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「のだめ」のブロードウェイ化

人間を覚醒するプログラム

 AIを使って人間を覚醒するプログラム。それがEcho「ソクラテス」。ポイントは人間への問いかけ。存在の力に目覚めさせる。やっと人類の未来が見えてきた。

「のだめ」のブロードウェイ化

 一人でミュージックステーションの階段を降りてくるいくちゃん。ミュージックステーションでミュージカルは初めてなんだって。

 音大在籍中に「のだめ」のブロードウェイ化。それができたら楽しそう。#生田絵梨花
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OCR化した8冊

『危機の時代と「知」の挑戦』

 主流メディアの劣化

  マスメディアの困難

   縮みゆく新聞産業

   市場に依存する言論

   メディア産業の全景

  国家とマスメディア

   「政治的公平性」

   急所としてのキー局

   懐柔されるクラブ記者

  地域メディアの可能性

   中央と地方のポリティクス

   全国メディアの陥穿

   地域主義のジャーナリズム

『中央ユーラシア史研究入門』

 帝政ロシア・ソ連時代およびソ連解体後

  ロシアと中央ユーラシア草原

   ロシアと中央ユーラシア草原の研究動向

   モスクワ時代の草原統治

   宗教政策の転換--イスラームの弾圧から利用・奨励へ

  ヴォルガ・ウラル地方

   ムスリム世界への窓

   宗派国家とムスリム社会

   戦争と革命、そしてソヴィエト政権の成立

   第二次世界大戦以降

   ペレストロイカからソ連解体へ

  中央アジアカザフ草原とトルキスタン

   カザフ草原の併合

   トルキスタンの征服と中央アジア統治体制の確立

   ロシア帝政期の中央アジア研究

   帝国権力とイスラーム諸制度の相互作用

   帝政下の経済と社会の変化

   1916年反乱、ロシア革命、自治運動

   ソヴィエト政権の確立と民族共和国の設置

   1920~30年代の変革と混乱

   第二次世界大戦中・戦後の発展と矛盾

   ソ連時代のイスラーム--抑圧・適応と逆説的「原理主義」

   ペレストロイカと民族紛争

   独立後の政治・経済--権威主義体制の確立と市場経済化

   社会と国際関係の変化--歴史と現在の交差

  コーカサス

   フロンティアとしてのコーカサス

   ロシア帝国の南下と「コーカサス」世界の誕生

   征服・再編・教化によるアイデンティティ変革

   革命・独立・ソ連期の「発展」

『金融の世界現代史』

 ユーロ危機--「未完の統合」の副作用

  粉飾決算から世界危機に

  銀行不安と政府不信の共振

  「ドイツ一強」と再発防止策

『武器としてのITスキル』

 新しいテクノロジーの基本を知る

  AI(人工知能)

  AIの今後

  loT(lnternet of Things:モノのインターネット)

  ロボティクス

  VR(仮想現実)・AR(拡張現実)・MR(複合現実)

  新技術との付き合い方

『思考する歴史教育への挑戦』

 アメリカ歴史教育からの示唆

  暗記型か、思考型か、揺れる歴史教育

  歴史的思考力が目指す社会--多文化共生--

  本書の課題と日本における今後の展望

『欧州ポピュリズム』

 EUとはどのような存在なのか

  「主権の共有」とEUの自律性

   「主権の共有」と相互干渉

   EUの自律性と脆弱性

  単一市場と派生的政策

   EUの存在意義としての単一市場

   単一市場の派生的政策

  EUの権限と予算

   EU権限の強度と政策分野

   EU予算

  EUの運営と正当性

   EUの運営--超コンセンサス追求型

   インプット型正当性と「民主主義の赤字」

   ウトプット型正当性とEUの揺らぎ

  EUの基本的価値と加盟条件

   EUが重視する価値とは何か?

   EUに加盟するための条件は何か?--コベンハーゲン基準

   EUの基本的価値に著しく違反するとどうなるか?--権利停止手続

   「法の支配枠組み」

   EU司法裁判所への提訴--権利停止手続の代替手段?

   EUは加盟国を除名することができるか

『アメリカ政治講義』

 メディア

  メディアの発展

  空中戦と地上戦

  メディアのバイアス

  メディアが政治を変える

  政治社会の分極化とメディア

  フェイクニュースとメディア不信

  メディアと統治

『イスラム10のなぞ』

 預言者ムハンマドはどんな人? なぜ、彼に啓示があったのか?

  ムハンマド誕生以前

  ムハンマドの生い立ちと啓示のとき

  聖遷(ヒジュラ)--理想的なイスラム共同体の構築

  メッカヘの帰還

  ムハンマドという人物が、信徒のモデルとなった

  真の宗教への呼びかけ

  イスラム社会が根本的に変わった

 抗争を繰り返していたアラブ人はなぜ、イスラムを受け入れたのか?

  イスラム以前のアラブ社会

  秩序がなかったアラブ社会

  アラブ世界拡大の背景

  女性と貧者の権利を確立する

  国際政治の激動期

  世界帝国へ変貌する

 アラブとイスラエルはなぜ、和解できないのか?

  メディナの先住のユダヤ教徒たち

  三大宗教は同根である

  地中海地域のイスラムとユダヤの共存

  アラブとイスラエルの対立をもたらしたヨーロッパの不寛容

  解のないパレスチナ問題--戦争から共存、また衝突へ

  イスラエルで強まる夕力派の傾向

  イスラエル・パレスチナの和平への日本の役割
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アラブとイスラエルはなぜ、和解できないのか?

『イスラム10のなぞ』より

地中海地域のイスラムとユダヤの共存

 イスラム共同体の下では各宗教や民族コミュニティーは共存するシステムをもっていた。それは三大一神教の聖地であるエルサレムも例外ではなかった。イスラム拡張期の638年に、ムスリムがエルサレムを占領したムスリム支配のもとでも、教会やキリスト教徒は迫害を受けることはなかった。由緒ある教会や遺跡は、巡礼者たちの訪問の対象となる。キリスト教支配のもとでは信仰が禁止されていたユダヤ教徒たちもエルサレムヘの帰還を許され、かつてソロモン王やダビデ王が支配した町で礼拝を行った。この3つの宗教の共存による平和な生活がキリスト教の十字軍遠征まで継続した。

 1095年、教皇ウルバヌス2世はクレルモンの宗教会議で十字軍を呼びかけ、1099年に十字軍はエルサレムを占領する。十字軍はユダヤ人やムスリムを虐殺して、エルサレムから追放した。イスラム世界の英雄サラディンは1187年に十字軍を撃退し、エルサレムを奪還して解放した。サラディンの行動は、イスラム世界を守るという「ジハード」に貢献するものであった。彼は敬虔なムスリムとしても知られ、モスクやマドラサの建設などイスラムの宗教施設の普及に努めた。

 地中海中央に位置するシチリア島は831年から‥‥‥一世紀末までイスラムが支配した。

 ムスリムは農業と商業をシチリア島にもたらし、イスラム文化は安寧のシンボルともなった。農業ではレモンやオレンジといった柑橘類の栽培が盛んとなり、イスラム支配は小規模農家を多数つくったことによって生産性を高めることになった。イスラム文化は古来からのキリスト教文化、ユダヤ教文化を融合してさらなる発展を遂げた。

 ムスリムは、キリスト教会をモスクに換え、シチリアの首都パレルモは当時スペインのコルドバと比肩するほどの大都市に成長した。ムスリム学者は西欧では忘れられていたギリシャ古典の翻訳に尽力し、発展させることになった。パレルモには美しい水路や庭園をもつ巨大な建築物がつくられるようになった。

 エジプトのアレクサンドリアはその名の通り、紀元前332年にアレキサンダー大王が築き、地中海を見渡す海軍基地としてエジプト支配の拠点にした。紀元前323年に大王が亡くなると、プトレマイオス朝(紀元前304~30年)の統治が始まり、紀元前300年頃にアレクサンドリア図書館が設立され、世界中・から文学、地理学、数学、天文学、医学などの文献が蒐集され、ヘレニズム文化の発展に寄与した。プトレマイオスー世がつくった研究所である「ムセイオン(museumの語源)」では、ギリシャの数学者のユークリッド、アルキメデス、哲学者のプロティノスが学んだ。

 アレクサンドリアはユダヤ人の植民先ともなり、旧約聖書がヘブライ語からギリシャ語に訳され、『セプトゥアギンタ(七十人訳聖書)』となった。ローマ統治となっても、優れた聖書学者が現れ、オリゲネス(185年頃~254年頃)のようにギリシャ哲学を援用してキリスト教神学を解釈する人物がいた。

 7世紀にイスラム支配となってもアレクサンドリアの重要性は低下することがなかった。地中海に臨む東西貿易の要衝として、ムスリム、キリスト教徒、ユダヤ教徒をつなぐネットワークとして機能した。アレクサンドリアにはピサ、ジェノア、マルセイユ、バルセロナ、またレヴァントの船が停泊して貿易を行った。またアレクサンドリアは、キリスト教徒がエルサレムやエジプトにあるキリスト教の聖地に、ムスリムがメッカ、メディナというイスラムの聖地に、それぞれ巡礼する際の重要なルートに位置していた。

 イペリア半島もまたイスラムとユダヤの共存が顕著に見られた社会であった。スベイン語の「La Convivencia(共存)」という言葉はイスラムがスペインを統治していたときの、イスラム・ユダヤ教・キリスト教が共存した社会を表し、作家の堀田善衛氏によってもさまざまな機会で紹介された。モロッコにユダヤ人が最初に到達したのは紀元前2世紀で、大規模な移住は7世紀に始まった。モロッコのイスラム化はイドリース朝(789~985年)のイドリース1世によって進められた。その息子のイドリース2世は、都のフェズに大勢住んでいたユダヤ人たちを保護し、自由な経済活動を認めた。

 ユダヤ教世界を代表する哲学者、医者、法学者のイブン・マイムーン(1135~1204年)は、フェズでユダヤ法資料を体系化して、ユダヤ法典『ミシュネー』トーラー(第2の卜ーラー)』を著した。また、哲学書『迷える人々のための導き』はラテン語に翻訳されてトマス・アクィナスなどキリスト教思想家に多大な影響を及ぼした。この書は当時のユダヤーイスラム双方の思想を知る上で手がかりとなる貴重な資料である。

 モロッコのカサブランカ郊外には現在アラブ世界で唯一の「ユダヤ博物館」があり、イスラムとユダヤの文化がこの国で融合してきたことを表している。2013年に現国王のムハンマド6世はモロッコ国内にあるシナゴーグ(ユダヤ教寺院)の復旧を訴え、モロッコ文明の基礎としての文化的・宗教的対話の場としたいという意向を明らかにした。

アラブとイスラエルの対立をもたらしたヨーロッパの不寛容

 18世紀までのユダヤ人に対する迫害の背景にはキリスト教側の宗教的不寛容があった。4世紀のアウグスティヌスから16世紀のマルティン・ルターまでのキリスト教の主要な神学者たちでさえも、ユダヤ人を神への反乱者、またキリストの殺人者と表現してきた。

 ユダヤ人が金貸し業に多く従事したのは、カトリック教会がその信徒たちに金を貸して利子をとることが罪だと教えたことが背景にある。その結果、ユダヤ人には「強欲」というイメージが形成された。1492年には、スペインで「改宗したばかりのキリスト教徒に悪影響を及ぼすかもしれない」という危惧から、およそ20万人のユダヤ人がスペイン王とカトリック教会によって追放された。さらに、1493年にシチリア島から3万7000人のユダヤ人が放逐されたが、その多くは、オスマン帝国、オランダ、北アフリカ、南欧、そして中東へと移住していった。

 中世後期になるとヨーロッパで商業が盛んになり、ユダヤ人の中には貿易、金融、金貸しで成功を収める者が現れ始めた。しかし、ユダヤ人の経済的成功には、キリスト教徒の妬みと宗教的偏見が結びついて憎悪が増幅された。

 19世紀以降、ヨーロッパにおいて1国家は1民族によって構成されるという国民国家の概念が定着するようになると、キリスト教の価値観をもっていないユダヤ人に対して「迫害」から「排斥」の傾向が生まれた。ドイツでは国家統一の過程で国粋主義を鼓舞するために政府がユダヤ人に対する偏見を煽り、ロシアではユダヤ人居住区を攻撃する「ポグロム」が多発するようになった。ロシアはさらに、1795年のポーランド分割以降に移住してきたユダヤ人に対して、ロシア西部に「囲い込み」を行い、彼らの移動や社会同化を制限する措置をとった。フランスで起こったドレフュス事件は、ユダヤ人差別の典型例である。1894年、陸軍将校のユダヤ人アルフレッド・ドレフュスは、ドイツに情報を流したスパイとして反逆罪の濡れ衣を着せられた。その背景にはユダヤ人に対する根深い差別や偏見があった。

 ユダヤ人排斥の潮流がヨーロッパで強まるにつれて、ユダヤ人の側でも民族主義が発生し、国家を樹立しようという思想活動であるシオニズムが台頭していった。シオニズムの指導者であるハンガリー・ブダベスト生まれのジャーナリスト、テオドール・ヘルツルは小冊子『ユダヤ人国家』(1896年)の中で心の内を語っている。

  我々はいたる所で我々が住んでいる民族社会に溶け込もうと誠実に努めてきた。

  求めたものは父祖の信仰の保持だけだった。しかし、それは許されないのである。

  忠実な愛国者であり、時には過度に忠実だけれど、結局何の役にも立たない。

 第1次世界大戦中、イギリスは「フセイン・マクマホン書簡」(1915年7月~1916年3月)で敵国オスマン帝国のアラブ人に反乱を起こさせ、アラビア半島と東アラブに独立アラブ王国を建国する約束を行う。さらに、イギリスはフランスとの間で「サイクス=ピコ協定」(1916年)を結び、オスマン帝国の束アラブ地域を戦後英仏で分割、パレスチナ中央部は国際管理下に置く約束を行った。その上これらの約束と矛盾するかのように、「バルフォア宣言」(1917年H月)でパレスチナにユダヤ人の民族郷土を建設することへの支持を表明した。第1次世界大戦でオスマン帝国に勝利したイギリスはエルサレムを中心とするパレスチナ中央部を国際連盟の委任統治下に置いた。1922年に委任統治規約が調印され、イギリスの委任統治が国際連盟で追認された。統治規約前文ではバルフォア宣言が引用され、シオニズム運動を支持する内容であった。

 1930年代にドイツでナチズムが勃興してユダヤ人の排斥が進むと、ユダヤ人は故国建設を至上とする声を強めていく。1936年、ユダヤ人のパレスチナヘの移住に対して不安を覚えたアラブ人は暴動を起こした(アラブの大蜂起)。イギリスはビール調査団を派遣し、民族対立の解決手段としてパレスチナをアラブ人国家、ユダヤ人国家に分割することを提案し、さらに1939年2月のセント・ジェームズ会議でユダヤ人の土地購入を制限し、ユダヤ人のパレスチナヘの移住はアラブ人の承認がない限りは認めないという結論を出すと、パレスチナではこれに反発するユダヤ人武装集団によるイギリスヘのテロ、ユダヤ人の密入国への支援活動が加速していった。イギリスは結局事態を収拾することができず、1939年9月の第2次世界大戦の勃発によって、パレスチナ問題は棚上げ状態となった。

解のないパレスチナ問題--戦争から共存、また衝突へ

 第2次世界大戦後の1947年11月に成立した国連総会決議181号は、パレスチナをユダヤ人国家、アラブ人国家に分割し、エルサレムを国連の信託統治下に置くというものだったが、アラブ側はこれに強く反対した。アラブ側から見れば、ホロコーストなどのユダヤ人迫害という「罪」をなぜアラブの犠牲の上に蹟わなければならないのかという想いが強くあった。また、ユダヤ人人口はアラブ人に比べはるかに少なかったにもかかわらず、決議はパレスチナ全域の55%をユダヤ人国家に与えるとしていた。

 パレスチナに対するイギリスの委任統治が1948年5月14日に終了すると、イスラエルが国家独立宣言をして、イスラエルとアラブ諸国の戦争が勃発(=第1次中東戦争)。アラブ諸国軍を構成したのは、シリア、レバノン、トランスヨルダン(1949年、ヨルダンに改称)、イラク、エジプトだったが、士気が低く統制されなかった。イスラエル軍は、武器・装備がアラブ諸国よりも優れ、次第にアラブ諸国軍を圧倒していった。1949年の1月から7月にかけて成立した休戦協定では、パレスチナ全域の約75%がイスラエルの支配下に置かれた。イスラエルの占領した地域は国際的にも国家と認知され、エルサレムは国際管理下に置かれず、東西に分割され、それぞれヨルダンとイスラエルが支配し、ガザはエジプトの軍事占領下に置かれた。ガザの住民たちは無国籍となった。

 第1次中東戦争は、100万人近くのパレスチナ・アラブ人を故郷から追いやることになった。開戦当初、パレスチナには132万人のアラブ人と64万人のユダヤ人が居住していたが、イスラエル国家の成立によってアラブ系住民の70%がパレスチナの地から放逐された。

 戦争に敗れたエジプトでは、下層階級出身の将校たちがクーデターを起こし、1952年7月にムハンマド・アリー朝の王政は倒れた。ガマール・ナセルを中心とする将校団は、イギリス支配の終焉によってこそエジプトに自由が到来すると考え、1956年7月にスエズ運河国有化宣言を行った。スエズを生命線と考えていたイギリス、フランスは、エジプトからのゲリラ攻撃に悩まされていたイスラエルを誘ってエジプトに対して戦争をしかけた(スエズ動乱、第2次中東戦争)。冷戦時代にあって、戦争はソ連の介入を招くと判断したアメリカはイギリスに対するIMF融資の停止をほのめかし、3国の撤退を迫った。イギリス、フランス、イスラエルは軍を引き揚げたが、ナセルとエジプトは大きな名声を得て、アルジェリアからイラクに至るアラブ諸国の政治的中心となってアルジェリア独立(1962年)、イラク革命(1958年)にも影響を与えた。

 アラブ・ナショナリズムの潮流に影響されて、ヤーセル・アラファトを指導者としてパレスチナ解放を目的とする武装組織「ファタハ」は、アラブ諸国を巻き込んでイスラエルとの戦争を起こすことを考えた。ファタハは、1960年代中ごろからヨルダンなどを拠点にイスラエルヘゲリラ攻撃を行い、イスラエルと激しく報復合戦を繰り返した。1966年末から1967年はじめにかけてイスラエルとアラブ諸国が緊張する中、ナセルはアカバ湾と紅海の境界にあるチラン海峡を封鎖する宣言を行った。チラン海峡が封鎖されれば、イスラエルはインド洋に入る海路が断たれてしまう、これはイスラエルにとっては死活に関わる問題で、イスラエルが戦争を開始する口実となった。

 1967年6月5日、イスラエルの奇襲によって第3次中東戦争が開始された。エジプト、シリア、ヨルダン、イラクの空軍は壊滅状態になり、戦争はイスラエルの圧倒的勝利で終わり、6月10日に停戦が成立した。6日間で戦争が終わったので「6日間戦争」とも呼ばれている。イスラエル側戦死者が679人、対してアラブ側戦死者は3万人余りだった。イスラエルは、エルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸とガザ地区と、シリア領ゴラン高原とエジプト領シナイ半島も支配下に置くことになり、現在でもヨルダン川西岸とゴラン高原の占領は継続している。

 1973年の第4次中東戦争でアンワル・サダト政権のエジプトがイスラエルに緒戦で勝利すると、エジプトはイスラエルと和平に向かい、1979年にキャンプ・デービッド合意でイスラエルとの「平和状態」を実現させた。エジプトが反イスラエル陣営から離脱すると、イスラエルのメナヘム・ベギン政権は、1980年7月に東西エルサレムを首都とする基本法を成立させ、1981年6月にイラクの原子炉を破壊、1981年12月にはシリア領ゴラン高原を併合する法案を成立させるなど強硬な政策をとり、さらに1982年6月にレバノンを侵攻し、ヤーセル・アラファトのPLO(パレスチナ解放機構)をレバノンから駆逐した。レバノン戦争以降、パレスチナはイスラエルの軍事力に優越することができないと判断し、イスラエルとの共存を探っていく。

 1991年10月、アメリカの先代ブッシュ政権はマドリードで中東和平会議を開催し、パレスチナ問題の解決を目指した。ノルウェーの仲介で1993年9月、「暫定自治に関する原則宣言」が成立して、イスラエルとPLOがはじめて相互承認に踏み切った。「原則宣言」には①占領地にあるユダヤ人入植地の扱い、②エルサレムの最終的地位、③パレスチナ独立国家の問題、④難民の帰還など、成立当初から多くの問題が存在していた。

 1996年2月と3月に原則宣言に反対するイスラム組織「ハマス」の自爆攻撃が発生し、イスラエル人62人が犠牲になると、同年7月にパレスチナに対して強硬なベンヤミン・ネタニヤフが首相に選出された。
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抗争を繰り返していたアラブ人はなぜ、イスラムを受け入れたのか?


『イスラム10のなぞ』より

秩序がなかったアラブ社会

 部族への忠誠や部族の連帯がアラブ人の力の源泉であった。個々の人々は部族の権威や習慣に従っていた。部族の慣習法は個人のアイデンティティーを表すだけでなく、個人を保護する原則でもあった。アラブ社会には中央政府の権威はなく、法を犯せば部族による復讐が行われるということが不当行為への抑止力となっていた。敵対する部族から人々を守ることができなかった部族は不名誉な恥にさらされた。アラブ人は現世の運命論によって支配され、死後の肉体の復活、永遠の罰、現世を超えた報奨という概念はなかった。

 神の啓示を得たムハンマドはメディナではじめてムスリムの共同体を創設した。イスラムによってアラブ人は信仰でまとまるようになり、共同体を守ることがその成員の義務となった。メディナの共同体はアラブ人に秩序や平安な暮らしの規範を与えることになる。629年にはイスラム共同体はビザンツ帝国が支配していたシリアに遠征するようになり、生前ムハンマドが構想したイスラム世界の版図が拡大していく。

 ムハンマドは誰が後継者になるかを決めずに亡くなったが、イスラム共同体はムハンマドの聖遷に従ったアブー・バクルをカリフ、つまり最高指導者として選んだ。カリフには「後継者」という意味がある。

 アブー・バクル(在位632~634年)はムハンマドの構想に従い、ビザンツ帝国のシリアに遠征した。ムハンマドが亡くなった時、現在リヤドに住んでいたハニファ教徒は新しい預言者を立てるなど、彼の死によりイスラム共同体はその統一が緩んで崩れていくのではと考える部族もいた。アブー・バクルはこうした反乱を鎮め、イスラム支配をアラビア半島全域に拡げ、強化していった。アラビア半島とは遠隔の地にあるイラクの部族もアブー・バクルの活動を聞きつけてその遠征に加わった。633年に「神の剣」として知られ、騎馬戦略に優れていたムスリムの司令官であるハーリド・イブン・ワーリドがイラクに派遣され、ヒーラなどユーフラテス川下流地域の諸都市を平定した。

アラブ世界拡大の背景

 武力で征服した場合、その戦利品はアッラーと預言者のものであると『コーラン』は説く。

  戦利品は神と使徒のもの。それゆえ、神を畏れ、おまえたちのあいだのもめごとを正しく処理せよ。おまえたちがほんとうの信者であるならば、神とその使徒に服従せよ。                                   (8章1節)

  おまえたちの得た戦利品はいかなるものでも、その五分の一は神のもの、使徒のもの、近親者、孤児、貧者および旅人のものであることを知れ。        (8章41節)

  汝は彼らの財産のうちから喜捨を受けとったならば、それによって彼らを清め、かつ浄化し、彼らのために祈ってやれ。汝の祈りは彼らのために安らぎとなろう。神はよく聞き、よく知りたもうお方。                     (9章103節)

 戦利品はイスラム共同体のものとされ、孤児・困窮者・旅人など社会的弱者に施された。軍事征服によって彼らは経済的に潤ったが、社会正義を実現するという道徳的な充足感と、共同体に対する忠誠心が軍事征服を後押しした。

 アラブの統合を当時の国際環境から眺めれば、アラブはビザンツ帝国とササン朝の圧迫を受けていて、ビザンツ帝国とササン朝は、インドと交易する上でアラビア半島を地政学的に必要としていた。ビザンツ帝国はエチオピアやガッサーン朝を介してアラブの部族支配を行い、ササン朝がアラビア半島の東部・中部・南部を直接支配しようとしていた時期だった。大国の圧力をはねのけるためにはアラブの連帯が必要だったという時代背景があった。

 第2代カリフのウマル(634~644年)は、力によって得た土地はアラブの征服者たちに分配するのではなくて、イスラム共同体の所有になることを決定した。アラブの征服者は軍事拠点に留まり、安全保障の見返りに征服地からの収入を与えられた。

 ムハンマドの後継となったカリフたちはイスラムを最も基本的なアイデンティティー、国家イデオロギーとした。カリフの指導的権威は、ムハンマドの後継者であることにある。ムハンマドの言行が統治の規範を提供した。カリフはイスラム共同体に忠誠を認められた指導者の協議を通じて選出された。カリフは信仰の擁護者であり、神の法に燕づく支配を軍事的行為ではなく外交によって広めることが要請された。カリフが指導する共同体は、宗教によって束ねられた信徒たちの同胞社会であった。

 一般にアラブ人たちは征服した土地を占領するということはなく、イラクのバスラやクーファ、エジプトのカイロ、チュニジアのカイラワーンは、都市の近くに駐屯地を設けてイスラム都市として発展していった。都市の中心にモスクがつくられ、宗教や公共生活のインフラが敷かれた。征服地は行政州によって分けられ、総督(多くは軍事司令官)によって統治された。カリフの代理人が徴税を行い、イスラム共同体の歳入は征服地からの収入と税によって構成された。アラブの征服事業は、神の意志によるものであると考えられ、イスラム軍は不可視の天使の軍隊によって加護されていると考えられた。

  神は、財産も生命も投げ捨てて戦う者にたいして、家に残る者よりも一段と高い位を授けたもう。いずれの者にも、神は最良のものを約束したもうた。しかし神は、戦う者には、家に残る者よりも大きな報酬を授けたもう。             (4章95節)

 キリスト教徒やユダヤ教徒だけでなく、ゾロアスター教徒、シーク教徒、ヒンドゥー教徒仏教徒なども「庇護民」として税を払い、イスラム国家から生存と安全を守られた。

女性と貧者の権利を確立する

 イスラム以前のアラビア半島は男子優位の社会であった。男性が女性と結婚できる人数に制限はなく、結婚や離婚の決定は男性の意志に基づいた。女性は、結婚するまでは父親に、結婚すれば夫によって運命が決定されていた。イスラムによって婚姻、離婚、女性の相続が規定されたことが、女性の地位改善をもたらし、女性たちも進んでイスラムに帰依する傾向が生まれた。

 部族社会では、女性は財産として自身が相続の対象となることもあった。父親が亡くなれば、長男が自らの母親を除いて父親の夫人たちを相続することとなり、養育に自信がなければ、子女を殺害することすらもあった。『コ上フン』はジャーヒリーヤ時代に自分の娘を生き埋めにして殺す慣習があったことを伝えている。部族では女性が増えると、子どもが増え、家庭の負担も増えると考えられていた。

 多神教のアラブの部族社会は、遊牧生活から定住生活へ時代の移行期を迎えていた。メッカやメディナは経済的な繁栄によってクライシュ族などの富裕な商人が現れ、社会の経済格差は顕著になっていた。このような変動期にムハンマドが登場したのである。イスラムが公正や平等を訴えたことが、困窮する多くのアラブ人の心を強烈にとらえた。

 『コーラン』は貧者のために、喜捨(ザカート)や寄附を要求し、また女性や子どもの相続権を規定した。『コーラン』は債務者・未亡人・貧者・孤児・奴隷に対する公正な扱いを説き、暴利をむさぼる者に対しては、神とその使徒(ムハンマド)からの「戦いを覚悟せよ」と説いた(2章279節)。

 イスラムでは、人々は部族の狭量な利益のために生きるのではなく、神の意志に応じて生きる。部族の復讐の慣習は慈愛ある神の判断がとって代わり、神の法(シャリーア)が人々の生活の基盤となった。

国際政治の激動期

 ビザンツ帝国はシリアから東方に関心を拡げ、ササン朝もイラクから西方に進出するにしたがい、アラビア半島の交易路や人的資源は両方の帝国にとっても重要となっていく。ビザンツ帝国とササン朝は、4世紀から6世紀にかけて領土を確保したのち、アラビア半島の主要都市の獲得をめぐって競合していた。領地を広げることは、商業をコントロールし、帝国の税収にとって重要な意味をもっていた。交易では、中国の絹、インドの胡根、綿、スパイスなどが海路でアラビア半島に入り、地中海地域に向かっていった。ビザンツ帝国は海洋貿易が得意であったエチオピアのアクスム(エチオピア高原北部のアクスムに都を置いた商業王国)やパレスチナやシリアの部族と同盟し、他方ササン朝はアラビア半島のオマーンなどの小国家と保護の盟約を結んだ。

 ビザンツ帝国はその影響下にあったアクスム王国をイエメンのヒムヤル王国に侵入させ、紅海の貿易港を占領して、紅海からインド洋に至る海洋貿易はビザンツ帝国の支配下に置かれた。しかし、575年にササン朝はイエメン沿岸に遠征軍を派遣してアクスム王国を放琢し、その後数十年間アラビア半島南部はササン朝の勢力範囲となり、王朝からこの地域の行政を司る総督が派遣された。611年から620年にかけてササン朝はアナトリア(現在のトルコ共和国のアジア側)の多くの部分を支配するようになり、シリア、パレスチナ、エジプトをその版図に収めた。しかし、ビザンツ帝国のヘラクレイオス1世(在位610~641年)はササン朝のメソポタミアの中心部に攻め込み、627年にニネヴェの戦いでササン朝に勝利すると、翌628年に自らササン朝の首都クテシフォンに進出した。同年ササン朝のホスロー2世が暗殺されると、より従順なカワード2世と和議を結んだ。ムハンマドが活動した当時のアラビア半島はこのように国際政治の激動期でもあった。

世界帝国へ変貌する

 一神教のキリスト教やユダヤ教は、4世紀にアラビア半島社会に浸透し始め、この頃から人々は一神教の教養に触れていた。キリスト教はペルシャ湾に接するオマーンで信徒を得ていた。2世紀末にエチオピアのアクスム王国がアラビア半島に進出し、ナジュラーン(南西部の都市)を拠点として総督府を置いた。6世紀のヒムヤル王国(紀元前115年頃から525年、アラビア半島南部の王朝)時代にナジュラーンはアラビア半島有数のキリスト教徒の拠点となったが、523年にユダヤ教徒のヒムヤル王ズー・ヌワースによるキリスト教徒の弾圧で多くの殉教者を出した。キリスト教はシリアやメソポタミアに接するアラビア半島北部でも信仰され、ユダヤ教もアラビア半島の(イバルやヤスリブで盛んに信仰された。ヤスリブのユダヤ人は、農業、商業・金融業を発展させた。

 ムハンマドはメッカを征服した後、アラビア半島全域で権威の確立を目指した。使者が周辺地域の部族のもとに派遣され、次から次へと同盟関係が築かれた。独立志向をもった部族たちは、イスラムの預言者の権威のもとに大きな共同体に統合され、イスラムの教えが普及していった。イスラムの教えの広まりは政治的・社会的秩序と神の主権を確立するものであった。イスラムの急速な拡大は驚嘆に値するものであり、イスラムという宗教の力、神の導きであると人々に思われた。ムハンマドがアラビア半島で築いたイスラム帝国は、あっという間に世界帝国に変貌を遂げていった。

 イスラムは、アラブ人ムハンマドが神から啓示を受け、それを伝えた。『コーラン』がアラビア語で書かれたことも、アラブ人に特別な誇りを与えた。『コーラン』は、ユダヤ人、キリスト教徒に次いで、イスラム共同体に新たな道徳的秩序を創造する任務があると説く。おまえたちは、人類のために出現した最上の集団である。おまえたちは正しいことを勧め、醜悪なことを禁じ、神を信ずる。(3章110節)

 この神の指令はムスリムの慣行に長い間影響を与えた。ムスリムは『コ上フン』に書かれたこの社会正義を実践する生き方に強いプライドをもった。

 神を崇拝し、献身することは、礼拝、断食、巡礼といった個人の行為のみならず、社会にも影響を及ぼす。『コーラン』のメッセージは、人類に普遍的な改革を促し、アラビア半島の部族社会の因襲を打破することになった。

 『コーラン』が商業において正義を求めているのは、ムハンマドが商人であったことと関係する。イスラム法学者のイブン・タイミーヤ(1263~1328年)は次のように述べている。

  「正義の中には、万人が理性によって知りうる明白なものもある。例えば、売り手に代価を支払い、売り手が買い手に品物を引き渡す義務、分銅や秤のごまかしの禁止、誠実や率直の義務、虚言や背信や詐欺の禁止、貸与に対する返済と感謝などである。取引関係における正義こそ、人類の支柱であり、それなくしては現世も来世もうまくいかないのである」と述べている。              (『イブン・タイミーヤ政治論集』)

 イスラムは、メッカ社会にあった虚偽の契約、賄賂、女性の揉鯛、富の不当な蓄積、暴利の獲得などの不公正を正すことによって革命的な宗教となった。『コーラン』では、現世は神に属して、人間は地上の管理人であるという前提に立って、ムスリムは社会正義を追求すべきと説く。富の獲得は否定されないが、その追求と蓄積は神の法によって制限され、共同体の他の成員、とくに困窮者に対して社会的責任を負うものとされた。

 これまで見てきたように、イスラムは荒涼とした砂漠の中で暮らすアラビア半島の部族に秩序と規律、また経済の公正や神の前の平等を教えることになった。アラブの人々も、イスラムに帰依することによって自らや家族の安全を保障してもらうことを願った。倫理の実践と知識の探求を促すイスラムという宗教によって、アラブ社会は7世紀以降、世界最先端の文明を発展させていく。
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アメリカ政治講義 メディア

『アメリカ政治講義』より メディア

メディアの発展

 政治社会と統治機構を媒介する存在として重要な意味を持っているのがメディアです。メディアが情報の流通などの点で大きな役割を果たしているのはいうまでもないことです。

 昔はメディアの中心は新聞でしたが、それ以降ラジオ、テレビ、インターネットという形でメディアの領域が拡大していき、中心的なメディアも時代によって変わってきました。

 一九世紀末から二〇世紀初頭はイエロージャーナリズムの時代とも呼ばれ、扇情的な大衆新聞が重要な意味を持っていました。各政党が自分たちの立場を強調するための新聞を作るのも一般的でした。二〇世紀初頭には、文筆によって社会改革を目指そうとするマックレーカーズと呼ばれる人々も活発に活動しました。

 二〇世紀の前半はラジオが発達しました。フランクリン・ローズヴェルト大統領が大恐慌を克服すべくニューディール政策を実施している際に、ラジオを使って炉辺談話と呼ばれる国民に対する直接的な働きかけをしたことが知られています。

 二〇世紀後半に重要な意味を持ったのはテレビでした。テレビの影響力が象徴的な形で現れた例が一九六〇年の大統領選挙です。ジョン・F・ケネディが民主党の、リチャード・ニクソンが共和党の候補でした。大統領選挙前の討論会をラジオで聞いた人はニクソンが優勢だと感じ、逆にテレビでみた人はケネディが優勢だと感じたといわれています。音声だけで判断した人はニクソンの方が聡明で信頼に足ると考えたのですが、テレビでみていた人たちには、ケネディが堂々としているのに対し、ニクソンは挙動不審にみえたといわれます。ケネディは格好いいという評判がありましたが、メイクをしてくるなど、テレビを意識して対策を練ってきたのです。

 今日ではそれに加えてインターネットが重要な役割を果たすようになってきています。このようにメディアが発達することで、政治のあり方がどのように変わってきたのかを考えることが重要な意味を持つと思います。

メディアのバイアス

 次に、政治をみる上でメディアをどのように位置づけ、評価するかが問題になります。メディアを客観的、中立的な組織と考えることはおそらくできません。メディアは民意を代表していると玉張しますが、実際には大半のメディアは営利団体なので、新聞の場合は購読者数を増やす、テレビの場合は視聴率を高める必要があります。

 そのため、人々の耳目を集める情報を優先的に報道しようとする傾向が表れ、それに伴ってバイアスが発生してしまいます。しばしば、犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人が犬を噛んだらニュースになるといわれます。メディアが注目を集めやすい現象を積極的に取り上げる傾向があることで、政治に関する報道の仕方に独特の傾向が表れ、人々の政治に対する認識や、政治家がメディアを活用しようとする際の戦略にも大きな影響が及びます。

 例えば、メディアはよいニュースよりも悪いニュースを取り上げる傾向が強くなります。今日も政治家と役人が朝から晩まで真面目に働きましたというのではニュースにはなりませんが、政治家や役人が失敗した時はニュースになります。同様に、日常的な行政活動はあまりニュースになりませんが、偶発的な事故や政治変動は大きなニュースになる傾向があります。

 また、政策の内容よりも党派対立の方が報道されやすくなります。政策の詳細について紹介するのは限られた時間の中では困難ですし、多くの国民は詳細については関心を持たない可能性もあります。そうなると政策の内容を扱うよりも、民主党と共和党が二のような対立をして、今どちらの政党の方が優勢だというような形で、党派対立に還元して紹介した方が視聴率を稼ぎやすいといえます。選挙についての報道でも、政策内容を扱う報道よりも、競馬のような感じで党派対立を取り上げる報道が増加しているのです。

 メディアの報道は特定の個人に集中する傾向もあります。四三五人の連邦議会下院議員全員を全て同じように報道するのは不可能なので、一部の連邦議会指導部や、一人しかいない大統領に注目した方が取材もしやすいといえます。これは、大統領のような目立つ人にとっては諸刃の剣で、何かに成功すれば多く報道してもらえるので好ましいといえますが、失敗すると集中砲火を浴びます。また、注目を集めたいと思っている人たちはメディアで取り上げてもらうために、大統領や議会指導部の悪口を言おうとする傾向が出てきます。このように、メディアの報道のおり方に基づいて政治家の行動が変わってしまうのです。

メディアが政治を変える

 メディアが政治で大きな役割を果たす様になった背景には、政党の地方組織が弱体化したことかあります。その結果、政治家がメディアに依存する度合いが高まったのです。メディアが政治活動の中心になると、メディアの特性に合った行動をとることのできる政治家が優位になります。

 例えば、テレビなどのメディアを使うことで、ワンフレーズ・ポリティクスと呼ばれる現象がみられるようになります。討論番組などでは政治家も比較的長い時間をかけて議論することができますが、メディアはその中の印象的な部分を編集して、通常のニュース番組で流そうとすることがあります。ニュース番組で映像を流そうとすると、長くても一五秒ほどしか使えないことを考えると、メディアヘの露出を増やLたいと考える政治家は短く象徴的なフレーズを使うようになります。その結果、討論番組に際しても、政策論争よりも象徴的なイメージ戦略が重視されるようになってしまいます。

 また、いわゆるネガティヴキャンペーンもしばしば用いられるようになります。自分のよいところを強調するよりも、他人の問題点や失敗を強調する傾向が強くなってしまうつです。心理学の研究でも、肯定的な情報を伝えるよりも否定的な情報を流した方が記憶に残りやすいことが明らかになっています。そのような選挙戦略をとろうとする人が出てくる結果として、スキャンダルなどが頻繁に取り上げられるようになるのです。

 さらに、メディアが選挙の中心になると、選挙資金が増大する傾向があります。テレビ広告を流すには多額の費用が必要になり、資金力のある政治家が有利になります。資金力に乏しい候補は、メディアを活用するためには、資金力のある人や団体に頼らなければなりません。特定の献金者に頼ることになるのか、利益集団に依存することになるのか、政党本部の資金に依存することになるのかは状況によって変わりますが、いずれにせよ資金力のある人や団体の影響力が大きくなることには違いありません。

 ちなみに、インターネットは非常にお金がかかるメディアです。日本ではインターネットを使った選挙は金がかからないとしばしばいわれますが、その根拠は薄弱です。インターネットで候補者の悪口を書かれることがしばしばありますが、それを即座に発見し、その情報を否定したり、その印象を薄めたりしなければなりません。そのような作業を専門的に行う人員も必要になりますし、それに特化した特別なソフトウェアも購入しなければならないなど、実際にはかなりお金がかかります。

政治社会の分極化とメディア

 近年のアメリカ政治では分極化の傾向が強まっていますが、それとメディアはどのように関係しているのでしょうか。

 メディアはしばしば不偏不党、客観報道を原則として掲げる傾向があります。また、メディアこそが国民全体の集合知を作り出すのだという議論がなされることもあります。しかし、この考え方は近年ではかなり怪しくなっています。

 アメリカの場合は、保守系のメディア、例えばFOXニュースやトークラジオがこの前提を覆してしまいました。伝統的なCNNなどのメディアは、特定の党派に有利な情報になる可能性がある見解を紹介した場合には、反対意見も必ず紹介します。また、民主党と共和党の政治家が話す時間が同じになるょうに配慮します。報道番組は不偏不党や客観報道という原則を重視しなければいけません。しかし、FOXなどは報道番組ではなく、オピニオン番組、要するに出演した人が自由に意見を表明したり議論したりする番組を中心に流しています。オピニオン番組を作る時はそのような配慮をする必要がありません。

 このように、政治的中立性に配慮しない番組を保守系メディアが作るようになったのを受けて、リベラル系のメディアも同様の番組作りをするようになりました。その結果、メディアの世界も分極化するようになりました。そして、これが視聴者の見解の偏りを生み出すようになっています。近年のアメリカでは、国民が、自分たちの立場に似たニュースしかみなくなるという、選択的接触と呼ばれる現象がみられるようになっています。リベラル派はMSNBCを観て、保守派はFOXを観るのです。

 その背景としては、一九八〇年代以降にケーブルテレビが発達することによって多チャンネル化が進行し、多様なメディアが自分たちの特徴を前面に出そうとするようになったことがあります。客観報道を中軸に据えたままで特徴を出すのは容易ではないため、各メディアはメッセージ性を出すことで特徴を示そうとします。その結果、保守的な色彩を前面に押し出そうとするメディアと、リベラルなカラーを前面に押し出すメディアがそれぞれ出てくるようになる中で、有権者は自分と似たスタンスに立つメディアを心地良いと思うようになっています。

 インターネット・メディアが九〇年代後半以降に発達するようになると、選択的接触の傾向はより顕著になっています。SNS、中でもフェイスブックは注目されています。スティーブン・バノンというトランプの参謀を務めていた人は、選挙戦はフェイスブックが主戦場だといっています。フェイスブックでは「いいね」を押すと、似た情報がどんどん表示されるようになります。近年、テレビやラジオではなくSNSを主な情報源としている人が増えていますが、フェイスブックでニュースを確認する人が増えていくと、自分が「いいね」を押したのと政治的傾向が似たニュース、ある意味、偏見を共有する情報ばかりに接触するという事態が発生してしまいます。

 このメカニズムを利用し、悪用することは、当然ながら可能です。例えば、二〇一六年の大統領選挙の際には、ロシアがフェイスブックを使って、民主党候補のヒラリー・クリントンにとって不利になる情報を積極的に流し、反クリントンの雰囲気を作ろうとしていたのではないかともいわれています。

メディアと統治

 最後に、選挙で当選した政治家がメディアを統治にどのように利用し、影響を与えるのかについても、簡単に検討します。

 政治家は、メディアをどのように活用するかについて、かなり気を配っています。日本の首相は毎日のようにぶら下がり取材を受けますが、これは世界的にみると稀で、アメリカ大統領がメディアから直接取材を受ける機会はさほどありません。通例は大統領ではなく、報道官が対応することになっています。

 近年のアメリカでは、政権のみならず、有力政治家もメディア対策のスタッフを抱えています。メディア対策のスタッフはかなり多くの仕事をしていて、選挙の時から統治に至るまで、様々な助言をしています。アメリカでは、人種やジェンダー、社会階層、年齢など、様々な層に特化した聞き取り調査を政党や政治家のスタッフも含めて行っていますが、その内容を踏まえて、心理学を学んだメディア対策のスタッフが、言葉の選び方や身振り、スーツやネクタイの色なども含めて助言しているのです。日本でも最近ではそのようなことは増えてきていますが、全く規模が違います。

 インターネットについていえば、インターネットは他者を攻撃する上では非常に有効なツールだといわれていますが、統治を行う上では使いにくいといわれています。テレビなどとは違ってインターネットでは、みたい情報しかみてもらえないことが多くなります。特定の政治家のことを嫌っている人たちは、その政治家を批判するメッセージならばみてくれるので、その人を攻撃する上ではインターネットは非常に有効です。しかし、批判の対象となっている政治家が誤解を解こうと説明をしても、大半の人はみてくれません。

 また、統治に責任を持つ人々が、ある政策を実施するには有権者に税負担をしてもらう必要があるというような情報をインター不ットに上げたとしても、大半の人はその全体をみてくれるわけではありません。その一方で、あの政治家は人々に負担を押し付ける増税の提案をしているというような、短い批判的なメッセージの方が注目を集めやすいのです。そして、実際に増税の提案がなされたりすると、それに不満を感じる人々は、説明が足りないなどと不満を述べたりするのです。

 インターネットが政治において果たす役割は、今後ますます大きくなっていくと思われます。しかし、それは現職政治家にとっては難しい時代が来ることを意味します。政治を適切に行う上でインターネットをどのように使えばよいのかは、非常に難しい問題だといえます。

 メディアの発達は日進月歩で、近年では大統領選挙ごとに新たなメディア戦略が開発されています。今後メディアと政治の関わりも常に変わっていくでしょうが、政治を分析する場合にも、以上述べたような世論やメディアの限界をしっかりと自覚しておく必要があります。
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