得なのか」を考えることです。しかし大昔からそうだったわけではありません。
第一、「自分にとって」と考えること自体が、私たちが明治以後、西洋的な考え方を取り入れたことの証拠なのです。江戸時代までの考え方には、「自分にとって」という思考はなかったからです。
エマニュエル・トッドというフランスの家族人類学者がいます。彼は次のようなことを言っています。
西洋、なかでも英米やフランスといった国と日本はいろいろ違うのだけれど、もっとも根本的な違いは、家族形態の違いだ。家族形態の違いが、現在の私たちの「考える」ことにまで影響を及ぼしているのだと。
つまり、こういうことです。
イギリス、アメリカ、フランスを中心とした国の家族形態は「核家族」です。お父さん、お母さん、子どもの組み合わせが家族の最小にして最大の単位を形づくっています。子どもは大きくなって独立した生計を営むようになると親元を離れ、結婚して新しい家庭をつくる。成人した未婚の子どもでもあまり親と一緒に住むことはない。子どもが独立した時点で、親子はそれぞれの人格を認め合って互いに干渉しなくなる。そんな家族形態が、核家族というものです。
それに対し、日本、韓国、ドイツ、スウェーデンといった国の家族形態は「直系家族」といいます。これは、子どもが成長して生計を立てられるようになっても、親はそのうちの一人の子どもと同居するという家族形態です。結婚して子どもができても、おじいさん、おばあさんと同じ屋根の下に住む。他の子供は結婚すると家から出ていきます。こういうタイプの「親こナ・孫」の縦型の家族が「直系家族」と呼ばれる形態です。
日本には「二世帯住宅」というものがありますね。これは、もともと直系家族だったものが核家族的に変化したけれど、完全な核家族にはなれないということで、便宜的に発明された住居形態です。したがって、フランスやイギリスには、そもそも二世帯住宅という言葉がないし、そういう住居もない。そんな考え方はないからです。子どもが独立したら、同じ町に住むことはあっても、隣には住まないし、ましてや同じ屋根の下には住まないのです。
その代わり、独立したらもう、お父さん、お母さんに頼ることはありません。経済的に親がすごい金持ちでも子どもは貧乏なんてこともあるし、その反対もあります。いずれにしろ、独立以後は、完全な自由を得る代わりに、すべて自分で決めたことの責任は自分一人で引き受けなければいけない、一面では厳しい社会です。
ところで、戦後、日本は、そういうタイプの核家族的社会へ移行すべきだと考えたのですが、あくまで意識のレベルにとどまって、無意識のレベルには達していません。無意識ではあいかわらず直系家族のままなのです。
ただ、社会の表面の部分では、核家族への移行は始まっているし、移行は必然的なものです。というのも、直系家族型の家族形態とは対立するけれど、核家族型の家族形態とは相性のいい社会システムが戦後、アメリカニズムとともに日本の社会に入ってきたからです。
それは英米型の「マネー資本主義」です。このマネー資本主義のすごいところは、国境を軽く越えていくということです。世界通貨であるドル(マネー)を持っていれば、どんな辺境にいってもドルでものが買えます。これが現在、マネー資本主義とかグローバル資本主義と呼ばれるもので、世界中のモノを買い占めては市場を混乱させ、売り抜けては大儲けしているのです。
その結果、それぞれの国が固有の家族形態と文化を持っていても、このマネー資本主義が入り込んでくると、どんどん均一的な方向に変化していきます。最終的には、世界中がマネー資本主義と最も相性のいい家族形態、つまり核家族形態に近づいてくることになるのです。
ところが、意識のレベルにおいては、核家族とマネー資本主義で世界中が支配されはするのですが、無意識のレベルとなると、そうはいかない。というのも、長い間、それぞれの国特有の家族類型でくらしてきたため、個々人の考え方を超えた集団的なレベルでの考え方がその特有の家族類型の影響を受けて固定してしまっているからです。そのため、表面のレベルでは核家族類型の考え方を受け入れても、無意識のレベルでは前の家族類型の考え方が強く残っていますから、この二つの間で矛盾が生じ、軋轢が起こることになるのです。
以上が、エマニュエル・トッドの言っていることです。
「考える」とは答えのないことについて考えること
日本を例にとって考えてみましょう。日本は直系家族類型です。あるいは少し前までは直系家族でした。そのため、この直系家族の考え方、メンタリティーが強く残っていて、私たちの無意識を規定しています。
どんなふうに規定しているかというと、一つは、「自分の頭で考える」ということをしないということです。
直系家族の特徴は、自分の頭で考えなくとも、誰か他の人が考えてくれるという点にありました。お父さん、あるいはお母さんの言う通りにしていれば、それで良かったのです。「この学校があなたに一番向いているから行きなさい」「この会社がいいから入りなさい」「この人と結婚するのが一番いいから結婚しなさい」と、そんなふうに、お父さん、お母さんが人生の大事なことまで全部決めてくれたのです。そういう社会が日本にもかつてはあったし、あるいは、今もあい変わらずあるかもしれません。
これに対して、核家族類型の国というのは、親と子どもの関係が権威主義的ではなく、切れていますから、親が子どもにいちいちああしろこうしろと命ずることはありません。そのため、子どもは自分を守るために自分の頭で考えることを学ばざるを得ないのです。こうした核家族類型の思考法が産んだ物語の典型が『ロビンソン・クルーソー』です。
ロビンソン・クルーソーは、無人島で誰も助けてくれない状況でサバイバルするために、徹底的に自分の頭で考えて行動する他はありません。核家族類型の子どもと同じ立場なのです。
このロビンソン・クルーソーの物語を読んでわかるのは、何をどうすれば一番自分に得になるかを日々考えるということが考えることの本質だということです。
言い換えると、すべて自分の責任で、リスク(危険=もし失敗したらどれほど損するか)とベネフィット(便益=もし成功したらどれくらい得するか)をはかりにかけて、最小リスクの最大ベネフィットを得る方法を考えるということです。これがまさに核家族類型の産んだ考え方、マネー資本主義もそこから生まれたのですが、マネー資本主義の浸透とともに、いまや、この考え方が世界水準になりつつあるのです。
ところが、長い間、直系家族でやってきた日本人は、この「自分の頭で考える」ということ、つまり、リスクとベネフィットをはかりにかけながら短期的ではなく長期的にみて何が二番自分にとって得になるかを考えることが一番苦手なのです。それは当然です。「自分の頭で考えるな」と親や先生から言われ、自分の頭で考えたくても、その方法を教えてもらっていないからです。ですから、日本で親や先生から「自分の頭で考えろ」と言われたら、「でも、自分の頭で考える方法をならっていないからできません」と答えていいのです。だって、実際に教えられていないのだから、仕方ないじゃないですか?
そうなんです。「考えろ!」と言われたって、「どうやって考えたらいいの?」と思いませんか? そこが一番の問題です。
日本の教育では、残念ながらあまり考える方法を教えません(この桐光学園は違うと思いますが)。それは、日本の学校で教えるのは試験勉強が主だからです。試験には必ず正解があります。日本では、正解がない試験問題をつくってはいけないことになっています。例えば正解のない入試問題をつくったら、まず予備校や高校から文句が出ますし、文部科学省の指導が入ります。そんなですから、考える方法を教えたりするよりも簡単に正解に到達できる方法を教えて、覚えさせたほうがいいということになります。
しかし、本当に「考える」ということは、答えがないことについて考えることなのです。ところが、日本の学校では、覚えることは教えるけれど、考える方法については教えないのです。
皆さん、「試験があって大変だな」と思っているでしょう? でも、実をいうと、試験なんて楽なもんですよ。答えが決まっているからです。答えのない試験はありません。必ず正解がある。それを考えればいい。こんな楽なことはありません。
でも、これから皆さんが学校を卒業し社会へ出ると、正解のないことを考えなければいけません。社会は正解を用意してくれてはいないからです。
それゆえ、正解のないことを自分の頭で考えるには、「考える方法」を身につけることが第一なのです。