未唯への手紙
未唯への手紙
OCR化した6冊
『メディアがつくる現実、メディアをめぐる現実』
現代社会におけるジャーナリズム、ジャーナリズム論
「ジャーナリズム」の構築・構成過程の変容
マス・コミュニケーション過程をめぐる現実の構築・構成
「問題ある社会過程」としてのマス・コミュニケーション
マス・コミュニケーションではない社会過程への期待‥情報(化)社会論
マス・コミュニケーションではないコミュニケーションの「問題」
能動性を持った「大衆(マス)」とマス・メディア、ジャーナリズム
「支配的な大衆」は依然として存在しているのか?
現代のインターネット社会においてジャーナリズム論は成立するのか?
ジャーナリズム論の社会的〝機能〟
ジャーナリズム論の「吸引力」一なぜジャーナリズムは批判されるのか?
コミュニケーションとしてのジャーナリズム論
「ジャーナリズムを論じること」の困難
『米国と日本の天皇制1943-1946』
トルーマンの日本打倒計画
ローズベルトの無条件降伏
カサブランカでの宣明
無条件降伏原則宣明の背景
無条件降伏原則への批判と修正の動き
『「中東」の世界史』
はじめに--一九七九年という転換点
アラブ・イスラエル紛争以後のアラブ世界
イラン革命からイラン・イラク戦争ヘ--中東紛争の二っ目の中心
ホメイニーの思想--法学者による統治
シーア派とスンナ派
イラン革命は何を変えたのか?
イスラームは一つではない
イスラーム過激派の源流--クトゥブ主義の登場
「原理主義」と宗教復興
アメリカの中東戦略のダブル・スタンダード
米ソ冷戦後の新たな危機
『文字と組織の世界史』
「ネイション・ステイト」と「ナショナリズム」を克服する試み--「ヨーロッパ統一」の実験とイスラム世界
ヨーロッパ統一の夢
「ラテン文字世界の統合」としてのEC、EU
ナショナリズムを克服する世界史的な試み
国際法上の「正式」な戦争はなぜ減ったか
イスラム世界における民族主義を超える試み
パン・イスラム主義と「イスラム国」運動
よみがえる「巨龍」中国と「巨象」インド、そして日本--近未来の「世界史」
「アジア・アフリカの世紀」の到来
民族主義としてのナショナリズムの時代
「第三世界」の状況
文化世界の周辺から始まる「改革」
政治的統合のコストが小さかった日本
日本の経済的台頭と「アジアの四小龍」
臥龍転じて昇龍となる--中国
「東アジア共同体」は実現するか
巨象も再び歩み始める--インド
インドが実現した国民国家としての安定性
近未来の三文化世界・四大主柱
自然環境と政治体の特性
西の「動物的世界」、東の「植物的世界」
『デカルト』
情念
『試験に出る哲学』
大衆社会と科学技術を批判せよ! ハィデガーの存在論
「言語ゲーム」って何だ? ウィトゲンシュタインの軌跡
理想の共同体はいかに生まれるのか? ヘーゲルの歴史観
現代社会におけるジャーナリズム、ジャーナリズム論
「ジャーナリズム」の構築・構成過程の変容
マス・コミュニケーション過程をめぐる現実の構築・構成
「問題ある社会過程」としてのマス・コミュニケーション
マス・コミュニケーションではない社会過程への期待‥情報(化)社会論
マス・コミュニケーションではないコミュニケーションの「問題」
能動性を持った「大衆(マス)」とマス・メディア、ジャーナリズム
「支配的な大衆」は依然として存在しているのか?
現代のインターネット社会においてジャーナリズム論は成立するのか?
ジャーナリズム論の社会的〝機能〟
ジャーナリズム論の「吸引力」一なぜジャーナリズムは批判されるのか?
コミュニケーションとしてのジャーナリズム論
「ジャーナリズムを論じること」の困難
『米国と日本の天皇制1943-1946』
トルーマンの日本打倒計画
ローズベルトの無条件降伏
カサブランカでの宣明
無条件降伏原則宣明の背景
無条件降伏原則への批判と修正の動き
『「中東」の世界史』
はじめに--一九七九年という転換点
アラブ・イスラエル紛争以後のアラブ世界
イラン革命からイラン・イラク戦争ヘ--中東紛争の二っ目の中心
ホメイニーの思想--法学者による統治
シーア派とスンナ派
イラン革命は何を変えたのか?
イスラームは一つではない
イスラーム過激派の源流--クトゥブ主義の登場
「原理主義」と宗教復興
アメリカの中東戦略のダブル・スタンダード
米ソ冷戦後の新たな危機
『文字と組織の世界史』
「ネイション・ステイト」と「ナショナリズム」を克服する試み--「ヨーロッパ統一」の実験とイスラム世界
ヨーロッパ統一の夢
「ラテン文字世界の統合」としてのEC、EU
ナショナリズムを克服する世界史的な試み
国際法上の「正式」な戦争はなぜ減ったか
イスラム世界における民族主義を超える試み
パン・イスラム主義と「イスラム国」運動
よみがえる「巨龍」中国と「巨象」インド、そして日本--近未来の「世界史」
「アジア・アフリカの世紀」の到来
民族主義としてのナショナリズムの時代
「第三世界」の状況
文化世界の周辺から始まる「改革」
政治的統合のコストが小さかった日本
日本の経済的台頭と「アジアの四小龍」
臥龍転じて昇龍となる--中国
「東アジア共同体」は実現するか
巨象も再び歩み始める--インド
インドが実現した国民国家としての安定性
近未来の三文化世界・四大主柱
自然環境と政治体の特性
西の「動物的世界」、東の「植物的世界」
『デカルト』
情念
『試験に出る哲学』
大衆社会と科学技術を批判せよ! ハィデガーの存在論
「言語ゲーム」って何だ? ウィトゲンシュタインの軌跡
理想の共同体はいかに生まれるのか? ヘーゲルの歴史観
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理想の共同体はいかに生まれるのか? ヘーゲルの歴史観
『試験に出る哲学』より
次に引用する問題は、ゲオルク・ヘーゲル(一七七〇~二八三こが唱えた重要な概念である「人倫」について問うものです。この概念は、法や道徳を論じた『法の哲学』という著作のなかに登場しました。本節ではこの問題を導きに、ヘーゲル哲学の特徴である弁証法をふまえて、人倫について見ていきましょう。
問 人倫という概念で道徳を捉え直した思想家にヘーゲルがいる。ヘーゲルの人倫についての説明として最も適当なものを、次の0~④のうちから一つ選べ。
①欲望の体系である市民社会のもとでは、自立した個人が自己の利益を自由に追求する経済活動が営まれるなかで、内面的な道徳も育まれるために、人倫の完成がもたらされる。
②人間にとって客観的で外面的な規範である法と、主観的で内面的な規範である道徳は、対立する段階を経て、最終的には、法と道徳を共に活かす人倫のうちに総合される。
③国家によって定められる法は、人間の内面的な道徳と対立し、自立した個人の自由を妨げるものなので、国家のもとで人々が法の秩序に従うときには、人倫の喪失態が生じる。
④夫婦や親子など、自然な愛情によって結び付いた関係である家族のもとでは、国家や法の秩序のもとで失われた個人の自由と道徳が回復され、人倫の完成がもたらさる。
(二〇一八年・センター本試験 第4問・問1)
ヘーゲルが描いた精神の成長物語
ヘーゲルの哲学では、「精神(ガイスト)」という概念が特別に重要な意味をもっています。というのも、精神は、単に事物を認識するだけではなく、自分自身を反省する能力もともなうからです。たとえば食事をしているとき、私たちは夢中になって食べることもあるけれど、「食事をしている自分」を考えることもできる。「いまの食べ方、ちょっと下品だったかな」と、反省することもあるでしょう。つまり、対象に没入するだけでなく、行為そのものを振り返るような反省的な意識をもつことができるのです。
ヘーゲルの主著『精神現象学』は、このような反省的な思考を糧として、精神が、意識→自己意識→理性へと成長していくプロセスを描いていくものです。その点では、『精神現象学』は、精神を主人公とする成長小説のように読むことができる作品です。
ヘーゲルの描く精神の成長プロセスは、カントの哲学と比較するとよくわかるでしょう。カントの場合、人間が自然の法則を理解できるのは、人間の側にあらかじめ、自然を法則的に理解する認識の枠組みが備わっているからでした。いわば人間はみな、自然科学のサングラスをつけている。逆にいえば、このサングラスは外すことはできないので、自然そのものの姿を認識することはできません。
それに対してヘーゲルが描く精神の成長とは、サングラスの能力が拡大していくことを意味します。たとえば、素人が見るリンゴと、農家が見るリンゴでは、明らかに農家のはうが一つのリンゴから多くのことを知ることができるでしょう。ということは、精神が成長することは、対象(リンゴ)がその姿を変えていくことでもあるのです。
しかもその対象は、物理的な自然に限定されません。自分というものの存在、他者との人間関係や社会制度、文化、宗教など、世界のありとあらゆる事象が、精神(サングラス)の成長とともに理解されていく。したがって、私の精神が成長して、世界のことを多く知れば知るほど、世界の側も新たな表情を帯びていくことになるわけです。
世界史とは自由が拡大していくプロセスである
ヘーゲル哲学の特徴は、こうした精神の成長を、歴史の発展として描き出す点にもあります。
ヘーゲルによれば、精神の本質は自由であり、「世界史とは自由の概念の発展にほかならない」(『歴史哲学講義(下)』長谷川宏訳、岩波文庫、三七三頁)。たとえば古代の東洋では、専制君主ひとりだけが自由だったのに対して、古代ギリシャでは少数の市民が自由を享受するようになりました。さらに近代社会になると、身分制は崩壊し、万人に自由が保障されるようになります。
こうした自由が拡大していく歴史を、ヘーゲルは「世界精神」という概念で語っていきます。世界精神とは、歴史を通じて現れる精神のことです。このように言うと、なにやらオカルトめいた話に聞こえるかもしれませんが、私たちも、ヘーゲルと同じような意味で精神という言葉をよく使っています。たとえば、「トヨタの精神」「二〇世紀の精神」「古代ギリシャの精神」というふうに、精神は集団や時代に宿るものでもあるのです。それを歴史全体に拡大したものが世界精神にほかなりません。
一八○六年に、ヘーゲルはドイツに侵入するナポレオンを目撃し、「今日ぼくは、馬上の世界精神を見た!」と手紙で綴っています。世界精神は、それぞれの時代において、有名無名の人々の行為を通じて自らの本質である自由を実現していくのです。
人倫とは「理想の共同体」
弁証法の具体例として、ヘーゲルの「人倫」(倫理)に関する議論を見てみましょう。
ヘーゲルにとって、世界史とは世界精神が自由を実現していくプロセスのことでした。したがってヘーゲルは、社会のなかに自由を根づかせる制度や組織がなければならないと考えます。この点は、もっぱら自由を個人の内面の問題と捉えるカントとは対照的です。
実際、ヘーゲルは『法の哲学』のなかで、「法の体系は、実現された自由の王国であり、精神自身から生み出された、第二の自然としての、精神の世界である」(『法の哲学I』藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシックス、六五頁)と述べています。つまり、ヘーゲルにとっての法とは、自由を求める人間の精神が生み出した制度にほかなりません。そして『法の哲学』では、法もまた弁証法的に展開していきます。
法はまず、外面的な法という形式で現れます。客観的な法は、人間の自由な行動を保障しますが、法があるからといって、人間の自由が社会的な善と結びつくわけではありません。
そこで、精神は外面的な法を否定して、内面的な道徳律に目を向けます。その典型は、前節で解説したカントの定言命法です。わかりやすくいえば、社会的な問題は視野の外におき、もっぱら自分が道徳的に生きればよい、と考えるわけです。
客観的な法と、それを否定する主観的な道徳--。この両者が弁証法的に統合されたあり方を、ヘーゲルは「人倫」と呼びました。人倫とは、個人の内面である道徳と、社会全体の秩序をつくる法が矛盾なく共存する共同体であり、いわば、さまざまな人間が相互に自由を承認し合うような場のことです。
家族・市民社会・国家
では、人倫とは具体的にどのような場でしょうか。
ヘーゲルによれば、人倫は、「家族」→「市民社会」→「国家」と、弁証法的に展開するといいます。
「家族」とは、愛という自然な感情で結ばれた共同体です。ヘーゲルは、「愛とは総じて私と他者とが一体であるという意識である」といいます。この一体的な共同体のなかで、その成員は互いの人格を重んじ合う。家族という共同体では、外面的なルールと内面的な道徳感情は明確に分かれることなく一体化しています。
しかし家族は、前近代的な人倫の姿であり、近代社会に入ると、家族という共同体の原理は否定され、「市民社会」へと移行していきます。というのも、家族の原理のままでは、個人が独立して自らの自由を追求することができないからです。
市民社会の原理は「欲求の体系」です。市民社会では、個々の人間は、自分の欲求を満たすことを目的に活動します。しかし、自給自足の生活には戻れないため、個々人は他者に依存しなければ、自己の欲求を満たすことはできません。
たとえば、野菜が食べたければ、野菜を育てる農家、野菜を売る八百屋さんやスーパーで働く人々に助けを借りなければなりません。このような経済的な関係が成立するためには、法の整備も必要となります。したがって市民社会では、経済活動を通じて、所有権の保護といったルールが整備され、人々が相互に結びついていくのです。
しかし、個人の自由な競争を旨とする市民社会のなかでは、必然的に貧富の差が生じてしまいます。ヘーゲルの言葉を見てみましょう。
市民社会はこうした対立的諸関係とその縺れ合いにおいて、放埓な享楽と悲惨な貧困との光景を示すとともに、このいずれにも共通の肉体的かつ倫理的な頽廃の光景を示す。(『法の哲学Ⅱ』藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシックス、九五頁)
市民社会では、家族のなかにあった人格的な結びつきは失われてしまう。人格的な結びつきを失って、倫理的に頽廃を示す市民社会のことを、ヘーゲルは「人倫の喪失態」と呼んでいます。
貧困をはじめさまざまな社会問題を抱える市民社会では、福祉行政や職業団体などが、個人の利益を管理して、貧しい人々に対して経済的救済に乗り出す必要が生まれます。その役割を担うのは「国家」でしょう。つまり、「欲求の体系」を原理とする市民社会は、自らのうちに、国家へと展開する契機を孕んでいるのです。
ただし、ヘーゲルが理想とする理性国家は、ルールにもとづき、福祉をおこなうだけでは不十分です。理性国家のもとでは、国民は、法によって家族のごとく結ばれていなければなりません。すなわち、市民社会的な個人の自立性と、家族がもつ一体性とが止揚された場が理性国家であり、こうした国家のあり方をヘーゲルは「人倫の最高形態」と呼んでいます。ヘーゲルによれば、こうした国家という段階ではじめて、真の自由が実現することになります。
なお、ここでイメージされている国家とは、啓蒙的改革が進む当時のプロイセンのことです。若き日のヘーゲルが世界精神を看取したナポレオンは程なく失脚し、一九世紀前半は保守反動的なウィーン体制がヨーロッパを支配します。当時のドイツでは、ウィーン体制に対して、自由主義的な改革とドイツ統一を求める運動が繰り広げられました。こういった状況のなかで、ヘーゲルは自らの理念をプロイセン王国に託したのです。
解答と解説
ここまで解説したように、「人倫」とは、外面的な法と内面的な道徳とが止揚されたものです。このことを理解していれば、正解は②とわかるでしょう。①は「欲望の体系である市民社会のもと」で「人倫の完成がもたらされる」としている点が誤り。③は、「国家のもとで……人倫の喪失態が生じる」が誤り。人倫の喪失態が生じるのは市民社会です。④は、家族のもとで「人倫の完成がもたらされる」としている点が誤りです。
次に引用する問題は、ゲオルク・ヘーゲル(一七七〇~二八三こが唱えた重要な概念である「人倫」について問うものです。この概念は、法や道徳を論じた『法の哲学』という著作のなかに登場しました。本節ではこの問題を導きに、ヘーゲル哲学の特徴である弁証法をふまえて、人倫について見ていきましょう。
問 人倫という概念で道徳を捉え直した思想家にヘーゲルがいる。ヘーゲルの人倫についての説明として最も適当なものを、次の0~④のうちから一つ選べ。
①欲望の体系である市民社会のもとでは、自立した個人が自己の利益を自由に追求する経済活動が営まれるなかで、内面的な道徳も育まれるために、人倫の完成がもたらされる。
②人間にとって客観的で外面的な規範である法と、主観的で内面的な規範である道徳は、対立する段階を経て、最終的には、法と道徳を共に活かす人倫のうちに総合される。
③国家によって定められる法は、人間の内面的な道徳と対立し、自立した個人の自由を妨げるものなので、国家のもとで人々が法の秩序に従うときには、人倫の喪失態が生じる。
④夫婦や親子など、自然な愛情によって結び付いた関係である家族のもとでは、国家や法の秩序のもとで失われた個人の自由と道徳が回復され、人倫の完成がもたらさる。
(二〇一八年・センター本試験 第4問・問1)
ヘーゲルが描いた精神の成長物語
ヘーゲルの哲学では、「精神(ガイスト)」という概念が特別に重要な意味をもっています。というのも、精神は、単に事物を認識するだけではなく、自分自身を反省する能力もともなうからです。たとえば食事をしているとき、私たちは夢中になって食べることもあるけれど、「食事をしている自分」を考えることもできる。「いまの食べ方、ちょっと下品だったかな」と、反省することもあるでしょう。つまり、対象に没入するだけでなく、行為そのものを振り返るような反省的な意識をもつことができるのです。
ヘーゲルの主著『精神現象学』は、このような反省的な思考を糧として、精神が、意識→自己意識→理性へと成長していくプロセスを描いていくものです。その点では、『精神現象学』は、精神を主人公とする成長小説のように読むことができる作品です。
ヘーゲルの描く精神の成長プロセスは、カントの哲学と比較するとよくわかるでしょう。カントの場合、人間が自然の法則を理解できるのは、人間の側にあらかじめ、自然を法則的に理解する認識の枠組みが備わっているからでした。いわば人間はみな、自然科学のサングラスをつけている。逆にいえば、このサングラスは外すことはできないので、自然そのものの姿を認識することはできません。
それに対してヘーゲルが描く精神の成長とは、サングラスの能力が拡大していくことを意味します。たとえば、素人が見るリンゴと、農家が見るリンゴでは、明らかに農家のはうが一つのリンゴから多くのことを知ることができるでしょう。ということは、精神が成長することは、対象(リンゴ)がその姿を変えていくことでもあるのです。
しかもその対象は、物理的な自然に限定されません。自分というものの存在、他者との人間関係や社会制度、文化、宗教など、世界のありとあらゆる事象が、精神(サングラス)の成長とともに理解されていく。したがって、私の精神が成長して、世界のことを多く知れば知るほど、世界の側も新たな表情を帯びていくことになるわけです。
世界史とは自由が拡大していくプロセスである
ヘーゲル哲学の特徴は、こうした精神の成長を、歴史の発展として描き出す点にもあります。
ヘーゲルによれば、精神の本質は自由であり、「世界史とは自由の概念の発展にほかならない」(『歴史哲学講義(下)』長谷川宏訳、岩波文庫、三七三頁)。たとえば古代の東洋では、専制君主ひとりだけが自由だったのに対して、古代ギリシャでは少数の市民が自由を享受するようになりました。さらに近代社会になると、身分制は崩壊し、万人に自由が保障されるようになります。
こうした自由が拡大していく歴史を、ヘーゲルは「世界精神」という概念で語っていきます。世界精神とは、歴史を通じて現れる精神のことです。このように言うと、なにやらオカルトめいた話に聞こえるかもしれませんが、私たちも、ヘーゲルと同じような意味で精神という言葉をよく使っています。たとえば、「トヨタの精神」「二〇世紀の精神」「古代ギリシャの精神」というふうに、精神は集団や時代に宿るものでもあるのです。それを歴史全体に拡大したものが世界精神にほかなりません。
一八○六年に、ヘーゲルはドイツに侵入するナポレオンを目撃し、「今日ぼくは、馬上の世界精神を見た!」と手紙で綴っています。世界精神は、それぞれの時代において、有名無名の人々の行為を通じて自らの本質である自由を実現していくのです。
人倫とは「理想の共同体」
弁証法の具体例として、ヘーゲルの「人倫」(倫理)に関する議論を見てみましょう。
ヘーゲルにとって、世界史とは世界精神が自由を実現していくプロセスのことでした。したがってヘーゲルは、社会のなかに自由を根づかせる制度や組織がなければならないと考えます。この点は、もっぱら自由を個人の内面の問題と捉えるカントとは対照的です。
実際、ヘーゲルは『法の哲学』のなかで、「法の体系は、実現された自由の王国であり、精神自身から生み出された、第二の自然としての、精神の世界である」(『法の哲学I』藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシックス、六五頁)と述べています。つまり、ヘーゲルにとっての法とは、自由を求める人間の精神が生み出した制度にほかなりません。そして『法の哲学』では、法もまた弁証法的に展開していきます。
法はまず、外面的な法という形式で現れます。客観的な法は、人間の自由な行動を保障しますが、法があるからといって、人間の自由が社会的な善と結びつくわけではありません。
そこで、精神は外面的な法を否定して、内面的な道徳律に目を向けます。その典型は、前節で解説したカントの定言命法です。わかりやすくいえば、社会的な問題は視野の外におき、もっぱら自分が道徳的に生きればよい、と考えるわけです。
客観的な法と、それを否定する主観的な道徳--。この両者が弁証法的に統合されたあり方を、ヘーゲルは「人倫」と呼びました。人倫とは、個人の内面である道徳と、社会全体の秩序をつくる法が矛盾なく共存する共同体であり、いわば、さまざまな人間が相互に自由を承認し合うような場のことです。
家族・市民社会・国家
では、人倫とは具体的にどのような場でしょうか。
ヘーゲルによれば、人倫は、「家族」→「市民社会」→「国家」と、弁証法的に展開するといいます。
「家族」とは、愛という自然な感情で結ばれた共同体です。ヘーゲルは、「愛とは総じて私と他者とが一体であるという意識である」といいます。この一体的な共同体のなかで、その成員は互いの人格を重んじ合う。家族という共同体では、外面的なルールと内面的な道徳感情は明確に分かれることなく一体化しています。
しかし家族は、前近代的な人倫の姿であり、近代社会に入ると、家族という共同体の原理は否定され、「市民社会」へと移行していきます。というのも、家族の原理のままでは、個人が独立して自らの自由を追求することができないからです。
市民社会の原理は「欲求の体系」です。市民社会では、個々の人間は、自分の欲求を満たすことを目的に活動します。しかし、自給自足の生活には戻れないため、個々人は他者に依存しなければ、自己の欲求を満たすことはできません。
たとえば、野菜が食べたければ、野菜を育てる農家、野菜を売る八百屋さんやスーパーで働く人々に助けを借りなければなりません。このような経済的な関係が成立するためには、法の整備も必要となります。したがって市民社会では、経済活動を通じて、所有権の保護といったルールが整備され、人々が相互に結びついていくのです。
しかし、個人の自由な競争を旨とする市民社会のなかでは、必然的に貧富の差が生じてしまいます。ヘーゲルの言葉を見てみましょう。
市民社会はこうした対立的諸関係とその縺れ合いにおいて、放埓な享楽と悲惨な貧困との光景を示すとともに、このいずれにも共通の肉体的かつ倫理的な頽廃の光景を示す。(『法の哲学Ⅱ』藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシックス、九五頁)
市民社会では、家族のなかにあった人格的な結びつきは失われてしまう。人格的な結びつきを失って、倫理的に頽廃を示す市民社会のことを、ヘーゲルは「人倫の喪失態」と呼んでいます。
貧困をはじめさまざまな社会問題を抱える市民社会では、福祉行政や職業団体などが、個人の利益を管理して、貧しい人々に対して経済的救済に乗り出す必要が生まれます。その役割を担うのは「国家」でしょう。つまり、「欲求の体系」を原理とする市民社会は、自らのうちに、国家へと展開する契機を孕んでいるのです。
ただし、ヘーゲルが理想とする理性国家は、ルールにもとづき、福祉をおこなうだけでは不十分です。理性国家のもとでは、国民は、法によって家族のごとく結ばれていなければなりません。すなわち、市民社会的な個人の自立性と、家族がもつ一体性とが止揚された場が理性国家であり、こうした国家のあり方をヘーゲルは「人倫の最高形態」と呼んでいます。ヘーゲルによれば、こうした国家という段階ではじめて、真の自由が実現することになります。
なお、ここでイメージされている国家とは、啓蒙的改革が進む当時のプロイセンのことです。若き日のヘーゲルが世界精神を看取したナポレオンは程なく失脚し、一九世紀前半は保守反動的なウィーン体制がヨーロッパを支配します。当時のドイツでは、ウィーン体制に対して、自由主義的な改革とドイツ統一を求める運動が繰り広げられました。こういった状況のなかで、ヘーゲルは自らの理念をプロイセン王国に託したのです。
解答と解説
ここまで解説したように、「人倫」とは、外面的な法と内面的な道徳とが止揚されたものです。このことを理解していれば、正解は②とわかるでしょう。①は「欲望の体系である市民社会のもと」で「人倫の完成がもたらされる」としている点が誤り。③は、「国家のもとで……人倫の喪失態が生じる」が誤り。人倫の喪失態が生じるのは市民社会です。④は、家族のもとで「人倫の完成がもたらされる」としている点が誤りです。
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デカルトの「情念」
『デカルト』より⇒サラリーマン時代で一番、精神が不安定なときにデカルトの『情念論』で救われた
感覚が明証的であるのは見かけ上のことだから、懐疑によってこれを棄却しようとするのはよいとしても、常識的に考えれば、日々の生活のなかで明証的と思われるものは揺るぎようがない。実際に、私が炉端近くのここにいて、手元にはこの紙を持ち、この手は自分のものだということを否定するのは、狂気の沙汰にちがいない。私は自分の身体を介して、自分の日常生活を構成する馴染みの事物と接点を持つ。と同時に、〔それらとの関わりで言えば〕唯一の行為者である。このように、毎日を生きていくうえで〔明証的と思われるものをいったん懐疑によって棄却する〕省察的熟考という修練が課されることはまったくない。しかしデカルトは、軍役から退きたいと打ち明ける友人に、平時だって有事と同じく危険は多いのだから、軍役から退くようなことはするな、と助言している--「私たちは数多くの避けがたき危険のなかで生きているのですから、賢明さをもってしても戦争という危険に身を晒すことを禁ずることはできないように思われます」。〔「有事には有事のように(非常事だからやむをえない)」というフランスの諺にあるように〕平時でも有事のようにしなければならないというわけである。というのも、さまざまな事物をそれらの緊急性の度合いに応じて、また、精神と身体の結合体である私たちにとってどの程度、有害かに応じて評定することは、つねひごろの心がまえとして大事だから。
そして感情と情念の役割は、「自然によって私たちに有用と定められているものを、魂が意志する」ように仕向けることである。そのかぎりで、それらが魂の〔受動的な在り方に他ならない〕感情にして情念であるというのは間接的なことでしかない。つまり、〔物体的事物だけから構成される〕自然のうちには、〔人間の〕身体〔という物体〕の求めに応えるべく精神〔のさまざまな能力〕を働かせる策略のようなものがある、ということである。〔デカルトが『情念論』のなかでそう指摘するように]もし驚きの情念が最初に[私たちの精神のうちに]沸き起こるなら、それは、魂と身体の合一体である私たちにとって〔驚きの対象となった〕事物の有用さないし有害さが測られる前に、まずこの情念によって私たちが当の事物のありのままの姿に直面させられるからである。そしてこの驚きの情念から、私たちに害悪を及ぼすものに対する憎しみの情念と、私たちに適合するものに対する愛の情念が生ずる。さらにここでは、健康に良いか悪いかを考慮するだけでなく--ただしこの基準は驚きの情念以外のすべての情念の発生理由でもあるー、時間の流れとともに変化する情念のことも挙げなければならない。つまり、将来に関する欲望という情念と、その反対に現在のことに関する喜びと悲しみという情念である。情念は、そのおかげで暮らしが生き生きしたものになるかぎりで、〔やはり精神内に生ずるが、それとは別に類型化される〕認識作用に関連づけられない時、すべて良いものとされるが、いずれも行き過ぎは免れない。つまり、その対象の〔本来の〕価値を過大に評価することで歪めてしまう力を持っているのである。そのため私たちは〔歪められた価値判断に基づいて〕、その情念が対象とする事物を「適度を超えた熱心さと心配とをもって」追い求めたり、逆に遠ざけたりしてしまうのだ。
デカルトによる「完全な道徳」とは、どのような情念であれそれを感ずることから喜びを一貫して引き出すにはどうすればよいか、自然学上の諸原理から日常生活に関わる諸規則を導き出すにはどうすればよいか、それに答えようとするものである。実際に、魂と身体からなる合一体の仕組みを明らかにするのは自然学に他ならない。自然学こそが、身体のさまざまな運動がどのように脳のなかの最小部位の一つである松果腺に受け止められ、ついで魂に伝えられ、今度はこの魂が松果腺を介して身体に運動を与えるのか、それを教えてくれる。と同時に、生理上のさまざまな機能は、血液が静脈と動脈を循環することをもって説明される。脳とそれ以外の器官、筋肉と神経に血液が行き渡るのは、血液がまさしく循環しているからである。動物精気というのは、すでにベーコンが使っている術語であり、「[身体の]熱によって〔その密度が〕希薄になった、血液のなかで最も活発で微細な部斑」のことであるか、そのおかげで精神と身体のあいだの相互作用は保たれる。したがって、動物精気の状態に変化が生ずれば、魂にも影響が及ぶ。動物精気が溢れんばかりであれば、高邁という情念が生ずるし、それに抑制がかかれば、欲望という情念が生ずるのである。もし情念が、身体に生じたさまざまな変調を原因として身体のほうではなく魂のほうに生ずる反動のことなら、魂もまた、「身体のあらゆる部位と結合している」かぎりで、その作用を身体のほうに及ぼす。その際に中継地の役割を果たすのが松果腺である。この松果腺の機能を強調するにせよ、〔たとえばスピノザ『エチカ』第五部におけるょうに〕皮肉るにせよ、これまでそうされるばかりで、デカルトが脳を重視していたことそれ自体の重要性は見過ごされてきた。脳は、〔身体器官に生ずる〕感覚を〔精神の受け止める〕情報に転換し、〔精神の領分である〕意志作用を〔身体上の〕さまざまな運動に変化することができる。つまりこの脳においてこそ、身体〔物体〕的なものと精神的なものの相互作用が成立するのだ。
私たちは、この身体的なものと心理的なもののあいだの往復運動の仕組みを認識することで、これを意志的にではなく間接的に変更することができるようになる。つまり、或る情念を[引き起こすメカニズムを]使って別の情念を引き起こすのである。魂と身体の合一体の仕組みを言わば挺子にこの仕組みそのものを変えること、この仕組みに従いながらこれに逆らうこと、これがここでの課題である。もし「おのおのの意志作用が自然によって〔松果〕腺の或る運動に結合されている」なら、「工夫や習性によって腺の別の運動に結合されうる」。〔人間の意志だけで情念は変えうるという〕主意主義的な考えは、幻想であると同時に無益である。情念は、〔これを統御するために〕ああだこうだと議論するよりは、訓練によって条件づけられるべきものである。情念に動かされる人間は、〔心身二元論の棒組みで言えば純粋な〕精神というよりは、むしろ自動機械のようなものであると言えるだけに、習慣づけは意志の働きかけよりも効果的なのである。そしてこのことをもってすれば、一目惚れの不思議まで説明できるようになる。デカルトは小さい時に斜視の少女に恋心を抱き、その後もこのような女性に強い魅力を感じた。
彼はこのことを、〔精神と身体のあいだに〕生じた最初の条件づけ〔心理学において、特定の条件反射や条件反応を起こすように人間や動物を訓練すること〕はどのようなものか、という観点から説明する。というのも「私たちがひとたび或る身体の行動を或る思考と結びつけると、その後、両者のうち一方が私たちに現れれば、もう一方も必ず現れる」から。こうして感情を制御することは、〔一六四九年刊行の〕『情念論』のなかで説明されているように、過去の条件づけの解除と新たな条件づけによってなされる。しかしこの著作は、デカルト哲学が進展していったその先に産み落とされるものの一つでしかない。デカルト哲学はそれ以外にも〔一六三七年刊行の『方法序説』の補論である]『屈折光学』であるとか『幾何学』のほうにも進展していくからだ。つまり、デカルト哲学の究極の真理はこの『情念論』のうちに見出される、などというわけではないのである。むしろ、その本質的なところはすでに〔『方法序説』や『省察』などにおいて]定式化され公表されており、その後の作業として残っているのは、この定義済みの諸原理から演繹されるところを実現していくことだけである。それでも『情念論』という著作には、それ以前の道徳論が重視してきたことから軸足をずらすという特徴が認められる。
たとえば、さまざまな情念に対する魂の戦いといった主題は、実際のところもはや問題にはなっていない。そうではなく、〔プラトンにおけるように理性的、気概的、欲望的の三部分に区別されず、単一のものとして捉えられた〕魂が自分自身と交える戦いが問題となっている。情念の激しさに直面した魂は、身体が欲しがっているものを我慢しようと自分に言い聞かせながらも、それに突き動かされて身体の言いなりになってしまう。そうすると魂に実際にできることは、嵐〔のょうに渦巻く情念〕が過ぎ去るのを待つヽ血液の流れによって掻き立てられた情動が鎮まるのを待つ、そして、情念の激しさはその対象ではなく想像力に起因するものであることを思い出す、以上の三点に尽きることになる。情念が想像力によって掻き立てられ、そして引っ張られるかぎり、当の情念が盲目的なものになるのは避け難い。というのも、この想像力は「精神を欺こうとする傾向があり、情念の対象を表象のとおりだと信じさせる理由を実際よりもはるかに強く見せ、信じさせない理由をはるかに弱く見せる傾向がある」から。もし知性が現実世界の本当の姿を表象するものなら、想像力は、そうあって欲しいという現実に関する表象になるだろう。魂をして自分のことを騙し、そして喚かせるのは、この想像力なのである。〔プルーストの大著『失われた時を求めて』のなかで高級娼婦オデットに恋をし、紆余曲折の果てに彼女と結婚することになったュダヤ人の仲買人スワンか〕「僕の生涯の何年かを無駄にしてしまったなんて、死にたいと思ったなんて、一番大きな恋をしてしまったなんて、僕を楽しませもしなければ、僕の趣味にも合わなかった女のために!」と述べていたように。
しかし或る決まった考え方が、省察的熟考というタイプの修練のおかげで別様に考える習慣に置き換えられたのと同じく、理性は実生活において、想像力が生み出すまやかしを挫き、想像力の向かう対象をきちんと評定することができるだろう。まさしくこの「魂の習慣」こそが、たとえ〔その実現のためには〕身体の仕組みと折り合いをつける必要があるとしても、徳と呼ばれるのである。デカルトは述べる、「予め自分の行動について反省する習わしのある人なら、いついかなる場合にも次のことはなしうると思われる」。たとえば、「恐れに囚われた場合には、逃走するよりも抵抗するほうにはるかに大きな安全と名誉とか存することの理由をいろいろ考えて、危険について考えることから努めて頭をそらそうとすることである」。もし或る情念の統御のために、その都度の条件反射よりも「善悪の認識に関する堅い、しっかりした判断」をもってそうするほうが魂の力を証左するとしても、やはり「それらの[情念に]対して備えができていない場合には、いかなる人間的知恵も、それらの運動に抵抗しうるようなものはない」。「こうして生まれつき」怒りに「強く動かされやすい人々は」「熱病の時のように全血液が激高する」のを抑えることができない。発熱しないように熱に強いても無駄だ、ということである。また、ストア派が描くアタラクシア〔激しい感情の動きに左右されない平静不動の精神の在り方〕という状態は絵空事であり、彼らが言う道徳は〔身体を除外した〕純粋な精神に関するものでしかない。ということは、魂と身体の合一という現実に目をつむり、自分のことを考える事物〔っまり精神〕としてしか認識しないかぎりで、或る種の「デカルト哲学」つまり「カルテジアニズム」だとも言える。〔ところで〕もし理性に情念を支配するための力が備わっていると言うなら、それは、この力がそれ自体、受動的なもの、つまり、理性が自分のことについて感ずる情念〔つまり自己感情〕として見なされるかぎりにおいてである。
こうして情念を「御する」時、それは「過度に傾けばそれだけいっそう有益なものになることが往々にしてある」。徳は、情念とその土俵のうえで向き合い、それと同程度の武器で戦う。デカルトは、エピクロス派がストア派のどちらがなのではない。知恵と自由をもって生きるとは、情念のなかでも最強の、つまり徳という情念に従うことである、と主張するかぎりで、デカルトはエピクロス的であると同時にストア的でもあるのだ。
感覚が明証的であるのは見かけ上のことだから、懐疑によってこれを棄却しようとするのはよいとしても、常識的に考えれば、日々の生活のなかで明証的と思われるものは揺るぎようがない。実際に、私が炉端近くのここにいて、手元にはこの紙を持ち、この手は自分のものだということを否定するのは、狂気の沙汰にちがいない。私は自分の身体を介して、自分の日常生活を構成する馴染みの事物と接点を持つ。と同時に、〔それらとの関わりで言えば〕唯一の行為者である。このように、毎日を生きていくうえで〔明証的と思われるものをいったん懐疑によって棄却する〕省察的熟考という修練が課されることはまったくない。しかしデカルトは、軍役から退きたいと打ち明ける友人に、平時だって有事と同じく危険は多いのだから、軍役から退くようなことはするな、と助言している--「私たちは数多くの避けがたき危険のなかで生きているのですから、賢明さをもってしても戦争という危険に身を晒すことを禁ずることはできないように思われます」。〔「有事には有事のように(非常事だからやむをえない)」というフランスの諺にあるように〕平時でも有事のようにしなければならないというわけである。というのも、さまざまな事物をそれらの緊急性の度合いに応じて、また、精神と身体の結合体である私たちにとってどの程度、有害かに応じて評定することは、つねひごろの心がまえとして大事だから。
そして感情と情念の役割は、「自然によって私たちに有用と定められているものを、魂が意志する」ように仕向けることである。そのかぎりで、それらが魂の〔受動的な在り方に他ならない〕感情にして情念であるというのは間接的なことでしかない。つまり、〔物体的事物だけから構成される〕自然のうちには、〔人間の〕身体〔という物体〕の求めに応えるべく精神〔のさまざまな能力〕を働かせる策略のようなものがある、ということである。〔デカルトが『情念論』のなかでそう指摘するように]もし驚きの情念が最初に[私たちの精神のうちに]沸き起こるなら、それは、魂と身体の合一体である私たちにとって〔驚きの対象となった〕事物の有用さないし有害さが測られる前に、まずこの情念によって私たちが当の事物のありのままの姿に直面させられるからである。そしてこの驚きの情念から、私たちに害悪を及ぼすものに対する憎しみの情念と、私たちに適合するものに対する愛の情念が生ずる。さらにここでは、健康に良いか悪いかを考慮するだけでなく--ただしこの基準は驚きの情念以外のすべての情念の発生理由でもあるー、時間の流れとともに変化する情念のことも挙げなければならない。つまり、将来に関する欲望という情念と、その反対に現在のことに関する喜びと悲しみという情念である。情念は、そのおかげで暮らしが生き生きしたものになるかぎりで、〔やはり精神内に生ずるが、それとは別に類型化される〕認識作用に関連づけられない時、すべて良いものとされるが、いずれも行き過ぎは免れない。つまり、その対象の〔本来の〕価値を過大に評価することで歪めてしまう力を持っているのである。そのため私たちは〔歪められた価値判断に基づいて〕、その情念が対象とする事物を「適度を超えた熱心さと心配とをもって」追い求めたり、逆に遠ざけたりしてしまうのだ。
デカルトによる「完全な道徳」とは、どのような情念であれそれを感ずることから喜びを一貫して引き出すにはどうすればよいか、自然学上の諸原理から日常生活に関わる諸規則を導き出すにはどうすればよいか、それに答えようとするものである。実際に、魂と身体からなる合一体の仕組みを明らかにするのは自然学に他ならない。自然学こそが、身体のさまざまな運動がどのように脳のなかの最小部位の一つである松果腺に受け止められ、ついで魂に伝えられ、今度はこの魂が松果腺を介して身体に運動を与えるのか、それを教えてくれる。と同時に、生理上のさまざまな機能は、血液が静脈と動脈を循環することをもって説明される。脳とそれ以外の器官、筋肉と神経に血液が行き渡るのは、血液がまさしく循環しているからである。動物精気というのは、すでにベーコンが使っている術語であり、「[身体の]熱によって〔その密度が〕希薄になった、血液のなかで最も活発で微細な部斑」のことであるか、そのおかげで精神と身体のあいだの相互作用は保たれる。したがって、動物精気の状態に変化が生ずれば、魂にも影響が及ぶ。動物精気が溢れんばかりであれば、高邁という情念が生ずるし、それに抑制がかかれば、欲望という情念が生ずるのである。もし情念が、身体に生じたさまざまな変調を原因として身体のほうではなく魂のほうに生ずる反動のことなら、魂もまた、「身体のあらゆる部位と結合している」かぎりで、その作用を身体のほうに及ぼす。その際に中継地の役割を果たすのが松果腺である。この松果腺の機能を強調するにせよ、〔たとえばスピノザ『エチカ』第五部におけるょうに〕皮肉るにせよ、これまでそうされるばかりで、デカルトが脳を重視していたことそれ自体の重要性は見過ごされてきた。脳は、〔身体器官に生ずる〕感覚を〔精神の受け止める〕情報に転換し、〔精神の領分である〕意志作用を〔身体上の〕さまざまな運動に変化することができる。つまりこの脳においてこそ、身体〔物体〕的なものと精神的なものの相互作用が成立するのだ。
私たちは、この身体的なものと心理的なもののあいだの往復運動の仕組みを認識することで、これを意志的にではなく間接的に変更することができるようになる。つまり、或る情念を[引き起こすメカニズムを]使って別の情念を引き起こすのである。魂と身体の合一体の仕組みを言わば挺子にこの仕組みそのものを変えること、この仕組みに従いながらこれに逆らうこと、これがここでの課題である。もし「おのおのの意志作用が自然によって〔松果〕腺の或る運動に結合されている」なら、「工夫や習性によって腺の別の運動に結合されうる」。〔人間の意志だけで情念は変えうるという〕主意主義的な考えは、幻想であると同時に無益である。情念は、〔これを統御するために〕ああだこうだと議論するよりは、訓練によって条件づけられるべきものである。情念に動かされる人間は、〔心身二元論の棒組みで言えば純粋な〕精神というよりは、むしろ自動機械のようなものであると言えるだけに、習慣づけは意志の働きかけよりも効果的なのである。そしてこのことをもってすれば、一目惚れの不思議まで説明できるようになる。デカルトは小さい時に斜視の少女に恋心を抱き、その後もこのような女性に強い魅力を感じた。
彼はこのことを、〔精神と身体のあいだに〕生じた最初の条件づけ〔心理学において、特定の条件反射や条件反応を起こすように人間や動物を訓練すること〕はどのようなものか、という観点から説明する。というのも「私たちがひとたび或る身体の行動を或る思考と結びつけると、その後、両者のうち一方が私たちに現れれば、もう一方も必ず現れる」から。こうして感情を制御することは、〔一六四九年刊行の〕『情念論』のなかで説明されているように、過去の条件づけの解除と新たな条件づけによってなされる。しかしこの著作は、デカルト哲学が進展していったその先に産み落とされるものの一つでしかない。デカルト哲学はそれ以外にも〔一六三七年刊行の『方法序説』の補論である]『屈折光学』であるとか『幾何学』のほうにも進展していくからだ。つまり、デカルト哲学の究極の真理はこの『情念論』のうちに見出される、などというわけではないのである。むしろ、その本質的なところはすでに〔『方法序説』や『省察』などにおいて]定式化され公表されており、その後の作業として残っているのは、この定義済みの諸原理から演繹されるところを実現していくことだけである。それでも『情念論』という著作には、それ以前の道徳論が重視してきたことから軸足をずらすという特徴が認められる。
たとえば、さまざまな情念に対する魂の戦いといった主題は、実際のところもはや問題にはなっていない。そうではなく、〔プラトンにおけるように理性的、気概的、欲望的の三部分に区別されず、単一のものとして捉えられた〕魂が自分自身と交える戦いが問題となっている。情念の激しさに直面した魂は、身体が欲しがっているものを我慢しようと自分に言い聞かせながらも、それに突き動かされて身体の言いなりになってしまう。そうすると魂に実際にできることは、嵐〔のょうに渦巻く情念〕が過ぎ去るのを待つヽ血液の流れによって掻き立てられた情動が鎮まるのを待つ、そして、情念の激しさはその対象ではなく想像力に起因するものであることを思い出す、以上の三点に尽きることになる。情念が想像力によって掻き立てられ、そして引っ張られるかぎり、当の情念が盲目的なものになるのは避け難い。というのも、この想像力は「精神を欺こうとする傾向があり、情念の対象を表象のとおりだと信じさせる理由を実際よりもはるかに強く見せ、信じさせない理由をはるかに弱く見せる傾向がある」から。もし知性が現実世界の本当の姿を表象するものなら、想像力は、そうあって欲しいという現実に関する表象になるだろう。魂をして自分のことを騙し、そして喚かせるのは、この想像力なのである。〔プルーストの大著『失われた時を求めて』のなかで高級娼婦オデットに恋をし、紆余曲折の果てに彼女と結婚することになったュダヤ人の仲買人スワンか〕「僕の生涯の何年かを無駄にしてしまったなんて、死にたいと思ったなんて、一番大きな恋をしてしまったなんて、僕を楽しませもしなければ、僕の趣味にも合わなかった女のために!」と述べていたように。
しかし或る決まった考え方が、省察的熟考というタイプの修練のおかげで別様に考える習慣に置き換えられたのと同じく、理性は実生活において、想像力が生み出すまやかしを挫き、想像力の向かう対象をきちんと評定することができるだろう。まさしくこの「魂の習慣」こそが、たとえ〔その実現のためには〕身体の仕組みと折り合いをつける必要があるとしても、徳と呼ばれるのである。デカルトは述べる、「予め自分の行動について反省する習わしのある人なら、いついかなる場合にも次のことはなしうると思われる」。たとえば、「恐れに囚われた場合には、逃走するよりも抵抗するほうにはるかに大きな安全と名誉とか存することの理由をいろいろ考えて、危険について考えることから努めて頭をそらそうとすることである」。もし或る情念の統御のために、その都度の条件反射よりも「善悪の認識に関する堅い、しっかりした判断」をもってそうするほうが魂の力を証左するとしても、やはり「それらの[情念に]対して備えができていない場合には、いかなる人間的知恵も、それらの運動に抵抗しうるようなものはない」。「こうして生まれつき」怒りに「強く動かされやすい人々は」「熱病の時のように全血液が激高する」のを抑えることができない。発熱しないように熱に強いても無駄だ、ということである。また、ストア派が描くアタラクシア〔激しい感情の動きに左右されない平静不動の精神の在り方〕という状態は絵空事であり、彼らが言う道徳は〔身体を除外した〕純粋な精神に関するものでしかない。ということは、魂と身体の合一という現実に目をつむり、自分のことを考える事物〔っまり精神〕としてしか認識しないかぎりで、或る種の「デカルト哲学」つまり「カルテジアニズム」だとも言える。〔ところで〕もし理性に情念を支配するための力が備わっていると言うなら、それは、この力がそれ自体、受動的なもの、つまり、理性が自分のことについて感ずる情念〔つまり自己感情〕として見なされるかぎりにおいてである。
こうして情念を「御する」時、それは「過度に傾けばそれだけいっそう有益なものになることが往々にしてある」。徳は、情念とその土俵のうえで向き合い、それと同程度の武器で戦う。デカルトは、エピクロス派がストア派のどちらがなのではない。知恵と自由をもって生きるとは、情念のなかでも最強の、つまり徳という情念に従うことである、と主張するかぎりで、デカルトはエピクロス的であると同時にストア的でもあるのだ。
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未唯空間目次概要見直し 第4章 歴史
4.1 組織の形態
1. 全体主義の支配
2. 共産主義の平等
3. 民主主義の自由
4. 組織の論理
4.2 国民国家
1. 地域支配
2. 内なる自由
3. 国家と国民
4. 国民の状態
4.3 国家の限界
1. 国家意識
2. グローバル化
3. 多様化
4. 歴史は動く
4.4 歴史の解釈
1. 歴史の目的
2. 時空間
3. 支配関係
4. 数学的解釈
4.5 歴史哲学
1. 自由を求める
2. 平等を求める
3. 地域を主体に
4. 企業の位置づけ
4.6 歴史の流れ
1. 137億年の時間
2. 組織の時代
3. 多様性を活かす
4. 個の力を認識
4.7 個が主体
1. 地域を変える
2. 組織が変わる
3. 国家の方向
4. 超国家の構築
4.8 階層関係
1. 市民と国家
2. 地域と超国家
3. 地域と国家
4. 市民と超国家
1. 全体主義の支配
2. 共産主義の平等
3. 民主主義の自由
4. 組織の論理
4.2 国民国家
1. 地域支配
2. 内なる自由
3. 国家と国民
4. 国民の状態
4.3 国家の限界
1. 国家意識
2. グローバル化
3. 多様化
4. 歴史は動く
4.4 歴史の解釈
1. 歴史の目的
2. 時空間
3. 支配関係
4. 数学的解釈
4.5 歴史哲学
1. 自由を求める
2. 平等を求める
3. 地域を主体に
4. 企業の位置づけ
4.6 歴史の流れ
1. 137億年の時間
2. 組織の時代
3. 多様性を活かす
4. 個の力を認識
4.7 個が主体
1. 地域を変える
2. 組織が変わる
3. 国家の方向
4. 超国家の構築
4.8 階層関係
1. 市民と国家
2. 地域と超国家
3. 地域と国家
4. 市民と超国家
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