goo

戦国以来の戦いを一変させた〝銃の黒船〟ミニエー銃

『逆説の日本史 幕末時代史編Ⅳ』より

四境戦争(第二次長州征伐)は、当初は長州から見て他国との五つの国境(五境)から攻められる予定であった。

芸州口(安芸国からの攻め口)、石州口(石見国からの攻め口)、周防大島口(周防国沖の大島からの攻め口)、小倉口(対岸の九州小倉からの攻め口)そして萩口(本城の萩を海上から攻める)である。陸路が二つ(芸州、石州)で残りの三つが海路(周防大島、小倉、萩)ということになる。

だが、萩口は薩摩が担当ずる予定であったので薩摩が不参加を表明したところで攻め口自体が消滅してしまったのである。

幕府の突きつけた最後通牒への回答期限は、慶応二年(1866)五月二十九日だったが、幕府をナメきっている長州藩はこれを無視し何の回答もしなかった。

こうなれば開戦しかない。

すでに回答期限の前日二十八日に征伐軍先鋒副総督の老中本荘宗秀が広島入りしていた。国泰寺に総司令部を置いたのだ。そして翌六月の五日には先鋒総督の紀州藩主徳川茂承が広島入りした。

ところが、ここで大誤算が生じた。この期に及んで広島を本拠とする芸州藩が「この戦いは大義名分が立たないので戦闘には参加しない」と表明し、正式に戦線から離脱したのだ。

芸州藩は薩長ほどではないが軍備は近代化されており、この点幕府側には大きな痛手だった。

この結果、芸州口の戦闘は出兵を拒否した芸州藩に代わって彦根藩井伊家と高田藩榊原家が先鋒となった。

ところがこの二藩、共に「徳川四天王」の家柄だが軍備は時代遅れもいいところであった。とくに井伊家は戦国以来の「赤備」つまり赤一色のヨロイカブトに身を固めた騎馬武者がその主力であった。

前にも述べたように、私はこの戦いでは萩口に軍艦を回航させ洋上から萩城下を攻撃するのが一番効果のある作戦だったと考えている。その方面を担当するはずだった薩摩が不参加の方針を決定したため、結局萩口は攻められなかったわけだが、薩摩が下りても幕府海軍をそちらに回すという手はあった。

にもかかわらず、幕府がそうしなかったのは、この芸州藩の不参加によりこちらの方面の兵力が手薄になったからだろう。長州海軍も瀬戸内側に展開しているという事情もあった。

もう一つ幕府が瀬戸内側に拘った理由は、長州が周防大島口め防衛を放棄していたからだ。

兵力で言えば幕府側が圧倒的に有利だ。長州は少ない兵力を有効に使わねばならない。それゆえ、大島口の防衛はあきらめていたのだ。逆に幕府軍から見れば大島の占領は容易で、緒戦の勝利を内外にアピールできることになる。

六月七日、幕府海軍の富士山丸など二隻が久賀へ艦砲射撃を加えた。本格的なものでは無く、陸上に砲台があり反撃してくるかどうか確認するためだったと思われる。予想どおり反撃は無かったので八日から上陸作戦が敢行された。まず幕府軍の一角である伊予松山藩主松平勝成を総大将とした軍勢が四国側に近い油宇に上陸、北へ向かって進撃した。

一方、安芸国宮島(厳島)に集結していた幕府軍本隊は富士山丸など海軍軍艦に分乗して十一日に久賀に上陸した。これに対し少数だけ派遣されていた長州藩兵は当初の予定どおり抵抗せず兵力を温存し撤退した。

ここまでは上出来だった。大島口の戦闘は幕府軍の目論見どおり、大島の完全占領という成果を上げたのである。

ところが、友軍のはずの松山兵の存在がネックとなった。戦国時代以来の本格的な戦闘に兵士の野獣のような本能が目覚めてしまったのか、彼らは占領地の農民(非戦闘員)に対し暴行・略奪を繰り返したのである。

具体的な略奪行為の内容は記録が無いが、それが相当にひどいものだったことは間違い無い。なぜなら、それまで黙って「占領軍」に従っていた農民たちが、あちこちで「一揆」を起こしたからである。竹槍を手に女子までが幕府軍に立ち向かったという。

こうなると長州藩も黙っていない。

精鋭の第二奇兵隊など干数百人を大島に派遣した。

特筆すべきは補給など特別な任務担当の兵士を除いて、長州兵はすべて銃を持った兵士だったことである。幕府軍には戦国以来の騎馬武者や槍隊および弓隊もいたが、長州兵はすべて西洋銃を持っている。

しかも、すべてではないが、そのうち数千人は最新鋭のミニエー銃を持っていた。

長州兵はいわば一人一人が狙撃兵であった。

まず大将クラスの者から狙い撃ちにした。長州兵は下関戦争など実戦で鍛えられているが幕府軍はそうでは無い。慣れない戦いで指揮官クラスから討ち取られていくと、態勢をどう立て直していいか見当もつかない。とどのつまりは敗走することになる。そこへ「農兵」と化した人々が一斉に襲いかかったのである。

幕府軍は総崩れになった。

せっかく占領した大島も放棄サざるを得なかった。どの口の戦闘でもそうだが、兵力は幕府軍のほうが圧倒的に多い。にもかかわらず長州が勝ったのは、鉄砲装備率百パーセントという数字と、敵には撤退する場所があるが味方には無い。つまり「背水の陣」のもたらす旺盛な士気のたまものであった。

もちろん、これは大島口だけのことでは無い。むしろ海を渡った芸州口において、長州の利点は大いに発揮された。

すでに述べたように、芸州口では芸州藩浅野家が征伐に不参加を表明したため、戦国時代と大して変わらない装備の彦根藩井伊家が先鋒となって国境を接する長州藩領の周防国へ侵入しようとした。

ところがそこで長州藩の遊撃隊を始めとする「ミニエー銃隊」に待ち伏せされ、大損害を受けて敗走したのである。

そして、この時から日本の戦争は一変した。いや、長州が変えた。

その主役はミニエー銃だった。

幕府はゲベール銃しかなく、性能の差は歴然としていた。では具体的にどう変わったのか?

ゲベール銃とミニエー銃の最大の違いは、ミニエー銃の銃身はライフリングが刻まれていることだ。前にも説明したように、本来の「ライフル」とはこのライフリングを指す。そして、これがあると無いとでは大違いで、ライフリングの施されている銃(施条銃)は、それの無いゲベール銃のような滑腔銃とは射程も破壊力もまるで違う。ライフリングが弾丸をジャイロ回転させるため、遠くまで飛び弾道もブレなくなる。すなわち命中精度も向上する。

弾丸もゲベール銃は火縄銃と同じ球型だが、ミニエー銃は現代と同じ先の尖った円筒型(椎の実弾)である。この画期的な銃器と弾丸を開発したのが、フランス陸軍のクロード・ミニエー大尉であった。

では、ミニエー銃は具体的には日本の戦争の何を変えたのか?

ある意味で「銃の黒船」であったかもしれない。幕府兵のゲベール銃は長州兵に届かないのに、長州兵のミニエー銃は楽々届いてしまう。結局、幕府軍は敵に打撃を与える前に大損害をこうむるという図式である。

一説によればゲベール銃の射程はせいぜい百メートルなのに、ミニエー銃は三百メートルもあったという。

しかも、それだけ飛ぶのに破壊力もミニエー銃のほうが上なのである。そして、ミニエー銃の弾丸(ミニエー弾)は当たると、戦国時代以来のヨロイを貫通した。ということは、じつは昔風の具足・龍手などの類いは身につけないほうがいいということなのである。

なぜか?

 刀や槍で傷ついた者は一人もいない。ことごとく銃創である。貫通銃創もあり、盲管銃創もあって、時には腹の皮と肉の間に弾丸が残り、自分で掘り出して抜くといった恐ろしい負傷もある。常識で考えるととても助かりそうもないが、弾丸さえ抜ければ意外に治癒も早いというのだ。具足は着けない方がよい。急所でなくても足を射たれると、脛当の鎖が肉の中にめりこんでひどい傷になる。いくら掘り出しても全部は摘出できず、いつまでも治らないで大変な苦しみをもたらす。 『長州戦争 幕府瓦解への岐路』(野口武彦著、中央公論新社刊)「常識が変わる」というのは、こういうことを言うのだろう。

また銃撃戦では、敵に自分の位置を確定されないよう素早く動き回る必要がある。

ということは和装も良くない。槍や袖が引っかかるから、西洋式の軍服がいいということになった。

後に勝海舟の回想にある「(我々は)官軍がカミクズヒロイのような格好をして来たのでやられた」との言葉は、まさにこれを指している。

つまり、この四境戦争以後、古風なヨロイカブトに身を固めている人間は「時代遅れの非常識人」だということになる。

もっとも今と違ってマスコミ、たとえばテレビニュースなどで戦況が報じられるわけでは無いから、この新常識が広まるには少し時間がかかった。

たとえば新撰組副長の土方歳三は、この後に行なわれた一大決戦の鳥羽・伏見の戦いには他の隊士と同じく和装で軽い具足をつけて出陣したようだ。しかし、薩長の手並を知った後は、あの有名な写真のように西洋式の軍服に変えている。

本来、ヨロイカブトと言えばプロテクターである。銃撃戦が盛んになればなるほど、すべての兵士がプロテクターを愛用するようにならなければおかしい。ところが実際には、すべての兵士がこれを捨てる方向に進んだ。ミニエー銃というのがいかに恐るべき新兵器であるか、日本の軍備がいかに時代遅れのものになってしまったか、この芸州口の戦闘は天下にそれを示したのである。

それにしても、ミニエー銃の引立役となったのが、戦国最強とうたわれた武田家の軍装を継いだ「赤備」というヨロイカブトであったことは、何とも皮肉なことであった。

芸州口では、敗走する井伊勢に引きずられるように榊原勢まで総崩れとなったため、「あれが天下の徳川四天王か、落ちたものだ」と物笑いの種になった。

大島口に続いて、芸州口の戦闘も幕府軍の敗北に終わったわけだ。

残る二か口のうち、石州口は緒戦から長州の圧勝だった。

石州口の長州軍司令官は大村益次郎だ。そもそも長州軍の「ミニエー化」を成し遂げたのが大村なのである。しかも、大村は軍政家としてだけでなく軍略家としても優秀だった。

大村は当初から長州藩領を出て敵地の浜田藩領まで進出し、この方面に派遣された幕府軍の紀州藩、鳥取藩、松江藩の軍勢を撃破した。もし大村が戦国に生まれていれば天才軍師の名を残しただろう。

問題は小倉口であった。

関門海峡を挟んでの戦いだから、最初は海戦になる。ところが海軍力は幕府のほうが圧倒的に優勢だ。それをどう打開するか。

この方面の指揮官は高杉晋作であった。
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )

人間の言語と社会 ウィトゲンシュタイン

『哲学ワールドの旅』より 現代哲学 人間にとっての世界と言語

語り合うこと

 わたしたちは自分の遠い将来にありうるであろう死ということについて、ぼんやりとであれ、まったく忘れてしまうわけにはいきません。とはいえ、それにばかり囚われて生きるということもあまり望ましい事態ではないでしょう。わたしたちは日々活き活きと生きていくためにも、友人と語らい、家族と会話し、あるいは教室で議論することで、自分の考え方を深めたりより豊かにしたりすることができるはずです。

 では、言葉を使って「語り合う」というこのことで、わたしたちは本当はどんなことを行っているのでしょうか。いうまでもなく、人間とは言語を使用する動物です。しかし、言語を使用するとはどういうことをいうのでしょう。あるいは、われわれが発する言葉の列が、意味をもって相手に伝わる、ということはなぜ可能なのでしょうか。言葉は日本語であれ英語であれ、紙の上に書かれた記号であったり、耳で聞く音の流れであったりしますが、いずれも文字や音の列にすぎません。この文字の列、音の列が、どうしてわたしたちの意味の伝達を担い、対話の道具となることができるのでしょうか。そもそも、音や文字としての言葉と、それが担っている意味とは、どのような関係に立っているのでしょうか。こうした問題を考えるのが、「言語哲学」という分野の主題です。

言語哲学

 言語哲学という哲学研究のスタイルは、20世紀のイギリスを起源として、英語を主とする英米圏の哲学界で広く流布したスタイルです。 20世紀の英米圏の哲学は、フレーゲやパースなどの論理学者による形式論理学の体系化という作業を出発点にして、われわれのさまざまな言明や主張の有意味性を、その論理的な形式の側面から分析するという、分析哲学にあります。先に見たフッサールやハイデッガーの哲学は、主としてヨーロッパ大陸で主流となった「現象学」の流れに属していますが、分析哲学は現象学と並んで20世紀の代表的な哲学といえます。そして、分析哲学の中には科学哲学や認識論など、さまざまな下位の分類がありますが、その中でも言語哲学は分析哲学の中心分野をなしてきたといえます。

 言語哲学の代表的な理論家としては、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、クワイン、デイヴィドソン、チョムスキーなど、たくさんの思想家の名前をあげることができますが、ここではウィトゲンシュタイン(1889-1951)による言語へのアプローチを取り上げておきたいと思います。その理由は、彼の言語哲学がラッセルらの分析哲学の起源から生まれた、形式的な論理思想の直系の理論でありながら、最終的には環境に条件づけられた生きた人間の現実という、現象学の発想とも重なるような言語観に至ったと思われるからです。ウィトゲンシュタインの哲学は、言語哲学というスタイルをとりながら、「有限な人間存在」という思想を表現したもう1つの思想と見ることができるのです。

ウィトゲンシュタイン

 ウィトゲンシュタインは先に見てきたハイデッガーとまったく同じ年の生まれで、ハイデッガーはドイツ人ですがウィトゲンシュタインはオーストリア人でした。彼はイギリスのケンブリッジ大学でラッセルの下で研究し、『論理哲学論考』(1921年)という本を出しました。これが彼の前期思想の代表作です。彼はその後いったん哲学から離れるのですが、再びケンブリッジ大学に戻り、哲学教授を勤めました。後期の代表作は『哲学探究』(1953年)です。

 『論理哲学論考』における言語理論では、わたしたちの作る文、命題は、現実世界の「像(ピクチャー)」となることで意味をもつ、とされます。これは 「言語の意味についての像理論」と呼ばれます。わたしたちは文を口から発することで、「……が……である」ということを言いますが、これは、何かが事実として現実に成立している可能性がある、ということを述べています。個々の文は1つの可能的な事実を提示し、それが現実と照合されるべきだと言います。文、命題が事実の世界と照合されて、一致していればその文は真、一致していなければ偽とみなされます。

 例えば、「ネコがマットの上にいる」という文・命題を考えてみると、この命題は1匹の猫と敷物との間に起こりうる可能的な関係を、1つのピクチャーとして表している。その表現は日本語で上のように「……が……である」と図示してもよいし、漫画のようなイラストで猫と敷物との関係を図示してもよい。日本語の文章も、漫画のイラストも、どちらも同じ猫と敷物との関係についての、可能な事態を写し取る像、ピクチャー、モデル、模型なのです(同じように、京都市の街の姿ということを考えると、京都の道路を示した地図や、京都の写真や、京都市のジオラマは、みな京都市の姿のモデル、ピクチャーです。少し不思議な感じもしますが、模型自身は京都市の中にあって、京都市を図示しています)。

有意味と無意味

 『論理哲学論考』のこの言語理論はかなり単純なもので、一見したところまったく特別な陰影のあるものではありませんが、ウィトゲンシュタイン自身はこの理論が、哲学的に非常に重い意味をもっていると考えました。というのも、何かの主張や意見、文、信念などがとりあえず意味をもったものであるためには、それが何らかの事実のピクチャー、模型、モデルになっていなければなりません。つまり、有意味な言語表現とは、事実の候補についての描写以外にはありえないということです。これは裏返していうと、事実の描写ではないような文章はまさに無意味だということです。

 わたしたちは「他人を傷つけることは悪だ」と言います。これは事実の描写ではありません。1つの価値判断です。また、「明日は晴れてもらいたい」と言います。これも事実の像の提示ではなくて、1つの願望の表明です。したがって、これらは『論理哲学論考』の基準からいえば、まったく有意味ではありません。これらは意味を全然もたない文、つまりナンセンスです。そして、ウィトゲンシュタインは「語りえないことについては沈黙しなければならない」と言いました。わたしたちは、願望や命令や、価値判断や、宗教的な信念などを口にしてはなりません。なぜなら、それは何も意味のないナンセンスなことを口走っているにすぎないからです。

 さて、この言語理論はいかにも厳格な、狭い言語理解であるように思われます。実は、ウィトゲンシュタイン自身は、この理論によって、さまざまなナンセンスな発言を排除しようとしたばかりではなく、むしろ、「本当に大事なことは言葉では伝えられないのだ」「わたしたちはそれを沈黙において守る必要がある」、ということも言いたかったのです。しかし、「本当に大事なことは言葉では伝えられないのだということを、言語理論の分析を通じて言いたい」、ということはそれ自体、まったく矛盾した発想です。また、[論理哲学論考]の理論だけでは、そもそも大切なナンセンスと本当に無意味なナンセンスとを、どうやって区別したらよいのかもわかりません。

後期の思想

 そこで、以上のような若き時代の自分の言語哲学に不満をもつようになったウィトゲンシュタインはもう一度言語哲学を作り直そうとします。それが、『哲学探究』で新たに組み立てた言語の理論です。

 ウィトゲンシュタインはこちらの本では、言語の有意味性を確保するのは、文や命題がもっている画像的性質ではなくて、それらを使用する場面でその使用の適切性を保証するような、さまざまな規則の束だと考えます。わたしたちは言葉を使って命令し、祈念し、証言し、主張し、疑問を投げかけ、希望し、失望を表明し、怒りを露わにし、祝福し、呪い、等々、本当にさまざまな行為を行っています。これらは言葉を使った人間同士の「ゲーム」です。言語行為は規則に則って行われるゲームですが、この規則は言葉を使う人がそれぞればらばらにもっているものではありません。言語表現は複数の発話者の間で、複数の文脈の下で、複数の目的に沿って交換されますが、その交換のプロセスのなかで、それを支えている規則もまた変形し、さまざまな工夫によって変化させられます。言葉は生きた人間的交渉のなかで使われ、人間の生の変化に応じてどこまでも柔軟に変形し、動いていきます。

 言語はゲームであるというこの哲学では、「1人きりで用いられる言語」という考えが批判されます。言語を有意味にしているのは、それの暗黙の使用規則ですが、この規則はわたしが自分1人で決めたものではありません。規則はわたしの発話に先立って、わたしが属する共同体の下にあり、共同体がシェアーしている生活のスタイルや習慣の中で、その働きを確保しています。いわば言語は共同体の生という、間主観的な領域において、暗黙の了解というかたちで働いているのです。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

人間をとりまく環境世界 ハイデッガー

『哲学ワールドの旅』より 現代哲学 人間にとっての世界と言語

語り合うこと

 わたしたちは自分の遠い将来にありうるであろう死ということについて、ぼんやりとであれ、まったく忘れてしまうわけにはいきません。とはいえ、それにばかり囚われて生きるということもあまり望ましい事態ではないでしょう。わたしたちは日々活き活きと生きていくためにも、友人と語らい、家族と会話し、あるいは教室で議論することで、自分の考え方を深めたりより豊かにしたりすることができるはずです。

 では、言葉を使って「語り合う」というこのことで、わたしたちは本当はどんなことを行っているのでしょうか。いうまでもなく、人間とは言語を使用する動物です。しかし、言語を使用するとはどういうことをいうのでしょう。あるいは、われわれが発する言葉の列が、意味をもって相手に伝わる、ということはなぜ可能なのでしょうか。言葉は日本語であれ英語であれ、紙の上に書かれた記号であったり、耳で聞く音の流れであったりしますが、いずれも文字や音の列にすぎません。この文字の列、音の列が、どうしてわたしたちの意味の伝達を担い、対話の道具となることができるのでしょうか。そもそも、音や文字としての言葉と、それが担っている意味とは、どのような関係に立っているのでしょうか。こうした問題を考えるのが、「言語哲学」という分野の主題です。

言語哲学

 言語哲学という哲学研究のスタイルは、20世紀のイギリスを起源として、英語を主とする英米圏の哲学界で広く流布したスタイルです。 20世紀の英米圏の哲学は、フレーゲやパースなどの論理学者による形式論理学の体系化という作業を出発点にして、われわれのさまざまな言明や主張の有意味性を、その論理的な形式の側面から分析するという、分析哲学にあります。先に見たフッサールやハイデッガーの哲学は、主としてヨーロッパ大陸で主流となった「現象学」の流れに属していますが、分析哲学は現象学と並んで20世紀の代表的な哲学といえます。そして、分析哲学の中には科学哲学や認識論など、さまざまな下位の分類がありますが、その中でも言語哲学は分析哲学の中心分野をなしてきたといえます。

 言語哲学の代表的な理論家としては、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、クワイン、デイヴィドソン、チョムスキーなど、たくさんの思想家の名前をあげることができますが、ここではウィトゲンシュタイン(1889-1951)による言語へのアプローチを取り上げておきたいと思います。その理由は、彼の言語哲学がラッセルらの分析哲学の起源から生まれた、形式的な論理思想の直系の理論でありながら、最終的には環境に条件づけられた生きた人間の現実という、現象学の発想とも重なるような言語観に至ったと思われるからです。ウィトゲンシュタインの哲学は、言語哲学というスタイルをとりながら、「有限な人間存在」という思想を表現したもう1つの思想と見ることができるのです。

ウィトゲンシュタイン

 ウィトゲンシュタインは先に見てきたハイデッガーとまったく同じ年の生まれで、ハイデッガーはドイツ人ですがウィトゲンシュタインはオーストリア人でした。彼はイギリスのケンブリッジ大学でラッセルの下で研究し、『論理哲学論考』(1921年)という本を出しました。これが彼の前期思想の代表作です。彼はその後いったん哲学から離れるのですが、再びケンブリッジ大学に戻り、哲学教授を勤めました。後期の代表作は『哲学探究』(1953年)です。

 『論理哲学論考』における言語理論では、わたしたちの作る文、命題は、現実世界の「像(ピクチャー)」となることで意味をもつ、とされます。これは 「言語の意味についての像理論」と呼ばれます。わたしたちは文を口から発することで、「……が……である」ということを言いますが、これは、何かが事実として現実に成立している可能性がある、ということを述べています。個々の文は1つの可能的な事実を提示し、それが現実と照合されるべきだと言います。文、命題が事実の世界と照合されて、一致していればその文は真、一致していなければ偽とみなされます。

 例えば、「ネコがマットの上にいる」という文・命題を考えてみると、この命題は1匹の猫と敷物との間に起こりうる可能的な関係を、1つのピクチャーとして表している。その表現は日本語で上のように「……が……である」と図示してもよいし、漫画のようなイラストで猫と敷物との関係を図示してもよい。日本語の文章も、漫画のイラストも、どちらも同じ猫と敷物との関係についての、可能な事態を写し取る像、ピクチャー、モデル、模型なのです(同じように、京都市の街の姿ということを考えると、京都の道路を示した地図や、京都の写真や、京都市のジオラマは、みな京都市の姿のモデル、ピクチャーです。少し不思議な感じもしますが、模型自身は京都市の中にあって、京都市を図示しています)。

有意味と無意味

 『論理哲学論考』のこの言語理論はかなり単純なもので、一見したところまったく特別な陰影のあるものではありませんが、ウィトゲンシュタイン自身はこの理論が、哲学的に非常に重い意味をもっていると考えました。というのも、何かの主張や意見、文、信念などがとりあえず意味をもったものであるためには、それが何らかの事実のピクチャー、模型、モデルになっていなければなりません。つまり、有意味な言語表現とは、事実の候補についての描写以外にはありえないということです。これは裏返していうと、事実の描写ではないような文章はまさに無意味だということです。

 わたしたちは「他人を傷つけることは悪だ」と言います。これは事実の描写ではありません。1つの価値判断です。また、「明日は晴れてもらいたい」と言います。これも事実の像の提示ではなくて、1つの願望の表明です。したがって、これらは『論理哲学論考』の基準からいえば、まったく有意味ではありません。これらは意味を全然もたない文、つまりナンセンスです。そして、ウィトゲンシュタインは「語りえないことについては沈黙しなければならない」と言いました。わたしたちは、願望や命令や、価値判断や、宗教的な信念などを口にしてはなりません。なぜなら、それは何も意味のないナンセンスなことを口走っているにすぎないからです。

 さて、この言語理論はいかにも厳格な、狭い言語理解であるように思われます。実は、ウィトゲンシュタイン自身は、この理論によって、さまざまなナンセンスな発言を排除しようとしたばかりではなく、むしろ、「本当に大事なことは言葉では伝えられないのだ」「わたしたちはそれを沈黙において守る必要がある」、ということも言いたかったのです。しかし、「本当に大事なことは言葉では伝えられないのだということを、言語理論の分析を通じて言いたい」、ということはそれ自体、まったく矛盾した発想です。また、[論理哲学論考]の理論だけでは、そもそも大切なナンセンスと本当に無意味なナンセンスとを、どうやって区別したらよいのかもわかりません。

後期の思想

 そこで、以上のような若き時代の自分の言語哲学に不満をもつようになったウィトゲンシュタインはもう一度言語哲学を作り直そうとします。それが、『哲学探究』で新たに組み立てた言語の理論です。

 ウィトゲンシュタインはこちらの本では、言語の有意味性を確保するのは、文や命題がもっている画像的性質ではなくて、それらを使用する場面でその使用の適切性を保証するような、さまざまな規則の束だと考えます。わたしたちは言葉を使って命令し、祈念し、証言し、主張し、疑問を投げかけ、希望し、失望を表明し、怒りを露わにし、祝福し、呪い、等々、本当にさまざまな行為を行っています。これらは言葉を使った人間同士の「ゲーム」です。言語行為は規則に則って行われるゲームですが、この規則は言葉を使う人がそれぞればらばらにもっているものではありません。言語表現は複数の発話者の間で、複数の文脈の下で、複数の目的に沿って交換されますが、その交換のプロセスのなかで、それを支えている規則もまた変形し、さまざまな工夫によって変化させられます。言葉は生きた人間的交渉のなかで使われ、人間の生の変化に応じてどこまでも柔軟に変形し、動いていきます。

 言語はゲームであるというこの哲学では、「1人きりで用いられる言語」という考えが批判されます。言語を有意味にしているのは、それの暗黙の使用規則ですが、この規則はわたしが自分1人で決めたものではありません。規則はわたしの発話に先立って、わたしが属する共同体の下にあり、共同体がシェアーしている生活のスタイルや習慣の中で、その働きを確保しています。いわば言語は共同体の生という、間主観的な領域において、暗黙の了解というかたちで働いているのです。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

未唯宇宙5.2.1~5.2.3

5.2.1「各人に頂点」

 市民が主役になるためには必須。その上で各人の成果をいかにつなげるか。一部が変われば全てが変わることができて、初めて安心して変われる。

5.2.2「部品表」

 コンテンツをいかに維持するか、部分の変更をいかに全体に馴染めさせるか習得。どう見せていくかは未解決。オンラインがやっと始まった時代だった。45年経ってやっと次が見えてきた。

 問い合わせることが可能になった。オリジナルのイメージは30年前の実験室。実験者からの要望「いくらの力で締めたらいいかを応えてくれる物が欲しい」。それに応えることが可能になってきた。

 第1次AIの時代。その要望にフレームとLISPで答えようとした。非力だった。今ならEchoで可能。コンテンツは「秘すれば花」

5.2.3「ヘッドロジック」

 各人が頂点をシステム化した時に生まれたもの 。ヘッドに構成を持ち、品番属性を規定する。ヘッド間の関係を目次で表わし、横断的なものは仕様で表現する。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )