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よみがえる「巨象」インド--近未来の「世界史」

『文字と組織の世界史』より 「ネイション・ステイト」と「ナショナリズム」を克服する試み--「ヨーロッパ統一」の実験とイスラム世界

巨象も再び歩み始める--インド

 非西欧・非キリスト教の諸文化世界のうち、次に「梵字世界」について考察してみたい。

 その淵源にして中核をなす南アジア・ヒンドゥー圏としてのインドは一六世紀中葉以降、ムスリムのムガル帝国の支配下に包摂されていき、一九世紀中葉以降は英領インド帝国として英国による植民地支配の下におかれることとなった。

 インドの影響の下に梵字世界に組み入れられ東南アジア仏教圏となったインドシナ半島のうち、漢字世界に属することとなったベトナムを除く諸地域もまた、タイを除いて英仏の植民地となった。

 英仏の緩衝地帯として辛うじて独立を保ったタイでは、一九世紀初頭にチャクリー朝が成立し、その第四代ラーマ四世モンクット王の時代に「西洋化」改革をめざす動きが始まった。そして一八六八年、日本の明治天皇に一年遅れて即位した第五代ラーマ五世チュラーロンコーン大王の下で、近代西欧モデルの受容による体系的な「西洋化」改革が開始された。

 このチャクリー改革の基本は、国エヘの権力の集中をはかり、それを支える新モデルの支配組織とその担い手を養成するところにあった。つまり「上からの改革」であり、それはタイの「絶対王政」を生み出した。

 しかし、その下では近代西欧モデルによる教育システムの受容が進められ、近代西欧知識をもつ新しい新中間層も育ち始めた。一九三二年には立憲革命がおこり、曲がりなりにも憲法制定や議会開設が行われ、権力に対するフィード・バックのシステムが根づき始めた。とはいえ、第二次世界大戦後においても、権力は選挙に基づく政権交替よりも、クーデターによる軍政が担うことが常態化していた。社会経済的発展も、なお歩みは遅かった。

 しかし二〇世紀末に入るとタイ経済の発展は加速化し、二I世紀には漢字世界に起源をもつアジアの「四小龍」につづく、新興工業国と化しつつある。

 これに対し、梵字世界の淵源にして中核をなしてきたインドは、一九四七年に英国の植民地支配から解放された。結局、ムスリムの東西両パキスタンと、ヒンドゥー教徒中心のインド共和国として分割され独立したことは先に触れたが、インド共和国内にはとりわけ北部を中心に一億をこえるムスリム人口をかかえており、その数はアラビア文字圏としてのイスラム圏において歴史的に中核をなしてきた中東の三大国、エジプトとイランとトルコのいずれの国の人口よりも大きい。

インドが実現した国民国家としての安定性

 しかし、一三億人をこえ、二一世紀初頭に中国を抜いて人口世界一になると予測される、インドの人口全体に占めるムスリムの比率は、一〇パーセントをこえない。この巨大なインド共和国には、北部から中部は印欧語族、南部には膠着語系のドラヴィダ語族という全く言語系統を異にする二大集団が存在し、この二つの語族のなかに、さらに多数の言語集団が含まれている。

 しかし印欧系・ドラヴィダ系とも、その圧倒的多数はヒンドウー教徒であり、文字として梵字系諸文字を用い、多くのサンスクリット系語彙を共有する。またヒンドゥーの戒律たるダルマを共有し、ジャーティすなわちカーストの強い規制の下にあった。

 このような事情の下で、ラテン文字圏をなすヨーロッパ大陸の西半にほぼ等しい広大な国土を有し、多様な地域と、そして言語も民族も異にする様々の人間集団を包摂しているインドは、ヒンドゥーという宗教を軸に統合を実現しているのである。ただそれだけに、世俗的な国民主義としてのナショナリズムがゆらぐとき、ヒンドゥーという宗教に基づくナショナリズムが台頭する恐れが秘められている。

 中華人民共和国では国共内戦で勝利をえた共産党による一党独裁の下で成立し独裁政治が続いているのに対し、インドの場合は英領下の自治そして独立を求める運動の末に独立している。憲法は政治権力をある程度制御する機能をはたし、選挙による政権交替が一応定着し、一度も本格的な独裁やクーデターを経験することなく、「下からの参加」に基づく政策決定に対するフィード・バック・システムが二定程度、機能しているといえる。

 そして、政権運営にあたる支配組織を担う支配エリートとしても、英領時代に中間管理者たるべく養成された、近代西欧的な知識と組織技術を修得したインディアン・シヴィル・サーヴィス、すなわち「インド公務員」が確たる社会層として成立し、これが支配組織上層部の運営にあたってきた。

 このように、政治的・行政的インフラにおいては植民地時代の遺産も受け継ぎながら、第二次世界大戦後植民地から新たに独立した諸国のなかでも、インドは顕著な安定性を実現しているかにみえる。ただ経済についてみると、独立後も長らく顕著な発展は始動していなかった。しかし、二I世紀に入り、インド経済はめざましい発展をとげ始めた。膨大な人口と広大な国土からして、二一世紀中葉には、インド経済は中国に続いて、世界経済の第四の核となるであろう。

 インドもまた中国同様に、国民国家の衣をまとった「世界」なのである。
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未唯空間目次概要見直し 第5章 仕事

5.1 会社というもの
 1. 私のためにある
 2. 会社で得たこと
 3. 夢で仕事をした
 4. 数学は使える

5.2 技術者思考
 1. 個人が主役
 2. 部品表をこなす
 3. ヘッドロジック
 4. 作るから使う

5.3 サファイア
 1. 持続可能性
 2. ローカルで行動
 3. グローバル思考
 4. 循環エネルギー

5.4 中間の存在
 1. 組織の構造
 2. 販売店の場合
 3. 高度サービス
 4. ソーシャルツール

5.5 情報共有確認
 1. ネットワーク構築
 2. メッセージ処理
 3. コラボで意思決定
 4.コンテンツ流通

5.6 パートナー
 1. 寄り添う仏陀
 2. 壁を越える
 3. 思いを集める
 4. 思いをカタチに

5.7 地域への思い
 1. 地域に配置
 2. 市民への働き掛け
 3. 地域をまとめる
 4. 地域の統合

5.8 企業存続条件
 1. 組織の分化
 2. 配置ロジック
 3. クルマ 社会提案
 4. 社会変革
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イスラム世界における民族主義を超える試み

『文字と組織の世界史』より 「ネイション・ステイト」と「ナショナリズム」を克服する試み--「ヨーロッパ統一」の実験とイスラム世界

イスラム世界における民族主義を超える試み

 西欧圏における、領域的主権国家と民族主義としてのナショナリズムを克服する試みとしてのEUの形成も、そして国際連合の存在も、基本的には西欧圏の枠組みのなかから生じた試みである。国家と階級の棄揚によって新たな世界秩序をめざした共産主義のインターナショナリズムが崩壊した後、新しい世界秩序を求める道はこれしかないかにみえる。

 しかし一方で、民族主義をこえて新たな世界秩序をめざす試みが、非西欧の文化世界に立脚した価値体系からも生み出されようとしている。

 普遍的なイスラム主義の源泉であるイスラムにおいては、人間は信心者としてのムスリムと、不信心者としての異教徒しかない。またその世界も、ムスリムの支配下にあって神の教えの十全に行われる「イスラムの家」と、まだムスリムの支配下に入らず多くの不信心者による共同体が相争っている「戦争の家」からなる。

 「イスラムの家」は本来、預言者ムハンマド在世中は預言者ム(ンマドの下にあり、その没後は全世界の信徒による共同体「ウンマ」の唯一のリーダーにして、「イスラムの家」における唯一の支配者たるべきカリフの下にある、単一の政治体であるべきものとされる。

 歴史的現実において、「イスラムの家」の統一は早くも八世紀中葉には崩れ始め、以来、「イスラムの家」の再統一が果たされることは遂になかった。が、ムスリムは同信者として民族・言語・人種等々の相違を超えて同胞であるべきだという、「『イスラムの家』は一つ」の理念は残った。それが、「西洋の衝撃」にさらされ始めた近代において、これに対抗すべきパン・イスラム主義の運動を導き出したのである。

パン・イスラム主義と「イスラム国」運動

 このパン・イスラム主義は、無神論者であるソ連軍のアフガニスタン侵攻に対抗するための有志者たちを国籍・地域を問わず各地から参集させ、抵抗運動に加わらせる原動力となった。そしてソ連軍がアフガニスタンから撤退した後も、その抵抗運動で出会い結ばれた同志たちのネットワークは残った。

 それを活用してグローバルに反米テロを敢行したのが、ビン・ラディンの指導するアル・カーイダであった。そして、アル・カーイダの影響下で各地にイスラム主義の戦闘者集団が生まれた。

 その一つこそが、イラク戦争で液状化したイラクに生まれ、「アラブの春」後に内戦状態となったシリアヘと進出し、二〇一五年六月、イスラム暦第九月の断食月ラマダーン月の到来を期して、カリフを名のり国家樹立を宣言した、イブラヒム・アル・バクダーディーの「イスラム国(ダウラトゥル・イスラーミーヤ)」であった。

 カリフとしては四大正統カリフ初代の名にちなみアブー・バクルを称したバクダーディーは、イラクに進出して北部をおさえ、一時はシリアとイラクにまたがる広大な支配領域を実現した。バクダーディーが唱えたのは、第一次世界大戦中にオスマン帝国の解体をめざして異教徒の欧州列強が定めたサイクス・ピコ協定に基づき、中東に引かれた国境の無効化と、カリフ時代の再興であった。

 その後は米国と、シリアに軍事基地を有し同国における利権喪失をおそれるロシアに加え、スンナ派過激主義の拡大をおそれるシーア派のイランの参与の下、「イスラム国」は次第に支配領域を失い、二〇一八年初めにはイラクとシリアにおける支配空間は殆ど失われたとされる。

 しかし、この「イスラム国」運動は地域と国境をこえイエメン、リビア、そしてエジプト領のシナイ半島にも支持者をえて拠点を築いている。彼らはインターネットを通じて全世界のムスリムに呼びかけ、欧米諸国にあって格差と差別に不満を抱くムスリムたちに呼応者を見いだし、テロが頻発している。

 甚だ過激な形をとっているが、「イスラム国」運動もまた、異文化に起源をもつ普遍主義に基づく、領域的主権国家と民族主義の克服をめざす運動とはいえよう。
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未唯空間目次概要見直し 第6章 知の世界

6.1 本と図書館
 1. 私のための本
 2. 本が読める
 3. 図書館がある
 4. 図書館を知る

6.2 本で進化
 1 .本を読む
 2. 好き嫌いで判断
 3. コンテンツに特化
 4. 公共という使命

6.3 内なる世界
 1. 本から始まる
 2. 未唯空間
 3. 他者は分からない
 4. 社会への見解

6.4 図書館って何
 1. マイライブラリ
 2. 図書館の可能性
 3. 図書館の形態
 4. 図書館を守る

6.5 地域と図書館
 1. 配置されている
 2. 地域を拡げる
 3. 情報センター
 4. 地域をまとめる

6.6 知の入口
 1. 知りたい
 2. 好き嫌いを理解
 3. 知の武装化
 4. 教育を見直す

6.7 知の共有
 1. ザナドゥ空間
 2. 本棚システム
 3. 本をバラす
 4. ライフログ

6.8 知の未来
 1. 今を知る
 2. 全てを知る
 3. 先を知る
 4. 未来のカタチ
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「中東」の世界史 米ソ冷戦後の新たな危機

『「中東」の世界史』より アメリカの中東戦略のダブル・スタンダード

イラクによるクウェート侵攻は、米ソ冷戦終焉後の世界の最初の危機であった。一九九〇年八月に、米ソ冷戦の終焉を見極めるかのようにイラクがクウェートに侵攻し、それに対してブッシュ・シニア大統領(在任一九八九年一月-一九九三年一月)は多国籍軍を結成して、一九九一年一月に軍隊をクウェートに派遣した。いわゆる湾岸戦争の勃発である。

教科書的な説明では、イラクがクウェートに侵攻したのは、イラクが経済的に破綻したため新たな石油資源の獲得が目的だったとされている。実際にそのような側面もあるかと思われるか、政治的観点から見ると、サッダーム・フセインーイラク大統領は米ソ冷戦終焉後に形成されつつあった新しい国際秩序を読み間違ったということだ。ソ連とアメリカという二大超大国による冷戦時代が終わり、アメリカが唯一の超大国として世界を一極支配し、「世界の警察はアメリカだ」という新たな政治状況が生まれつつあったことをイラクは読み間違えたのである。

冷戦後の新しい世界にあっては地域自体が新しい秩序を作っていくのだから、イラクがクウェートに侵攻したところで何の国際的非難も受けないだろう、と読んでいたのである。しかし、イラクの予想に反してアメリカのブッシュ・シニアが「新たな国際秩序に対する挑戦」と非難し、戦争が引き起こされるという事態にまで発展してしまったのである。

ュージン・ローガンは、イラクがクウェートを侵略したことで、アラブ世界が分裂したと指摘する。すなわち、「一アラブ国家がほかのアラブ国家の侵略を受けたことで、全アラブ世界が分裂し、外国の介入に反対する国もあれば、クウェートをイラク支配から解放するアメリカ主導の多国籍軍に参加する国もあった」。

クウェート侵攻はまた、市民と政府の分裂も招いた。サッダーム・フセインは、イラクのクウェート侵攻を非難するのであれば、パレスチナを支配するイスラエルに対しても非難すべきであると言い、イラクはパレスチナをイスラエルから解放すると約束をした。そのため、アラブ諸国でイラクを批判する政府があった一方で、サッダームはアラブ世界全土で各国の市民に人気ある英雄に祭り上げられたのである。

サッダーム・フセインはイラクによるクウェート占領を、レバノンにおけるシリア軍の進駐にも結びつけた。そのため、地域の政治秩序を回復するためには、イラクをクウェートから追い出すだけでは十分ではなく、アラブ世界はレバノン内戦に取り組まなければならなかった。

湾岸戦争でPLOのアラファート議長はパレスチナ民衆の意向を受けイラクを支持する姿勢を表明したため、湾岸戦争でイラクと戦ったサウジアラビアをぱじめとする湾岸産油国からPLOへの財政的援助か打ち切られ、PLOは戦後、財政的危機に陥った。そのような中で、米ソ冷戦終焉後、シリアが米側について湾岸戦争を戦ったことで敵を失ったイスラエルも新たな道を模索せざるを得ず、ブッシュ・シニア米大統領のイニシアティヴの下に、マドリード中東和平会議が開催され、史上初めてイスラエルとアラブ諸国が交渉のテーブルに着くことになった。結局、この会議に基づく和平交渉はパレスチナ問題の解決の主役であるはずのPLO抜きに行われたため、暗礁に乗り上げることになった。

その一方で、イスラエルの次期首相となるイツハク・ラビンとアラファートはノルウェーの仲介で秘密交渉を行って、その交渉がアメリカのクリントン大統領の仲介の下での一九九三年のオスロ合意(パレスチナ暫定自治に関する原則合意)の締結につながった。しかし、ハマースはこの合意に反対しており、結果的に、オスロ合意はイスラエルとパレスチナ(PL息との間の平和を見出すことができないまま、二〇〇〇年九月には第二次イソティファーダが勃発し、中東和平プロセスは事実上、破綻した。二〇〇四年末にアラファートが亡くなった後はアラファートを継いだマフムード・アッーバスが二〇〇五年初頭からパレスチナ自治政府大統領に就任した。二〇〇六年から形成されていたファタハとハマースのパレスチナ連立内閣は二〇〇七年六月、崩壊し、ヨルダン川西岸はファタハが、ガザはハマースが実効支配する事態になり、現在に至るまでパレスチナの分裂状態は続いている。

二一世紀に入ると、さらに追い打ちをかけるように、二〇〇一年の九・一一事件、いわゆる「ニューョーク・ワシントン同時多発テロ」が起こり、二〇世紀と二一世紀を画する、文字通り画期的な出来事となった。というのも、以後、ブッシュ・ジュニア米政権(任期二〇〇一年一月-二〇〇九年一月)が「対テロ戦争」を開始したからである。まず、テロを実行したとされるビン・ラ・ディン率いるアル・カーイダの拠点のあるアフガュスタン空爆に始まり、二〇〇三年三月には大量破壊兵器を保有しているとしてサッダーム・フセイン政権の壊滅を目的とするイラク戦争を引き起こした。しかし、後になって米議会においてイラクは核兵器を保有していないことが判明した。

また、一九九一年の湾岸戦争時のイラクヘの多国籍軍による攻撃は国連決議に基づいて行なわれた。ところが、二〇〇三年のブッシュ・ジュニア大統領は、国連の存在を無視するかたちで軍事行動を起こしたのである。ブッシュ親子による二つの戦争の違いは国連を重視するか否かというところだった。

サッダーム・フセイン大統領が捕捉されて処刑された後、イラクには選挙によってヌーリー・マーリキー内閣が成立したものの、同政権のシーア派優遇政策によってイラクはスンナ派とシーア派の宗派間の対立で引き裂かれることになった。

そのような対立の中で生まれたのか「イスラーム国(IS)」であった。二〇一四年六月二九日、「イラク・シャーム・イスラーム国」のアブー・バクルーアルーバグダーディーは自らを「カリフ」であると宣言し、シリア・イラク両国の制圧地域に「イスラーム国」を樹立すると宣言した。同支配地域ではシャリーアが厳密に施行された。しかし、二〇一七年二一月までに同国も軍事的に制圧され、事実上壊滅した。

一方で、二〇一〇年代初頭のアラブ諸国では、独裁政権が倒される民主化運動が連鎖的に起こり、「アラブの春」と呼ばれた。チュニジアでは、二〇一〇年末から失業や物価高騰などへの不満がデモとなって噴き出したため(ジャスミン革命)、ベン‥アリーは次期大統領選挙への不出馬など表明して事態を収拾しようしたが収まらず、二三年の長期政権の末、サウジアラビアに亡命した。「アラブの春」はチュニジアのジャスミン革命からエジプトにも波及し、最終的にこの両国とリビアおよびイエメンにおいて政権交代が起こった。エジプトではムバーラク大統領が、イエメンではサーレハ大統領が辞任に追い込まれた。エジプトではムスリム同胞団系のムルシー大統領が誕生したものの、スィースィーによる軍事クーデタでムルシー政権は崩壊し、スィースィーが二〇一四年六月、大統領に就任した。イエメンでは、サーレ(大統領は辞任後、アブドラッバ・ハーディーに大統領職を譲ったものの、北部を拠点とするシーア派系の武装組織でイランが支援するフーシー派と連携してハーディーに対抗した。しかし、そのためサウジアラビアがイエメンの内政に介入することになり、イエメンは内戦状態に陥った。また、シリアでは二〇一一年三月よりロシア・イランなどに支持されたアサド大統領とサウジなどに支援を受けている反体制派の間で争いが起き、内戦状態になっている。「アラブの春」が「アラブの冬」になったと鄭楡されたりもしている。

現在の中東の状況は、まさに大混乱である。ある意味では不安定が安定化しているという奇妙な事態だ。紛争か起こることによって、逆に奇妙なかたちで地域の「秩序」が保たれているという非常に逆説的な政治状況が中東で起こっている。イエメンやシリアをめぐる争いはスンナ派対シーア派なのであるが、イラクも同じような状況になり、イエメン・シリア・イラクがイスラームの宗派対立の舞台になってしまった。急速に動き始めているのがサウジアラビアであり、最近(二〇一七年二月)、サウジアラビアの外務大臣が湾岸戦争以降初めてイラクを公式訪問し、イラクの現シーア派政権のアバーディー首相と会談した。つまり、イラクにおけるイランの影響力を排除しようとする方向に動き始めたのだ。今までは、スンナ派対シーア派の問題は、イラクでは純粋に国内問題であったか、今後イランとサウジアラビアの対立がイラクにも持ち込まれたのである。イエメン、シリア、そして今度はイラクにも波及した。ただし、二〇一八年に入って、シリアやイラクの宗派対立に由来する内戦状態は終息しつつあると言える。

これまで中東の近現代史を概観してきたが、中東はトランプ米大統領の登場によってこれまでとは違った方向へと進み始めた。特に、二〇一七年一二月に同大統領が駐イスラエルーアメリカ大使館をテル・アヴィヴからエルサレムに移転する決定を行ってからパレスチナ人の反発が続いている。東西統一エルサレムを首都とするイスラエルの主張を国際社会のほとんどが認めていない現状がある。EUを中心に多くの国がこの移転に強く反対している。にもかかわらず、アメリカは二○一八年五月一四日のイスラエル建国記念日に移転を強行した。イスラエルにとっては建国七〇周年という節目の日でもあった。この移転は卜ランプ大統領の「アメリカ・ファースト」政策を推進するため、アメリカ国内のュダヤ人の票やキリスト教福音派の票を見込んだ高度な政治判断であったと評価されるのである。

アメリカはさらに、オバマ大統領時代の二〇一五年に結ばれたイランとの核合意からの離脱をも表明した。アメリカの新たな中東政策にょって、中東は新たな段階に入ったとも言える。

歴史的に振り返ると、中東という地域は二九世紀の東方問題をはじめとして、ヨーロッパ諸列強に翻弄された。二〇世紀に入って第一次世界大戦を迎えると、中東のほとんどが列強の支配下に入った。第二次世界大戦後、イスラエル建国を機にパレスチナ問題を中核とするアラブ・イスラエル紛争が勃発した。そして一九七九年のイラン革命を端緒にイラン・イラク戦争、さらに米ソ冷戦終焉直後にイラクがクウェートに侵攻したため湾岸戦争が起こった。アラブ諸国の独裁体制が倒れるという「アラブの春」を経て、「イスラーム国(IS)」が登場した結果、シリア内戦が泥沼化していった。二世紀以上にわたってこの中東地域が抱え込んできた諸問題がいよいよ断末魔的な様相を呈し始めているのである。

その地政学的な位置から、中東の混乱は世界の混乱に直結することになるのはその歴史が示している。これから中東はどこに向かうのか。人類の未来をも左右しかねないほどの決定的な問題を孕んでいるのが中東という地域なのである。
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