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スタバでの席の選び方

スタバでの席の選び方

 側面があり、もたれかかられること。条件に合うのは、駅前スタバでは5箇所。元町スタバは3箇所。それが元町の弱点ですね。

待ちぼうけのウサギ

 昨日はぴったんこのタイミングだった。レジに並びながら、おしゃべり出来た。こんな日もあるんです。狙うとろくなことはない。「待ちぼうけのうさぎ」

ヘルシンキ中央図書館への道

 それにしても痩せないな。ヘルシンキ中央図書館(OODI)完成まであと半年。行く準備に取り掛かるないといけない。往復の切符と泊まるとこだけ十分。後は何とかなる。名古屋からのフィンエアーがあるかどうかを確認しておきましょう。その前に75kgを一か月キープの壁。これが一番きつい条件。
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EUの運営と正当性

『欧州ポピュリズム』より EUとはどのような存在なのか

EUの運営--超コンセンサス追求型

 EUの運営には、欧州理事会(EU首脳会議)や閣僚理事会(正式名称は「理事会」である)の場で行われる主権国家間の調整という政府間主義的側面、および、個別の国益を超えて「EU益」を追求する独立の機関に委ねられるという超国家主義的側面が併存している。EUは国家から自立した法制度を持ち、EUのルールは国家の法令に優先する。

 EUの主要な独立機関として存在するのは、コミブンョン(欧州委員含、EU司法裁判所、欧州中央銀行(ECB)である。コミ。ションは、立法・政策の提案権を独占するとともに、EUレベルの政策執行を担当する。EUのルールに関わる紛争を最終的に解決するのは、EU司法裁判所の役割である。ECBは独立してユーロ圏の金融政策を決定する。これらに加えて、直接選挙された議員で構成される欧州議会がEUの民主的コントロールのために存在する。

 欧州理事会はEUの基本的政治方針を、全加盟国首脳が同意するコンセンサス(投票にかけないで、議論を尽くして議長がとりまとめること)により決定する。それに基づいて、コミッション、閣僚理事会および欧州議会が個別の立法・政策を決定する。EUの法令は原則として、コミ。ションが法案を作成して提案し、閣僚理事会と欧州議会が双方とも法案に賛成すれば可決成立する。EUの立法手続を、それに参加する機関に着目して特徴を挙げると、次のようになる。

 第一に、コミッションは一カ国一人の委員で構成され、「EU益」のために独立して行動する義務を負う。法案作成の段階で国益が混入することを防ぎ、EU全体の利益を考慮するため、立法提案権を独占する。コミッション内部の決定はすべての構成員の単純多数決によることが原則であるが、実際には全員のコンセンサスで決定されていると言われる。

 コミッションが立法捉案権を独占することは、以下の四点を意味する。(イ)欧州議会を含む他のEU諸機関は、コミ。ションから事前の提案がなければ立法を行うことができない。EUが行動すべきか、行動すべきであるならばいかなる法形式をとるべきか、また、どのような内容でいかなる実施手続を定めるべきかを決定するのは、コミッションの責任である。また、(口)閣僚理事会がコミッションの提案を全会一致でなければ修正できないのに対し、=ミ。シEンは、閣僚理事会で議論されている間、いつでも提案の修正を行うことができる。さらに、(ハ)閣僚理事会がコミ。シEンの法案と異なる措置の採択を全会一致で行おうとする場合、コミフン四ンは自已の法案を撤回することにより、閣僚理事会に決定させないようにすることができる。最後に、(ニ)閣僚理事会、欧州議会および加盟国ともに、コミッションに法案を提出するよう強制することは、原則として不可能である。

 第二に、閣僚理事会には各国大臣が出席し、各国の民意を間接に代表する。また、欧州議会は選挙で選ばれるため各国国民を直接代表している。その点をEU基本条約は次のように述べている。

 「市民は欧州議会においてEUレベルで直接に代表される。加盟国は欧州理事会[EU首脳会議]において国家または政府首脳により、および[閣僚]理事会において自国政府により代表され、自らは国内議会または自国市民に民主的説明責任を負う。(EU条約第一〇条二項)

 EUの立法プロセスでは、各国の担当大臣が出席する閣僚理事会が各国の国益を背景に法案を審議し、コンセンサスを追求しながらも、国票と人口票の二重多数決という形をとる「特定多数決」(加盟国数の五五%[一五カ国]以上+EU人口の六五%以占により決定を行う(税制令警察・刑事司法協力など、センシティブな事項では全会一致の決定によ亘。しかし実際には、投票を行わないで議長がとりまとめるコンセンサスという形で決定を行うことが慣例となっている。

 第三に、これと併行して、各国で直接選挙された議員で構成される欧州議会がトランスナショナルな政党グループに分かれて法案を審議し、多数決で採否を決める。欧州議会は原則として総投票数の過半数で議決を行う(定足数は議員総数七五一人の三分の一である)。

インプット型正当性と「民主主義の赤字」

 「インプット型正当性」とは、所与の政治システムが市民の民意にどの程度応えているかということに基づく正当性である。他方、「アウトプ″卜型正当性」とは、所与の政治システムが市民の望む政策結果をどの程度実効的に達成しているかにより測定される正当性である。

 EUをインプット型正当性から判断する場合、EUは民意を十分に反映していないという意味で「民主主義の赤字」という批判が加えられる。EUの民主主義に対する満足度に関する世論調査(ユーロバロメーター)で、「まったく満足している」が四三%であるのに対し、「まったく満足していない」が四七%にのぼっている。「民主主義の赤字」は、ポピュリスト政党がEUを批判する際に最もよく使われる攻撃材料となっている。

 EUの立法プロセスに関わる三つのEU機関を見るならば、第一にEUの立法提案権を独占するコミッシEンは、選挙を経ないで任命される非多数派機関であり、任命後は独立の機関として行動する。

 第二に直接選挙される欧州議会については、民主的(インプット型)正当性があるように思われるが、民族的・文化的に同質のデモス(国民)のないところに民主主義は成立しないという「デモス不在論」から批判を受ける。ドイツ国民やフランス国民は存在しても、EUレベルのデモス(欧州民)が存在しない現状では、真の意味でEU規模の選挙民および政党が存在しない。したがって、欧州議会の意思が必ずしもEU市民の意思を反映しているとは言えないと指摘される。すなわち、この立場によれば、多数の加盟国で構成されるEUには、単一の同質的なデモスが存在しないため、教育や社会化を通じてやがて同質的な「欧州デモス」が形成されるまで、欧州レベルで民主主義は成立しないということになる。二〇〇四年~二〇一六年にわたる世論調査の結果(ユーロパロメーターを見るならば、欧州議会を信頼しているかどうかという質問に対し、肯定の回答が二〇〇四年秋の五七%をピークに減少傾向にあり、二〇一六年春には四〇%にとどまっている。

 第三に閣僚理事会はどうか。これは、各国民主主義を体現する加盟国の閣僚で構成される。そこにおいて、各国政府の閣僚は、政策議案ごとに利益とコストの配分が自国の有権者にとって受け容れ可能かどうかを常に念頭に置きながら交渉を行う。EUの加盟国ごとに有権者が望む政策の選好はまちまちであり、欧州規模での政策選好を形成・促進する制度が存在しない。閣僚理事会はEUの立法プロセスで最も影響力を持つが、その決定はすべてのEU市民に影響を及ぼすにもかかわらず、特定多数決の人口票では各国人口に顕著な差があるため、その場において各国市民の権利は平等に与えられていない(の乱行回。人口票は、文字通り、加盟国の人口が多いほど票決力が大きいことを意味する。二〇一七年一月一日時点においてEU内で最多の人口を擁するドイツは八二八〇万人であるのに対し、最少人口のマルタは四四万人である。そこには、二〇倍近い格差がある。

アウトプット型正当性とEUの揺らぎ

 他方、アウトプット型正当性こそが、EUを設立当初より支えるものである。それは、EUの中核的事業である単一市場を一見すればわかることである。しかし、すでに見たとおり、EUが引き受けている政策分野は広範囲に及んでおり、とくにユーロ危機や欧州難民危機に直面して、EUのアウトプット型正当性が揺らいでいる。EUの対応が十分かどうかを政策分野別に調べた前掲世論調査において、回答者の五〇%以上が「不十分である」とした政策分野は、失業対策(六三%)、脱税対策(六〇%)、移民問題(五八%)、テロ対策(五七%)、環境保護(五三%)、域外国境管理(五二%)となっている。EUが市民の期待に十分応えることができなければ、アウトプット型正当性の面においても、やはり欧州ポピュリズムから攻撃されることになる。
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歴史的思考力が目指す社会--多文化共生--

『思考する歴史教育への挑戦』より アメリカ歴史教育からの示唆

歴史教育における歴史的思考力の育成とディシプリン・ギャップに焦点をあて、歴史教育のカリキュラムを目標から評価、そして実戦レベルまで追い、そのギャップがどこで生じるのか、なぜ生じるのかを明らかにしてきた。歴史教育における歴史的思考力の育成と歴史学上のディシプリン・ギャップに焦点をあてることは、これまで日本において進められてきたアメリカ歴史カリキュラム研究を前進させ、その実践レペルでの実像にまで迫る研究であったと考える。また、事例として州レベルの教育に焦点をあてる際に、一つの州の研究だけでは浮き彫りになりにくいイリノイ州の特殊性を、保守派による教育が進むニューヨーク州を参考事例として挙げ比較するといった点で、比較教育学における研究手法として新たな方法論の提示ができたのではないかと考えている。

また、本書で焦点をあてている歴史的思考力は、様々な歴史観を持った資料をもとに異なる時代や文化のもとでの人間の営みについて解釈し、共感する力であり、また批判的に思考する力である。こうした歴史的思考力の育成を図ろうとする歴史教育の改革がK-12レベルの教育実践に浸透していないとする先行研究が一九九〇年代から多く出されてきた。それらの先行研究では、新しい歴史教育の実践を阻むものとして、教育実習生自身が新しい歴史教育の実践を受けた経験がなく、暗記型・一斉授業といった教師主導型の伝統的なスタィルによる歴史教育を一二年間受けてきたことから新しい歴史教育を実践するだけの経験が不足していることが挙げられていた。その他にも存在論的歴史学に基づいた研究を行ってきたはずの大学院生がK-12レベルの歴史科教師になると教科書や学校区で定められた教育目標によって認識論的な歴史学に回帰していくことや、テスト対策や教科書をすべて終えるために一斉授業を行うことを強いられ、子ども主体で調べたり解釈させたりしていくような時間的余裕がないこと、さらに生徒自身に歴史的資料を使って歴史的な出来事を解釈させたり、批判的に思考させたりすることは無理だと考えている教師がいることなどが挙げられていた。

そうしたディシプリンーギャップの生起要因を探る研究の中には、歴史的思考力を育成するような授業を体験していないとするものも見られる。しかし、一九九四年のナショナルースタンダード策定において歴史的思考力の育成が掲げられてから、約二〇年の歳月が流れようとしている現在、歴史科教師を目指す学生の中には様々な歴史的資料を使って従来のWASP中心の合衆国史観を批判的に見る授業などを受けてきたものも見られるようになってきた。とはいえ、従来の合衆国史に対してマイノリティの立場や異なる文化から異論の声を上げることは、WASPを中心とするアメリカ民主主義の成立と発展を筋書きとするナショナル・アイデンティティや「文化的リテラシー」の崩壊につながるとする保守派からの声は現在もなお存在する。

アメリカ白人の優越主義に対抗するものとして、一九七〇年代より登場した黒人や移民といった被支配者層の自己承認や解放や癒しの手段として社会史やニューヒストリーが使われてきたことからも、従来の社会認識や社会構造、そして特定の人々への崇拝といった価値観まで覆しかねない存在論的歴史学の持つ潜在的可能性は保守派の人々にとって恐威として写ることは想像に難くない。即ち、存在論的歴史学の側から出される様々な合衆国史観に対して、一つの客観的な合衆国史の維持を目指す保守派からのナショナリズムの動きが、西欧近代思想やその流れをくむWASP文化を中心とした合衆国史の再構築という形につながったこと、こうした認識論的な歴史観に戻そうとする保守派の動きと、存在論的なマイノリティの権利獲得の動きは、歴史教育を右にも左にも動かし歴史教育を翻弄させているのである。

トクヴィルが一八三五年に発表した『アメリカの民主政治』の中で述べたように、ョーロッパ人の子孫たち、とりわけイギリス人の子孫はアメリカにおける民主主義の精神を強く信じている。そして、彼ら「イギリス人に端を発し、そして自然的でもあるこの白人種的自負心は、アメリカでは民主的自由によって生まれている個人的自負心でなお著しく増強されている」と述べている。つまり、白人としての優越主義が、民主主義の普及によってさらに高まっているというのである。合衆国史におけるナショナル・アイデンティティの統合を支持する保守派の人々の多くは、社会的地位や収入が高く、ヨーロッパ人を祖先に持つ人々という偏りを持っている。さらに、ローディガーは、白人優越主義の思考が、一九世紀になりアメリカにやってきた低所得者層のヨーロッパ系移民の自己認識の形成とも密接な関係にあることを指摘している。とりわけアイルランド系移民にとって、南北戦争前後の北部での職種や暮らしぶりは解放された黒人のそれとほとんど変わらない状況であり、自らの存在を黒人と乖離するためには、「黒人を自らの職場から放逐し、可能ならばそこに黒人がいたという記憶までも消し去ること」であり、白人としての特権、つまり「自ら選択をし、自分たち自身の文化を作り出す歴史上の行為者なのだということ(前出邦訳?出)」を示すことにあったと述べる。ローディガーは、アイルランド系移民の取った戦略として、白人として自己を主張し、その違いとして黒人を対峙させるために、黒人に対して「追従的」「怠惰」「野生的」「好色」といった動物的なレッテルを張る必要があったと述べる。つまり、知性や政治的権利を持った黒人という存在は、アイルランド系移民、ひいては一九世紀に次々とアメリカにやってきたヨーロッパ系移民にとっては自分たちが「黒人」のような存在ではないことを証明し、アメリカ社会における主体的行為者としての地位を獲得する上で、認めることのできない存在であったというのである。

二〇世紀に入ってもなお、合衆国史は、先住民であるネイティブーアメリカンや、アフリカ系アメリカ人、そしてニューカマーとして二〇世紀になり増加したアジアや中南米からの移民に対して、アメリカ社会における解決すべき課題として描き続けられている。合衆国史が、ヨーロッパに端を発する民主主義発展の歴史として描かれ、その主体的な行為者として「白人」という集団が描かれるという構造がある限り、黒人を始めとする有色人種の集団やその文化は周縁に位置づけられ続けてきた。それぞれの集団が歴史を描く主体者となり、自己を周縁としてではなく、行為者として語る必要がある、そう訴えたのはデュボイスであった。

様々な歴史観を認める存在論的歴史観は、ナショナル・ヒストリーに対峙するものなのであろうか。アメリカの歴史カリキュラムの変遷を見る限り、アフリカ系アメリカ人や先住民、そして移民の存在を無視して合衆国史を語ることは不可能になっている。アフリカ系アメリカ人や先住民、そして移民は合衆国史そのものであり、また重要な構成要素となっているからである。従来のWASP中心の歴史観によって安心をするのは「アングロ社会への同化」を図ろうとする人々であり、彼らは過去に起こったマイノリティに対する悲惨な出来事によってマイノリティから批判されることを恐れている人々である。

ワインバーグは「集団的な記憶はフィルターとしての役割を果たす」と述べる。つまり、歴史的な出来事は時間が経つと詳細は忘れられ、何が残って何が忘れ去られるかは、常に今日の社会的なプロセスによって形が変えられていくというのである。彼はそこで次のような例を挙げる。「ある出来事は祝うがある出来事は祝わないといった国家の行為。ある物語は語るがある物語は描かないという小説家や映画製作者の判断。過去からいくつか項目を選んで描くが、他のものは寝かせたまま描かないという形のない社会的なニーズ。こうした不自然な行為は、なぜ起こるのだろうか。誰かが、またはいずれかの集団が、他の集団との線引きをはかり、歴史記述においてある特定の出来事を選び自分や自己の集団の正当性や主体性を主張しているとすれば、他者はいつまでも歴史の周縁的な地位から逃れることはできない。地球上に様々な個や集団が共存し、またそれらが境界を超えて交流を図るような時代に、自己や自己の集団の正当性だけを主張するだけでは理解し合うことは難しい。不信感や対立の火種になりかねない。

ワインバーグが唱えるように、耳に聞こえの良い事柄だけでナショナル・ヒストリーを学ぶだけでは、様々なネットワークでつながるボーダーレス社会において井の中の蛙となっていくだろう。耳慣れない異なる人々からの声を聞き思考する能力は、地球上の市民として生きていくための能力であり、対話のためのスキルともなる。存在論的な歴史学は、歴史記述そのものの客観性を認めるものでなく、様々な歴史解釈を認めるものである。ナショナル・ヒストリーと存在論的歴史観は対峙するものではない。むしろナショナル・ヒストリーを学ぶ上で必要不可欠な視点である。
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AIの動向を知る

『武器としてのITスキル』より 新しいテクノロジーの基本を知る

まず一般的に「人間の脳の役割を担うのがAI」と思われがちですがそれは正確ではありません。「人間の脳の考え方のアルゴリズムや仕組みをコンピュータに適用する」のがAIです。

AIとは何か、ということについては各研究者がさまざまな定義をしていますが、将来的に人間と同じような思考ができる、人間の脳にとって代わる存在になる、ということを指しているわけではないということは理解しておきましょう。

AIは実は1950年代から研究されてきた概念であり、過去2度、世界的なブームを経験してきました。

第1次AIブームが1950年代後半から1960年代、第2次ブームが1980年代から1990年代前半、そして現在2010年代に第3次ブームを迎えています。過去のAIブームの変遷をみていきましょう。

第1次AIブームはコンピュータを使って「推論・探索」をすることで特定の問題を解決することに取り組んだ時代です。

たとえば、将棋で「この手を指したら次に相手はどの手を指すか」というサンプルデータをコンピュータに大量に読み込み、確率論で推計して最適な指し手を提案する、というレペルにとどまっていました。

人間の思考でいえば、1つの選択肢を選んだら、その後何が起こりうるかの場合分けを行って考える思考法に近いコンセプトです。ただし当時のコンピュータの処理能力ではそれほど複雑なものを短期間で計算することができず、実用化には至りませんでした。

第2次AIブームでは、コンピュータに大量の「知識」を記憶させ、各分野の専門家の仕事を代替させるエキスパート・システムを目指しました。たとえば、質問に順番に答えていくと患者が感染した細菌を特定し、専門医の代わりに薬を処方してくれるシステムなどです。

この時点でも、第1次ブーム時よりは複雑なことができるようになりましたが、本質的にはあまり変わらない状況でした。また、より多くの知識をコンピュータに覚えさせ管理する煩雑さや、明確ではない漠然とした一般常識のようなものを覚えさせる難しさなどが明らかになるとブームは去っていきました。

ただし、この時代に、どのように指示をしたらコンピュータが知識をよりよく記憶できるか、より効果的・効率的に動くかという研究が進み、さまざまなプログラミング言語が生まれたことは大きな成果だったといえます。

現在の第3次AIブームは。、過去のブームと比して革新的といわれています。その理由は「機械学習」のアルゴリズムの進化です。機械学習はコンピュータが与えられた大量のデータからデータの「分け方」を自動的に習得し、それを使って未知なデータが与えられても「分ける」ことが可能になります。

たとえば、皆さんは子供に「魚」というものを教える時にどのようにしますか。

すると、今までみたことがなかった種類の「魚」の写真をみても、その特徴をみて「魚」かどうかを判断することができるようになります。こめプロセスを実現したのが機械学習アルゴリズムです。従来は人間の作業であった分類するための特徴の抽出をコンピュータが自動的に学習しながら行うことができるようになったのです。

機械学習の基礎的な理論自体は最近生まれたことではありませんが、近年利用が急速に拡大しています。背景としては、前節で触れたビッグデータにより学習データの入手が容易になったこと、コンピュータの処理能力が向上し処理時間が実用レベルに短縮されたこと、そして、技術的ブレークスルーとしてディープラーニングというアルゴリズムが登場したことなどが挙げられます。

ディープラーニングとは機械学習のアルゴリズムの1つで、人間の脳のシナプスのつながりをコンピュータに適用したものです。人間の脳と同様にたくさんの情報を与えるとシナプスが反応して勝手に学習していくのです。

ディープラーニングを活用した有名な事例に手書き文字の認識があります。画像認識の世界ではよく使われる標準的な手書き画像データセットに「MNIST」というものがあります。

これは28×28 = 784ピクセルの大きさの手書き文字画像と正解ラベル(たとえばこの画像は「3」が正解など)をつけたデータをピクセル単位に分解して7万枚分ニューラルネットワークに読み込んで認識させるものです。

すると、コンピュータが自らデータから学習し、読み込ませた画像が何割の確率で「3」なのかを判断できるようになるのです。

1980年代にはすでに理論は確立されていましたが、784ピクセルを7万枚分、つまり5488万個のデータを実用レベルの時間内で処理できるレベルにまでコンピュータの能力が向上したからこそ実用化することができたのです。

このように現代のAIの能力は飛躍的に向上しましたが、万能ではありません。得意なこと、不得意なことを理解し、適切な期待を持って活用することが重要です。前節でも触れたように、AIが得意なことはデータの識別と予測、発見です。これらは2018年現在、AIサービスの主戦場ともなっています。

今後期待される領域は「会話」です。人間と話す際と同じように会話をすることができるAI技術は大変難易度が高く、まだ実用に堪えうるものはありません。なぜならば、AIの能力を向上させるために重要なことは、大量のデータをどれが正解か不正解かというラペルとともにインプットできることです。しかし、そもそも何か正解か不正解かを人間が決められないものは、AIも判断することはできないのです。

たとえば、人間同士の会話で、Aさんの「今日はよい天気ですね」という問いかけにBさんが「ムカつく!」と答えた、という会話は一見まったくかみ合わないようにみえますが、状況によっては違和感なく成り立つこともあるでしょう。

「AIが発達すると人間の仕事が奪われてなくなるのではないか」というようなことがホラーストーリーとして語られることがあります。確かに、AIで代替できる仕事も多数あるでしょう。

しかし、人間がする方がよいこと、人間にしかできないことがまったくなくなるということはありません。AIが進化した世界を闇雲に不安に思うのではなく、AIについて正しく理解し適切に活用していくことが大切です。

たとえば、弁護士の業務であれば、過去の判例を探すといった業務は紙の資料にあたって探すよりも大量データを読み込んだコンピュータに探させた方がずっと正確でスピードも速いことは明らかでしょう。一方で、対話を通じてクライアントの気持ちをほぐし、本音を引き出したり勇気付けたりする業務は人間が担う方がよいでしょう。

日本をはじめ、多くの先進国のように、労働人口減少に直面している経済においては、コンピュータが得意なことは任せてしまい、人間は人間がする方がよいことに集中する、というように協働しなければこれからの経済は成り立ちません。

人間が、AIの得意なことや不得意なこと、可能性と限界を正しく理解すること、そして、コンピュータが得意なことについては、コンピュータが効果的に仕事をするように人間が適切に指示をし、任せることが大切です。
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