未唯への手紙
未唯への手紙
第4章 歴史編の概要
第4章 歴史編
第4章歴史編は4.1から4.3は国家の歴史。国というものの誤解について語るもの。4.3のグローバル化と多様化で国家は限界を迎えた。4.4から4.6は新しく「個の時代」という歴史の解釈。
個と言うよりも市民、地域、国家、超国家の関係。情報共有で「個」が前面に立つようになったけど、コメントに見られるように意識が未発達。
個の自立のために家族制度、教育制度の変革が必要。 内なる世界を作り上げ 多様化を担える。 あわせて女性の自立 その上で市民、地域、国家、超国家の関係の再構成。個の歴史が始まる。それを描くのが4-7と4-8
第4章歴史編は4.1から4.3は国家の歴史。国というものの誤解について語るもの。4.3のグローバル化と多様化で国家は限界を迎えた。4.4から4.6は新しく「個の時代」という歴史の解釈。
個と言うよりも市民、地域、国家、超国家の関係。情報共有で「個」が前面に立つようになったけど、コメントに見られるように意識が未発達。
個の自立のために家族制度、教育制度の変革が必要。 内なる世界を作り上げ 多様化を担える。 あわせて女性の自立 その上で市民、地域、国家、超国家の関係の再構成。個の歴史が始まる。それを描くのが4-7と4-8
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未唯空間目次概要見直し 第7章 生活
7.1 考える
1. 放り込まれた
2. 独りぼっち
3. 好奇心
4. ツール
7.2 存在する
1. 生まれてきた
2. 無に甘える
3. 私は私の世界
4. 役割を設定
7.3 生活する
1. 日常を記す
2. 生活パターン
3. 生活スタイル
4. 家庭生活
7.4 生きる
1. 孤立と孤独
2. 独我論に至る
3. 他者はいない
4. 発信する日々
7.5 女性の存在
1. もう一人の私
2. パートナー
3. つながる楽しみ
4. 魅力的な生き方
7.6 知の生活
1. 未唯空間を作る
2. 生活規範を守る
3. 未唯宇宙に展開
4. 家族制度見直し
7.7 全てを知る
1. <今>が全て
2. 全てを求める
3. 他者を切り離す
4. 知ること
7.8 わかったこと
1. 新しい数学
2. 社会の位相化
3. 歴史の分岐点
4. 存在の無
1. 放り込まれた
2. 独りぼっち
3. 好奇心
4. ツール
7.2 存在する
1. 生まれてきた
2. 無に甘える
3. 私は私の世界
4. 役割を設定
7.3 生活する
1. 日常を記す
2. 生活パターン
3. 生活スタイル
4. 家庭生活
7.4 生きる
1. 孤立と孤独
2. 独我論に至る
3. 他者はいない
4. 発信する日々
7.5 女性の存在
1. もう一人の私
2. パートナー
3. つながる楽しみ
4. 魅力的な生き方
7.6 知の生活
1. 未唯空間を作る
2. 生活規範を守る
3. 未唯宇宙に展開
4. 家族制度見直し
7.7 全てを知る
1. <今>が全て
2. 全てを求める
3. 他者を切り離す
4. 知ること
7.8 わかったこと
1. 新しい数学
2. 社会の位相化
3. 歴史の分岐点
4. 存在の無
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ローズベルトの無条件降伏 無条件降伏原則への批判と修正の動き
『米国と日本の天皇制1943-1946』より トルーマンの日本打倒計画
米統合参謀部のリーヒ、マーシャル、キングといった軍首脳たちは、戦争終結方式の無条件降伏について、この原則が戦争を長引かせることになると考えていたが、ローズベルトからこの方式に関して何ら相談を受けることがなく、会議でもこの問題がテーマとして取り上げられることもなかったことから、この原則に関して表立った批判・修正意見を述べることはなかった。それは、米軍の総司令官でもある大統領が決めたことであり、米統合参謀部としては無条件降伏という目的達成の作戦立案を任務とする立場からであろうか、この原則修正へ向けて積極的に発言することはなかった。
一方、軍部とは異なり、政治・外交問題を扱う国務省はこの原則についてどのように考えていたのだろうか。米国務省のトップである(ル国務長官は、無条件降伏について、多くの同僚の人だちと同じく、次のような二つの理由で、この原則に反対であったと『回想録』に記している。
「一つは、これは枢軸国を絶望させ、その抵抗をより一層強固なものにすることによって、戦争を長引かせるかもしれない点であった。……二つめは、この原則は、戦勝国が論理的に敗戦国の地方、中央政府の全局面の職務を引き受け、すべての行政活動を戦勝国に負わせることになる点であった」。
しかし、ハルは、大統領がカサブランカであんなに強くこの原則を述べた以上、われわれは少なくとも形式上それに従わざるをえなかった、と言っている。だが、その後(ルは英国、ソ連等の諸外国からの原則修正要求に対応し、大統領に原則の修正、緩和へ向けての働きかけを行ったが、すべて失敗に終っている。
英国およびソ連はともにヨーロッパにおいて一般市民の犠牲も伴いながら、ヒトラーと死闘を演じている立場から、ドイツとの戦を長引かせる可能性のある無条件降伏原則には賛成ではなかった。
まず、英国について見てみると、カサブランカでのローズベルトの無条件降伏宣明の提案について、首相のチャーチルは賛成し、ロンドンの戦時内閣もこの考えに反対していない。ただ英国としては、戦争遂行に際して多大の米国からの援助を受けていることや、対日戦における英国に対する米国の疑念を払拭する必要性から、積極的にこの原則に賛成したというよりは、賛成せざるをえなかった、というところが真相であろう。チャーチルは、カサブランカ会議中の一九四三年一月二十日、戦時内閣への会議内容報告のところで、「米英合同参謀長会議の討議の過程で、ドイツ敗北後直ちに、英国が戦争より離脱するのではないかという懸念が米国代表によって表明されたのを知って、私は、われわれの利害関係も名誉もともにかかわっていることであり、ドイツ降伏後、英国議会と国民は、全資源を日本の降伏に向けることを決意していることについて明確に述べることが正しいと思った」と書いている。英国としては、米国との戦時における関係からしても、ドイツとの戦争終結後、日本との戦争から英国が離脱するのではないかという疑念を米国からもたれている以上、そのことを全面否定するため、日本とも最後まで、無条件降伏にいたるまで、戦争を継続するとの決意を表明する必要があったろう。その意味で、ドイツと同様、日本との戦争終結方式として、ローズベルトが提案した無条件降伏原則に賛成せざるをえなかったのである。しかし、このカサブランカでの宣明後、マスコミ等をへて広く無条件降伏原則が流布され、戦争終結方式として、この原則が一般化するとともに、これが戦争終結を困難にするとの観点から、英国外務省はこの原則の意味の明確化を通して、修正への米国政府に対する働きかけを強めることになる。
次にソ連であるが、一九四三年十一月のテヘラン会議の際に、スターリンは、無条件降伏原則を批判し、その修正の提案をしている。まず十一月二十八日のローズベルト、チャーチル、スターリンの三国首脳会議の際に、米国側の通訳として会議に出席していたボーレンの覚書によると、スターリンは次のように述べたという。
「戦時の措置として、スターリン元師は、ドイツに課される正確な条件について何ら明らかにされていない無条件降伏の妥当性について問題にした。彼は、無条件降伏の意味を明らかにしないままにしておくことは、ただドイツ国民を結束させることになるだけである。それに反して、どんな厳しいものであれ、明確な条件を作成し、この条件がドイツ国民にとって受け入れなければならないものであることを彼らに告げることは、自分の意見では、ドイツの降伏を早めることになるであろう、との所感を述べた」。
ソ連としては、ドイツの大軍を真正面から受けとめ、多大の将兵と一般市民の人的及び物的損失も出しているところから、ドイツとの戦争については、できる限り早期に終結させることを望んでおり、そのために米国に対して、無条件降伏の修正を試みたが、英国同様失敗している。
英・ソの意向を受け、ハルもローズベルトに原則修正提案を試みたが、ローズベルトは、この原則の意味の明確化を問われた際には、常にグラント(--南北戦争時の北軍の総司令官--)とリー(--南軍の総司令官--)の米国の南北戦争時の故事をもち出し、その故事によって無条件降伏の意味が分かると答えている。ローズベルトが、無条件降伏の意味を問われるたびにもち出したグラントとリーの故事について、もっとも詳しく説明したのは、一九四四年七月二十九日のホノルルにおける記者会見の席上においてであった。そこで彼は次のように語っている。
「もしわれわれが『無条件降伏』という言葉を変えたならば、ドイツはもっと早く降伏するだろうという教養のある高潔な人たちによる多くの批判がなされている。・・・・・・彼らはそれ(無条件降伏)が厳し過ぎるし、思いやりがないとして批判している。このことについて少しばかり説明しておこう。
話は一八六五年のことにもどるが、リーはアポマトックス・コートハウスにおいて、リッチモンドのコーナーバックに追いつめられた。彼の軍隊は飢餓状態にあり、二、三日間眠らず、武器、弾薬も事実上使いきっていた。
そこで、リーは、休戦の白旗をかかげ、部下のことを考えて、グラントのもとへ行き、グラントに降伏条件を問うた。
グランドは、『無条件降伏』と言った。
リーは、『それは出来ない。自分としてはなにがしかの物を得なければならない。たとえば、自分の軍隊の食糧は一食以上も残っていない』と言った。
グラントは、『それはひどいことだ』と答えた。
リーは、さらに、『私の騎兵たちの馬はわれわれのものではなく、われわれの将兵のものであり、彼らはその各自の馬を故郷に連れて帰らなければならない』と述べた。
グラントは、再び『無条件降伏』と言った。
リーは、『分かりました。私は降伏します』と言って、彼の剣をグラントに差し出した。
グラントは、『ボブ、その剣をしまいなさい。さて、あなたは無条件に降伏するのですか』と問うた。
リーは、『そうです』と言った。
それから、グラントは、『それでは、あなたがたは、もう私の捕虜です。あなたは、部下の将兵のために食糧が必要なのですか』と問うた。
リーは、『そのとおりです』と答えた。
次にグラントは『さて、南軍の将兵の馬のことだが、なぜ馬を必要としているのですか』と問うた。
リーは、『われわれは、馬を春の耕作用に必要としています』と答えた。
グラントは、『あなたの将兵に、馬を故郷に連れ帰って、春の耕作を行うように言ってください』と言った。
これが、われわれが言うところの無条件降伏の意味だ」。
ローズベルトは、このようにまるでグラントとリーの降伏の場面に居合わせたかのように、その両者の会話の内容を再現しているが、ハルは、「ローズベルトは、米国史について幅広い知識をもっており、彼はその歴史を徹底して研究していた。しかし、グラントが無条件降伏を要求したのは、アポマトックスではなく、一八六二年のフォート・ド・ネルソンであり、その時に無条件降伏を受け入れた相手は、(リーではなく)バックナー将軍であった)と記している。
ボーレンも同様、口ースベルトの事実誤認を指摘し、「ローズベルトは、若干、南北戦争の歴史について取り違えていた」と述べている。無条件降伏の意味として、彼がこの故事について詳しく語っているが、その話の内容から、彼が無条件降伏の意味についてどのように考えていたかが推察できる。つまり、ローズベルトが考えていた無条件降伏とは、戦争において、まず敵国側の敗者が無条件降伏を宣言し、その後の敗者の取り扱いについては、場合によっては、勝者による敗者に対する寛大な取り扱いもありうるということである。具体的に敵国である枢軸国について考えると、ローズベルトは、ドイツ、日本といった枢軸国が一切の条件をつけず文字通りに無条件降伏を宣明することであり、このことが先決で、その後に場合によっては寛大な処置もありうるということを、グラントとリーの故事によって説明したのである。
いずれにせよ、ローズベルトの意味するところの無条件降伏は、ともかく敗者がまず無条件で降伏することを求めており、無条件降伏という言葉のもう一つの可能な解釈である、勝者が敗者に一定の条件を明らかにし、敗者がその条件を無条件に受け入れるとするいわゆる『条件付無条件降伏論』の立場は明確に否定したといえよう。従って、ローズベルトは、無条件降伏の意味を事前に枢軸国に明らかにするようにという要求に対しては、その意味内容について具体的に語ることは、勝者側の敗者への降伏条件の提示ともなりかねないところから、頑強に拒否したのである。
無条件降伏は、ローズベルトの確固とした政策表明であり、彼はこの原則を修正・緩和してはどうかという要求に対しては最後まですべて拒否し続けた。ローズベルトの側近であったローゼンマン判事は、「無条件降伏の政策が戦争を長引かせることになるとする批判にもかかわらず、大統領がこの原則についてぶれたことは一度もなかった」と回想している。
トルーマンが大統領に就任して間もなくの一九四五年五月八日、ドイツが無条件降伏し、ヨーロッパの戦争が終わり、米国にとって残るは、対日戦争のみとなった。トルーマンは、五月八日、ヨーロッパの戦争終結報告のラジオ演説で、「われわれの勝利はまだ半分にしか過ぎず」、引き続き、極東の戦争を終わらせるための努力を米国民に呼びかけている。トルーマン自身、回顧録で、「この当時、私がいちばん考えていたことは、いかに早く太平洋の戦争を終わらせるかということであった」と語っている。対日戦争の早期終結は、トルーマン政権の最大の課題であった。当時、日本を降伏させるための方策として、おおむね政権の中枢内で、次のような四つの案が浮上していた。すなわち、①日本本土侵攻、②ソ連の対日参戦、③原爆投下、⑩日本に受け入れ可能な条件を含んだ対日降伏勧告、である。
米統合参謀部のリーヒ、マーシャル、キングといった軍首脳たちは、戦争終結方式の無条件降伏について、この原則が戦争を長引かせることになると考えていたが、ローズベルトからこの方式に関して何ら相談を受けることがなく、会議でもこの問題がテーマとして取り上げられることもなかったことから、この原則に関して表立った批判・修正意見を述べることはなかった。それは、米軍の総司令官でもある大統領が決めたことであり、米統合参謀部としては無条件降伏という目的達成の作戦立案を任務とする立場からであろうか、この原則修正へ向けて積極的に発言することはなかった。
一方、軍部とは異なり、政治・外交問題を扱う国務省はこの原則についてどのように考えていたのだろうか。米国務省のトップである(ル国務長官は、無条件降伏について、多くの同僚の人だちと同じく、次のような二つの理由で、この原則に反対であったと『回想録』に記している。
「一つは、これは枢軸国を絶望させ、その抵抗をより一層強固なものにすることによって、戦争を長引かせるかもしれない点であった。……二つめは、この原則は、戦勝国が論理的に敗戦国の地方、中央政府の全局面の職務を引き受け、すべての行政活動を戦勝国に負わせることになる点であった」。
しかし、ハルは、大統領がカサブランカであんなに強くこの原則を述べた以上、われわれは少なくとも形式上それに従わざるをえなかった、と言っている。だが、その後(ルは英国、ソ連等の諸外国からの原則修正要求に対応し、大統領に原則の修正、緩和へ向けての働きかけを行ったが、すべて失敗に終っている。
英国およびソ連はともにヨーロッパにおいて一般市民の犠牲も伴いながら、ヒトラーと死闘を演じている立場から、ドイツとの戦を長引かせる可能性のある無条件降伏原則には賛成ではなかった。
まず、英国について見てみると、カサブランカでのローズベルトの無条件降伏宣明の提案について、首相のチャーチルは賛成し、ロンドンの戦時内閣もこの考えに反対していない。ただ英国としては、戦争遂行に際して多大の米国からの援助を受けていることや、対日戦における英国に対する米国の疑念を払拭する必要性から、積極的にこの原則に賛成したというよりは、賛成せざるをえなかった、というところが真相であろう。チャーチルは、カサブランカ会議中の一九四三年一月二十日、戦時内閣への会議内容報告のところで、「米英合同参謀長会議の討議の過程で、ドイツ敗北後直ちに、英国が戦争より離脱するのではないかという懸念が米国代表によって表明されたのを知って、私は、われわれの利害関係も名誉もともにかかわっていることであり、ドイツ降伏後、英国議会と国民は、全資源を日本の降伏に向けることを決意していることについて明確に述べることが正しいと思った」と書いている。英国としては、米国との戦時における関係からしても、ドイツとの戦争終結後、日本との戦争から英国が離脱するのではないかという疑念を米国からもたれている以上、そのことを全面否定するため、日本とも最後まで、無条件降伏にいたるまで、戦争を継続するとの決意を表明する必要があったろう。その意味で、ドイツと同様、日本との戦争終結方式として、ローズベルトが提案した無条件降伏原則に賛成せざるをえなかったのである。しかし、このカサブランカでの宣明後、マスコミ等をへて広く無条件降伏原則が流布され、戦争終結方式として、この原則が一般化するとともに、これが戦争終結を困難にするとの観点から、英国外務省はこの原則の意味の明確化を通して、修正への米国政府に対する働きかけを強めることになる。
次にソ連であるが、一九四三年十一月のテヘラン会議の際に、スターリンは、無条件降伏原則を批判し、その修正の提案をしている。まず十一月二十八日のローズベルト、チャーチル、スターリンの三国首脳会議の際に、米国側の通訳として会議に出席していたボーレンの覚書によると、スターリンは次のように述べたという。
「戦時の措置として、スターリン元師は、ドイツに課される正確な条件について何ら明らかにされていない無条件降伏の妥当性について問題にした。彼は、無条件降伏の意味を明らかにしないままにしておくことは、ただドイツ国民を結束させることになるだけである。それに反して、どんな厳しいものであれ、明確な条件を作成し、この条件がドイツ国民にとって受け入れなければならないものであることを彼らに告げることは、自分の意見では、ドイツの降伏を早めることになるであろう、との所感を述べた」。
ソ連としては、ドイツの大軍を真正面から受けとめ、多大の将兵と一般市民の人的及び物的損失も出しているところから、ドイツとの戦争については、できる限り早期に終結させることを望んでおり、そのために米国に対して、無条件降伏の修正を試みたが、英国同様失敗している。
英・ソの意向を受け、ハルもローズベルトに原則修正提案を試みたが、ローズベルトは、この原則の意味の明確化を問われた際には、常にグラント(--南北戦争時の北軍の総司令官--)とリー(--南軍の総司令官--)の米国の南北戦争時の故事をもち出し、その故事によって無条件降伏の意味が分かると答えている。ローズベルトが、無条件降伏の意味を問われるたびにもち出したグラントとリーの故事について、もっとも詳しく説明したのは、一九四四年七月二十九日のホノルルにおける記者会見の席上においてであった。そこで彼は次のように語っている。
「もしわれわれが『無条件降伏』という言葉を変えたならば、ドイツはもっと早く降伏するだろうという教養のある高潔な人たちによる多くの批判がなされている。・・・・・・彼らはそれ(無条件降伏)が厳し過ぎるし、思いやりがないとして批判している。このことについて少しばかり説明しておこう。
話は一八六五年のことにもどるが、リーはアポマトックス・コートハウスにおいて、リッチモンドのコーナーバックに追いつめられた。彼の軍隊は飢餓状態にあり、二、三日間眠らず、武器、弾薬も事実上使いきっていた。
そこで、リーは、休戦の白旗をかかげ、部下のことを考えて、グラントのもとへ行き、グラントに降伏条件を問うた。
グランドは、『無条件降伏』と言った。
リーは、『それは出来ない。自分としてはなにがしかの物を得なければならない。たとえば、自分の軍隊の食糧は一食以上も残っていない』と言った。
グラントは、『それはひどいことだ』と答えた。
リーは、さらに、『私の騎兵たちの馬はわれわれのものではなく、われわれの将兵のものであり、彼らはその各自の馬を故郷に連れて帰らなければならない』と述べた。
グラントは、再び『無条件降伏』と言った。
リーは、『分かりました。私は降伏します』と言って、彼の剣をグラントに差し出した。
グラントは、『ボブ、その剣をしまいなさい。さて、あなたは無条件に降伏するのですか』と問うた。
リーは、『そうです』と言った。
それから、グラントは、『それでは、あなたがたは、もう私の捕虜です。あなたは、部下の将兵のために食糧が必要なのですか』と問うた。
リーは、『そのとおりです』と答えた。
次にグラントは『さて、南軍の将兵の馬のことだが、なぜ馬を必要としているのですか』と問うた。
リーは、『われわれは、馬を春の耕作用に必要としています』と答えた。
グラントは、『あなたの将兵に、馬を故郷に連れ帰って、春の耕作を行うように言ってください』と言った。
これが、われわれが言うところの無条件降伏の意味だ」。
ローズベルトは、このようにまるでグラントとリーの降伏の場面に居合わせたかのように、その両者の会話の内容を再現しているが、ハルは、「ローズベルトは、米国史について幅広い知識をもっており、彼はその歴史を徹底して研究していた。しかし、グラントが無条件降伏を要求したのは、アポマトックスではなく、一八六二年のフォート・ド・ネルソンであり、その時に無条件降伏を受け入れた相手は、(リーではなく)バックナー将軍であった)と記している。
ボーレンも同様、口ースベルトの事実誤認を指摘し、「ローズベルトは、若干、南北戦争の歴史について取り違えていた」と述べている。無条件降伏の意味として、彼がこの故事について詳しく語っているが、その話の内容から、彼が無条件降伏の意味についてどのように考えていたかが推察できる。つまり、ローズベルトが考えていた無条件降伏とは、戦争において、まず敵国側の敗者が無条件降伏を宣言し、その後の敗者の取り扱いについては、場合によっては、勝者による敗者に対する寛大な取り扱いもありうるということである。具体的に敵国である枢軸国について考えると、ローズベルトは、ドイツ、日本といった枢軸国が一切の条件をつけず文字通りに無条件降伏を宣明することであり、このことが先決で、その後に場合によっては寛大な処置もありうるということを、グラントとリーの故事によって説明したのである。
いずれにせよ、ローズベルトの意味するところの無条件降伏は、ともかく敗者がまず無条件で降伏することを求めており、無条件降伏という言葉のもう一つの可能な解釈である、勝者が敗者に一定の条件を明らかにし、敗者がその条件を無条件に受け入れるとするいわゆる『条件付無条件降伏論』の立場は明確に否定したといえよう。従って、ローズベルトは、無条件降伏の意味を事前に枢軸国に明らかにするようにという要求に対しては、その意味内容について具体的に語ることは、勝者側の敗者への降伏条件の提示ともなりかねないところから、頑強に拒否したのである。
無条件降伏は、ローズベルトの確固とした政策表明であり、彼はこの原則を修正・緩和してはどうかという要求に対しては最後まですべて拒否し続けた。ローズベルトの側近であったローゼンマン判事は、「無条件降伏の政策が戦争を長引かせることになるとする批判にもかかわらず、大統領がこの原則についてぶれたことは一度もなかった」と回想している。
トルーマンが大統領に就任して間もなくの一九四五年五月八日、ドイツが無条件降伏し、ヨーロッパの戦争が終わり、米国にとって残るは、対日戦争のみとなった。トルーマンは、五月八日、ヨーロッパの戦争終結報告のラジオ演説で、「われわれの勝利はまだ半分にしか過ぎず」、引き続き、極東の戦争を終わらせるための努力を米国民に呼びかけている。トルーマン自身、回顧録で、「この当時、私がいちばん考えていたことは、いかに早く太平洋の戦争を終わらせるかということであった」と語っている。対日戦争の早期終結は、トルーマン政権の最大の課題であった。当時、日本を降伏させるための方策として、おおむね政権の中枢内で、次のような四つの案が浮上していた。すなわち、①日本本土侵攻、②ソ連の対日参戦、③原爆投下、⑩日本に受け入れ可能な条件を含んだ対日降伏勧告、である。
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未唯空間目次概要見直し 第8章 私の現象学
8.1 販売店
1. 中間の役割
2. 場を設定
3. リアルな場
4. バーチャルな場
8.2 クルマ
1. 車を売る
2. インフラとの関係
3. クルマを使う
4. 生存条件
8.3 地域
1. 市民と国の中間
2. 市民の情報共有
3. 国から自律分散
4. 地域の課題
8.4 市民
1 .個人としての市民
2. 市民の武器
3. コミュニティ
4. 市民の進化
8.5 情報共有
1. メッセージ
2. リアルタイム
3. 社会とつながる
4. 問えば応える
8.6 配置
1. 中間がヘッド
2. クラウド支援
3. 内なる世界
4. 社会との関係
8.7 分化ツール
1. スマホ
2. ブログ
3. メディア
4. 高度サービス
8.8 統合の概念
1. 公共意識
2. コンパクト化
3. 総合体系
4. シェア社会
1. 中間の役割
2. 場を設定
3. リアルな場
4. バーチャルな場
8.2 クルマ
1. 車を売る
2. インフラとの関係
3. クルマを使う
4. 生存条件
8.3 地域
1. 市民と国の中間
2. 市民の情報共有
3. 国から自律分散
4. 地域の課題
8.4 市民
1 .個人としての市民
2. 市民の武器
3. コミュニティ
4. 市民の進化
8.5 情報共有
1. メッセージ
2. リアルタイム
3. 社会とつながる
4. 問えば応える
8.6 配置
1. 中間がヘッド
2. クラウド支援
3. 内なる世界
4. 社会との関係
8.7 分化ツール
1. スマホ
2. ブログ
3. メディア
4. 高度サービス
8.8 統合の概念
1. 公共意識
2. コンパクト化
3. 総合体系
4. シェア社会
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コミュニケーションとしてのジャーナリズム論
『メディアがつくる現実、メディアをめぐる現実』より 現代社会におけるジャーナリズム、ジャーナリズム論 現代のインターネット社会においてジャーナリズム論は成立するのか?
ジャーナリズム論の「吸引力」--なぜジャーナリズムは批判されるのか?
ジャーナリズムは事件・出来事を報道・論評することで社会問題を構築・構成し、ジャーナリズム論はそうしたジャーナリズムを論評する。したがってジャーナリズム論は間接的に事件・出来事を論評(・報道)しているといえる。事件・出来事(そして社会問題)を「正しく」伝えるジャーナリズムは賞賛され、そうではないものは批判の対象となる。こうした批判的なジャーナリズム論は、研究者の論文・解説、論壇誌などの評論や記事、書籍などでも展開されているが、そうした非マスーメデ″ア上で展開されているものは、相対的には大きな社会的機能・影響を果たしているとは言い難い。
一方、第5章で考察したように、マスーコミュニケーシ’ン過程で展開されるジャーナリズム批判は事件・出来事の推移に大きな影響を与えることもある。ジャーナリズムが社会問題を「特定の形」で構築・構成しているように、ジャーナリズム論もまた間接的には、社会問題を「特定の形」で構築・構成することに加担している。
もっとも、ジャーナリズム論には独自の枠組みが存在する。それがジャーナリズム論を語ることの「吸引力」となっている。ジャーナリズム論は、ジャーナリズムのように事件・出来事について素早く、そして詳細に事実やデータを伝えるというよりは、そうした事件・出来事(そしてそれを伝えるジヤーナリズム)を、ジャーナリズム論の枠組みで処理することによって、特定の現実を構築・構成する。例えば第5章で取り上げた「ニュースステーシEン問題」であれば、「表現の自由」、「政治権力の介入」、「風評被害」といういわゆるジャーナリズムの規範的な枠組みで、この問題は論じられた。
もちろん既存のジャーナリズムを批判的に論じることは、現代を生きる市民(や「識者」)の社会的責任であるし、それがジャーナリズムを語るという行為を正当化している。しかしそれはジャーナリズムが社会問題を構築・構成するのと同様、もしくは既存のジャーナリズムの規範的枠組みに引き寄せて語る(語ってしまう)という点では、ジャーナリズム以上に社会問題を特定の形で構築・構成する、いいかえれば他の構築・構成の可能性を排除する可能性のある行為なのである。
コミュニケーションとしてのジャーナリズム論
もっともジャーナリズム論(ジャーナリズムを語ること)が誘発される理由は、前述のような民主主義社会における市民の規範的意識によるものだけではないだろう。このことについて考えるために、ジャーナリズム論もまたジャーナリズムと同様にコミュニケーションであることに注目し、コミュニケーション研究の枠組みで「ジャーナリズムを語る」という行為を位置づけなおしてみたい。
デュス・マクウェールは、コミュニケーションをとらえるモデルとして、①伝達モデル、②儀礼モデル、③公示モデル、④受容モデルに分類している。このうち特に①と②のモデルを対比させながら、ジャーナリズム論の社会的な機能・役割を考えてみたい。
①伝達モデル:コミュニケーションを伝達過程としてとらえ、そこで伝達されるメッセージの意味は送り手や情報源によって決定されるものとみなす。
②表現・儀礼モデル:コミュニケーションを一方向的な伝達としてよりも、双方向的なものとみなす。さらに送り手・受け手の間の内面的な「満足」、コミュニケーションの道具的な利用ではなく、コミュニケーションそれ自体を楽しむために行われるものとみなす。
③公示モデル:コミュニケーションを、受け手からの視角的・聴覚的な注目を集めるために行われるものとしてみなす。
④受容モデル:メディアから発せられたメッセージの意味を構築する主体は(送り手ではなくむしろ)受け手の側にあるとみなすコミュニケーション観をとる。
一般的にコミュニケーションとは、メッセージや情報を伝達するためになされているとみなされることが多い。それは送り手が発した情報が(場合によってはメディアを介して)受け手に到達し、その結果、受け手の行動・態度、意見や認識を変化させるというコミュニケーションを一方向的に考える①伝達モデルである。このモデルの観点から、ジャーナリズム論をコミュニケーションの一種としてとらえなおしてみると次のようになる。すなわち、ジャーナリズムを論じる者(送り手)が、メッセージとしての論評を発信し、その読者(受け手)がそれを受容し、なんらかの影響を受ける。ここでいう「受け手」とは(マス・)メデ″アで活動するジャーナリストや、ジャーナリズムの読者・オーディエンスが想定される。いずれにせよ「好ましくない(逸脱した・堕落した)ジャーナリズム」の関係者・当事者に対して、ジャーナリズムに関する論評をメ。セージとして伝えることで、かれらの「好ましくない行為」を是正しようとするのがジャーナリズム論である、ととらえることができるだろう。ただし前述した鶴木の指摘にもあるように、そうした「上から目線」のジャーナリズム論が、「好ましくないジャーナリズム」の関係者・当事者を「改心・改善」することができるかは疑問が残る。報道された事実の間違いを指摘するくらいであればまだしも、前述したようにジャーナリズム論の一般的争点に引き寄せられて語られる論評、さらにジャーナリズム(の送り手と受け手)を「上から目線」で見下すようなものであればなおさら、ジャーナリズムの送り手・受け手に影響を与えるとは想像しにくい。そういう点では鶴木が言うように「ごく少数の人々に対しては多少の教育効果」があるにすぎないと判断する方が妥当であるかもしれない。
一方、コミュニケーションは②儀礼や表現としてとらえることもできる。すなわち、=ミュニケーションとは情報を伝達するための手段として行われているというよりも、コミュニケーションそれ自体が人々の目的となっているという見方である。このモデルでは、コミュニケーションとは送り手と受け手の間で内面的な満足を得るために行われていることが強調される。コミュニケーションは、人々の間で共有されている意識や価値観、イデオロギーの確認のために行われる。つまり互いに価値観やイデオロギーを共有していること、それらが正当であることを確認するための儀式としてコミュニケーシEンが行われており、コミュニケーションはそれ自体が目的になっている。コミュニケーションは、送り手から受け手へ情報を伝達するというよりも、送り手の有している価値観を表明するという一種の「演技」であり、受け手はその「演技」を見ることで、経験を共有する。そして価値観を確認しあい、互いの関係を維持・強化している。
表現・儀礼モデルの観点に立った場合、ジャーナリズム論とは論評対象とされるジャーナリズムの送り手や受け手に対して向けられたものではなくなる。ジャーナリズム〝論〟の受け手に対して論評という表現の儀式が行われ、受け手はその儀式を見ることによって、ジャーナリズム〝論〟の送り手と受け手の間で意識や価値観の確認が行われているととらえることができる。そもそもジャーナリズムの活動自体が一種の価値観の再生産(変化も含む)過程を内包している。さらにそのジャーナリズムを論じるジャーナリズム論は、あるジャーナリズムによって再生産される価値観に(賛同するにせよ反対するにせよ)刺激を受けた人々の間でなされる一種の儀式としてとらえられるだろう。
言い換えれば、あるジャーナリズムの過程で再生産されている価値観・イデオロギーに賛同できない人々の間で、そうしたジャーナリズムに対して否定的な論評が儀式として行われることで、かれらの間で共有されている価値観の保守・維持が図られる。一方、ある集団にとって好ましい価値観がジャーナリズムで再生産されているとみなされる場合には、それを賞賛するジャーナリズム論がなされることでかれらの間で共有されている価値観が維持・再生産されるのである。
ジャーナリズム論とはジャーナリズム活動をメタの次元から論じるものであるが、それはジャーナリズムの過程(送り手・受け手の間の相互行為)に対して影響を及ぼしてそれを「改善」させるためになされているというよりは、むしろそうしたジャーナリズムを「尻目に」・「傍らに」特定の価値観・イデオロギーを共有する者たちの間でなされる一種の儀式・表現行為として位置づけられる。したがって、異なる価値観・イデオロギー(例えば親政府・反政府の違い、特定の社会問題に対するスタンスの違い)に基づくジャーナリズム論の間で「対話」が行われているようには見えないのも、前述したジャーナリズム論の機能・役割を考えれば納得できるものである。そしてそれがジャーナリズム評論のもう一つの「吸引力」の要因ではないだろうか。
ジャーナリズム論の「吸引力」--なぜジャーナリズムは批判されるのか?
ジャーナリズムは事件・出来事を報道・論評することで社会問題を構築・構成し、ジャーナリズム論はそうしたジャーナリズムを論評する。したがってジャーナリズム論は間接的に事件・出来事を論評(・報道)しているといえる。事件・出来事(そして社会問題)を「正しく」伝えるジャーナリズムは賞賛され、そうではないものは批判の対象となる。こうした批判的なジャーナリズム論は、研究者の論文・解説、論壇誌などの評論や記事、書籍などでも展開されているが、そうした非マスーメデ″ア上で展開されているものは、相対的には大きな社会的機能・影響を果たしているとは言い難い。
一方、第5章で考察したように、マスーコミュニケーシ’ン過程で展開されるジャーナリズム批判は事件・出来事の推移に大きな影響を与えることもある。ジャーナリズムが社会問題を「特定の形」で構築・構成しているように、ジャーナリズム論もまた間接的には、社会問題を「特定の形」で構築・構成することに加担している。
もっとも、ジャーナリズム論には独自の枠組みが存在する。それがジャーナリズム論を語ることの「吸引力」となっている。ジャーナリズム論は、ジャーナリズムのように事件・出来事について素早く、そして詳細に事実やデータを伝えるというよりは、そうした事件・出来事(そしてそれを伝えるジヤーナリズム)を、ジャーナリズム論の枠組みで処理することによって、特定の現実を構築・構成する。例えば第5章で取り上げた「ニュースステーシEン問題」であれば、「表現の自由」、「政治権力の介入」、「風評被害」といういわゆるジャーナリズムの規範的な枠組みで、この問題は論じられた。
もちろん既存のジャーナリズムを批判的に論じることは、現代を生きる市民(や「識者」)の社会的責任であるし、それがジャーナリズムを語るという行為を正当化している。しかしそれはジャーナリズムが社会問題を構築・構成するのと同様、もしくは既存のジャーナリズムの規範的枠組みに引き寄せて語る(語ってしまう)という点では、ジャーナリズム以上に社会問題を特定の形で構築・構成する、いいかえれば他の構築・構成の可能性を排除する可能性のある行為なのである。
コミュニケーションとしてのジャーナリズム論
もっともジャーナリズム論(ジャーナリズムを語ること)が誘発される理由は、前述のような民主主義社会における市民の規範的意識によるものだけではないだろう。このことについて考えるために、ジャーナリズム論もまたジャーナリズムと同様にコミュニケーションであることに注目し、コミュニケーション研究の枠組みで「ジャーナリズムを語る」という行為を位置づけなおしてみたい。
デュス・マクウェールは、コミュニケーションをとらえるモデルとして、①伝達モデル、②儀礼モデル、③公示モデル、④受容モデルに分類している。このうち特に①と②のモデルを対比させながら、ジャーナリズム論の社会的な機能・役割を考えてみたい。
①伝達モデル:コミュニケーションを伝達過程としてとらえ、そこで伝達されるメッセージの意味は送り手や情報源によって決定されるものとみなす。
②表現・儀礼モデル:コミュニケーションを一方向的な伝達としてよりも、双方向的なものとみなす。さらに送り手・受け手の間の内面的な「満足」、コミュニケーションの道具的な利用ではなく、コミュニケーションそれ自体を楽しむために行われるものとみなす。
③公示モデル:コミュニケーションを、受け手からの視角的・聴覚的な注目を集めるために行われるものとしてみなす。
④受容モデル:メディアから発せられたメッセージの意味を構築する主体は(送り手ではなくむしろ)受け手の側にあるとみなすコミュニケーション観をとる。
一般的にコミュニケーションとは、メッセージや情報を伝達するためになされているとみなされることが多い。それは送り手が発した情報が(場合によってはメディアを介して)受け手に到達し、その結果、受け手の行動・態度、意見や認識を変化させるというコミュニケーションを一方向的に考える①伝達モデルである。このモデルの観点から、ジャーナリズム論をコミュニケーションの一種としてとらえなおしてみると次のようになる。すなわち、ジャーナリズムを論じる者(送り手)が、メッセージとしての論評を発信し、その読者(受け手)がそれを受容し、なんらかの影響を受ける。ここでいう「受け手」とは(マス・)メデ″アで活動するジャーナリストや、ジャーナリズムの読者・オーディエンスが想定される。いずれにせよ「好ましくない(逸脱した・堕落した)ジャーナリズム」の関係者・当事者に対して、ジャーナリズムに関する論評をメ。セージとして伝えることで、かれらの「好ましくない行為」を是正しようとするのがジャーナリズム論である、ととらえることができるだろう。ただし前述した鶴木の指摘にもあるように、そうした「上から目線」のジャーナリズム論が、「好ましくないジャーナリズム」の関係者・当事者を「改心・改善」することができるかは疑問が残る。報道された事実の間違いを指摘するくらいであればまだしも、前述したようにジャーナリズム論の一般的争点に引き寄せられて語られる論評、さらにジャーナリズム(の送り手と受け手)を「上から目線」で見下すようなものであればなおさら、ジャーナリズムの送り手・受け手に影響を与えるとは想像しにくい。そういう点では鶴木が言うように「ごく少数の人々に対しては多少の教育効果」があるにすぎないと判断する方が妥当であるかもしれない。
一方、コミュニケーションは②儀礼や表現としてとらえることもできる。すなわち、=ミュニケーションとは情報を伝達するための手段として行われているというよりも、コミュニケーションそれ自体が人々の目的となっているという見方である。このモデルでは、コミュニケーションとは送り手と受け手の間で内面的な満足を得るために行われていることが強調される。コミュニケーションは、人々の間で共有されている意識や価値観、イデオロギーの確認のために行われる。つまり互いに価値観やイデオロギーを共有していること、それらが正当であることを確認するための儀式としてコミュニケーシEンが行われており、コミュニケーションはそれ自体が目的になっている。コミュニケーションは、送り手から受け手へ情報を伝達するというよりも、送り手の有している価値観を表明するという一種の「演技」であり、受け手はその「演技」を見ることで、経験を共有する。そして価値観を確認しあい、互いの関係を維持・強化している。
表現・儀礼モデルの観点に立った場合、ジャーナリズム論とは論評対象とされるジャーナリズムの送り手や受け手に対して向けられたものではなくなる。ジャーナリズム〝論〟の受け手に対して論評という表現の儀式が行われ、受け手はその儀式を見ることによって、ジャーナリズム〝論〟の送り手と受け手の間で意識や価値観の確認が行われているととらえることができる。そもそもジャーナリズムの活動自体が一種の価値観の再生産(変化も含む)過程を内包している。さらにそのジャーナリズムを論じるジャーナリズム論は、あるジャーナリズムによって再生産される価値観に(賛同するにせよ反対するにせよ)刺激を受けた人々の間でなされる一種の儀式としてとらえられるだろう。
言い換えれば、あるジャーナリズムの過程で再生産されている価値観・イデオロギーに賛同できない人々の間で、そうしたジャーナリズムに対して否定的な論評が儀式として行われることで、かれらの間で共有されている価値観の保守・維持が図られる。一方、ある集団にとって好ましい価値観がジャーナリズムで再生産されているとみなされる場合には、それを賞賛するジャーナリズム論がなされることでかれらの間で共有されている価値観が維持・再生産されるのである。
ジャーナリズム論とはジャーナリズム活動をメタの次元から論じるものであるが、それはジャーナリズムの過程(送り手・受け手の間の相互行為)に対して影響を及ぼしてそれを「改善」させるためになされているというよりは、むしろそうしたジャーナリズムを「尻目に」・「傍らに」特定の価値観・イデオロギーを共有する者たちの間でなされる一種の儀式・表現行為として位置づけられる。したがって、異なる価値観・イデオロギー(例えば親政府・反政府の違い、特定の社会問題に対するスタンスの違い)に基づくジャーナリズム論の間で「対話」が行われているようには見えないのも、前述したジャーナリズム論の機能・役割を考えれば納得できるものである。そしてそれがジャーナリズム評論のもう一つの「吸引力」の要因ではないだろうか。
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361.45『コミュニケーションの強化書』
689.3『超・インバウンド論』
687.7『日航機123便墜落 最後の証言』
673.86『コンビニオーナーになってはいけない』便利さの裏側に隠された不都合な真実
124.2『くまのプーさん 心にハチミツを』超訳『老子』『荘子』
304『AI時代の仕事図鑑』物語でわかる
307『社会科学系論文の書き方』
983『白痴4』
209『文字と組織の世界史』新しい「比較文明史」のスケッチ
130.2『試験に出る哲学』「センター試験」で西洋思想に入門する
319.53『米国と日本の天皇制1943-1946』
311.7『#リパブリック』インターネットは民主主義になにをもたらすのか
336『AI時代のコンサル業界 消えるファーム、生き残るファーム』
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336.17『セブン-イレブンとヤマト運輸のIT戦略分析』業界リーダーが持続的競争力をつくるメカニズム
391.2『太平洋戦争大全[陸上戦編]』
361.45『マス・コミュニケーション単純化の論理』テレビで視る時は、直感リテラシーで
227『「中東」の世界史』西洋の衝撃から紛争・テロの時代まで
367.1『説教したがる男たち』
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289.3『カール・マルクス入門』
134.53『マルクス「資本論」の哲学』物象化論と疎外論の問題講制
726.6『人生を彩る幸福のエッセンス』
289.2『カンディーとチャーチル 下 1929-1965』
367.9『地図とデータで見る 性と世界ハンドブック』
809.6『議論学への招待』建設的なコミュニケーションのために
024.04『奇跡の本屋をつくりたい』くすみ書房のオヤジが残したもの
786.18『死に山』世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相
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