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イギリス近現代史 宥和政策

『イギリス近現代史』より

ナチスの領土的野心とイギリスの対応

 公然と侵略を企て、国際秩序をかく乱しようとする国家や侵略者に対して力で反撃し、これを食い止めるのではなく、侵略を企てる国家や勢力の野望を「ある程度」受け入れる。そうすることで侵略者を宥め、それ以上の侵略を抑え込み、国際秩序全体の動揺や崩壊を回避する外交のあり方を一般的に宥和政策と呼ぶ。こうした外交様式は近代国際関係において、しばしば大国の行動にみられるものであったが、特に歴史の中で注目されるようになったのは、1930年代のイギリスの対ドイツ政策においてであった。

 戦わずに危機を収めることが可能であることから、当時までの国際関係では宥和政策は平和政策の一種であるとの見方もあった。しかし1930年代に展開された宥和政策は国際秩序全体の維持にっながらず、最終的に第二次世界大戦をまねいてしまったことから、以後、批判的に捉えられるようになった。

 1933年にナチス政権が成立すると、イギリスを含めた周辺国は、ドイツが対外侵略行動を展開し、第一次世界大戦後の国際秩序の根幹とみなされていたヴエルサイユ条約を履行しなくなることを懸念した。特にドイツの総統となったアドルフ・ヒトラーは、以前からヴェルサイユ条約に対する不満や敵意をあらわにし、国境線の変更を含む要求を繰り返していた。これに対してイギリスの中でも特に宥和主義者として知られていたネヴィル・チェンバレンは、1937年に首相に就任すると、同様に宥和主義者であったハリファクスをヒトラーのもとに派遣し、次のようにドイツの領土的野心を「ある程度」認めると受け取れる言質を与えた。ハリファクスは、オーストリア、ダンツィヒ(ポーランド領)。ズデーテン(チェコスロヴァキア領)など具体的地名に言及し、「これらの地における問題は現状のままでは止まり得ないだろう」として、ヒトラーが望んできた主要な「領土問題の解決」を事実上、認めた。これに加えてハリファクスは、「イギリスの関心は、これらについての現状が変更されるかどうかにあるのではなく、現状変更がなされる場合、これが平和的になされるかどうかにある」と伝えたのである。これはドイツにとっては、イギリスから事実上、領土的野心を認めてもらえたも同然と受け取れるものであった。のちにドイツはオーストリアを併合し、ズデーテン地方を併合し、チェコスロヴァキアを解体するという領土的侵略を行い、最終的にポーランドヘ軍事侵攻することで、第二次世界大戦勃発のきっかけをつくることになる。オーストリアやチェコスロヴァキアの侵略と異なり、ポーランド侵攻は明白に戦争というかたちをとったことで、ドイツはハリファクスの言質を踏み外したわけである。

 イギリスのドイツに対する宥和政策は、このハリファクスーヒトラー会談以前にも展開されている。たとえばボールドウィンは首相に就任してまもなく、ドイツと単独で英独海軍協定を成立させ、ドイツ海軍力の一定の拡大を容認しイギリス海軍との住み分けを図った。これは前首相マクドナルドがフランス、イタリアとともにドイツの再軍備に対抗することを目的とした結束を約束したストレーザ戦線宣言のわずか3ヵ月後のことであった。

ミュンヘン会談

 イギリスはドイツによるオーストリア併合についても事実上黙認したばかりか、かつてのドイツのアフリカ植民地をドイッヘ復帰させることさえ提案している。さらに宥和政策の頂点としてのちに語られることになるのがミュンヘン会談とそこで調印に至ったミュンヘン協定である。チェコスロヴァキア領ズデーテンをドイッヘ併合しようとするヒトラーの桐喝に直面し、英仏は連携してチェコスロヴァキア政府に圧力をかけ併合反対の動きを抑圧し、ドイツが望んだ「領土問題の解決」を取り付けることに外交努力を注ぐ。こうしてミュンヘン会談で、チェコスロヴァキア政府の意に反して、イギリス、フランス、イタリアも合意するかたちでズデーテンのドイッヘの割譲を承認する議定書が発効することになった。ただしミュンヘン協定と引き換えに、以後、ヨーロッパにおける領土的野心をもたないとの確約をドイツから取り付けた。このことから戦争も辞さない構えだったドイツを宥め、戦わずしてヨーロッパの平和を達成したということでイギリスの宥和政策は成功したかに見えた。宥和政策への反対論は当時のイギリス政府内でも少なくなかったものの主流ではなく、宥和政策は侵略者に対する譲歩というよりは、「平和政策」として捉えられる向きが強かった。

 しかし結局、その後のドイツの対外膨張行動を抑えることはできず、第二次世界大戦を導いてしまうことになる。このことからイギリスが中心となって展開した宥和政策は、侵略者に譲歩し、国際秩序を崩壊に至らしめた悪しき外交であったとの含意が置かれるようになった。

 第一次世界大戦後、すっかり疲弊したイギリスは、大きな軍事力をもつことをたとえ希望しても叶わなかったという事情があった。挑戦国を抑えるに十分な軍事力がもてない状況においては、イギリスの宥和政策は時代との親和性が高かったのである。
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イギリス近現代史 日英同盟の盛衰

『イギリス近現代史』より

同盟までの道のり

 日英同盟は、1902年1月、ロシアが清(中国)と朝鮮半島へ進出する事態に備えて、イギリスと日本の間で締結された軍事同盟であった。同盟は、帝国主義の時代を迎えた東アジアをめぐる列強外交の重要な局面をなした。

 イギリスは、アヘン戦争(1840~42年)とアロー戦争(1856~60年)を通して、清に対して開港を迫り、領事裁判権など数々の不平等条約を突き付け、さらには香港島など国土の割譲や租借を強要した。こうして清を半植民地状態においたイギリスは、その東アジア貿易の量を拡大させたが、経済的・軍事的外圧は清国内で大きな反発を引き起こし、政治的不安定を招くことになった。イギリスは、そうした状況に付け込んで権益拡張を目論む他の列強をけん制し、さらには自国の商業権益を保護するために、次第に介入の度を深めていった。

 日清戦争における清の敗北は、東アジア情勢に風雲急を告げる変化をもたらした。1895年の下関講和条約によって、日本は遼東半島や台湾などの領土割譲を清に認めさせたが、ロシアがこれに強く反発した。ロシアは、フランスとドイツを誘って領土割譲に反対し(三国干渉)、さらには多額の賠償金支払いにあえぐ清に接近し、フランスとともに借款を決定し、その見返りとして数々の権益を要求した。ロシアはさらに、1898年には遼東半島を租借地とし、1900年の義和団事件に乗じては満州を占領し、朝鮮半島をも窺う姿勢をみせた。

 こうして清か次第に列強の草刈り場へと化していく中で、ボーア戦争の長期化によって余分な戦力を避けなかったイギリスは、ロシアのさらなる膨張を食い止めるために、同様に強い警戒心を抱く日本との同盟を模索し始めた。

同盟の内容

 日英同盟は、1902年に締結された。そこで日英両国は、第三国が清と朝鮮に対して侵略的行為に及び、戦争に発展した際の中立を約した。日本は、これを背景に日露戦争を戦い、イギリスも忠実に中立的立場を守った。そればかりか、イギリスはスエズ運河をはじめ植民地各地の主要港の立ち入りを制限し、ロシアのバルチック艦隊の極東回航を妨害して、日本の軍事的優勢に貢献した。

 日露戦争終結間際の1905年8月に改定された第二次日英同盟は、適用範囲をイギリスのインド権益にまで拡大し、さらに第三国からの攻撃に対する相互の参戦義務を約するなど、いっそう踏み込んだ軍事同盟の性格を帯びた。

 日英同盟は、1911年7月に再び改定された。第三次日英同盟では、日露戦争後の日本の満州侵出をめぐって悪化した日米関係を懸念するイギリスが、アメリカを交戦対象国から除外することを希望し、その趣旨が盛り込まれた。1914年、第一次世界大戦が勃発すると、日本は同盟に基づき連合国側として参戦し、膠州湾租借地と南洋諸島にあるドイツの軍事拠点を攻略した。

 日本はさらに、インド洋、地中海、南太平洋に艦隊を派遣し、各地で護衛任務に従事した。

同盟の解消

 イギリスは、大戦中に日本が「二十一力条の要求」を通して極東権益を強硬に主張し始めると、同盟相手でありながらも日本に警戒心を抱くようになった。日本の満州侵出に危機感を抱いてきたアメリカも、日英同盟の破棄を望むようになっていた。1921年、こうしたアメリカの意向を背景に開催されたワシントン(軍縮)会議は、アメリカ、イギリス、フランス、日本の4カ国条約の締結をもたらし、アジア太平洋地域における植民地領土と権益の相互承認を取り決めた。このとき、日英同盟はちょうど満期を迎えていたが、この新条約の締結によって拡大解消されるものとし、更新はされなかった。1923年8月17日、日英同盟は正式に失効し、およそ20年間の歴史に幕を閉じることとなる。

 このように日英同盟は、20世紀初頭の帝国主義の時代にあって、アジアにおける日英両国の植民地権益を支え続けた。イギリスにとって日英同盟は、「光栄ある孤立」の外交姿勢を改める軍事同盟であった。他方、日本は欧米列強との初の軍事同盟を結ぶことにより、新興帝国主義国としての立場向上をはかる機会を得た。同盟は、日露戦争における日本の勝利にも貢献し、さらには第一次世界大戦への日本の参戦を促す重要な役割を担った。要するに日英同盟は、ワシントン会議によってアジア太平洋の国際秩序に一定のレールが敷かれるまで、東アジアの帝国主義秩序を支える重要な歴史的意義を有したのである。
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感情日記の書き方Q&A

『日記を書くと血圧が下がる』 感情日記の書き方Q&A

Q&A:なにを書けばいいのか、よくわかりません

 心が揺れたことを探してみましよう

 やはりテーマ選びに悩むこともあれば、書くべきことがなにもないような気がする場合もあるかもしれません。

 感情日記に最適のテーマは、ストレスを感じたこと、心の傷になっているような出来事などです。それは、過去に起きたことでも、最近の出来事でもかまいません。

 テーマがうまく思い浮かばないときは、はじめは「気持ちが少しでも高ぶった出来事」や「落ち込んでしまった出来事」という視点で探してみてください。

 大きな出来事でなくても、だれかとの会話の中でふと心が揺れた、仕事や人間関係の中でなぜか苛立ってしまったなど此細なことでもかまいません。小さなことでも心が動いた出来事なら、感情や洞察の記述もふくらみやすいのです。

Q&A:感情といわれても、よくわからないのですが

 ワンワードで表現できるのが感情

 この質問は多くの人からいただきます。とくによ〝感情〟と〝思考〟の区別がつかないという人が多いようです。

 〝感情〟は〝気分〟と言い換えることもできます。うれしい、悲しい、好き、嫌い、楽しい、イライラする、ホッとする、不安だ、困った、情けないといったもので、そのほとんどは一つの言葉(ワンワード)で表現することができます。

 それに対し〝思考〟は、一緒にいたい、理由が知りたい、ここにいてもいいのかといったようにいくつかの単語をつなげないと表現することができません。自分が書いたことが感情と思考のどちらなのかがわからなくなったときは、この「ワンワードで言えているかどうか」でチェックしてみてください。

 また、がまん強い人や、感情を外に出すことに恥ずかしさや嫌悪感のある人は、日記においても感情表現にブレーキがかかりがちです。

 日ごろから感情を出さない人の中には、自分の中にそんな感情があることに気づいていない場合もあります。すると、書いているつもりでも、感情の記述が不十分になりがちなので、「感情について書いているか」としばしば確認しながら進めていくといいでしょう。

 反対に、うれしかった、いやだったなど、感情的なことがつい先に出てきてしまうという人もいますが、出来事・感情・洞察(考え)の3要素が含まれていれば、日記の入口はどこでもかまいませんし、文章の順序がどのようになってもかまいません。洞察から入ると書きやすいという人は、それでもちろんけっこうです。あなたはどのタイプでしょうか。左記を参考にしてください。

Q&A:いやな出来事についても、書かなければいけないのですか?

 よいことも、悪いことも、バランスよく

 よいことも、悪いことも、バランスよく、なるべく書いてください。感情日記の研究では、多くの場合はハートの奥に痛みを感じるようなネガティブな感情をあらためて感じとることで、それを解消し、心身のストレスを和らげていくという報告がなされています。

 一次感情にふれるときは苦痛を伴いますし、一時的にはつらさも生まれますが、そのあとは浄化されたようなスッキリとした気持ちになれます。ただし、しっかりと一次感情に向き合わないと、かえって苦痛だけを中途半端に感じることとなり、またネガティブな感情から回避している状態に戻ってしまいます。すると、表面的ないやな二次感情を感じるだけになり、「日記なんか、書かなければよかった」ということになってしまうことも少なくありません。

 なかにはポジティブな感情を感じられないという人もいますが、これも一次感情を十分に感じていないときに見られる現象です。ネガティブな一次感情に向き合わないために、ポジティブな一次感情を感じとることもできないというマヒした状態になってしまうのです。

 入は、ネガティブな感情だけを感じるようにはできていません。悲しみなどネガティブな感情をしっかりと感じることが可能になると、一方では喜びなどのポジティブな感情も自然に感じることができるようになってきます。その逆に、ポジティブな感情を少しずつでも感じることで、悲しみなどのネガティブな感情も、より深く、より自然に感じられるようになるのです。

 実際の日記研究でも、「ネガティブな話題について書いているときに、肯定的な感情を多く感じることができたとしたら、それはネガティブな一次感情により深くふれることにつながり、結果、日記の効果を多く得ることができる」と報告されています。

 つまり、日記には、楽しいこと、うれしいことのみならず、落ち込んだ出来事、怒りを感じた出来事などもバランスよく出てくることが大切なのです。

 時間があれば、1週間の日記を見返して、いいこと、悪いことをどんなバランスで書いているかをチェックしてみてください。そして、どちらかに偏っているようでしたら、その後のテーマ選びの際に少しずつ修正していくよう努力してみましょう。

Q&A:昔の思い出が湧いてきたら、それを書いてもいいですか?

 古い出来事を書くと、大きな効果が期待できる

 日記に書く内容は、その日の出来事にかぎる必要はありません。なにかのテーマについて書いていて、昔のことが思い出されるというのはごく自然なことです。小さいころの夢の話、古い失恋のこと、会社の新人時代の思い出、母親に理不尽に怒られたことなど、振り返ればいろいろあるでしょう。

 じつは多くの日記研究から、昔話を書くことは、最近のことについて書くこと以上に大きな効果が期待できることがわかっています。

 第2章でもお話ししたように、とくにつらい経験をした場合は、長年にわたってさまざまな感情が蓄積していたり、そのときに感じた不安や恐怖がいまだにその人を苦しめたりしていることがあります。

 それらの出来事に日記を通じて向き合うことは、一次感情を感じきり、浄化することに結びつきます。それによって、心身の不調の要因となる二次反応も自然に消えていくことが期待できるのです。

Q&A:感情は湧いてこないのに、体に反応が出てしまいます

 体のほてりもドキドキも、正常な反応

 日記を書いていると、体に反応が出ることもあります。カッカカッカと体が熱くなるとか、興奮してドキドキするとか、吐き気がするとか、なかなか寝つけないなどといったものです。こんな反応があると不安になる人もいるかと思いますが、これも一つの正常な反応ですから、心配することはありません。

 怒り・怖さといった感情がなかなか表現できないという人も、よく見ると体には反応が出ていることはよくあります。

 どんな人でも崖の上に立たされればドキドキしてふるえるように、T沢感情を強く感じているときは、体の症状も強まりますし、体の反応が強く出れば、一次感情も高まるように人はできています。ところが、一次感情に向き合わないでいると、身体感覚が鈍くなったり、感じ方が歪んだりすることも多いのです。

 心身が蝕まれているときは、本来感じるべき一次身体感覚を感じられなくなる〝失体感症〟を抱えている場合も少なくありません。たとえば、過労慣れした人がいくら働いても感じるべき疲労を感じないということは多く、そんなとき歪んだ疲労反応として頭痛や耳鳴り、めまいといった病的な二次身体反応に苦しむといったことはよく見られる現象です。

 治療の場面では、そうした人々にはまず身体感覚を適切に感じる練習をしてもらい、その後、徐々に自分の一次感情に迫るトレーニングを行ったりもします。

 逆に、この質問の場合のように、体の反応ばかりが出てくるという実感をもつ人は、「身体感覚は感じられるけど、それが深い感情には結びついていかない」というパターンといえます。

 これに気づいたときは、一次感情に向き合ういい機会ともいえます。身体感覚は一次感情に迫る重要な手がかりともいわれますので、その感覚の訪れとともに、自分の中でどのような深い感情が呼びさまされてくるかを意識してみてください。繰り返し日記を書いていくことで、自分でも気づいていなかった一次感情や洞察が深まってくることでしょう。

 感情に向き合っているときは、自分の呼吸や心臓の鼓動に注意深く耳を傾け、小さなさざ波を拾うかのように体の声を聞いてあげることも大切です。そして、もし、なんらかの身体反応が起こっていたら、それもぜひ日記に記録するとよいでしょう。
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目標としての生涯学習社会の実現

『教育と比較の眼』より 学校と生涯学習体系の再構築に向けて

日本における政府の生涯学習政策の動向をたどってみると、生涯学習社会の実現は道半ばで、いまだに目標あるいは理念の段階にとどまっているといってよいだろう。生涯学習という言葉には文脈に応じてさまざまな意味がこめられて使われ、実際の政策でも驚くほど多様で雑多ともいえる施策が次々に推進されてきた。また日本の生涯学習は学校教育と切り離されて拡大してきたところがあり、学習の内容も健康・スポーツや趣味的なもの、教養的なものが多く、仕事に関係のある知識の習得や資格の取得などはそれほど多くないのが特徴である。学習の場も公民館や生涯学習センターなどの公的な機関や、カルチャーセンターやスポーツクラブなどの民間の講座や教室が多いのに対して、職場の教育や研修とか、図書館や博物館、美術館などの利用者は相対的に少なく、大学や大学院、短期大学、専門学校などの学校で学び直す社会人の数もけっして多くない。

ところで、日本社会にふさわしい生涯学習のあり方を考える際には、なによりもまず目標としての生涯学習社会の具体的なイメージをある程度明確に描いてみる必要がある。教育基本法第三条の生涯学習の理念にならえば、生涯学習社会とは、一人ひとりが自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって能動的に学び続けることができ、その成果を適切に生かしていくことができる社会を意味する言葉である。それはこれからの日本の社会像として、知識基盤社会や成熟社会などといった特定の社会を想定するよりも、これからの時代を予測困難な時代ととらえ、どのような社会でもよりよく生きることができる人間像を重視する社会を想定している。

近未来の日本社会と教育改革

 実際に一九八〇年代以降の日本の歩みをふりかえってみても、社会の動きは予想以上に速く、その見通しはきわめて不鮮明だったから、それぞれの時点で、将来の社会像を具体的なレベルでどのように詳細に描いたとしても、そうした社会にふさわしい生涯学習を鮮明に構想することはできなかったように思われる。しかしこの本では、現在世界各国で行われている教育改革、とりわけ「小さな政府」の教育政策の動向を国際比較の観点から批判的にたどり、それらを手がかりにして日本の教育改革のあり方を探ってきたので、この三〇年ほどの社会や教育の動向をふまえて、近未来の日本社会と教育改革の特徴を、次のように大まかにとらえておきたい。

 結論から先にいえば、近未来の日本社会でも、「小さな政府」が社会のグローバル化に対応した国家政策を主導し、教育政策も「小さな政府」の考え方にもとづいて進められる。そしてその結果、さまざまな予想外の課題や問題が噴出してますます混迷の度を深め、教育改革の大幅な軌道修正を求める動きが加速されていくと予想される。

 教育改革を左右する社会的背景のなかで近年、最も影響力があったのは社会のグローバル化である。この社会のグローバル化はまず経済の領域で顕著にみられるようになり、続いて政治や文化の領域もグローバル化してきた。教育改革との関連でとくに重要なのは、教育が国民国家や国民の将来の経済的繁栄にとって重要だとみなす、国際的な合意が生まれたことである。日本でも他の国ぐにと同様に、人的資本論や教育投資論が華やかだった六〇年代に劣らず、あるいはそれ以上に教育の充実による国家の経済的生産性の維持・向上が求められるようになった。それは基礎的な教科を中心とした認知的教育を改革して、国民の知的文化的基盤をいっそう充実・向上させ、人的資源の全体的な底上げをはかるとともに、先端的な学術研究の推進と科学技術の発展を目指すものであまた(日本では注目されにくいが)、非認知的な教育である価値教育を通じて、多文化社会にふさわしい、ゆるやかな国民的アイデンティティを若い世代に身につけてもらうことも求められている。どの国も民族的構成や文化などの多様化が進んで、多文化社会としての特徴をもつようになったため、そうした社会にふさわしい国民国家として国家統合をはかる必要があるからだ。

 教育改革を左右する二つ目の社会的背景は、世界各国の政府の役割が一九八〇年代以降、「大きな政府」から「小さな政府」に変わったことである。「小さな政府」とは、政府の権限を縮小し、国民のやる気や競争心、進取の気性を活用することが国民国家の発展にとって役に立つという立場から、国民の自助努力を社会発展の原動力として積極的に評価するとともに、市場競争の原理を重視して政府による市場への過度の介入を抑制し、政府規制の緩和や税制改革などにより競争促進を目指す政府である。日本では、この「小さな政府」による国家政策は中曽根内閣によってはじめられ、小泉内閣を経て安倍内閣まで、その間にたとえ政権政党の構成が変わることがあっても、引き続き実施されてきている。

 このような社会の傾向は今後も当分の間継続すると予想される。そのため近未来の教育政策も引き続き、「小さな政府」の考え方にもとづいて行われていくと考えられる。その特徴は、①教育の規制緩和や自助努力、市場競争の原理の導入、②アカウンタビリティ(説明責任)や学校評価、事後チェックの強化、③経済的な国際競争力の強化と高学歴人材の育成の三つにまとめて整理することができるだろう(本書の第一章2「社会変動と教育改革」を参照)。日本の教育政策ではこうした立場から、多種多様な改革がこれまでも試みられてきた。私はこうした社会のグローバル化に対応して「小さな政府」が主導してきた教育改革を全面的に否定するつもりはない。

 しかしこの日本を含めて世界規模で進展した教育改革によって、日本の教育制度は時代や社会の変化に適切に対応するとともに、教育の本質に適ったものに改善されてきたのだろうか。とくに生涯学習政策では、学校教育だけでなく、教育機会の均等をはじめ、家庭教育や幼児期の教育、社会教育、さらに学校や家庭、地域住民などの相互の連携協力などを含めた非常に包括的な教育政策として位置づけることも謳われているが、そうした方向性が具体的な方策としてどの程度実現しているのかは大いに疑問であり、将来の見通しも不鮮明なままである。

豊かな生涯学習社会の条件

 こうした教育政策に対する批判的な見方に共通するポイントの一つは、人的資本論や教育投資論にもとづく教育政策は、教育の充実による国家の経済的生産性の維持・向上を過度に強調するため、学習社会の構想の内容が貧しく、戦略的展望も単純化されたものになりやすいことである。たとえば個人の経済的な社会生活にとって必要な知識や技能、態度の学習はもちろん重要なことだが、それ以外にも学ぶこと自体が楽しい学習も数多くある。また同じ職場で同じ条件の下に働く従業員でも、あるいは同じ退職した高齢者でも、その生き方や学習にとりくむ姿勢は彼らの生育歴や職歴、地域社会などの条件によって多様なことに配慮しなければ、豊かな生涯学習社会のイメージを描くことはできないのである。

 その意味では、生涯学習政策は個人の要望と社会の要請をともに考慮して立案し、実施する必要がある。具体的にはさまざまな方策が考えられるが、たとえば日本の生涯学習政策では、民間のカルチャーセンターの奨励など、個人の要望に関連した政策として実施されてきた、個人の自己実現とか個人の趣味や教養を豊かにするための施策には実践の長い歴史と実績がそれなりにあるので、そうした従来の蓄積を活用して再検討し、生涯学習の内容を個人の要望と社会の要請の両面でいっそう豊かなものにするのは、一つの有用な方向かもしれない。

 第二に、近未来の日本社会は、次のような特徴や仕組みを備えた社会であることが望まれる。政治や社会のあり方で望ましいのは(平凡かもしれないが)、民主主義が尊重され、議会制民主主義を基本にしながら参加型民主主義の要素を加味した意思決定の仕組みを備え、社会を構成する人びとが人間の基本的権利の承認や、社会活動や私的生活、職業選択における個人的な意思決定の尊重、機会均等の重視などの価値観を共有している社会である。

 また近未来の日本社会も他の先進諸国と同様に、複数の価値の共存を前提にした多文化社会の特徴をもつ国民国家として存続することを考えると、多文化社会にふさわしい知識や技能、態度を、その国に住む人びとが共有することも重要な条件である。それはたとえば国内の文化的多様性を積極的に評価する多文化主義の考え方を承認することであり、その立場から文化的共同体の構築を目指す考え方を是認することである。それから言語教育をはじめ、そのほかの基礎的な教科の教育の充実は個人の成長だけでなく、多文化社会の発展にとっても不可欠だという認識も、この共通の価値のなかには含まれる。日本という近代社会でスムーズに自立的な社会生活を送るには、日本社会で生活する人は誰でも、日本語をはじめ、それなりの基礎的な学力を身につけておく必要があるからだ。

 さらにこのような特徴をもつ社会の仕組みや人びとを有する生涯学習社会を実現する上で、学校制度の役割、とりわけ国民国家や地方自治体などが管理運営し、公的に支援する公教育制度の役割は非常に重要である。「小さな政府」の教育政策が今後さらに進められても、政府が学校制度への関与を放棄することはないから、政府の教育政策が将来も学校制度のあり方を大きく左右することに変わりはない。また基本的に非営利組織である学校制度は、公的支援がなければ存続したり発展したりすることはできないので、政府は日本社会にふさわしい生涯学習社会の実現を目指して、自らが果たすべき役割の範囲と責任を明確にした生涯学習政策を立案し、着実に実施していくことを強く要請されるのである。

 こうした西欧生まれの近代社会をベースにした近未来の日本の社会像や人間像が課題や矛盾に満ち、先行きが不透明で、それらの解決の見通しも定かでないのは容易に想像されることである。しかし将来の社会をどのように描くにしても、近代社会が長い時間をかけてその実現を目指してきた望ましい社会のあり方、つまり平等や公正の度合いを最大限に高め、民主主義を進め、人びとの想像力を解放することは非常に大切なことだと思われる。そして教育はそうした社会の形成に正面からかかわることができるはずである。
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未唯宇宙7.4.1~7.4.4

7.4.1「孤立と孤独」

 生活の孤立は惨めに見られる。それは「孤立死」という言葉に代表される。自分の周辺から見るのではなく、宇宙全体から見ると、孤立が正解です。孤立から宇宙全体が見れる。

 孤立を楽しむことは、周りの社会を宇宙とサンドイッチにして観察する。自分という眼がなければ全てが暗黒の中にある。孤立であるためには、自らは発信しない。内なる世界にある。問われたら応える。孤立であることから啓示を得る。それだけは伝えます。

7.4.2「独我論」

 自分なりの独我論を生き方の中心におくことを決めたのは、入院していた時。その宣言をメールで奥さんに送ったけど、戻ってきたのは「独我論って何?」だけだった。それで十分でしょう。「宇宙の旅人」という言葉を池田晶子さんからもらったと思っているけど、その言葉自体は見当たらない。雰囲気から作ったのかもしれない。

 宇宙に漂う心を表わした。それを難しい言葉で表わしたのがハイデガー「存在と時間」です。私の描く「宇宙」は、宇宙空間ではなく、無限次元空間そのものです。その中の任意の三次元に住むモノは自由です。

7.4.3「他者の関係」

 他者は存在していないから干渉しないし、干渉されない。死を紛れるために、あることを感じるために観察するだけです。内なる世界での感想を他者に伝えることはしておきます。それに反応するかどうかは私の問題ではない。

 私が渡せる最大の武器は数学モデルです。今の世界の次の次の世界の様相を示している。人類がそれをわかることを期待しています。

7.4.4「発信する日々」

 他者が居ないのに、誰に発信するというのか。今の感覚は宇宙の果てに向けて発信する。そこに拡がる、もう一人の私とつながるために。ソーシャルツールを使うのは、それらが自分が使うために用意されたから。使うのは私の役割。ある種の「蜘蛛の糸」です。本来の目的がわかるために使っていきます。

 感じたこと、考えたことを言葉にする。言葉にならないものを言葉にする。トルストイの日記、ウィトゲンシュタインの日記には感銘を受けない。雑記帳とはそんなモノです。思考をトレースすることは可能です。言葉は何となくわかった気にさせてくれます。先から見ていけばいい。「未唯への手紙」に全てを置きます。
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