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イスラム世界における民族主義を超える試み

『文字と組織の世界史』より 「ネイション・ステイト」と「ナショナリズム」を克服する試み--「ヨーロッパ統一」の実験とイスラム世界

イスラム世界における民族主義を超える試み

 西欧圏における、領域的主権国家と民族主義としてのナショナリズムを克服する試みとしてのEUの形成も、そして国際連合の存在も、基本的には西欧圏の枠組みのなかから生じた試みである。国家と階級の棄揚によって新たな世界秩序をめざした共産主義のインターナショナリズムが崩壊した後、新しい世界秩序を求める道はこれしかないかにみえる。

 しかし一方で、民族主義をこえて新たな世界秩序をめざす試みが、非西欧の文化世界に立脚した価値体系からも生み出されようとしている。

 普遍的なイスラム主義の源泉であるイスラムにおいては、人間は信心者としてのムスリムと、不信心者としての異教徒しかない。またその世界も、ムスリムの支配下にあって神の教えの十全に行われる「イスラムの家」と、まだムスリムの支配下に入らず多くの不信心者による共同体が相争っている「戦争の家」からなる。

 「イスラムの家」は本来、預言者ムハンマド在世中は預言者ム(ンマドの下にあり、その没後は全世界の信徒による共同体「ウンマ」の唯一のリーダーにして、「イスラムの家」における唯一の支配者たるべきカリフの下にある、単一の政治体であるべきものとされる。

 歴史的現実において、「イスラムの家」の統一は早くも八世紀中葉には崩れ始め、以来、「イスラムの家」の再統一が果たされることは遂になかった。が、ムスリムは同信者として民族・言語・人種等々の相違を超えて同胞であるべきだという、「『イスラムの家』は一つ」の理念は残った。それが、「西洋の衝撃」にさらされ始めた近代において、これに対抗すべきパン・イスラム主義の運動を導き出したのである。

パン・イスラム主義と「イスラム国」運動

 このパン・イスラム主義は、無神論者であるソ連軍のアフガニスタン侵攻に対抗するための有志者たちを国籍・地域を問わず各地から参集させ、抵抗運動に加わらせる原動力となった。そしてソ連軍がアフガニスタンから撤退した後も、その抵抗運動で出会い結ばれた同志たちのネットワークは残った。

 それを活用してグローバルに反米テロを敢行したのが、ビン・ラディンの指導するアル・カーイダであった。そして、アル・カーイダの影響下で各地にイスラム主義の戦闘者集団が生まれた。

 その一つこそが、イラク戦争で液状化したイラクに生まれ、「アラブの春」後に内戦状態となったシリアヘと進出し、二〇一五年六月、イスラム暦第九月の断食月ラマダーン月の到来を期して、カリフを名のり国家樹立を宣言した、イブラヒム・アル・バクダーディーの「イスラム国(ダウラトゥル・イスラーミーヤ)」であった。

 カリフとしては四大正統カリフ初代の名にちなみアブー・バクルを称したバクダーディーは、イラクに進出して北部をおさえ、一時はシリアとイラクにまたがる広大な支配領域を実現した。バクダーディーが唱えたのは、第一次世界大戦中にオスマン帝国の解体をめざして異教徒の欧州列強が定めたサイクス・ピコ協定に基づき、中東に引かれた国境の無効化と、カリフ時代の再興であった。

 その後は米国と、シリアに軍事基地を有し同国における利権喪失をおそれるロシアに加え、スンナ派過激主義の拡大をおそれるシーア派のイランの参与の下、「イスラム国」は次第に支配領域を失い、二〇一八年初めにはイラクとシリアにおける支配空間は殆ど失われたとされる。

 しかし、この「イスラム国」運動は地域と国境をこえイエメン、リビア、そしてエジプト領のシナイ半島にも支持者をえて拠点を築いている。彼らはインターネットを通じて全世界のムスリムに呼びかけ、欧米諸国にあって格差と差別に不満を抱くムスリムたちに呼応者を見いだし、テロが頻発している。

 甚だ過激な形をとっているが、「イスラム国」運動もまた、異文化に起源をもつ普遍主義に基づく、領域的主権国家と民族主義の克服をめざす運動とはいえよう。
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