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デカルトの「情念」

『デカルト』より⇒サラリーマン時代で一番、精神が不安定なときにデカルトの『情念論』で救われた

感覚が明証的であるのは見かけ上のことだから、懐疑によってこれを棄却しようとするのはよいとしても、常識的に考えれば、日々の生活のなかで明証的と思われるものは揺るぎようがない。実際に、私が炉端近くのここにいて、手元にはこの紙を持ち、この手は自分のものだということを否定するのは、狂気の沙汰にちがいない。私は自分の身体を介して、自分の日常生活を構成する馴染みの事物と接点を持つ。と同時に、〔それらとの関わりで言えば〕唯一の行為者である。このように、毎日を生きていくうえで〔明証的と思われるものをいったん懐疑によって棄却する〕省察的熟考という修練が課されることはまったくない。しかしデカルトは、軍役から退きたいと打ち明ける友人に、平時だって有事と同じく危険は多いのだから、軍役から退くようなことはするな、と助言している--「私たちは数多くの避けがたき危険のなかで生きているのですから、賢明さをもってしても戦争という危険に身を晒すことを禁ずることはできないように思われます」。〔「有事には有事のように(非常事だからやむをえない)」というフランスの諺にあるように〕平時でも有事のようにしなければならないというわけである。というのも、さまざまな事物をそれらの緊急性の度合いに応じて、また、精神と身体の結合体である私たちにとってどの程度、有害かに応じて評定することは、つねひごろの心がまえとして大事だから。

そして感情と情念の役割は、「自然によって私たちに有用と定められているものを、魂が意志する」ように仕向けることである。そのかぎりで、それらが魂の〔受動的な在り方に他ならない〕感情にして情念であるというのは間接的なことでしかない。つまり、〔物体的事物だけから構成される〕自然のうちには、〔人間の〕身体〔という物体〕の求めに応えるべく精神〔のさまざまな能力〕を働かせる策略のようなものがある、ということである。〔デカルトが『情念論』のなかでそう指摘するように]もし驚きの情念が最初に[私たちの精神のうちに]沸き起こるなら、それは、魂と身体の合一体である私たちにとって〔驚きの対象となった〕事物の有用さないし有害さが測られる前に、まずこの情念によって私たちが当の事物のありのままの姿に直面させられるからである。そしてこの驚きの情念から、私たちに害悪を及ぼすものに対する憎しみの情念と、私たちに適合するものに対する愛の情念が生ずる。さらにここでは、健康に良いか悪いかを考慮するだけでなく--ただしこの基準は驚きの情念以外のすべての情念の発生理由でもあるー、時間の流れとともに変化する情念のことも挙げなければならない。つまり、将来に関する欲望という情念と、その反対に現在のことに関する喜びと悲しみという情念である。情念は、そのおかげで暮らしが生き生きしたものになるかぎりで、〔やはり精神内に生ずるが、それとは別に類型化される〕認識作用に関連づけられない時、すべて良いものとされるが、いずれも行き過ぎは免れない。つまり、その対象の〔本来の〕価値を過大に評価することで歪めてしまう力を持っているのである。そのため私たちは〔歪められた価値判断に基づいて〕、その情念が対象とする事物を「適度を超えた熱心さと心配とをもって」追い求めたり、逆に遠ざけたりしてしまうのだ。

デカルトによる「完全な道徳」とは、どのような情念であれそれを感ずることから喜びを一貫して引き出すにはどうすればよいか、自然学上の諸原理から日常生活に関わる諸規則を導き出すにはどうすればよいか、それに答えようとするものである。実際に、魂と身体からなる合一体の仕組みを明らかにするのは自然学に他ならない。自然学こそが、身体のさまざまな運動がどのように脳のなかの最小部位の一つである松果腺に受け止められ、ついで魂に伝えられ、今度はこの魂が松果腺を介して身体に運動を与えるのか、それを教えてくれる。と同時に、生理上のさまざまな機能は、血液が静脈と動脈を循環することをもって説明される。脳とそれ以外の器官、筋肉と神経に血液が行き渡るのは、血液がまさしく循環しているからである。動物精気というのは、すでにベーコンが使っている術語であり、「[身体の]熱によって〔その密度が〕希薄になった、血液のなかで最も活発で微細な部斑」のことであるか、そのおかげで精神と身体のあいだの相互作用は保たれる。したがって、動物精気の状態に変化が生ずれば、魂にも影響が及ぶ。動物精気が溢れんばかりであれば、高邁という情念が生ずるし、それに抑制がかかれば、欲望という情念が生ずるのである。もし情念が、身体に生じたさまざまな変調を原因として身体のほうではなく魂のほうに生ずる反動のことなら、魂もまた、「身体のあらゆる部位と結合している」かぎりで、その作用を身体のほうに及ぼす。その際に中継地の役割を果たすのが松果腺である。この松果腺の機能を強調するにせよ、〔たとえばスピノザ『エチカ』第五部におけるょうに〕皮肉るにせよ、これまでそうされるばかりで、デカルトが脳を重視していたことそれ自体の重要性は見過ごされてきた。脳は、〔身体器官に生ずる〕感覚を〔精神の受け止める〕情報に転換し、〔精神の領分である〕意志作用を〔身体上の〕さまざまな運動に変化することができる。つまりこの脳においてこそ、身体〔物体〕的なものと精神的なものの相互作用が成立するのだ。

私たちは、この身体的なものと心理的なもののあいだの往復運動の仕組みを認識することで、これを意志的にではなく間接的に変更することができるようになる。つまり、或る情念を[引き起こすメカニズムを]使って別の情念を引き起こすのである。魂と身体の合一体の仕組みを言わば挺子にこの仕組みそのものを変えること、この仕組みに従いながらこれに逆らうこと、これがここでの課題である。もし「おのおのの意志作用が自然によって〔松果〕腺の或る運動に結合されている」なら、「工夫や習性によって腺の別の運動に結合されうる」。〔人間の意志だけで情念は変えうるという〕主意主義的な考えは、幻想であると同時に無益である。情念は、〔これを統御するために〕ああだこうだと議論するよりは、訓練によって条件づけられるべきものである。情念に動かされる人間は、〔心身二元論の棒組みで言えば純粋な〕精神というよりは、むしろ自動機械のようなものであると言えるだけに、習慣づけは意志の働きかけよりも効果的なのである。そしてこのことをもってすれば、一目惚れの不思議まで説明できるようになる。デカルトは小さい時に斜視の少女に恋心を抱き、その後もこのような女性に強い魅力を感じた。

彼はこのことを、〔精神と身体のあいだに〕生じた最初の条件づけ〔心理学において、特定の条件反射や条件反応を起こすように人間や動物を訓練すること〕はどのようなものか、という観点から説明する。というのも「私たちがひとたび或る身体の行動を或る思考と結びつけると、その後、両者のうち一方が私たちに現れれば、もう一方も必ず現れる」から。こうして感情を制御することは、〔一六四九年刊行の〕『情念論』のなかで説明されているように、過去の条件づけの解除と新たな条件づけによってなされる。しかしこの著作は、デカルト哲学が進展していったその先に産み落とされるものの一つでしかない。デカルト哲学はそれ以外にも〔一六三七年刊行の『方法序説』の補論である]『屈折光学』であるとか『幾何学』のほうにも進展していくからだ。つまり、デカルト哲学の究極の真理はこの『情念論』のうちに見出される、などというわけではないのである。むしろ、その本質的なところはすでに〔『方法序説』や『省察』などにおいて]定式化され公表されており、その後の作業として残っているのは、この定義済みの諸原理から演繹されるところを実現していくことだけである。それでも『情念論』という著作には、それ以前の道徳論が重視してきたことから軸足をずらすという特徴が認められる。

たとえば、さまざまな情念に対する魂の戦いといった主題は、実際のところもはや問題にはなっていない。そうではなく、〔プラトンにおけるように理性的、気概的、欲望的の三部分に区別されず、単一のものとして捉えられた〕魂が自分自身と交える戦いが問題となっている。情念の激しさに直面した魂は、身体が欲しがっているものを我慢しようと自分に言い聞かせながらも、それに突き動かされて身体の言いなりになってしまう。そうすると魂に実際にできることは、嵐〔のょうに渦巻く情念〕が過ぎ去るのを待つヽ血液の流れによって掻き立てられた情動が鎮まるのを待つ、そして、情念の激しさはその対象ではなく想像力に起因するものであることを思い出す、以上の三点に尽きることになる。情念が想像力によって掻き立てられ、そして引っ張られるかぎり、当の情念が盲目的なものになるのは避け難い。というのも、この想像力は「精神を欺こうとする傾向があり、情念の対象を表象のとおりだと信じさせる理由を実際よりもはるかに強く見せ、信じさせない理由をはるかに弱く見せる傾向がある」から。もし知性が現実世界の本当の姿を表象するものなら、想像力は、そうあって欲しいという現実に関する表象になるだろう。魂をして自分のことを騙し、そして喚かせるのは、この想像力なのである。〔プルーストの大著『失われた時を求めて』のなかで高級娼婦オデットに恋をし、紆余曲折の果てに彼女と結婚することになったュダヤ人の仲買人スワンか〕「僕の生涯の何年かを無駄にしてしまったなんて、死にたいと思ったなんて、一番大きな恋をしてしまったなんて、僕を楽しませもしなければ、僕の趣味にも合わなかった女のために!」と述べていたように。

しかし或る決まった考え方が、省察的熟考というタイプの修練のおかげで別様に考える習慣に置き換えられたのと同じく、理性は実生活において、想像力が生み出すまやかしを挫き、想像力の向かう対象をきちんと評定することができるだろう。まさしくこの「魂の習慣」こそが、たとえ〔その実現のためには〕身体の仕組みと折り合いをつける必要があるとしても、徳と呼ばれるのである。デカルトは述べる、「予め自分の行動について反省する習わしのある人なら、いついかなる場合にも次のことはなしうると思われる」。たとえば、「恐れに囚われた場合には、逃走するよりも抵抗するほうにはるかに大きな安全と名誉とか存することの理由をいろいろ考えて、危険について考えることから努めて頭をそらそうとすることである」。もし或る情念の統御のために、その都度の条件反射よりも「善悪の認識に関する堅い、しっかりした判断」をもってそうするほうが魂の力を証左するとしても、やはり「それらの[情念に]対して備えができていない場合には、いかなる人間的知恵も、それらの運動に抵抗しうるようなものはない」。「こうして生まれつき」怒りに「強く動かされやすい人々は」「熱病の時のように全血液が激高する」のを抑えることができない。発熱しないように熱に強いても無駄だ、ということである。また、ストア派が描くアタラクシア〔激しい感情の動きに左右されない平静不動の精神の在り方〕という状態は絵空事であり、彼らが言う道徳は〔身体を除外した〕純粋な精神に関するものでしかない。ということは、魂と身体の合一という現実に目をつむり、自分のことを考える事物〔っまり精神〕としてしか認識しないかぎりで、或る種の「デカルト哲学」つまり「カルテジアニズム」だとも言える。〔ところで〕もし理性に情念を支配するための力が備わっていると言うなら、それは、この力がそれ自体、受動的なもの、つまり、理性が自分のことについて感ずる情念〔つまり自己感情〕として見なされるかぎりにおいてである。

こうして情念を「御する」時、それは「過度に傾けばそれだけいっそう有益なものになることが往々にしてある」。徳は、情念とその土俵のうえで向き合い、それと同程度の武器で戦う。デカルトは、エピクロス派がストア派のどちらがなのではない。知恵と自由をもって生きるとは、情念のなかでも最強の、つまり徳という情念に従うことである、と主張するかぎりで、デカルトはエピクロス的であると同時にストア的でもあるのだ。
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