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20世紀の歴史 社会主義の終焉

『20世紀の歴史』より

鄧小平「知識を尊重し、人材を尊重し……」一九七七年

 近代化を成し遂げるうえで重要なのは、科学と技術の発展である(中略)。中身のない話をしたって、われわれの近代化の計画にとってなんの得にもならない。知識と訓練された人材がなくてはならない(中略)。いま、科学・技術・教育の分野で、中国は先進国より完全に二十年は遅れをとっているようだ(中略)。日本人は早くも明治維新の時、科学・技術・教育に大変な努力を費やすようになった。明治維新とは、近代化を求める動きのようなもので、新たに登場しつつあった日本のブルジョワ階級が担った。われわれはプロレタリアートである以上、もっと上手くすべきだし、可能である。

一九七〇年代、自国経済が相対的に遅れていることをことさら心配している一つの社会主義国があった。隣国の日本が、資本主義国のなかでもっとも目を見張る成長を遂げていたからにほかならない。中国共産主義は、ソヴィエト共産主義の亜変種として単純にはみなせない。まして、ソヴィエトの衛星国家などではなかった。何しろ、ソ連よりずっと膨大な人口を抱えている国で、ついでに言うと、人口という点ではどこよりも多い国で、中国共産主義は勝利を収めたのだから。中国の人口統計が不確かであることを勘案しても、世界人口の五人に一人が中華人民共和国在住の中国人である(また、東・南東アジアには、かなりの数にのぼる中国人が移住していた)。さらに中国は、他のほとんどの国に比べてずっと民族的に同質で、人口のおよそ九四%が漢民族だっただけでなく、少なくとも二千年間、合間合間で中断されたことはあったものの、単一の政治的単位を形成してきた。もっと重要なのは、その二千年間のほとんど、中華帝国とこうした問題に見識のある中華帝国の住人たちのおそらく大多数が、中国を世界文明の中心かつ模範とみなしてきたということだ。ソ連をはじめ共産党政権が勝利を収めている他の国は一様に、数少ない例外はあるものの、より高度で模範的な文明の中心と比べ、自分たちの文化は後進的で傍流だと思っていた。こうした劣等感は、スターリン時代、電話から航空機に至るまで優れた発明の元はソ連であり、知的にも技術的にも西側に依存していないと耳障りなほどソ連が主張したことに、症状として表れている。

中国は違った。自国の正統的な文明と芸術・書・社会的な価値体系は、他国、とりわけ日本では、発想の源かつ模範として広く認められていると思っていた。この見方はまったく正しかった。他国と比べて中国の人々は、劣等感、それが知的なものであれ文化的なものであれ、また集団であろうと個人であろうと、そういったものと一切無縁であったことは確かである。西洋の帝国主義的拡張に対して中華帝国は態勢が整っていなかったが、自国をわずかでも脅かすような近隣諸国がなかったため、また、火器を導入した結果、辺境地帯で野蛮人を難なく追い払うことができるようになったこともあり、優越感は強まった。中国が技術面で劣っていたことは結果的に軍事的劣勢につながったこともあり、一九世紀にはきわめて明白になった。しかしそれは、技術的・教育的な能力がなかったからではなく、伝統的な中国文明の自己満足と自信によるものだった。そのため、一八六八年の明治維新後に日本人がやったこと、つまり、ヨーロッパを手本として大々的に受容し、「近代化」へ飛び込むというのは、中華帝国には不本意だった。このような近代化は、古くから伝わる文明の守護者である年老いた中華帝国が廃墟と化してはじめて可能かつ実行されるものだった。また、社会革命を通じてのみ可能で実行されるうるものだった。それは同時に、儒教的秩序に対抗する文化的な革命でもあった。   ‘

したがって、中国における共産主義は社会的なものでありつつ民族的--この言葉で話が逸れなければ--なものでもあった。共産主義革命を煽った社会的な火種は、中国人民、はじめは上海・広東・香港といった中・南部沿岸の大都市で働く労働者の極度の貧困と抑圧であった。ここは諸外国による帝国主義的統制を受ける飛び地であり、時には近代産業の飛び地になることもあった。のちに火種となったのは、膨大な国の人口のうち九〇%を占める農民の貧困と抑圧だった。農民をめぐる状況は、都市部と比べてかなり悪かった。都市部では、一人当たりの消費は農村の約二・五倍にのぼっていた。中国における貧困の真の姿は、西側社会の読者にとっては想像しがたい。例えば、共産党が支配権を得た頃(一九五二年のデータ)、平均的な中国人は基本的には一日五百グラムの米や穀物で生活しており、年間に消費する茶の量は○・〇八キログラムに満たなかった。新しい靴一足を買えるのは五年に一度くらいだった。

中国共産主義の民族的要素は、上・中流階級の知識人を通して影響を与えた。二〇世紀に中国で起きたすべての政治運動で指導者になったのは、ほとんどがこの層である。また、民族的要素は中国の民衆に間違いなく広がっていた感情--野蛮な外国人は、かれらと付き合いがあった中国人個人にとっても、国全体にとっても、なんの価値もない--を通しても作用した。T几世紀中葉以降、ありとあらゆる近隣諸国に中国は攻撃され、敗北し、分割され、搾取されていたのだから、こう思い込むのももっともだった。伝統的なイデオロギーを掲げる民衆による反帝国主義運動は、中華帝国が終わりを迎える以前の段階で、すでに馴染みのあるものになっていた。例えば一九〇〇年のいわゆる義和団事件が挙げられる。日本の中国占領に対する抵抗運動により、中国共産党は社会を煽るだけの負け組--一九三〇年代にそうだった--から、中国全人民を率い、代表する党へと姿を変えたことは、ほぼ間違いない。また、中国共産党が貧困層の社会的解放を求めたことで、民族解放と再生というかれらの訴えは、(主に農村部の)民衆にとっていっそう説得力のあるものとなった。

この点で、かれらはライバルの(より歴史のある)国民党に対し、優位だった。国民党は、中華帝国が一九一一年に崩壊した後、散り散りになった軍閥が率いている各地の残骸から、単一の力強い中華民国を再建しようとした。両党の短期的目的は矛盾しているようにみえなかったし、華南でもより発展した地域(そこに中華民国は首都を築いた)に政治基盤をともに置いていた。また指導者層に関しても、一方は商売人寄り、他方は農民や労働者寄りといったことを斟酌しても、教育を受けた似たり寄ったりのエリートで構成されていた。例えば、両者に占める伝統的な地主や学者の紳士階級、つまり中華帝国のエリートたちの割合は実質的に同じだった。ただし、共産党のほうが西洋型の高等教育を受けた指導者が国民党より多かった。また、二つの運動はともに一九〇〇年代の反帝国主義運動から生まれ、一九一九年以降に北京の学生や教師たちのあいだで民族主義が急激に高まって起きた五四運動によって強化された。国民党を率いる孫文は、愛国主義者・民主主義者・社会主義者であり、唯一革命が起きた反帝国主義勢力であるソヴィエト・ロシアに助言と支援を頼った。また、ボリシェヴィキ型の一党独裁が、西欧より自分の任務に相応しい模範であることに気づいていた。実際のところ、このソヴィエトとの関係を通じて共産党は主要勢力になり、公の、国を挙げての運動に統合されるようになった。また、一九二五年の孫文他界後、華北への大規模な北伐に参加することができた。中華民国はこの時の北伐により、それまで支配下に入っていなかった中国の半分の地域にまで影響力を及ぼすようになった。孫文の後継者である蒋介石(一八八七-一九七五)は、一九二七年にロシアと手を切り、主な支持層が都市部に住む少数の労働者階級だった共産党を抑圧した。にもかかわらず、中国全土で完全な支配を確立できなかった。

共産党の関心は、否が応にも主に農村地帯に向かわざるをえず、対国民党では概して、農民が基盤となるゲリラ戦を仕掛けた。しかし、とりわけ内部分裂と混乱、そして中国の現実からモスクワがかけ離れていたため、ほとんど成功しなかった。一九三四年、紅軍は壮烈を極めた「長征」で、北西部の辺鄙な土地まで退却を余儀なくされた。こうした展開を通し、農村戦略をずっと支持してきた毛沢東が、延安の避難先で誰もが認める指導者となった。かといって、共産党の進展について何かしら見通しが立ったわけではなかった。対する国民党は、国のほとんどの地域でその支配を着実に広げた。この状況は一九三七年に日本が侵略する時まで続いた。

それでもしかし、国民党には中国人民に真に訴えかけるものが欠けていた。また、近代化と再生という事業も同時に兼ねていた革命的な計画を放棄していたため、ライバルの共産党に太刀打ちできなかった。近代化・反帝国主義そして民族革命の指導者としては、他にケマル・アタテュルクがいる。蒋介石がアタチュルクのようになることは、まったくなかった。アタテュルクの場合、できて間もないソヴィエト連邦構成共和国と友好関係を結び、自国の共産党を自分の目的のために利用し、そして背を向けた。蒋介石ほど断固とした姿勢ではなかったが。アタテュルク同様、蒋介石も軍をもってはいたが、民族的な忠誠心はなく、ましてや紅軍のような革命を目指す志気など皆無だった。この軍に入隊したのは、社会が崩壊する苦しい時代を生き抜くには軍服と銃が最良の道だと思っている者たちであり、かれらを統率していたのは、毛沢束自身わかっていた通り、こういう時分には「権力は銃口から育つ」こと、利益と富も然りであることを知っている者たちだった。蒋介石は都市部の中産階級からかなり支持されており、おそらく、それを上回る支持を国外に住む豊かな華僑華人から受けていた。しかし、中国人民の九〇%は都市部に住んでおらず、また、ほぼすべての国土は都市ではなかった。こうした人々や土地を支配していたのは、各地の名士や権力者で、兵士を擁する軍閥から名家、国民党が甘受した帝国の権力構造の残骸にまで及ぶ。日本が本気で中国を征服し始めた時、国民党の軍は自分たちの本領が発揮できる沿岸部の諸都市が日本軍によって間髪を置かず制圧されるのを防げなかった。

他の地域は、地主と軍閥による腐敗した支配体制にいつなってもおかしくない状態で、日本軍に抵抗するにしても無力だった。他方共産党は、被占領地域で日本軍への抵抗に人民をうまく動員した。そして一九四九年に中国を掌握し、短期で終わった内戦で国民党勢力を鼻であしらうかのように一掃すると、逃亡中の国民党勢力の残党以外のすべての者にとり、正統な中国政府、つまり、四十年に及ぶ中断を経て帝国の王朝を受け継ぐ真の後継者となった。マルクス・レーニン主義政党としての経験をもとに、巨大な帝国の中央から僻地の村に到るまで、政策を通達できる規律のとれた全国的な組織を形成できたため、なおのこと受容されやすかった。これは、ほとんどの中国人民にとっては、しかるべき帝国であるなら行って然るべきことだった。世界を変えるうえでレーニンのボリシェヴィキの思想が貢献したのは、原理原則というよりは組織という点においてだった。
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20世紀の歴史 家族制度

『20世紀の歴史』より

前章で述べたことを鑑みると、この文化革命に取り組むうえでの一番の手掛かりは、家族と世帯、つまり性別間・世代間の関係の構造にある。ほとんどの社会では、この構造が急激に変化するということは驚くほどなかったが、かといって、それが変わらないということでもなかった。さらに、家族と世帯の構造は、世界中、あるいは少なくともかなり広範囲でパターンが似通っていた。しかし、実際にはその逆が真であるかにみえていたし、それどころか、社会経済や技術的進歩を根拠にして、ユーラシア(地中海両岸を含む)とその他のアフリカとでは大きな違いがあると示唆されてきた。例えば、ユーラシアにおける一夫多妻制は、アラブ世界でとくに特権に恵まれた集団を除いてほぼ存在しなかったか、もしくは消滅したと考えられているが、アフリカでは盛んで、全婚姻の四分の一以上を占めると言われている。

しかしながら、人類の圧倒的多数には、あらゆる違いを超えて共通してみられる特徴が数多くあった。例としては、配偶者が特権的な性的関係を有する結婚という形式があること(「姦通」は世界中で罪として扱われる)、妻に対する夫の優位(「家父長制」)、子どもに対する親の優位、年少者に対する年長者の優位、家族が複数の構成員によって成立していることなどが挙げられる。同居ないし共同生活をしている集団・世帯がずっと多かったとしても、両親と子どもという世帯の基礎単位は、ふつう、どこかしらに存在していたノ皿縁のネットワークや、そこで互いに負っている権利と義務がどのくらいあり、どのくらい複雑なものであるかは関係ない。核家族は、一九・二〇世紀に欧米社会で標準的なモデルになったが、中産階級が成長するにつれ、もしくはなんらかの個人主義が育っていくにつれ、核家族より人数が多い家庭や血縁の単位から生まれたと考えるのは、産業革命以前の社会における社会的協同とその原理の本質が歴史的に誤解されてきたためである。バルカン半島では、スラヴ人のザドルガという家族共同体ともいうべき共産主義的な制度においてですら、「あらゆる女性は狭義の家族、つまり夫と子どものためだけでなく、順番がくれば、共同体の未婚女性や孤児のためにも働いている」。家族と世帯にごのような核があるからといって、もちろん、それが存在する血縁集団や社会全体がその他の点でも似ている、というわけではない。

しかしいずれにせよ、こうした基本を成し、かつ長期にわたって維持されてきたあり方は、二〇世紀後半になると「発展した」欧米諸国において、急速に変わり始めた。とはいえ、欧米諸国の足並みが揃っていたわけではなかった。例えば、イングランドとウェールズ--やや大げさな例であることは認める--では、結婚と離婚の割合は一九三八年に五八対一だったのが、一九八〇年代半ばには二・二対一組になった。さらに、自由奔放な一九六〇年代になると、この傾向はさらに強まった。一九七〇年代末、イングランドとウェールズの結婚と離婚の割合は、一〇〇〇対一〇を超えており、これは一九六一年の離婚数の五倍に相当した。

この傾向は、イギリスに限られたものではなかった。実際のところ、目を見張るような変化が非常にはっきりとした形で起きたのは、カトリック国など、従順を強いる伝統的な道徳が存在する国だった。ペルギー・フランス・オランダでは、補正なしの離婚率(人口千人当たりの年間離婚件数)は、一九七〇年から八五年にかけてだいたい三倍に増えた。ところが、デンマークやノルウェーなど、こうしたことにかけては伝統的に自由な国ですら、同時期に離婚は二倍もしくはほぼ倍になった。なんらかの異変が欧米の結婚生活で起きていたことは明らかだ。一九七〇年代にカリフォルニアのとある婦人科クリニックに通院していた女性たちのあいだでは、「正式な結婚が大幅に減っており、子どもをもつことを希望する数も減り(中略)そしてバイセクシュアルヘの適応を受け容れる方向へと態度が変わって」いた。この変化はさまざまな女性に横断的にみられたが、この時代より前にもあったのか、証拠があるかといわれると、カリフォルニアを含め、その可能性は低い。

ひとり暮らしをしている人(つまり、恋人や配偶者と一緒に暮らしておらず、家族とも同居していない)も急増した。イギリスでは、二〇世紀に入ってから最初の三十数年間、単身世帯は全世帯の約六%でほとんど変わらなかったが、その後、かなり緩やかではあるが増えていった。緩やかといっても、一九六〇-八〇年にかけて一二%から二二%へと増加。一九九一年までには二五%以上を占めるようになった。単身世帯は、多くの欧米の大都市で全世帯のおよそ半分にのばった。反対に、伝統的な欧米の核家族、すなわち両親と子どもから成る世帯は、明らかに減っていた。アメリカの場合、核家族は一九六〇-八〇年の二十年で、全世帯の四四%から二九%へと減少した。T几八〇年代半ばのスウェーデンでは、新生児の母親のほぼ半分が未婚のままで、伝統的な核家族の割合は三七%から二五%へと下がった。一九六〇年の段階で、伝統的な核家族がまだ全世帯の半分もしくはそれ以上だった国ですら(カナダ・西ドイツ・オランダ・イギリス)、いまでは核家族が少数派になっていることは、否定しようがない。

特定のケースでは、核家族は建前としてももはや典型であるとはいえなくなっていた。例えば一九九一年のアメリカでは、全黒人家庭の五八%で独身女性が大黒柱になっており、未婚の母親のもとに生まれた子どもは七〇%にのばった。一九四〇年の時点では、「非白人」家庭のうち、未婚の女性が大黒柱だった家庭はわずか一一・三%、都市においてですら一二・四%だった。一九七〇年ですら、この数値はたった三三%に留まっていた。 家族の危機は、性行動・パートナーとの関係性・生殖を左右している世間の基準がきわめて劇的に変わったことに関連していた。変化には公的なものと私的なものとあり、それぞれ一九六〇・七〇年代に大きな変化が起きた。この時代は、異性愛者(男性ょり自由がずっと少なかった女性)や同性愛者、その他文化的・性的志向が規範と異なる人々にとり、公的な面での解放が進んだ非常にまれな時代だった。一九六〇年代後半のイギリスでは、ほとんどの同性愛が処罰の対象から外された。アメリカでは、イギリスに先立つこと数年前の一九六一年にはじめて、同性愛を合法化する州が現れた(イリノイ州)。ローマ教皇のお膝元のイタリアでは、一九七〇年に離婚が法的に認められるようになり、さらに一九七四年の住民投票でも支持された。避妊具や産児制限についての情報を売ることは一九七一年に合法化され、一九七五年になると、ファシズム政権時代から残っていた古い家族に関する法律は、新しいものに置き換えられた。そして一九七八年、中絶がようやく法で認められるようになり、一九八一年の住民投票でも支持を得た。

寛大な法律ができたことで、それまで許されなかった行為はしやすくなり、こうした問題はいっそう注目されるようになった。しかし、法律は性的規範を緩め、新たな風潮をつくったというよりは、すでに緩んでいる現状を承認するものだった。一九五〇年代のイギリスでは、期間の長短を問わず将来夫となる人と結婚前に同棲したことがある女性はわずか一%だったが、法で規制されていたからこの割合だったわけではない。また、一九八〇年代初頭にはこの割合が二一%になったことも、法のせいではない"法や宗教、慣習的な道徳や因習、そして近隣住民からの評判ゆえに、それまで許されなかったことが、この頃になって認められるようになったのだ。

当然のことながら、こうした傾向は世界中どこでも同じように影響を及ぼしたわけではない。離婚が選択肢として可能な国のすべてで離婚件数は増えていったが(差し当たり、公的な手続きによって婚姻を正式に解消することは、どの国でも同じ意味をもつと仮定する)、それに先立って、結婚というものが安定性を明らかにかなり失っていた国もあった。他方では、一九八〇年代(非共産主義の)ローマーカトリックの国々では、結婚はもっと長く続くものとして残っていた。イベリア半島やイタリアでは、離婚はさらに珍しく、ラテンアメリカではなおそうだった。高い教養を誇りとする国であっても、例えばメキシコでは、結婚と離婚の件数は二二対一、ブラジルでは三三対一(しかしキューバでは二・五対一)だった。韓国では、めまぐるしく変化していた国にしては珍しく、伝統が続いていた(結婚十一件に対し離婚が一件)。一九八〇年代初めの日本になると、フランスの離婚率の四分の一以下で、簡単に離婚するイギリス人・アメリカ人に比べるとかなり低い割合だった。社会主義の国々(当時)ですらソ連を除くと、資本主義の世界ほどではないにせよ、さまざまだった。ソ連はアメリカに次いで、市民が結婚生活を解消したがっている国だった。このように、国によって違いがあることは、驚くようなことではない。違いよりもいっそう興味深かったこと、そしていまでも関心を引くのは、同じような転換が、規模の大小はあっても、「近代化を遂げている」地域全体でみられることだ。そしてその転換がもっとも衝撃的だったのが、大衆文化、より具体的に言うと若者文化の領域である。

仮に、離婚・婚外子の出生・ひとり親世帯(圧倒的にシングルマザーが多い)の増加が男女関係における危機的状況を指しているとするならば、独特で影響力の強い若者文化の興隆は、異なる世代の関係性が大きく変わったことを意味していた。若者とは、思春期(先進国では前の世代に比べて数年早く始まるようになっていたから二十代半ばまで続く自意識過剰な集団のことだが、いまや独立した社会的主体となった。もっとも目覚ましい政治的展開、なかでも一九六〇・七〇年代に起きたのは、それほど政治に関心がもたれていない国々で、レコード産業に富を築かせた年齢層が動員されたことだった。レコード産業が生み出したものの七五-八〇%はロックミュージックで、そのほぼすべてを購入していたのは一四-二五歳の消費者だった。一九六○年代の政治的急進化は、これより規模が小さい文化的な反体制派やさまざまなレッテルが張られた脱落者たちが登場したあとに起きたのだが、こうした若い人々--子どもという地位、それどころか青年(じゅうぶん成熟していない大人)としての地位も拒絶する人々--によって進められた。他方三〇歳以上の世代は、たまに現れる教祖的存在を除けば、すべての人格が否定された。
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20世紀の歴史 女性の進出

『20世紀の歴史』より 社会革命

また、高等教育を受ける女性の数も驚くほど増加した。高等教育はもはや、専門職での雇用につながるもっともわかりやすい入口である。ほとんどの先進国では、第二次世界大戦直後の段階で、。学生数の一五-三〇%が女性だった。ただし、女性解放の狼煙をあげたフィンランドは例外で、その割合は四三%にのぼった。一九六〇年代になっても、女性の割合が半分に届く国は、ヨーロッパにも北米にも見当たらなかった。ブルガリアではほぼ半分に達していた。フィンランドほど知られてはいないが、この国も女性の解放を推進していた(全体的に社会主義国は、比較的早くから女性の学習を支援した)。束ドイツは西ドイツを引き離していた。高等教育以外の女性の支援には地域差があった。しかし、一九八〇年になるとアメリカとカナダ、そして東ドイツとブルガリアを筆頭とする六つの社会主義国では、女性の数は全学生の半分ないしそれ以上になった。また、女性の割合が四〇%に満たなかった国は、当時、ヨーロッパでは四カ国しかなかった(ギリシャ・スイス・トルコーイギリス)。つまり、高等教育はいまや、少年のみならず少女のあいだでも当たり前のものになっていた。

既婚女性--ということはほとんどが母親--が労働市場に大量に参加するようになったことと、高等教育が著しく拡大したことが背景となり、一九六〇年代以降、少なくとも典型的な欧米の先進国ではフェミニズムが見事な復活を遂げた。この二つの展開を抜きにして、女性運動は説明できない。ヨーロッパと北米の多くの国では、第一次世界大戦と口シア革命の直後、女性の選挙権と市民としての平等な権利の獲得という偉大な目標が達成されたため、フェミニズムは陽の当たる所から当たっていない所へと場所を移した。日陰、つまり権利が獲得されていない国では、ファシスト政権や反動的政権が勝利したが、それによってフェミニズムが破壊されることはなかった。反ファシズムが勝利し、(東ヨーロッパと東アジアの一部で)革命が起きたにもかかわらず、フェミニズムは日陰に残りつづけた。その甲斐があり、一九二七年から獲得されてきた諸権利は、まだ獲得されていなかった国にまで広がった。もっともわかりやすい権利拡大は、女性への参政権付与--西ヨーロッパではフランス・イタリアの女性、新たに誕生した共産国の女性、さらにほぼすべての旧植民地や(戦争が終わってから最初の十年は)ラテンアメリカの女性--である。実際、一九六〇年代までの段階で、選挙が実施される国すべてにおいて、女性は参政権を得ていた。ただし、いくつかのイスラーム国家とスイス--むしろ不思議である--は除く。

そうはいっても、フェミニストが圧力をかけたから、このように変化したのではない。また、変化が起きたあと、女性をめぐる状況に対し、注目に値するような影響を及ぼしたわけでもなかった。それは、選挙が政治的影響力をもつ、比較的少数の国においてもそうだった。ところが、フェミニズムは一九六〇年代以降に驚くべき復活を遂げた。それはまずアメリカで始まり、豊かな西側諸国で急速に広まり、そこからさらに従属国の教養あるエリート女性のもとへ広がった。ただし、社会主義の中心には、初期の段階では届かなかった。こうした運動は、基本的には学識ある中産階級の環境で行われていた。他方では、一九七〇年代、そして一九八〇年代にはとくに、女性のあいだでは、政治的にもイデオロギー的にも特定しにくい意識が広がった(今の理論家は、「性別」は「ジェンダー」と呼ぶべきだと主張している)。それは、第一波フェミニズムが届いた範囲をはるかに超えていた。事実、女性は集団として、これまでにない大きな政治勢力になった。この新しいジェンダーに関する意識の最初の例は、おそらくもっとも衝撃的なものだったのだが、それは、口ーマ・カトリックの国々で、昔から信心深かった女性たちが、評判の悪い教義に対して抵抗したことだった。これがとくに現れていたのが、離婚を支持したイタリアの国民投票二九七四年)と、よりリペラルな中絶関連法に賛成した同じくイタリアの国民投票(一九八一年)だった。その後も、メアリー・ロビンソンという敬虔なアイルランド人--女性の法律家で、カトリックの道徳的規範の緩和(一九九〇年)に深く関わっていた--が大統領として選ばれた選挙でみられた。一九九〇年代初頭までには、男性と女性とでは政治的意見が驚くほど異なってくることが、多くの国で行われた世論調査で示されていた。政治家たちが、このような女性の新しい意識のご機嫌取りを始めたのは、無理もないことだ。とくに左派の政治家がそうだった。労働者の階級意識が低下したため、伝統的な支持基盤を左派政党はいくらか失っていたからだ。

このように、女性であることとその権利に関する新しい意識は多方面に及んだ。しかしだからこそ、女性の経済的役割の変化という観点からの単純な説明では、不十分である。とにかく、社会革命で変わったのは女性の社会的活動の性質だけに留まらなかったのだ。女性が担う役割、つまり女性の役割はかくあるべきという昔ながらの慣習から生じる期待も変わった。そして、とくに女性の公的役割と女性が公的な場で目立つことに対するさまざまな前提も変わった。なぜなら、既婚女性の労働市場への大量流入などの大きな変化が起きると、それに付随して、あるいはその結果として、さらに変化が生じることが期待される可能性があるからだ。しかし、必ずしもそういうわけではない。それは、ソ連をみればわかる。ソ連では(一九二〇年代の最初のユートピア的な革命熱が捨てられたあと)、男女の関係性は公的・私的領域で何の変化も起きず、既婚女性はほとんどの場合、従来の家庭での責任と賃金を得るという新たな責任と、両方担うことになった。いずれにせよ、女性全般、とくに既婚女性が賃金労働へ飛び込んだ理由は、女性の社会的地位や権利に関するかのじょたちの考えと、必然的な関係性はなかった。賃金労働を始めた理由は、貧困かもしれない。いや、男性より女性のほうが労働者として安上がりで従順だとして雇用者が女性を選んだからかもしれない。あるいは単に、女性が大黒柱になっている家庭が--とくに従属国では--増えていたためかもしれない。男性労働者が、南アフリカの地方から都市部へ、あるいはアフリカーアジアからペルシア湾に面する国へ大量に移動したため、不可避的に、女性は率先して家計を切り盛りする役目を担うようになった。また、大戦中のぞっとするような性差別的な殺人--その結果、一九四五年以降ロシアでは、女性五人に対して男性は三人しかいなかった--も、忘れるべきではない。

しかしそうであっても、女性が自分自身に抱く希望や世の中が女性の社会的地位に関してもつ期待が、大きく、革新的といってもいいくらい変わる気配があったことは否めない。政治の場で女性が新たに活躍するようになったことは、疑いようがなかった。ただし、その国の女性の全般的状況を直接示す指標として用いることは、いかなる場合でもできない。結局、選挙によって議会に選出された女性の割合は、一九八〇年代であれば、男性優位のラテンアメリカ(一一%)のほうが、わかりやすい形で女性がもっと「解放されている」北米より、ずっと高かったのだから。また、従属国では、行政や政府のトップを歴史上はじめて女性が務めるようになったが、かなりの割合で、その地位は家族から引き継いだものにすぎなかった。娘の立場だった例としては、インディラ・ガンディー(インド、一九六六-八四年)、ベーナズィール・ブットー(パキスタン、一九八八-九〇年、一九九三-九六年)、そして、軍部が拒否しなければビルマの元首になっていたはずのアウン・サン・スー・チーが挙げられる。夫を亡くした妻の立場だったのは、シリマヴォ・バンダラナイケ(スリランカ、一九六〇-六五年、一九七〇-七七年)、コラソン・アキノ(フィリピン、一九八六-九二年)、イサベル・ペロン(アルゼンチン、一九七四-七六年)だ。こうしたこと自体は、大昔にマリア・テレジアが(プスブルク帝国の王位、ヴィクトリアがイギリス帝国の王位を継承したのと同様に、革新的なことではない。インド・パキスタン・フィリピンのような国では女性が元首となったが、その同じ国では、女性は異常なほど抑圧され、服従を強いられていたのだ。両者を比較すれば、女性元首がいかに例外的であるかがわかる。

しかしそれでも、第二次世界大戦以前であれば、いかなる状況であろうと、どのような共和国であっても、指導者としての立場を女性が継承することは、政治的に不可能とみなされていただろう。それが可能になったのは、一九四五年を過ぎてからだ。一九六〇年、スリランカではシリマヴォ・バンダラナイケは女性として世界ではじめて首相に就任した。そして一九九〇年までに、十六カ国で女性の国家元首が誕生した。一九九〇年代には、女性が職業政治家として頂点に昇りつめることすら、珍しいことではあるが、風景の一部として受け入れられていた。女性が首相となった国としてはイスラエル(一九六九年)、アイスランド(一九八〇年)、ノルウェー(一九八一年)、とりわけイギリス(一九七九年)、そしてリトアニア(一九九〇年)、フランス(一九九一年)が挙げられる。フェミニズムどころではなかった日本では、土井が主要な野党(社会民主党)の党首として受け入れられた(一九八六年)。政治の世界は急速に変わっていった。とはいえ、世間や社会が女性(政治的な圧力団体としてだけでも)を認め、受け入れる場合、もっとも「先進的」な国ですら、公的組織の象徴的存在という形をとることが普通だった。

しかし、公的領域での女性の役割と、それに付随して、世間が女性の政治運動に何を期待するのか、世界的な規模で一般化することにほとんど意味はない。従属国・先進国・社会主義国もしくは旧社会主義国で比較できることなど、ほんの些末なことだけだ。第三世界では、帝政ロシアでもそうだったが、教育をほとんど受けていない下層階級の女性の大多数は、近代「西洋」の認識からすると、公的領域の外側に置いていかれてしまった。ただし、なかには女性であっても、少数ではあるが例外的に解放された「進んだ」層が成長している、あるいはすでに育っていた国もあった。こうした女性は主に、もともと名声のある上流階級やブルジョワ家庭の妻や娘などだった。この点は、帝政ロシアの女性知識人や活動家と似ている。このような層は、植民地時代のインド帝国にすでにあった。また、それほど厳格ではない複数のイスラーム国家でも、イスラーム原理主義が台頭し、女性が再び片隅に追いやられる以前に、出現していたようだ。とくにエジプト・イラン・レバノン・マグレブ諸国が当てはまる。解放された少数の女性にとっての公的領域は、自国の上流階級という地位に属しているものだった。そこでは、ヨーロッパや北米でかのじょたち(あるいはヨーロッパや北米の女性)に許されているのと同じくらい活動し、くつろぐことができた。とはいえ、こうした女性であっても、欧米の女性、少なくともカトリックの女性より、自国の文化が求める性別にまつわる慣習や伝統的な家族の義務を捨て去るのには時間がかかっただろう。この点で、「欧米化された」従属国の解放された女性をとりまく環境は、例えば社会主義ではない極東の国々の姉妹に比べれば、ずっと恵まれていた。そこでは、エリート層の女性ですら従わねばならない伝統的役割や慣習の力が非常に強く、抑圧的だった。高い教育を受けた日本や韓国の女性が、自由な欧米で二、三年生活してみると、自分たちの文明と、女性の従属意識がまだだいぶ残っている所へ戻ることを恐れるようになった。
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もっと、翔ばそう!

もっと、翔ばそう!

 全体が見えるようになってきた。この時代に追い出された意味。それは誰も教えてくれない。自分で作り出すしかない。

 時代は分かるけど、ここ、日本 って意味があるのかな。偶々なんだろうけど、そこに意味を感じるかどうか。そのためにも外の外を目指す。

私に合わせた形でのツールの進化

 これを自分使い切ってるかどうか 自分に合わせて、配置されている他者の方が気になります。
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