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明治維新と南北戦争との関係

トヨタのルマンとAKB総選挙

 ルマン24時間耐久をやっている。東富士の頃は感じていた。朝になると二台ともリタイヤしていた。東富士を去る時になって、やっと、まともなTSを出てきた。モータースポーツ部からTS001のT シャツが送られてきた。アランソがドライブしているんだ。

 ルマンがロマン? ルマンがAKB? 勝っても48G内でのこと。46Gには勝てない。それがトヨタのルマン。

イスラムは家族単位

 イスラムは家族単位なんですね。ムスリムはハディージャを含めて、家族四人から始まったからでしょう。

シェアカーのイメージ

 中国の企業がハンドルとタイヤとバッテリー、そして、自動運転装置だけの車を作りそう。技術は全て他から持ってくる。ナチ時代のワーゲンのような国民車。それがシェアカーになる。

 その時に車体は自動修復機能付き。何しろ免許はいらないし、交通ルールはインフラが決める。全ての人が乗ることができる。保険は当然、車メーカーが担保。常識が変わります。

明治維新と南北戦争との関係

 武士しか武器を持ってなかった時代に万単位のミニエー銃が密輸され、奇兵隊に配られた。100m先から鎧を貫通させた。当然、幕府軍は長州に敗れた。同じことが道路で起こる。これは維新です。

 なぜ、それほどのミニエー銃を確保できたのか。米国南北戦争が終結して、大量に余ったから。米国の60万人規模の内戦。世界史の面白さ。ちなみに織田信長の時代の鉄砲保有台数は西洋を凌駕していた。

2年前に借りた『哲学探究』を借りてきた

 2年前のFBで表示。ウィトゲンシュタインの『哲学探究』を借りていた。未唯宇宙で検索したら、コンテンツがでてきた。NDCは134.97。今日、借りてこよう。おおきなマイライブラリになっている。。

 スマホのアプリとコンテンツでほとんどのことができる。すごい時代になってきます。ザナドゥ空間の上で生きている感覚。予約本4冊を取りに行くついでに、6冊追加

 それにしても、リアルの豊田市図書館で本を探すのは疲れる。LAPLのように、司書に頼むと揃えてくれると助かる。
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豊田市図書館の追加の10冊

C34.2『ハイヤー・タクシー年鑑 二〇一八年版』

670『eビジネスの教科書』

234『世界史劇場 ナチスはこうして政権を奪取した』第二次世界大戦の火種はいかにして作られたのか

209.5『コロンブスからはじまるグローバル社会 1493』入門世界史

204『現代を読み解くための「世界史」講義』

134.97『哲学探究』

023『ICTを活用した出版と図書館の未来』立命館大学文学部のアクティブラーニング

233.9『アイルランド革命 1913-23』第一次世界大戦と二つの国家の誕生

302.22『習近平の帝政復活で中国が日本に仕掛ける最終戦争』

041『さよなら未来 エディターズ・クロニクル 2010-2017』
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OCR化した5冊

『世界を変えた14の密約』

 働き方が改革されない理由

 効率の発明

 終身雇用は1950年~80年までの例外だった

 ドラッカーの時代

 そして、マッキンゼーが現れた

 日本のカルト的仕事観から学ベ

 ファーストネームで呼び合うのは何のため?

終わりなき“買い替え(=アップグレード)”

 6か月以上長持ちする電球を作った会社を廃業に追い込め

 「新しいiPhoneは特別だ」

 不満を製品に組み入れる

 GMのCEOも仕込みをしていた

 車を飽きてくるファッションアイテムにする

 買い物とエンドルフィン

 2007年、iPhoneの誕生

 ユーチューバーがアップルの電池問題を暴露

 花びら型5弁ネジが改良を阻止する

 カナディアンロッキーの酸素を吸う上海の超金持ち

 生物のアップグレード--人類2.0

 『ホモデウス』著者ユヴァル・ハラリが語る

人類史上最大案件=「知性」の取引

 銀行とはなんだろう?

 (今のところは)テクノロジー企業に銀行は必要だ

 100分の1秒の節約=10億ドル

 目標は人間の本質を改善し続けること

 マイクロソフトが、最初のグーグルだった

 デジタルインフラにすべての経済が依存している

 ハッカーに気づかされてアップストアが立ち上がった

 すべての人が新しい神「データイズム」を讃える

 スーパー・インテリジェント・マシンは人間を排除できる

 ロボットが独自に言語を作りはじめた!

 ディープマインドが提案するトレードオフ

 CIAが支援、すべてを見張るスタートアップ

 現実版マイノリティ・リポート

 ビッグファイブの独占を破れるか

『八九六四』

 張宝成

 中国レジスタンス史の生き証人

 四五天安門事件の参加者

 天安門は熱気にだけは満ちていた

 銃口を向けられた、あの夜

 バラバラ殺人と汚れた魂

 娘には民主化運動をやってほしくない

『イスラム流 幸せな生き方』

 家族のきずな

  結婚は人生の半分

   結婚イコールセックス

   対になることの安らぎと温もり

  愛が先か? 結婚が先か? これを逃すと後がない

   根強い処女願望

   「処女」と「童貞」で困らない?

  結婚は契約

   契約書に「週○回肉を買って帰る」

   女性はプチ・プロダンサー

  親と子のつながり

   母親の足元に天国が

   家族が喜びの源泉

『20xx年地方都市はどう生きるか』

 小野市流オンリーワン

  「衝撃の未来」に向けた高齢者対策の視点

  第二の成人式と地域コミュニティ再生

  地方からの教育改革

『世界の哲学者の言葉から学ぼう』

 デカルト

 ルソー

 カント

 フィヒテ

 ヘーゲル

 ニーチェ

 フッサール

 ハイデガー

 ウィトゲンシュタイン

 ドウルーズ

 アーレント

 ハーバーマス

 ガブリエル
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世界の哲学者の言葉

『世界の哲学者の言葉から学ぼう』より

ヘーゲル

 G・W・F・ヘーゲル(1770-1831)は政治思想についてもたくさん論じています。一番有名なのは『法哲学』でしょう。ヘーゲル自身、毎年のように法哲学に関する講義を行ってきました。なにしろ彼は若かりし頃フランス革命に影響を受け、後進国プロイセンに自由をもたらすことを使命のように感ていたのですから。フランス革命の記念日には、終生祝杯を挙げ続けたといわれています。

 そうして自らの理想の国家像を描くに至ったのです。それをスローガン風に表したのが、「国家は具体的自由の現実性である」というものです。つまり、国家こそが個々人の具体的な自由を実現してくれるということです。そう聞くといかにも国家主義のように思われますが、決してそうではないのです。ナチスがこれを利用したこともあって、ヘーゲルは長らく誤解されてきました。しかし、その本質は極めてリベラルなものであったといっていいでしょう。

 それは彼の国家論の体系からも明らかです。ヘーゲルは家族、市民社会、国家というふうに共同体が発展していくと考えます。それに伴って、順に自由が発展していくということです。

 それを説明するために、ヘーゲルは共同体を貫く心の基準のことを特別に「人倫」と名付けて重視しています。個人的な倫理が道徳ならば、共同体の倫理が人倫なのです。いってみれば、共同体にも心があるわけです。ここが哲学者の手になる国家論の最大の特徴といえます。

 ヘーゲルはそれをゲジンヌングと呼んでいます。「心術」と訳される共同体における態度とか心構えのことです。これが人倫の本質だというのです。同じ共同体に属する人たちには、共通の心構えがあるというわけです。たとえば、家族には愛が、市民社会には誠実さが、国家には愛国心というか公共心がある。これがヘーゲルのいう共同体の心構えです。

 そしてこれらはすべて、国家における自由実現というプロジェクトに向けられているのです。家族の愛は市民社会で独り立ちできる子どもを育てるためのもの。そして市民社会における誠実さは、人々の自由な市場活動や交流を促進するもの。さらに国家における愛国心は、市民社会の自由を保護するために、福祉的配慮を行うものということです。

 かくしてヘーゲルの国家論は、福祉を実現し、一人ひとりの国民の真の自由を実現する極めてリベラルな政治思想として位置づけることができるのです。皆さんにとって国家とは何でしょうか? ヘーゲルの国家論を参考に、ぜひ考えてみてください。

フッサール

 ドイツの哲学者エトムント・フッサール(1859-1938)は、学問としての現象学の創始者だとされます。では現象学とは何か? それは「事象そのものへ」とスローガン的に表現されるのですが、わかりやすくいうと先入観を取り除いて、意識だけで物事をとらえようとすることです。だから自分の中にない一切の超越者に「無効の符合」を付けよというわけです。つまり超越者を否定するということです。

 フッサールによると、日頃私たちは素朴に事物や世界の存在をあらかじめ前提としているといいます。それは日常の経験によってもたらされる習慣のようなものであって、単なる「自然的態度」だというのです。

 しかし、真理を求めるためには、このような態度ではいけないと非難します。そこで求められるのが、「超越論的態度」というものです。いわばこれは、哲学的に吟味し、疑う余地のない根源的なものを探求しようとする態度です。その先に探求されるのが「純粋意識」と呼ばれる領域です。

 本来、概念などの抽象的な存在については、自然的態度のように習慣に基づいて判断してしまうようなことがあってはいけません。そこで、こうした態度を遮断することを説くのです。冒頭の名言は、要約するとまさにこのことをいっているわけです。普段私たちは、自分の意識に問うことはないので、むしろ自分を超越したものに従って物事を判断しているのと同じです。だからその超越者を否定し、純粋に自分の意識に問うよう説くのです。

 そうすることで、意識が純粋に受け止めたままに、物事の本質が探求されていくと考えるからです。これが現象学的還元です。現象学的還元によって一切の超越的なものを排除してもなお残存するものこそが、純粋意識にほかなりません。

 その意味で、現象学というのは、意識の本質についての学問であるといえます。そのための手法が現象学的還元であり、その結果私たちの認識は普段のそれとは大きく変わってきます。これによってはじめて、私たちは世界を違った視点でとらえることができるようになるわけです。

ハイデガー

 マルティン・ハイデガー(1889-1976)は、二十世紀ドイツの偉大な哲学者であると同時に、ナチスに肩入れして公職を追放された不名誉な哲学者でもあります。しかし、彼の残した未完の大著『存在と時間』は、間違いなく現代思想において最も重要な哲学書のIつといえます。この本の中でハイデガーは、いくつもの重要な概念を提起しています。「世界内存在」という造語もその一つです。

 ハイデガーによると、世界内存在とは、世界の中で様々な事物とかかわり、それらに配慮しながら生きる様を表現したものです。たとえば、私たちは朝起きれば歯ブラシを使い、朝食をとるときは食器を使います。通勤に車を使い、仕事でパソコンを使い、寝るときにはベッドを使います。いわばこれらの事物は私たちにとって道具であり、そんな道具の中に私たちは生きているわけです。ハイデガーは人間のことを現存在と呼びますが、その意味で現存在は世界内存在なのです。そのような視点で自分と周囲の環境の関係を捉え直すと、きっと自分の存在が違って見えてくるのではないでしょうか。

 もっとも、人間が事物とかかわりながら生きているというのは、単に人間が物に取り囲まれて生きているということを意味するわけではありません。そんなふうに物に取り囲まれて、いたずらに寝食を繰り返すだけの存在だとしたら、自分なんて誰でもいいことになってしまいます。ハイデガーにいわせると、それは「ただの人(ダス・マン)」です。

 それだと、道具の究極目的であるはずの人間が、交換可能、代理可能な誰でもいい存在になってしまうわけです。だからハイデガーは、交換可能な現存在のあり方は非本来的であるとして、本来的な生き方を主張するのです。本人は認めていませんが、彼の哲学が、自分で人生を切り開く実存主義の一つとして位置づけられるのはそうした理由からです。

 ここからハイデガーは、一方で人間が交換不可能であるという点と、他方で人間が死すべき存在であるという点を結びつけ、その死を先駆的に覚悟して生きるべきと訴えます。人は死へと向かう存在であると。でも、だからといって必ずしも死をネガティブにとらえているわけではなく、むしろそれによって生を輝かせよと主張している点を見逃してはいけません。

ウィトゲンシュタイン

 風変わりな天才として知られるオーストリア出身の哲学者ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)。彼は若くして哲学の世界で偉業を成し遂げ、早々に引退して小学校の教師になったかと思えば、戦地に赴き英雄として表彰されます。そしてまた大学に舞い戻って新たな哲学を完成したというすごい人物です。師である、かのバートランドニフッセルにも天才と認められたほどです。

 そのウィトゲンシュタインが取り組んだのが、言語と世界の関係を明らかにするという問題です。彼は写像理論を提起し、この難題に一つの答えをもたらしました。これがウィトゲンシュタインの前期の思想と呼ばれるものです。

 写像理論とは一言でいうと、言語と世界との間の対応関係、つまり構造上の同一性のことを指します。ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』において明らかにした概念です。彼は、この写像理論をもとにして、言語の可能性から世界のあり方を明らかにしようと目論みました。

 そもそも言語は、名の連鎖としての要素命題と、その真理関数(真偽に関する対応関係)からなるといわれます。つまり、名はある対象を持つときにはじめて意味を持つのです。そして要素命題における名同士の関係が、名の表している対象同士の関係と対応している場合、要素命題は正しいということになります。

 たとえば、「小川仁志」や「大学」という名と、「小川仁志は大学で教えている」という要素命題について考えてみましょう。すると、小川仁志や大学という言葉の関係性と、それが指す対象としての小川仁志及び大学との関係は対応していることがわかります。だから「小川仁志は大学で教えている」という要素命題は、正しいということになるわけです。

 この理屈を発展させていくと、世界中の事柄が言葉によって説明できることになります。つまりそれは、世界が言語によって語り得ることを意味しているのです。逆にいうと、自然科学の世界とは異なり、善や意志といった対象を持たない命題は、語り得ないことになります。これについてウィトゲンシュタインは、語り得ぬものには沈黙しなければならないといっています。いわば、言語の限界が世界の限界だということです。

 こうして写像理論は、後のウィーン学派による論理実証主義を生み出す契機となったのです。しかし、天才ウィトゲンシュタインの思想は、ここでは終わりませんでした。次項でも解説します。

ドウルーズ

 フランスの思想家ジル・ドゥルーズ(1925-95)と精神分析家フェリックス・ガタリ(1930-92)はいくつかの共著書の中で、たくさんの概念を創造してきました。その一つがリゾームという概念ですそれは新しい思考法といってもいいでしょう。

 私たちは論理的思考に馴らされているので、一本の道をたどるように、硬直的に物事を考える習慣があります。それはそれで大事なのですが、もっと柔軟に考える方法はないものでしょうか。実はリゾームこそ、その柔軟に考えるための方法といえるのです。

 リゾームはトゥリーという概念とセットで対比して論じられます。トゥリーとは文字通り樹木のことです。ただ、ここでは樹形図のような発想を指しています。これに対してリゾームとは、もともとは地下茎の一種である根状茎を意味しています。こちらは中心を持たないネットワーク状のものを指しています。

 これらは人間の思考法の二つの典型なのです。トゥリーは、これまでの西洋社会を支配してきた思考法です。幹から枝が分かれていく樹形図は思考法だともいえます。典型的なのは生物を分類するあの図です。

 具体的な思考法としては、しっかりとした基本原則を立てて、あくまでもそれを基準として、そこからいくつかのパターンや例外を考えていくというものになります。これは従来からある思考法であり、なじみやすいと思います。分類という作業は、だいたいこのトゥリー型の思考法によっています。

 リゾームのほうは、冒頭の名言からもわかるように、中心どころか始まりも終わりもないネットワーク型の思考法だといえます。特徴としては、全体を構成する各部分の自由で横断的な接続であって、それによって生じる異種混交状態だということができます。

 また、リゾームは新しい部分が接続されたり切断されたりするたびに、性質を変える多様体でもあります。いわば接続とともに変化していくわけです。これは「多様体は外によって定義される」と表現されています。外から加わる線によって形が変わるということです。

 新たなものが接続することによって、全体の性質が変わってしまうことを意味しています。具体的には、脳のシナプスやソーシャルメディアのつながり図をイメージしてもらえばいいと思います。こうしたリゾーム思考こそが、合理的思考の硬直性を打ち破って、柔軟な思考を可能にするのです。

ガブリエル

 マルクス・ガブリエル(1980-)は、ドイツの若き天才と称される新進気鋭の哲学者です。彼は『なぜ世界は存在しないのか』というベストセラーで鮮烈なデビューをはたし、「新実在論」あるいは「新しい実在論」と呼ばれる立場を一躍世に広めました。これは近代ドイツを象徴する哲学の一大潮流、ドイツ観念論を更新しようとする野心的試みだといわれています。

 ガブリエルは、ある山が見えるというとき、実際に存在するその山だけを意味するのか、それとも色々なところからその山を見ているすべての人の視点をも意味しているのかについて、いくつかの立場を紹介したうえで、次のように自らの立場を表明します。

 つまり、私たちの思考対象となる様々な事実が現実に存在しているのはもちろんのこと、それと同じ権利で、それらの事実についての私たちの思考も現実に存在しているのだと。

 これは、この世界が観察者のいない世界でしかあり得ないわけではなく、また観察者にとってだけの世界でしかあり得ないわけでもないということを示すものです。私も車窓からしか富士山を見たことがありませんが、現実の富士山以外に、そんな私にとっての車窓からの富士山も存在するはずです。もっというと、富士山など見たこともない海外の人にとっても、その意味での富士山は存在しているといっていいでしょう。これが新しい実在論なのです。

 このような前提に立って、数多くの小世界は存在するけれども、それらのすべてを包摂する一つの「世界」は存在しないという結論が導かれるに至ります。これが「世界は存在しない」ということの意味なのです。だからガブリエルは、他方で「世界以外のすべては存在する」と主張するわけです。

 これは彼が「対象領域」と呼ぶものに関係しています。人間が理解できるのは、自分が対象にした領域だけだということです。ところが、世界はすべてを意味する概念ですから、人間がすべての存在を理解できない以上、そんなものは人間にとっては存在しないということになるのです。

 かくしてガブリエルは、新実在論のことを、「意味の場の存在論」と表現するに至ります。私たちが認識する一切のものは、解釈されたそれぞれの意味においてはじめてその場に存在し得るということです。この人間の認識能力を問うところが、ドイツ観念論の系譜を感じさせる部分だといえます。
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