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ガンディーのノアカリ行脚

『悪の歴史 東アジア編下 南・東南アジア編』より ガンディー インド・パキスタン分離独立 ガンディーと分離独立暴動

ガンディーがノアカリに入ったのは、一九四六年十一月六日である。この日から翌年三月二日まで四ヵ月近くを、ガンディーはここで過ごすことになる。ガンジス河デルタの低地にあるノアカリでは、十一月にはまだ雨季の出水が続いていた。水が引くのを待って「行脚」を開始するのは翌年一月初めのことである。もちろん、独立直前の重要な時期にノアカリのような僻遠の地に留まることが賢明かどうか、疑問の声があがらなかったわけではない。しかしガンディーにとっては、真の独立を達成するためには、非暴力の力で人々の心の中から恐怖と憎しみを取り除き、分離独立暴動を解決することが、何よりも優先されねばならなかった。

ガンディーは当初、たった二人でノアカワに赴くつもりだったようである。実際にノアカリに到着した時には、十一人の男女に伴われていたが、ガンディーは、二人を秘書兼通訳及び速記者として手元に残しただけで、残る九人に、村を一つずつ選び、単身でその村に入って活動するように指示し、ムスリムが怖い者、言い換えれば、死を恐れる者は引き返してもよいと申し渡した。ガンディー自身は、負け犬として戻るくらいなら死んだ方がましだ、という気持ちだったと言われる。実際、ムスリムから見れば、ガンディーは「敵の頭目」に他ならなかったから、殺されてしまう可能性は十分にあったはずである。ガンディーは、暴動の時に襲撃されて被害を受けた家屋を選び、そこで二人の側近とともに暮らした。健康はすぐれなかったが食事の質と量を落とすことに決め、「蹟罪」のためだと説明した。

このようにごく少数で運動を行った理由について、ガンディーは、ムスリムに心を開いてもらうためには、少数で彼らのなかにとび込んでゆくのがいちばん良いと考えたからだと語った。他方、秘書兼通訳のボースは、南アフリカからインドに戻って来て以来、ガンディーがこれほど孤独だったことはなかっただろうと回想している。九人の同志や地域のガンディー主義者だちと行き来はあったし、大物政治家やジャーナリストの訪問もあり、活動をするためには州や県の政治家や行政官と折衝しなければならなかった。警察の護衛/監視もあった。しかし総合的に見て、孤立した暮らしだったことは間違いないであろう。

ガンディーは暴動の傷跡の残る周辺の村を回ってヒンドゥーとムスリム両方の村民の話に熱心に耳を傾け、病人がいるときには自然療法で癒す試みをし、夕刻には必ず「夕べの祈り」の集会を開いて講話をした。この集会の参加者は徐々に減って行き、寂しい集会になることもあったようである。

ガンディーの目標は、暴動の時に村から逃れ難民となったヒンドゥーが元の村に戻り、ムスリムの村民とともに再び平和に、そして人間としての尊厳をもって暮らせるようにすることであった。そのためには、ムスリムが憎しみを捨てるのはもちろん、ヒンドゥーが恐怖感を克服し、勇気をもつことが重要だと考えられ、そのような趣旨の講話が行われた。難民のための救援活動が不十分ながら行われていたが、ガンディーは、救援に依存した生活から早く脱却して自立し、勇気をもって新生活を切り開くことを奨励した。

さて、運動が軌道に乗り始めた十二月、ガンディーはマヌという孫娘にノアカリに来て最側近のグループに加わることを許可する。マヌは早くに母親を失い、ガンディーの妻を慕って献身的に身の回りの世話をし、その死後、ガソディーが母親代わりをしてきた女性で--病いや不幸で苦しむ人の介護は、年少時からガンディーが情熱を傾けて取り組んできたことのひとつで、ガンディーには母親的な一面があったと言われる。意識的に母=女性(=非暴力の象徴)になろうとしていたという捉え方もある--、十九歳になっていた。寝食を共にしていた秘書と速記者は間もなく、ガンディーのベッドでガンディーとマヌが裸身で一緒に寝ているのに気づいて仰天することになる。ガンディーは開け放した部屋やベランダで寝る習慣だったので、見えてしまったのであろう。ガンディーは少しも悪びれず、この問題について「夕べの祈り」で説明したりしたから、この出来事はスキャンダルとして広く知られるようになった。ガンディーを長年にわたって支えて来た人たちは、重要な運動を進めている時に、運動の信用を失墜させるようなことを何故するのかと、ガンディーを諌めた。しかしガンディーは耳を曹さず、そのために古くからの同志を何人も失い、ますます孤立を深めてゆくことになった。

ガンディーは、マヌとの関係は清らかで潔白なものだと釈明したが、それだけでなく、彼女との同会は宗教的な行として行っているもので、その行は自分独自のものだと主張した。インドの宗教的伝統のなかには、タントラのように、性的な儀礼を重要な構成要素とするものがある。また、ガンディーの母が熱心な信者だったグァイシュナグァ派においては、信者はクリシュナ神(青い肌をした青年の神)に恋する女として表象され、男の行者が女として振舞おうとすることがある。が、ガンディーは自分の行はそれらとは違うと言うのである。ガンディーによれば、それはマヌをパートナーとする性的禁欲の行であって、自分の性を神に犠牲として供して自分を浄化するために行っているのであった。この浄化によって、ヒンドゥーとムスリムの間で極限まで高まっていた憎悪を解消することができると、ガンディーは考えていた。

しかし、ガンディー個人の浄化と社会的暴力の解決とがどのように関連するのか、ガンディーがどれほど深く確信していたとしても、合理的に理解するのは難しく、マヌの立場をどう考えるべきかという問題もあって、研究者はこれまでさまざまな解釈を試みてきた。代表的なものは、ガンディーが母に強い愛着の念を持っていたこと、インドに女神信仰の伝統があること等に着目して、精神分析の手法で解釈しようとするものである。また実は、一九三〇年代後半からガンディーは、就寝時に寒さと震えを訴えるようになっていて、そういう時には側近の女性が添い寝をするということが行われていた。この習慣の延長上にマヌとの同会を捉えようとする解釈も、同種のアプローチと言ってよいであろう。さらに、ガンディーが自分自身の非暴力主義の揺らぐのを感じていたとすれば、若い女性と同会してもまったく欲望を感じない存在、つまり女性になり切ることによって、女性の力(=自己犠牲のカ)を獲得し、それによって自分の非暴力の信念を立て直そうとしていたという解釈も成り立つかもしれない。他方、ガンディーの内面に踏み込んだこれらの解釈と並んで、若い女性に対する政治指導者の身勝手な行動だとか、ガンディーはマヌを宗教的実験の道具として使ったという批判ももちろん根強くある。ただし、ガンディーの考え方が分かりにくいのと同様に、マヌの考え方にも理解しにくいところがあり、マヌがガンディーとの同会をどう考えていたのか、なお未解明のまま残された部分があることは留意されるべきでないかと思われる。例えば、マヌが育て親のガンディーのことを「お母さん」と思っていたことは間違いないようであるし、問題の性的禁欲の行に関しても、マヌは、ガンディーと完全に心が一致していると述べたとされ、日記にも同じ趣旨のことを書き残していると言われるのである。

いずれにせよ、自分の支持者の問に大きな混乱を惹き起しながら、ガンディーは四七年一月二日、「ノアカリ行脚」に出立する。ガンディーはもともと、ノアカリ暴動に巻き込まれたすべての村を徒歩で訪れて回ることを熱望し、しかも、たった二人で、村人の厚意だけに頼って、行脚したいと言っていた。だが、健康がすぐれず、ノアカリに来て以来食事を減らしている七七歳の老人の単独行が、無謀なのは明らかであった。三、四人の側近が同行することになった。

行脚が始まると、ムスリム、ヒンドゥー双方の一〇〇人ばかりの農民が、付き従って歩くようになった。沿道で見守る農民も多数いた。ガンディーは断ったが、一行の後ろには八人の警察官が護衛という名目で張り付いていた。ガンディーはサンダルを脱ぎ裸足で歩いた。なぜなら、村々をつなぐ道は、ガンディーにとって、人々がその上で愛する者を失った聖なる土地にほかならず、その上を不浄な履物を履いて歩くようなことはしてはならないことだったのである。道に異物を撒き散らして妨害しようとするものがあったが、ガンディーは意に介せず歩き続けた。ガンディーニ行を泊めてくれた家は、ムスリムよりもヒンドゥーの方がずっと多く、そうしたヒンドゥーのなかには、洗濯人、漁師、履物作り等の、カーストの地位の低い人たちが数多くいた。村々でガンディーがいちばん力を入れたのは、ヒンドゥーの女性の被害者の訴えに耳を傾けることと、両宗教間の融和を説くことであった。

ガンディーのことを聞きつけていろいろな人が集まって来たが、そのなかに気の毒な女性がいて、ムスリムの暴徒に殺され焼かれてしまった夫の遺骸から大腿骨を取り出し、遺品として手に握りしめていた。ガンディーは、朽ちてゆく定めの遺体を故人と同一視することには賛成できないと言って、それを捨てるように説得した。別の女性たちがこもごも涙ながらに我が身の不幸を語ると、ガンディーは、どんなに悲しんでも故人を生き返らせることはできないのだから、悲嘆にくれていても仕方がないではないかと説いて慰めたという。他方、ガンディーに論戦を挑んでくるムスリムのダループもいた。しかしガンディーは、行動を見てほしいとだけ言って、取りあおうとしなかった。

四七年二月末、首都デリーから遠く離れてひたすら農村を歩くガンディーの下に、ビハール暴動のムスリム被害者の窮状について報告が入った。この時までに行脚して回った村は四七ヵ村に上っていた。ガンディーはいったん「ノアカリ行脚」を中断してピクールに向かうことを決意し、三月二日、ノアカリを後にした。ただし、デリーで独立の式典が開かれる八月十五日の前後二週間はノアカリで過ごすこととし、インドーパキスタン分離独立に反対する立場を改めて鮮明にする予定であった。その八月、ガンディーは経由地のカルカッタまでやって来る。しかし、ベンガル州政府からカルカッタの不穏な情勢を鎮めるのを懇望され、ノアカリ行きを断念せざるをえなくなった。そして、翌年一月には暗殺されてしまったために、ガンディーがノアカリの地を踏むことは二度となかったのである。
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本と車は似ている

西安でのライブ映像

 西安でのライブ映像をチェックしていた。リアルタイムで「西安」と打てば出てくる。アングルに違和感。

 西安と言えば長安。親鸞の留学先。二時間のうち、色物は乃木坂だけ。何が受けるかのリサーチなのか。

22枚目のフォーメーション

 今週22枚目のフォーメーションが発表になる サイマジョからジコチューと来て、次は殻を破る行動力。そう考えると、向井、りりあんとなる。彼女らを制御できるのは生田しかいない。ベビーメタル風を四期生導入直前に作り上げる。

中途半端というところで本と車は似ている

 本と車は似ている。売るために本来の姿から異なるところだけが発達している。

 本の装丁は売るためのもの。本のカタチではコンテンツは進化できない。電子書籍で本はバラバラになる。それが進化。

 クルマは自動運転化でバラされる。さて、どういうカタチになるのか。主導権は日本の自動車メーカーにないのだけは確かです。グーグルか、中国のレンタサイクル屋か。
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