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ミラノにスタバ

ポートランドの図書館

 ポートランドの 図書館をやっと見つけた。30年以上使っているアウトラインプロセッサINSPIRATION。それはポートランドで生まれた。オレゴン州の自由都市ポートランド。

 1913年にできた中央図書館。隣のワシントン州シアトル図書館とはまるで対比的。

 シアトル→ポートランド→サンフランシスコ →ロサンゼルスの図書館めぐりを考えましょう。SFPL、LAPLは2000年に行っている。wINDOWS2000の発表会と同時に見ることができた。行けば、何かに出会う気がする。

パワハラとか言っているけど

 「スポーツ」というのは結局サーカス団。サーカス団の中の訓練方法。オリンピックはサーカス団の集まり、つまり、見世物。見世物小屋になぜ、金をかけるのか。誰かが儲かるからでしょう。

ミラノにスタバ

 ミラノにスタバ。どんな感じなのかな。2002年にイタリアトヨタの社長に連れられて行ったバール。なんとなく、男社会で好きにはなれなかった。女性にとっては、スタバの方があっているような気がする。イタリア女性が談笑しあっているスタバの方がおしゃれです。ヘップバーンが似合うプレース。

 ヘルシンキ空港の中のスタバは3回、前を通ったけど、すべて準備中。スタバの再上陸が見たかった。そして、ご当地マグをお土産に。だけど、パスポートも切れている状態ではどうしようもない。やはり「かもめ食堂」的な雰囲気になるのかな。

 ブラッセル駅のスタバでラテを注文したら、名前を尋ねられた。渡す時の確認らしい。その時に「もう」と伝えた。後から考えると、中国人と思われたのかな 。毛沢東の意味の「まお」としなくて良かった。

 旅行中にスタバに入るととりあえず安心。

家族制度の変遷

 20世紀に大家族から核家族になって、夫婦にとって、出産・育児が大変になった。この中途半端な状態から抜け出すには個の状態を基本にするしかない。個にむけた制度にできるのは国家ではなく、中間の存在であるコミュニティ。
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地政学から見たアゼルバイジャンの位置 ランドパワー小国としての運命

『アゼルバイジャンを知るための67章』より 地政学から見たアゼルバイジャンの位置 ★ランドパワー小国としての運命★

アゼルバイジャンは、コーカサス地方の最大の都市であるバクーを首都に持ち、古くから文明の交差点として栄えてきた地域に存在する、旧ソ連圏から誕生した新興国家である。

アゼルバイジャンと言えば、一般的にはカスピ海沿岸の豊富な石油資源を持つ格闘技の強い国、という程度の認識かもしれないが、現在はユーラシア大陸の内陸国として、とりわけ世界の政治を動かす大国たちにとって、再び重要視される位置にある。これを読み解く上で参考になるのが「地政学」という考え方だ。

近年になってから「地政学」という言葉やタイトルのついた書籍を日本でも頻繁に目にするようになったが、これは2002年に当時の米国連銀総裁アラン・グリーンスパンが「地政学リスク」という言葉を頻発したことで日本でも広く知られるようになった言葉だ。しかしその概念事態は古く、近代に入って本格的に使用され始めたのは20世紀はじめからだ。

簡潔に言えば、地政学は19世紀から始まった列強による植民地拡大主義に使われた、列強同士の権力争いに参考とされる、地理をベースとした国家戦略の考え方をまとめたものだ。そしてここから見ることによって、アゼルバイジャンのような小国のかかえる地理的な状況を大きく俯瞰することができそうだ。

具体的な詳しい地理状況の説明については次章にゆずるが、本章ではこのような大きな「地政学」という観点から、このアゼルバイジャンという国が世界・地域の国際関係においてどのような地理関係を持ち、かつそれらが対外的・戦略的にどのような意味を持っているのかについての概況を簡潔に述べてみたい。そこで本章では、そのような状況を読み解くためのキーワードを三つ用意した。それは「ランドパワー小国」「遠い資源国」、そして「通り道」である。

第一に、アゼルバイジャンはランドパワー国家である。ただし「地政学の祖」とされる英地理学者ハルフォード・マッキンダーなどの文献による定義では、アゼルバイジャンは大国ではないために、厳密には「ランドパワー国家」とはならず、むしろ「ランドパワー小国」となる。外洋へのアクセスを持たず、伝統的に他地域の帝国たちに運命を翻弄されてきたからだ。それは、アゼルバイジャンが、過去(そして現在)の帝国たちの遺産のおかげで、多民族(アゼルバイジャン人のほか、レズギ、ロシア、アルメニア人など)かつ多言語(14カ国語)国家であることにもあらわれている。

このような小国にとって決定的になるのが、歴史的にも大きな影響を与えてきた周辺の四つの大国との関係だ。まず北に位置するロシアである。18世紀後半からのペルシアとの覇権争いから19世紀初頭にロシア帝国に組み込まれてから、アゼルバイジャンでは石油産業が勃興している。帝国崩壊の前後の20世紀に一時的に独立したが、1920年には赤軍に占拠されてから共産化して連邦に組み込まれ、ソ連崩壊後にようやく独立して現在に到るが、現在でもクレムリンの影響力は感じられている。

南に位置するイランについては、国名の元になった紀元前のアケメネス朝や、カフカス・アルバニア国時代から歴代のペルシア帝国に何度も支配されており、8世紀に入ってカリフ領となってからは伝統的にイスラム教が定着している。19世紀にロシアに編入されるまでサファヴィー朝の領内にあり、現在のイランの北部にはタブリーズを中心に本国(965万人)よりも多く(1500万人ほど)のアゼルバイジャン人が住んでいることも、その距離感の近さを示しているが、現在の政治的影響力は限定的だ。

次に東側に位置するトルコだが、言語的・民族的にアゼルバイジャン人と近いテュルク系であり、これは11世紀のセルジューク朝の時代の遊牧民(チュルクメン)の流入の影響が大きいとされている。トルコとの距離感の近さは特別であり、これは安全保障上の直近の課題としての「ナゴルノ・カラバフ紛争」も大きい。詳しくは後の章で解説されているが、これは西北に位置するアルメニアが、1905年に発生したとされる「アルメニア人虐殺事件」の関係からトルコと敵対しており、いわば「敵の敵は味方」という意味で、必然的にトルコと共闘する形となっている。

いずれにせよ、歴史的にアゼルバイジャンはランドパワーとなる周辺の帝国だちから圧倒的なパワーを感じながら生き残りを図ってきた。東南アジアでよく使われるアフリカのことわざに「2頭の象が争うと足下の雑草は踏みにじられる。しかし、2頭の象が愛し合っても足下の草は踏みにじられる」という小国の悲哀を述べたものがあるが、現代のアゼルバイジャンはその「草」の状態から抜け出せるカードが一つある。それがエネルギー資源である。

二つ目の「遠い資源国」というキーワードは、アゼルバイジャンにとって(現在のところは)大きな恩恵を与えてくれている。古代から石油の存在が確認され、拝火教も盛んなことから「火の国」とも呼ばれてきたアゼルバイジャンだが、石油生産が本格的になってきたのは19世紀のロシア帝国時代からだ。1870年にロシア帝国が独占を諦めると、科学賞などでおなじみのノーベルやロスチャイルド家のような私企業の資本が本格参入を始め、産業が盛んになるとそれが共産化を招き、1920年のボリシェヴィキのバター制圧によってソ連の所有物となる。大祖国戦争(第二次世界大戦)では油田がヒトラーに狙われるも、産出する石油のおかげでソ連の勝利に貢献し、後に枯渇してからソ連内での生産地としての重要度は減少したが、技術発展のおかげで冷戦後は開発ブームにわいている。

もちろん天然資源の輸出に頼って失業率が上がる、いわゆる「オランダ病」の危険性が高く、IMFなどの国際機関にも経済構造を多極化を勧められて農業なども盛んになっているが、石油ガス油田の開発資金を外国から呼び込むスタイルはかわっておらず、21世紀に入ってからは高い経済成長を記録していた。ところが近年の原油価格低下の影響を受けて、2016年は初のマイナス成長を記録している。このような基本的な経済的な基盤と、大国からの距離の遠さを最大限に活用しつつ、アゼルバイジャンは、ロシアや西洋、そしてトルコなどに対しても、基本的に中立でバランスをとる「等距離外交」を志向する傾向が強い。

三つ目の「通り道」とは、地政学で重要視される物流・交通と軍隊の通り道に関するものである。アゼルバイジャンは外洋にアクセスを持たないため、国家の最重要物資である石油やガスをパイプラインで運ばなければならなくなる。すると、必然的にそのルートは陸上を経由することになり、周辺国との関係、さらには戦力投射が行われたルートの重要性が如実にあらわれてくる。とりわけ近年では、係争中のアルメニア、そしてロシアを避ける形でジョージア(グルジア)を経由してトルコにつながる「バター・トビリシ・ジェイハン」(BTC)石油パイプライン、「バター・トビリシ・エルズルム」(BTE)ガスパイプラインが建設されたほか、トルコから欧州に向かるトランスアナトリアン天然ガスパイプライン(TANAP)の建設が2013年に始まっている。パイプラインの敷設状況から、アゼルバイジャンが文明や帝国のパワーだけでなく、資源の通り道としても「十字路」に位置していることが分かる。

ナポレオンは「ある国の地理を知れば、その国の外交政策がわかる」と豪語したと言われている。もちろん地理的な状況だけでは、アゼルバイジャンのような国の外交政策は何も分からないのだが、それでもいくつかの条件は見えやすくなる。例えば資源国としての立場は国際的なエネルギー価格などにも左右されやすいが、その他の大国との微妙な地理的な位置関係のおかげで、アゼルバイジャンはリスクもチャンスも秘めた潜在力の高い国であることは間違いない。
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「エネルギー途絶」のマジック

『東京大停電』より エネルギーを使うということ

「エネルギー途絶」のマジック

 産業の行う経済活動の他産業への影響・波及は「産業連関表」なるツールで具体化・数値化することができる。例えば、石油産業に資本を投資したら、それは回りまわってほかの産業にも波及する。結果的にどの程度の経済的な波及が行われるか。その分析を「通常の取引ペース」であれば産業連関分析することができる。
 アメリカはエネルギーインフラが老朽化していることで知られている。例えば、ニューヨークでは停電がよく生じる。停電の多くは送電、配電の設備の老朽化が原因といわれ、停電による経済的な損失は、2003年8月に北米およびカナダで発生した大規模停電の場合、40億から60億ドル(4400億円から6600億円)といわれる。

 あらゆる産業は電力を消費しているが、特に、通信ネットワークを利用する金融機関や世界的なネットワーク網を持つ航空産業では、1時間の停電が世界的な大混乱を起こしかねない。電力を暖房や照明およびモーターの動力としてのみ利用していた一昔前とは大違いである。暖房であれば1秒切れても大損害にはならない。ところが、秒単位で取引される金融の世界ではそうはいかない。1秒の停電は経済的な大損害を生じる可能性を秘めているのだ。

 実は、これらの経済的な損失は通常の取引をベースとした分析では十分フォローできないことが分かる。例えば、金融取引市場で1秒間に1000億円の取引が行われようとしていたとする。停電によりこの決済ができなかった、もしくは遅れたことにより莫大な損害が生じることもあり得る。すなわち1秒間の停電(電力の値段は数円かもしれない)が、ネットワークの世界では1000億円の損害を生む可能性を秘めている。金融業などのネットワークを利用したビジネスでは、電力の価値がほかの産業に比べて圧倒的に高いことが分かる。このような産業ではより安定した電力を求めるだろう。その場合、高額な電気代がある程度許容されるかもしれない。ほとんどの金融システム、通信システムではバックアップ電源を自ら整備している。通常の産業活動で消費される電力の価値と、万が一の際に生じ得る被害、損害とは数桁の乖離がある。

 金融業が消費している電力はそれほど多くない、だから電気事業との取引額は小さいので産業連関上の波及効果は小さい。しかし、取引が停止したときに生じる被害額は極めて大きくなる可能性を秘めている。

 また、ある空港の発券・チェックインができなかった時には、その飛行機と連動して動くほかの航空機の足止めを意味する。すると莫大な損失が発生し、大きな補償問題が生じる。当然、損害は地域、国をまたぐ。

 2017年12月17日、アメリカのアトランタ空港(正式名ハーツフィールド・ジャクソン・アトランタ国際空港)。クリスマス休暇時期で混雑している世界最大(乗降客数20年間世界この空港内は大混乱となり、数千人の移動に支障が生じた。この影響は数日間継続した。停電時間はわずか数時間である。アトランタ空港をハブとする世界最大の航空会社デルタ航空は17日だけで900便を欠航とした。翌18日にも300便が欠航となった。もちろん、これらに連動する他の航空会社にも多大な影響が出た。当然、世界の空のネットワークが大混乱したことは言うまでもない。空港のようにバックアップシステムがある公共施設であっても大きな停電が生じることに注目するべきである。停電の原因は、地下の電気施設の火災であった。

 数時間の空港の停電は、数日間にわたり世界の空港のオベレーションを混乱させる。

 東京でも、首都機能の麻痺が発生した。都内200ヵ所の信号が消え、電車は動かなくなり、霞ヶ関の官庁街は真っ暗。首都東京でなんと58万世帯が真っ暗になった。映画の話ではない。それは2016年10月に起きた。電車が動かない池袋駅のホームの改札も黒山の人だかりとなった。各鉄道会社は被害を受けたが、大江戸線を運営する東京都交通局によれば影響人数は7万6000人。西武鉄道の影響人数は9万1000人。多くの企業が電力会社への損害賠償請求を検討したといわれる。約1時間の停電の損害額は数億円に上るといわれる。

 エネルギーは多くの産業にとって、また国民生活にとって必要な存在であり、我々は電力・石油・ガスの恩恵を受けて暮らしている。日常生活では当たり前のことかもしれない。しかし、短期間でもエネルギー供給が止まれば、都市、企業、生活には想像を絶する大混乱が生じる。これがネットワーク社会の致命的な弱点かもしれない。メリットも大きいが万が一のときの被害が桁外れになる。

 10円で買える電気。しかし、これが失われたことにより巨額の損害が生じるという、ネットワーク社会における「エネルギーマジック」。我々は常にこの脅威にさらされている。

「ビットコイン」が電力を使い尽くす

 仮想通貨が急速に普及している。セキュアという謳い文句であるが、必ずしもそうでもないらしい。2009年に取引が開始され9年となる。このビットコインは大量に電力消費することが前提であり、電力消費量の増大がセキュリティーとともに大きな問題になりつつある。

 ビットコインを使うには、「ブロックチェーン」と呼ばれる取引データを共有して、取引の履歴をチェーンのように結合していく作業が必要となる。

 すなわち、世界規模の取引簿ができ上がるが、その記録はすべて電子データとして保管されている。しかも、その取引の情報は世界中の誰でも入手することができ、その取引を承認するという作業はマイニングと呼ばれ、その作業自体は10分ごとに行われる。そこで、10分ごとに承認する新しい「仕事」が発生する。そしてマイニングに成功した人には、ビットコインによる報酬が支払われる仕組みである。そのマイニングはコンピューターが働いて稼いでくれる。自分で働くわけではないので、多くの人がこのマイニングに参加しようとする。

 つまり、その承認するという作業-つまりマイニングには、莫大な子不ルギーが投入されるのである。2017年12月のNewsweekの記事によれば、マイニングで消費されている全世界の電力は約33TWhになるとのことである。日本の電力消費量は概ね900TWhであることから、マイニングで消費されている電力量は、日本全体の電力消費量の3・7%ほどにもなる。また、その値は急増しているといわれる。

 これだけの電力消費がなされるとなると、前項に示したような「電力多消費産業」の典型といわざるを得ない。産業とはいわないまでも、もし本当に事業として実施しようとすれば、電カコストが安価な場所・国で実施することが有利な条件となる。日本は明らかにこの事業には不向きな場所である。中国の内モンゴル自治区、新疆ウイグル自治区、四川省など、石炭火力発電で電力供給が行われている、電気代の安価な場所で多くマイニングが行われているようである。世界的なマイニング事業は、大きなC02排出源ともなりつつある。

 ビットコインの流通にはこれほど多くの電力が消費されており、ビットコインのマイニングで消費されている電力は2018年の10月には15億ドル(約1650億円)にもなると予想されている。また、システムが電力依存していることから、停電時における脆弱性が問題になりかねない。

 金融と電力消費。データの保管に関わるデータセンターは、当然、大規模な電力を消費し、停電・大停電への備えを行っている施設である。一方で、ビットコインの分野では、取引情報を確定する作業(マイニング)そのものについて、コンピューターの莫大な電力消費と、新たな大発電所が複数必要となる事態が想定される。電力消費の急増が起こり得る分野でもある。
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冨山は日本のスウェーデン

『冨山は日本のスウェーデン』より

まずしさが育んだ「共在感」

 一方、射水市や舟橋村、朝日町笹川地区の場合、一見すると、むしろ社会民主主義や普遍主義、リペラルとは正反対の、パターナリスティックな、上からの統合という富山のネガティブな面が浮かびあがるように思われる。

 だが、ここでも話はそう単純ではない。

 世界大恐慌前後の時期のスウェーデンをもう一度思いだしてほしい。

 一九世紀末のスウェーデンはまずしい農業国だった。また、一八八〇年代から出生率の低下がはじまり、一九三〇年代にはヨーロッパで最低レペルの出生率におちいっていた。さらに、三一年には、失業率が二五%を超えるというまさに社会の危機に直面していた。

 スウェーデン型の社会民主主義へのあゆみはこの危機のなかからはじまった。まさに生存や生活の不安が社会の全体で共有されたことこそ、スウェーデン型の社会民主主義が産声をあげる前提だったのである。この点は、富山も同じだ。第二章で見たように、富山の歴史は、まずしさとの闘いの連続だった。

 繰り返し起きた河川の氾濫は、家族の命を、生存の糧を、穏やかな暮らしを一瞬でうばいさった。そして、自然や宗教的なものへの畏敬の念が育まれ、富山人の心には、己の、そして人間の無力さのようなものが刻みこまれた。

 長くつづいたまずしさとの闘いは、自分たちが生き延びるために他者と助けあう文化を生みだした。家族や地域を大切にし、調和を重んじて自己主張をつつしむ県民性は、この闘いの歴史と表裏一体の現象だったのではないだろうか。

 「共在感」という言葉がある。井上達夫は前掲『他者への自由』でこう語っている。

 人間は共通の人間的な限界、共通の人間的悲惨にさらされ、共通の人間悲劇に巻き込まれているとき、みな無力であり、他者に依存せざるをえない存在となる。

 長い歴史をつうじて、僕たちが共通して経験し、共通してたくわえてきたこの感覚、己の、人間の無力感をよりどころとしながら、「自分たちは共にあるのだ」と確信できるこの感覚を「共在感」という。

 富山の歴史はまさにこの「共在感」を育む歴史だった。命や暮らしの危機、きびしい自然やまずしさとの闘い、そこから生まれ、育まれてきたのが「共在感」だった。

 「子どものため、県のため、みんなのため」といえば、多くの人が「じゃあひと肌脱ぐか」と考える社会は、こうした歴史的に形づくられた「共在感」があってはじめて、成り立ちえたということができるだろう。

「家族のように助けあう」の意味

 ただし、それは、日本人としての「共在感」ではなく、閉じられたコミュニティ、生活空間のなかで形成された「共在感」であり、せいぜい広くとらえても「県民性」の範囲にとどまるそれだったという点は重要である。

 だからこそ、他者と助けあう、他者に依存するというときに、それはナショナルなレベルでの連帯ではなく、コミュニティの存在を前提としたその内側での連帯となってあらわれた。ここに社会民主主義と保守主義、共同体主義の重要な分かれ道があった。

 歴史の分かれ道という意味では、一九三〇年代は興味深い歴史の分岐を示している。

 一方では、家族の原理を普遍主義的な、社会民主主義的な方向へとつなげていったスウェーデンがある。序章でもふれたように、スウェーデンの社会民主主義の父、P・A・はンソンは「国民の家」という演説を行ない、「家の基礎は、共同と連帯である」と人びとに訴えた。家や家族を重んじる点では富山社会と何ら変わりはない。

 他方で、家父長制的な、パターナリスティックな家族のイデオロギーに即して、社会を編成した国がある。それは全体主義を経験した日本だ。丸山具男がするどく見抜いていたように、全体主義の土台にはコミュニティがあり、そのなかの閉鎖性、同調圧力は、たしかに全体主義の重要な基盤だった(丸山眞男『新装版 現代政治の思想と行動』)。

 ようは、いかなるかたちで現象化するかのちがいはあれども、社会が危機に直面したとき、人びとは「家族のように」助けあうことを志向するということである。

 だとすれば、「家族」の価値を訴えることそれじたいが問題なのではなく、どのような「家族」を想定し、社会を構想するのかがきわめて重要だということになる。

 翻って、射水市や舟橋村、そして笹川地区が「いま」直面しつつあるのはいったいどういう状況なのか。

 それは、人びとの生存や生活を支えてきた互酬的な関係、いやコミュニティそれ自身が「存立の危機」にさらされるという意昧での深く、困難な危機である。

税で家族の機能を代替する

 ところで、これまでの議論を眺めてみて、「つまり保守的な土壌から出発して、これを社会民主主義に、スウェーデン型の社会に作りかえていこうという提案なのか」という疑問がわくかもしれない。

 (ッキリいっておきたい。答えはノーだ。そんな単純な話ではない。

 僕たちが富山から学んだことのひとつは、「家族の原理」をもとに、人びとが生存・生活していくためのニーズを満たしていくという大きな流れだ。

 そのひとつの方法は、たとえば、北欧社会のように、高福祉高負担をめざすという方向性だろう。

 財政社会学を提唱したダニエル・ベルは「公共家族」という概念を示しながら、財政とは人間が人間らしく生きていくための条件をととのえるためにある、と訴えた(ダニエル・ベル『資本主義の文化的矛盾』)。富山社会の志向と相通ずるものがある。

 今後、急速に高齢化が進み、介護や医療の負担が急増することが大都市部では懸念されている。だが、たとえば、東京都の予算はスウェーデンの国家予算を超える規模を誇っている。他方、日本の租税や社会保険料の負担率は四三%であり、石油の売却収入のあるノルウェーを除いた北欧では五七~六六%である。

 大都市部の財政支出が少子高齢化によってきびしい状況におかれることはそうだとしても、また租税負担率を高める余地は大きく、同時に、人びとの生活保障水準を引きあげる余地もまだまだ残されている。

 もちろん、大都市部は、富山のような三世代同居など望むべくもない。地価があまりにも高く、二世帯住宅を建てることはあまりにもコストがかかるからだ。

 そうなると、女性の就労をどのように税でサポートしていくかという点に財政の役割は収斂していくことになる。

 介護サービスの負担を軽減するだけでなく、介護士の増員、介護給付金の拡充などが必要となるだろうし、育児・子育てにかんしても、産休・育休の取得率のさらなる向上、就学前教育、未満児保育の無償化・充実がもとめられることとなる。

 以上の意味で、たしかに大都市部では、社会民主主義的な方向性、高福祉高負担をめざしていくことは十分に検討されてよいだろう。

「公・共・私」のベストミックスの時代

 だが、たとえば、朝日町のように人口が減少するばかりか、高齢化も著しく、ときには「消滅可能性」までが騒ぎ立てられるような地域にあって、何もかもを税だけでやっていくことがはたして可能だろうか。

 現在の仕組みを前提にしていけば、地方交付税をつうじて、財政力の弱い自治体でも、最低水準の、あるいは他の地域と同様の行政サービスが提供できるよう、財源は保障されている。だが、図12を見てほしい。国のきびしい財政状況を反映して、地方交付税じたい、持続可能性が問われかねないような状況が続いている。

 地方交付税の総額は、リーマンショック期、東日本大震災期を除いて減額がつづいている。臨時財政対策債という名称のもと、地方の財源不足は借金で補填されているが、それらを足しあわせても、ピークは二〇一〇年度である。

 したがって、小規模の都市部や中山間地域、過疎地域にそこまでの財政的な自立性、あるいは地方交付税へのさらなる依存を期待するのはムリがある。

 あるいは、中規模の人口二〇万人前後の都市部でも状況は変わらない。

 近年、自治会・町内会への行政の依存は目に見えて強まりつつある。そのなかで、世代交代が進まず、高齢者へと押しつけられがちな民生委員の負担は日に日に大きくなっている。つまり、都市部でさえ、地域の生存・生活のニーズを満たすことがむつかしくなりつつあるのだ。

 その意味で、舟橋村の「子育て共助のまちづくり」が示していた「公・共・私のベストミックス」という方向性がこれからいっそう注目されるようになるだろう。

 舟橋村は、行政がリーダーシップを発揮し、民同企業の収益と社会的課題の両立をめざしながら、人びとが「ゆるやかな助けあい」を行なうための土壌づくりに奮闘している。

 ここでの「ゆるやかな助けあい」は富山人の大切にする「家族のつながり」の進化版である。それが中長期的に見れば、見回り介護や子育て支援など、行政コストの抑制につながることは自明だ。

 あるいは、富山型デイのように、政府の支援を受けずにやってきた民間のサービスがその地域のなかで幅広い支持を受け、次第にそれを行政が補助し、モデル化することで、公的なサービスにおきかえられていくこともありうるだろう。

 朝日町笹川地区の場合は、より行政の果たす役割が後退するかもしれない。

 だが、それを補うように、地域おこし協力隊や「ノラネコ公務員」のようなよそ者が地域に入り込み、さらには、地域に住まう人びともそれまでの自分たちの価値観を修正することで、彼らを包み込んでいくという可能性がひらかれている。

 もちろん、これらのことは、行政が責任転嫁し、さまざまな仕事を民間の領域に放り出すことを意味しているのではない。繰り返すが、日本の租税負担率が先進国のなかで非常に低いことを考えれば、それぞれの地域の行政サービスを充実させ、全体を底上げする余地は十分に残されている。そのために財源論から逃げない政治姿勢も当然に問われることとなる。

 とりわけ、中規模丿自治体では、コミュニティ機能を強化するために自治体が汗をかくだけではなく、民生委員の機能を代替するために、コミュニティ税のようなものを検討することも考えられていい。

 また、ソーシャルワーカーーのような地域の社会資源を発掘し、地域ニーズを満たすことを生業とするような人たちへの財政支援もこうした財源強化とセットで議論されていけば、過疎地域の未来だってさらに明るさを増すだろう。

 ようは、人間が生きていくために共通の、生存・生活のニーズがそこにあり、そのニーズを満たすために、あらゆる社会資源を総動員する時代がやってくるということだ。

 公・共・私の組み合わせ、ペストミックスは、それぞれの地域の条件、風土に応じてきわめて多様なものとなるだろう。そのさまざまなバリエーションのひとつとして、大都市部ではスウェーデン型社会もありうる、ということにすぎない。

 この姿絵は、「保守主義から社会民主主義へ」「古くさい日本モデルから先端的なスウェーデンモデル」へという表面的で、画一的な図式では説明ができない。人口減少の二一世紀は、その意味で真に分権的で、重層的で、多様な時代となっていくだろう。
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