未唯への手紙
未唯への手紙
「中東」の世界史 米ソ冷戦後の新たな危機
『「中東」の世界史』より アメリカの中東戦略のダブル・スタンダード
イラクによるクウェート侵攻は、米ソ冷戦終焉後の世界の最初の危機であった。一九九〇年八月に、米ソ冷戦の終焉を見極めるかのようにイラクがクウェートに侵攻し、それに対してブッシュ・シニア大統領(在任一九八九年一月-一九九三年一月)は多国籍軍を結成して、一九九一年一月に軍隊をクウェートに派遣した。いわゆる湾岸戦争の勃発である。
教科書的な説明では、イラクがクウェートに侵攻したのは、イラクが経済的に破綻したため新たな石油資源の獲得が目的だったとされている。実際にそのような側面もあるかと思われるか、政治的観点から見ると、サッダーム・フセインーイラク大統領は米ソ冷戦終焉後に形成されつつあった新しい国際秩序を読み間違ったということだ。ソ連とアメリカという二大超大国による冷戦時代が終わり、アメリカが唯一の超大国として世界を一極支配し、「世界の警察はアメリカだ」という新たな政治状況が生まれつつあったことをイラクは読み間違えたのである。
冷戦後の新しい世界にあっては地域自体が新しい秩序を作っていくのだから、イラクがクウェートに侵攻したところで何の国際的非難も受けないだろう、と読んでいたのである。しかし、イラクの予想に反してアメリカのブッシュ・シニアが「新たな国際秩序に対する挑戦」と非難し、戦争が引き起こされるという事態にまで発展してしまったのである。
ュージン・ローガンは、イラクがクウェートを侵略したことで、アラブ世界が分裂したと指摘する。すなわち、「一アラブ国家がほかのアラブ国家の侵略を受けたことで、全アラブ世界が分裂し、外国の介入に反対する国もあれば、クウェートをイラク支配から解放するアメリカ主導の多国籍軍に参加する国もあった」。
クウェート侵攻はまた、市民と政府の分裂も招いた。サッダーム・フセインは、イラクのクウェート侵攻を非難するのであれば、パレスチナを支配するイスラエルに対しても非難すべきであると言い、イラクはパレスチナをイスラエルから解放すると約束をした。そのため、アラブ諸国でイラクを批判する政府があった一方で、サッダームはアラブ世界全土で各国の市民に人気ある英雄に祭り上げられたのである。
サッダーム・フセインはイラクによるクウェート占領を、レバノンにおけるシリア軍の進駐にも結びつけた。そのため、地域の政治秩序を回復するためには、イラクをクウェートから追い出すだけでは十分ではなく、アラブ世界はレバノン内戦に取り組まなければならなかった。
湾岸戦争でPLOのアラファート議長はパレスチナ民衆の意向を受けイラクを支持する姿勢を表明したため、湾岸戦争でイラクと戦ったサウジアラビアをぱじめとする湾岸産油国からPLOへの財政的援助か打ち切られ、PLOは戦後、財政的危機に陥った。そのような中で、米ソ冷戦終焉後、シリアが米側について湾岸戦争を戦ったことで敵を失ったイスラエルも新たな道を模索せざるを得ず、ブッシュ・シニア米大統領のイニシアティヴの下に、マドリード中東和平会議が開催され、史上初めてイスラエルとアラブ諸国が交渉のテーブルに着くことになった。結局、この会議に基づく和平交渉はパレスチナ問題の解決の主役であるはずのPLO抜きに行われたため、暗礁に乗り上げることになった。
その一方で、イスラエルの次期首相となるイツハク・ラビンとアラファートはノルウェーの仲介で秘密交渉を行って、その交渉がアメリカのクリントン大統領の仲介の下での一九九三年のオスロ合意(パレスチナ暫定自治に関する原則合意)の締結につながった。しかし、ハマースはこの合意に反対しており、結果的に、オスロ合意はイスラエルとパレスチナ(PL息との間の平和を見出すことができないまま、二〇〇〇年九月には第二次イソティファーダが勃発し、中東和平プロセスは事実上、破綻した。二〇〇四年末にアラファートが亡くなった後はアラファートを継いだマフムード・アッーバスが二〇〇五年初頭からパレスチナ自治政府大統領に就任した。二〇〇六年から形成されていたファタハとハマースのパレスチナ連立内閣は二〇〇七年六月、崩壊し、ヨルダン川西岸はファタハが、ガザはハマースが実効支配する事態になり、現在に至るまでパレスチナの分裂状態は続いている。
二一世紀に入ると、さらに追い打ちをかけるように、二〇〇一年の九・一一事件、いわゆる「ニューョーク・ワシントン同時多発テロ」が起こり、二〇世紀と二一世紀を画する、文字通り画期的な出来事となった。というのも、以後、ブッシュ・ジュニア米政権(任期二〇〇一年一月-二〇〇九年一月)が「対テロ戦争」を開始したからである。まず、テロを実行したとされるビン・ラ・ディン率いるアル・カーイダの拠点のあるアフガュスタン空爆に始まり、二〇〇三年三月には大量破壊兵器を保有しているとしてサッダーム・フセイン政権の壊滅を目的とするイラク戦争を引き起こした。しかし、後になって米議会においてイラクは核兵器を保有していないことが判明した。
また、一九九一年の湾岸戦争時のイラクヘの多国籍軍による攻撃は国連決議に基づいて行なわれた。ところが、二〇〇三年のブッシュ・ジュニア大統領は、国連の存在を無視するかたちで軍事行動を起こしたのである。ブッシュ親子による二つの戦争の違いは国連を重視するか否かというところだった。
サッダーム・フセイン大統領が捕捉されて処刑された後、イラクには選挙によってヌーリー・マーリキー内閣が成立したものの、同政権のシーア派優遇政策によってイラクはスンナ派とシーア派の宗派間の対立で引き裂かれることになった。
そのような対立の中で生まれたのか「イスラーム国(IS)」であった。二〇一四年六月二九日、「イラク・シャーム・イスラーム国」のアブー・バクルーアルーバグダーディーは自らを「カリフ」であると宣言し、シリア・イラク両国の制圧地域に「イスラーム国」を樹立すると宣言した。同支配地域ではシャリーアが厳密に施行された。しかし、二〇一七年二一月までに同国も軍事的に制圧され、事実上壊滅した。
一方で、二〇一〇年代初頭のアラブ諸国では、独裁政権が倒される民主化運動が連鎖的に起こり、「アラブの春」と呼ばれた。チュニジアでは、二〇一〇年末から失業や物価高騰などへの不満がデモとなって噴き出したため(ジャスミン革命)、ベン‥アリーは次期大統領選挙への不出馬など表明して事態を収拾しようしたが収まらず、二三年の長期政権の末、サウジアラビアに亡命した。「アラブの春」はチュニジアのジャスミン革命からエジプトにも波及し、最終的にこの両国とリビアおよびイエメンにおいて政権交代が起こった。エジプトではムバーラク大統領が、イエメンではサーレハ大統領が辞任に追い込まれた。エジプトではムスリム同胞団系のムルシー大統領が誕生したものの、スィースィーによる軍事クーデタでムルシー政権は崩壊し、スィースィーが二〇一四年六月、大統領に就任した。イエメンでは、サーレ(大統領は辞任後、アブドラッバ・ハーディーに大統領職を譲ったものの、北部を拠点とするシーア派系の武装組織でイランが支援するフーシー派と連携してハーディーに対抗した。しかし、そのためサウジアラビアがイエメンの内政に介入することになり、イエメンは内戦状態に陥った。また、シリアでは二〇一一年三月よりロシア・イランなどに支持されたアサド大統領とサウジなどに支援を受けている反体制派の間で争いが起き、内戦状態になっている。「アラブの春」が「アラブの冬」になったと鄭楡されたりもしている。
現在の中東の状況は、まさに大混乱である。ある意味では不安定が安定化しているという奇妙な事態だ。紛争か起こることによって、逆に奇妙なかたちで地域の「秩序」が保たれているという非常に逆説的な政治状況が中東で起こっている。イエメンやシリアをめぐる争いはスンナ派対シーア派なのであるが、イラクも同じような状況になり、イエメン・シリア・イラクがイスラームの宗派対立の舞台になってしまった。急速に動き始めているのがサウジアラビアであり、最近(二〇一七年二月)、サウジアラビアの外務大臣が湾岸戦争以降初めてイラクを公式訪問し、イラクの現シーア派政権のアバーディー首相と会談した。つまり、イラクにおけるイランの影響力を排除しようとする方向に動き始めたのだ。今までは、スンナ派対シーア派の問題は、イラクでは純粋に国内問題であったか、今後イランとサウジアラビアの対立がイラクにも持ち込まれたのである。イエメン、シリア、そして今度はイラクにも波及した。ただし、二〇一八年に入って、シリアやイラクの宗派対立に由来する内戦状態は終息しつつあると言える。
これまで中東の近現代史を概観してきたが、中東はトランプ米大統領の登場によってこれまでとは違った方向へと進み始めた。特に、二〇一七年一二月に同大統領が駐イスラエルーアメリカ大使館をテル・アヴィヴからエルサレムに移転する決定を行ってからパレスチナ人の反発が続いている。東西統一エルサレムを首都とするイスラエルの主張を国際社会のほとんどが認めていない現状がある。EUを中心に多くの国がこの移転に強く反対している。にもかかわらず、アメリカは二○一八年五月一四日のイスラエル建国記念日に移転を強行した。イスラエルにとっては建国七〇周年という節目の日でもあった。この移転は卜ランプ大統領の「アメリカ・ファースト」政策を推進するため、アメリカ国内のュダヤ人の票やキリスト教福音派の票を見込んだ高度な政治判断であったと評価されるのである。
アメリカはさらに、オバマ大統領時代の二〇一五年に結ばれたイランとの核合意からの離脱をも表明した。アメリカの新たな中東政策にょって、中東は新たな段階に入ったとも言える。
歴史的に振り返ると、中東という地域は二九世紀の東方問題をはじめとして、ヨーロッパ諸列強に翻弄された。二〇世紀に入って第一次世界大戦を迎えると、中東のほとんどが列強の支配下に入った。第二次世界大戦後、イスラエル建国を機にパレスチナ問題を中核とするアラブ・イスラエル紛争が勃発した。そして一九七九年のイラン革命を端緒にイラン・イラク戦争、さらに米ソ冷戦終焉直後にイラクがクウェートに侵攻したため湾岸戦争が起こった。アラブ諸国の独裁体制が倒れるという「アラブの春」を経て、「イスラーム国(IS)」が登場した結果、シリア内戦が泥沼化していった。二世紀以上にわたってこの中東地域が抱え込んできた諸問題がいよいよ断末魔的な様相を呈し始めているのである。
その地政学的な位置から、中東の混乱は世界の混乱に直結することになるのはその歴史が示している。これから中東はどこに向かうのか。人類の未来をも左右しかねないほどの決定的な問題を孕んでいるのが中東という地域なのである。
イラクによるクウェート侵攻は、米ソ冷戦終焉後の世界の最初の危機であった。一九九〇年八月に、米ソ冷戦の終焉を見極めるかのようにイラクがクウェートに侵攻し、それに対してブッシュ・シニア大統領(在任一九八九年一月-一九九三年一月)は多国籍軍を結成して、一九九一年一月に軍隊をクウェートに派遣した。いわゆる湾岸戦争の勃発である。
教科書的な説明では、イラクがクウェートに侵攻したのは、イラクが経済的に破綻したため新たな石油資源の獲得が目的だったとされている。実際にそのような側面もあるかと思われるか、政治的観点から見ると、サッダーム・フセインーイラク大統領は米ソ冷戦終焉後に形成されつつあった新しい国際秩序を読み間違ったということだ。ソ連とアメリカという二大超大国による冷戦時代が終わり、アメリカが唯一の超大国として世界を一極支配し、「世界の警察はアメリカだ」という新たな政治状況が生まれつつあったことをイラクは読み間違えたのである。
冷戦後の新しい世界にあっては地域自体が新しい秩序を作っていくのだから、イラクがクウェートに侵攻したところで何の国際的非難も受けないだろう、と読んでいたのである。しかし、イラクの予想に反してアメリカのブッシュ・シニアが「新たな国際秩序に対する挑戦」と非難し、戦争が引き起こされるという事態にまで発展してしまったのである。
ュージン・ローガンは、イラクがクウェートを侵略したことで、アラブ世界が分裂したと指摘する。すなわち、「一アラブ国家がほかのアラブ国家の侵略を受けたことで、全アラブ世界が分裂し、外国の介入に反対する国もあれば、クウェートをイラク支配から解放するアメリカ主導の多国籍軍に参加する国もあった」。
クウェート侵攻はまた、市民と政府の分裂も招いた。サッダーム・フセインは、イラクのクウェート侵攻を非難するのであれば、パレスチナを支配するイスラエルに対しても非難すべきであると言い、イラクはパレスチナをイスラエルから解放すると約束をした。そのため、アラブ諸国でイラクを批判する政府があった一方で、サッダームはアラブ世界全土で各国の市民に人気ある英雄に祭り上げられたのである。
サッダーム・フセインはイラクによるクウェート占領を、レバノンにおけるシリア軍の進駐にも結びつけた。そのため、地域の政治秩序を回復するためには、イラクをクウェートから追い出すだけでは十分ではなく、アラブ世界はレバノン内戦に取り組まなければならなかった。
湾岸戦争でPLOのアラファート議長はパレスチナ民衆の意向を受けイラクを支持する姿勢を表明したため、湾岸戦争でイラクと戦ったサウジアラビアをぱじめとする湾岸産油国からPLOへの財政的援助か打ち切られ、PLOは戦後、財政的危機に陥った。そのような中で、米ソ冷戦終焉後、シリアが米側について湾岸戦争を戦ったことで敵を失ったイスラエルも新たな道を模索せざるを得ず、ブッシュ・シニア米大統領のイニシアティヴの下に、マドリード中東和平会議が開催され、史上初めてイスラエルとアラブ諸国が交渉のテーブルに着くことになった。結局、この会議に基づく和平交渉はパレスチナ問題の解決の主役であるはずのPLO抜きに行われたため、暗礁に乗り上げることになった。
その一方で、イスラエルの次期首相となるイツハク・ラビンとアラファートはノルウェーの仲介で秘密交渉を行って、その交渉がアメリカのクリントン大統領の仲介の下での一九九三年のオスロ合意(パレスチナ暫定自治に関する原則合意)の締結につながった。しかし、ハマースはこの合意に反対しており、結果的に、オスロ合意はイスラエルとパレスチナ(PL息との間の平和を見出すことができないまま、二〇〇〇年九月には第二次イソティファーダが勃発し、中東和平プロセスは事実上、破綻した。二〇〇四年末にアラファートが亡くなった後はアラファートを継いだマフムード・アッーバスが二〇〇五年初頭からパレスチナ自治政府大統領に就任した。二〇〇六年から形成されていたファタハとハマースのパレスチナ連立内閣は二〇〇七年六月、崩壊し、ヨルダン川西岸はファタハが、ガザはハマースが実効支配する事態になり、現在に至るまでパレスチナの分裂状態は続いている。
二一世紀に入ると、さらに追い打ちをかけるように、二〇〇一年の九・一一事件、いわゆる「ニューョーク・ワシントン同時多発テロ」が起こり、二〇世紀と二一世紀を画する、文字通り画期的な出来事となった。というのも、以後、ブッシュ・ジュニア米政権(任期二〇〇一年一月-二〇〇九年一月)が「対テロ戦争」を開始したからである。まず、テロを実行したとされるビン・ラ・ディン率いるアル・カーイダの拠点のあるアフガュスタン空爆に始まり、二〇〇三年三月には大量破壊兵器を保有しているとしてサッダーム・フセイン政権の壊滅を目的とするイラク戦争を引き起こした。しかし、後になって米議会においてイラクは核兵器を保有していないことが判明した。
また、一九九一年の湾岸戦争時のイラクヘの多国籍軍による攻撃は国連決議に基づいて行なわれた。ところが、二〇〇三年のブッシュ・ジュニア大統領は、国連の存在を無視するかたちで軍事行動を起こしたのである。ブッシュ親子による二つの戦争の違いは国連を重視するか否かというところだった。
サッダーム・フセイン大統領が捕捉されて処刑された後、イラクには選挙によってヌーリー・マーリキー内閣が成立したものの、同政権のシーア派優遇政策によってイラクはスンナ派とシーア派の宗派間の対立で引き裂かれることになった。
そのような対立の中で生まれたのか「イスラーム国(IS)」であった。二〇一四年六月二九日、「イラク・シャーム・イスラーム国」のアブー・バクルーアルーバグダーディーは自らを「カリフ」であると宣言し、シリア・イラク両国の制圧地域に「イスラーム国」を樹立すると宣言した。同支配地域ではシャリーアが厳密に施行された。しかし、二〇一七年二一月までに同国も軍事的に制圧され、事実上壊滅した。
一方で、二〇一〇年代初頭のアラブ諸国では、独裁政権が倒される民主化運動が連鎖的に起こり、「アラブの春」と呼ばれた。チュニジアでは、二〇一〇年末から失業や物価高騰などへの不満がデモとなって噴き出したため(ジャスミン革命)、ベン‥アリーは次期大統領選挙への不出馬など表明して事態を収拾しようしたが収まらず、二三年の長期政権の末、サウジアラビアに亡命した。「アラブの春」はチュニジアのジャスミン革命からエジプトにも波及し、最終的にこの両国とリビアおよびイエメンにおいて政権交代が起こった。エジプトではムバーラク大統領が、イエメンではサーレハ大統領が辞任に追い込まれた。エジプトではムスリム同胞団系のムルシー大統領が誕生したものの、スィースィーによる軍事クーデタでムルシー政権は崩壊し、スィースィーが二〇一四年六月、大統領に就任した。イエメンでは、サーレ(大統領は辞任後、アブドラッバ・ハーディーに大統領職を譲ったものの、北部を拠点とするシーア派系の武装組織でイランが支援するフーシー派と連携してハーディーに対抗した。しかし、そのためサウジアラビアがイエメンの内政に介入することになり、イエメンは内戦状態に陥った。また、シリアでは二〇一一年三月よりロシア・イランなどに支持されたアサド大統領とサウジなどに支援を受けている反体制派の間で争いが起き、内戦状態になっている。「アラブの春」が「アラブの冬」になったと鄭楡されたりもしている。
現在の中東の状況は、まさに大混乱である。ある意味では不安定が安定化しているという奇妙な事態だ。紛争か起こることによって、逆に奇妙なかたちで地域の「秩序」が保たれているという非常に逆説的な政治状況が中東で起こっている。イエメンやシリアをめぐる争いはスンナ派対シーア派なのであるが、イラクも同じような状況になり、イエメン・シリア・イラクがイスラームの宗派対立の舞台になってしまった。急速に動き始めているのがサウジアラビアであり、最近(二〇一七年二月)、サウジアラビアの外務大臣が湾岸戦争以降初めてイラクを公式訪問し、イラクの現シーア派政権のアバーディー首相と会談した。つまり、イラクにおけるイランの影響力を排除しようとする方向に動き始めたのだ。今までは、スンナ派対シーア派の問題は、イラクでは純粋に国内問題であったか、今後イランとサウジアラビアの対立がイラクにも持ち込まれたのである。イエメン、シリア、そして今度はイラクにも波及した。ただし、二〇一八年に入って、シリアやイラクの宗派対立に由来する内戦状態は終息しつつあると言える。
これまで中東の近現代史を概観してきたが、中東はトランプ米大統領の登場によってこれまでとは違った方向へと進み始めた。特に、二〇一七年一二月に同大統領が駐イスラエルーアメリカ大使館をテル・アヴィヴからエルサレムに移転する決定を行ってからパレスチナ人の反発が続いている。東西統一エルサレムを首都とするイスラエルの主張を国際社会のほとんどが認めていない現状がある。EUを中心に多くの国がこの移転に強く反対している。にもかかわらず、アメリカは二○一八年五月一四日のイスラエル建国記念日に移転を強行した。イスラエルにとっては建国七〇周年という節目の日でもあった。この移転は卜ランプ大統領の「アメリカ・ファースト」政策を推進するため、アメリカ国内のュダヤ人の票やキリスト教福音派の票を見込んだ高度な政治判断であったと評価されるのである。
アメリカはさらに、オバマ大統領時代の二〇一五年に結ばれたイランとの核合意からの離脱をも表明した。アメリカの新たな中東政策にょって、中東は新たな段階に入ったとも言える。
歴史的に振り返ると、中東という地域は二九世紀の東方問題をはじめとして、ヨーロッパ諸列強に翻弄された。二〇世紀に入って第一次世界大戦を迎えると、中東のほとんどが列強の支配下に入った。第二次世界大戦後、イスラエル建国を機にパレスチナ問題を中核とするアラブ・イスラエル紛争が勃発した。そして一九七九年のイラン革命を端緒にイラン・イラク戦争、さらに米ソ冷戦終焉直後にイラクがクウェートに侵攻したため湾岸戦争が起こった。アラブ諸国の独裁体制が倒れるという「アラブの春」を経て、「イスラーム国(IS)」が登場した結果、シリア内戦が泥沼化していった。二世紀以上にわたってこの中東地域が抱え込んできた諸問題がいよいよ断末魔的な様相を呈し始めているのである。
その地政学的な位置から、中東の混乱は世界の混乱に直結することになるのはその歴史が示している。これから中東はどこに向かうのか。人類の未来をも左右しかねないほどの決定的な問題を孕んでいるのが中東という地域なのである。
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