未唯への手紙
未唯への手紙
アラブとイスラエルはなぜ、和解できないのか?
『イスラム10のなぞ』より
地中海地域のイスラムとユダヤの共存
イスラム共同体の下では各宗教や民族コミュニティーは共存するシステムをもっていた。それは三大一神教の聖地であるエルサレムも例外ではなかった。イスラム拡張期の638年に、ムスリムがエルサレムを占領したムスリム支配のもとでも、教会やキリスト教徒は迫害を受けることはなかった。由緒ある教会や遺跡は、巡礼者たちの訪問の対象となる。キリスト教支配のもとでは信仰が禁止されていたユダヤ教徒たちもエルサレムヘの帰還を許され、かつてソロモン王やダビデ王が支配した町で礼拝を行った。この3つの宗教の共存による平和な生活がキリスト教の十字軍遠征まで継続した。
1095年、教皇ウルバヌス2世はクレルモンの宗教会議で十字軍を呼びかけ、1099年に十字軍はエルサレムを占領する。十字軍はユダヤ人やムスリムを虐殺して、エルサレムから追放した。イスラム世界の英雄サラディンは1187年に十字軍を撃退し、エルサレムを奪還して解放した。サラディンの行動は、イスラム世界を守るという「ジハード」に貢献するものであった。彼は敬虔なムスリムとしても知られ、モスクやマドラサの建設などイスラムの宗教施設の普及に努めた。
地中海中央に位置するシチリア島は831年から‥‥‥一世紀末までイスラムが支配した。
ムスリムは農業と商業をシチリア島にもたらし、イスラム文化は安寧のシンボルともなった。農業ではレモンやオレンジといった柑橘類の栽培が盛んとなり、イスラム支配は小規模農家を多数つくったことによって生産性を高めることになった。イスラム文化は古来からのキリスト教文化、ユダヤ教文化を融合してさらなる発展を遂げた。
ムスリムは、キリスト教会をモスクに換え、シチリアの首都パレルモは当時スペインのコルドバと比肩するほどの大都市に成長した。ムスリム学者は西欧では忘れられていたギリシャ古典の翻訳に尽力し、発展させることになった。パレルモには美しい水路や庭園をもつ巨大な建築物がつくられるようになった。
エジプトのアレクサンドリアはその名の通り、紀元前332年にアレキサンダー大王が築き、地中海を見渡す海軍基地としてエジプト支配の拠点にした。紀元前323年に大王が亡くなると、プトレマイオス朝(紀元前304~30年)の統治が始まり、紀元前300年頃にアレクサンドリア図書館が設立され、世界中・から文学、地理学、数学、天文学、医学などの文献が蒐集され、ヘレニズム文化の発展に寄与した。プトレマイオスー世がつくった研究所である「ムセイオン(museumの語源)」では、ギリシャの数学者のユークリッド、アルキメデス、哲学者のプロティノスが学んだ。
アレクサンドリアはユダヤ人の植民先ともなり、旧約聖書がヘブライ語からギリシャ語に訳され、『セプトゥアギンタ(七十人訳聖書)』となった。ローマ統治となっても、優れた聖書学者が現れ、オリゲネス(185年頃~254年頃)のようにギリシャ哲学を援用してキリスト教神学を解釈する人物がいた。
7世紀にイスラム支配となってもアレクサンドリアの重要性は低下することがなかった。地中海に臨む東西貿易の要衝として、ムスリム、キリスト教徒、ユダヤ教徒をつなぐネットワークとして機能した。アレクサンドリアにはピサ、ジェノア、マルセイユ、バルセロナ、またレヴァントの船が停泊して貿易を行った。またアレクサンドリアは、キリスト教徒がエルサレムやエジプトにあるキリスト教の聖地に、ムスリムがメッカ、メディナというイスラムの聖地に、それぞれ巡礼する際の重要なルートに位置していた。
イペリア半島もまたイスラムとユダヤの共存が顕著に見られた社会であった。スベイン語の「La Convivencia(共存)」という言葉はイスラムがスペインを統治していたときの、イスラム・ユダヤ教・キリスト教が共存した社会を表し、作家の堀田善衛氏によってもさまざまな機会で紹介された。モロッコにユダヤ人が最初に到達したのは紀元前2世紀で、大規模な移住は7世紀に始まった。モロッコのイスラム化はイドリース朝(789~985年)のイドリース1世によって進められた。その息子のイドリース2世は、都のフェズに大勢住んでいたユダヤ人たちを保護し、自由な経済活動を認めた。
ユダヤ教世界を代表する哲学者、医者、法学者のイブン・マイムーン(1135~1204年)は、フェズでユダヤ法資料を体系化して、ユダヤ法典『ミシュネー』トーラー(第2の卜ーラー)』を著した。また、哲学書『迷える人々のための導き』はラテン語に翻訳されてトマス・アクィナスなどキリスト教思想家に多大な影響を及ぼした。この書は当時のユダヤーイスラム双方の思想を知る上で手がかりとなる貴重な資料である。
モロッコのカサブランカ郊外には現在アラブ世界で唯一の「ユダヤ博物館」があり、イスラムとユダヤの文化がこの国で融合してきたことを表している。2013年に現国王のムハンマド6世はモロッコ国内にあるシナゴーグ(ユダヤ教寺院)の復旧を訴え、モロッコ文明の基礎としての文化的・宗教的対話の場としたいという意向を明らかにした。
アラブとイスラエルの対立をもたらしたヨーロッパの不寛容
18世紀までのユダヤ人に対する迫害の背景にはキリスト教側の宗教的不寛容があった。4世紀のアウグスティヌスから16世紀のマルティン・ルターまでのキリスト教の主要な神学者たちでさえも、ユダヤ人を神への反乱者、またキリストの殺人者と表現してきた。
ユダヤ人が金貸し業に多く従事したのは、カトリック教会がその信徒たちに金を貸して利子をとることが罪だと教えたことが背景にある。その結果、ユダヤ人には「強欲」というイメージが形成された。1492年には、スペインで「改宗したばかりのキリスト教徒に悪影響を及ぼすかもしれない」という危惧から、およそ20万人のユダヤ人がスペイン王とカトリック教会によって追放された。さらに、1493年にシチリア島から3万7000人のユダヤ人が放逐されたが、その多くは、オスマン帝国、オランダ、北アフリカ、南欧、そして中東へと移住していった。
中世後期になるとヨーロッパで商業が盛んになり、ユダヤ人の中には貿易、金融、金貸しで成功を収める者が現れ始めた。しかし、ユダヤ人の経済的成功には、キリスト教徒の妬みと宗教的偏見が結びついて憎悪が増幅された。
19世紀以降、ヨーロッパにおいて1国家は1民族によって構成されるという国民国家の概念が定着するようになると、キリスト教の価値観をもっていないユダヤ人に対して「迫害」から「排斥」の傾向が生まれた。ドイツでは国家統一の過程で国粋主義を鼓舞するために政府がユダヤ人に対する偏見を煽り、ロシアではユダヤ人居住区を攻撃する「ポグロム」が多発するようになった。ロシアはさらに、1795年のポーランド分割以降に移住してきたユダヤ人に対して、ロシア西部に「囲い込み」を行い、彼らの移動や社会同化を制限する措置をとった。フランスで起こったドレフュス事件は、ユダヤ人差別の典型例である。1894年、陸軍将校のユダヤ人アルフレッド・ドレフュスは、ドイツに情報を流したスパイとして反逆罪の濡れ衣を着せられた。その背景にはユダヤ人に対する根深い差別や偏見があった。
ユダヤ人排斥の潮流がヨーロッパで強まるにつれて、ユダヤ人の側でも民族主義が発生し、国家を樹立しようという思想活動であるシオニズムが台頭していった。シオニズムの指導者であるハンガリー・ブダベスト生まれのジャーナリスト、テオドール・ヘルツルは小冊子『ユダヤ人国家』(1896年)の中で心の内を語っている。
我々はいたる所で我々が住んでいる民族社会に溶け込もうと誠実に努めてきた。
求めたものは父祖の信仰の保持だけだった。しかし、それは許されないのである。
忠実な愛国者であり、時には過度に忠実だけれど、結局何の役にも立たない。
第1次世界大戦中、イギリスは「フセイン・マクマホン書簡」(1915年7月~1916年3月)で敵国オスマン帝国のアラブ人に反乱を起こさせ、アラビア半島と東アラブに独立アラブ王国を建国する約束を行う。さらに、イギリスはフランスとの間で「サイクス=ピコ協定」(1916年)を結び、オスマン帝国の束アラブ地域を戦後英仏で分割、パレスチナ中央部は国際管理下に置く約束を行った。その上これらの約束と矛盾するかのように、「バルフォア宣言」(1917年H月)でパレスチナにユダヤ人の民族郷土を建設することへの支持を表明した。第1次世界大戦でオスマン帝国に勝利したイギリスはエルサレムを中心とするパレスチナ中央部を国際連盟の委任統治下に置いた。1922年に委任統治規約が調印され、イギリスの委任統治が国際連盟で追認された。統治規約前文ではバルフォア宣言が引用され、シオニズム運動を支持する内容であった。
1930年代にドイツでナチズムが勃興してユダヤ人の排斥が進むと、ユダヤ人は故国建設を至上とする声を強めていく。1936年、ユダヤ人のパレスチナヘの移住に対して不安を覚えたアラブ人は暴動を起こした(アラブの大蜂起)。イギリスはビール調査団を派遣し、民族対立の解決手段としてパレスチナをアラブ人国家、ユダヤ人国家に分割することを提案し、さらに1939年2月のセント・ジェームズ会議でユダヤ人の土地購入を制限し、ユダヤ人のパレスチナヘの移住はアラブ人の承認がない限りは認めないという結論を出すと、パレスチナではこれに反発するユダヤ人武装集団によるイギリスヘのテロ、ユダヤ人の密入国への支援活動が加速していった。イギリスは結局事態を収拾することができず、1939年9月の第2次世界大戦の勃発によって、パレスチナ問題は棚上げ状態となった。
解のないパレスチナ問題--戦争から共存、また衝突へ
第2次世界大戦後の1947年11月に成立した国連総会決議181号は、パレスチナをユダヤ人国家、アラブ人国家に分割し、エルサレムを国連の信託統治下に置くというものだったが、アラブ側はこれに強く反対した。アラブ側から見れば、ホロコーストなどのユダヤ人迫害という「罪」をなぜアラブの犠牲の上に蹟わなければならないのかという想いが強くあった。また、ユダヤ人人口はアラブ人に比べはるかに少なかったにもかかわらず、決議はパレスチナ全域の55%をユダヤ人国家に与えるとしていた。
パレスチナに対するイギリスの委任統治が1948年5月14日に終了すると、イスラエルが国家独立宣言をして、イスラエルとアラブ諸国の戦争が勃発(=第1次中東戦争)。アラブ諸国軍を構成したのは、シリア、レバノン、トランスヨルダン(1949年、ヨルダンに改称)、イラク、エジプトだったが、士気が低く統制されなかった。イスラエル軍は、武器・装備がアラブ諸国よりも優れ、次第にアラブ諸国軍を圧倒していった。1949年の1月から7月にかけて成立した休戦協定では、パレスチナ全域の約75%がイスラエルの支配下に置かれた。イスラエルの占領した地域は国際的にも国家と認知され、エルサレムは国際管理下に置かれず、東西に分割され、それぞれヨルダンとイスラエルが支配し、ガザはエジプトの軍事占領下に置かれた。ガザの住民たちは無国籍となった。
第1次中東戦争は、100万人近くのパレスチナ・アラブ人を故郷から追いやることになった。開戦当初、パレスチナには132万人のアラブ人と64万人のユダヤ人が居住していたが、イスラエル国家の成立によってアラブ系住民の70%がパレスチナの地から放逐された。
戦争に敗れたエジプトでは、下層階級出身の将校たちがクーデターを起こし、1952年7月にムハンマド・アリー朝の王政は倒れた。ガマール・ナセルを中心とする将校団は、イギリス支配の終焉によってこそエジプトに自由が到来すると考え、1956年7月にスエズ運河国有化宣言を行った。スエズを生命線と考えていたイギリス、フランスは、エジプトからのゲリラ攻撃に悩まされていたイスラエルを誘ってエジプトに対して戦争をしかけた(スエズ動乱、第2次中東戦争)。冷戦時代にあって、戦争はソ連の介入を招くと判断したアメリカはイギリスに対するIMF融資の停止をほのめかし、3国の撤退を迫った。イギリス、フランス、イスラエルは軍を引き揚げたが、ナセルとエジプトは大きな名声を得て、アルジェリアからイラクに至るアラブ諸国の政治的中心となってアルジェリア独立(1962年)、イラク革命(1958年)にも影響を与えた。
アラブ・ナショナリズムの潮流に影響されて、ヤーセル・アラファトを指導者としてパレスチナ解放を目的とする武装組織「ファタハ」は、アラブ諸国を巻き込んでイスラエルとの戦争を起こすことを考えた。ファタハは、1960年代中ごろからヨルダンなどを拠点にイスラエルヘゲリラ攻撃を行い、イスラエルと激しく報復合戦を繰り返した。1966年末から1967年はじめにかけてイスラエルとアラブ諸国が緊張する中、ナセルはアカバ湾と紅海の境界にあるチラン海峡を封鎖する宣言を行った。チラン海峡が封鎖されれば、イスラエルはインド洋に入る海路が断たれてしまう、これはイスラエルにとっては死活に関わる問題で、イスラエルが戦争を開始する口実となった。
1967年6月5日、イスラエルの奇襲によって第3次中東戦争が開始された。エジプト、シリア、ヨルダン、イラクの空軍は壊滅状態になり、戦争はイスラエルの圧倒的勝利で終わり、6月10日に停戦が成立した。6日間で戦争が終わったので「6日間戦争」とも呼ばれている。イスラエル側戦死者が679人、対してアラブ側戦死者は3万人余りだった。イスラエルは、エルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸とガザ地区と、シリア領ゴラン高原とエジプト領シナイ半島も支配下に置くことになり、現在でもヨルダン川西岸とゴラン高原の占領は継続している。
1973年の第4次中東戦争でアンワル・サダト政権のエジプトがイスラエルに緒戦で勝利すると、エジプトはイスラエルと和平に向かい、1979年にキャンプ・デービッド合意でイスラエルとの「平和状態」を実現させた。エジプトが反イスラエル陣営から離脱すると、イスラエルのメナヘム・ベギン政権は、1980年7月に東西エルサレムを首都とする基本法を成立させ、1981年6月にイラクの原子炉を破壊、1981年12月にはシリア領ゴラン高原を併合する法案を成立させるなど強硬な政策をとり、さらに1982年6月にレバノンを侵攻し、ヤーセル・アラファトのPLO(パレスチナ解放機構)をレバノンから駆逐した。レバノン戦争以降、パレスチナはイスラエルの軍事力に優越することができないと判断し、イスラエルとの共存を探っていく。
1991年10月、アメリカの先代ブッシュ政権はマドリードで中東和平会議を開催し、パレスチナ問題の解決を目指した。ノルウェーの仲介で1993年9月、「暫定自治に関する原則宣言」が成立して、イスラエルとPLOがはじめて相互承認に踏み切った。「原則宣言」には①占領地にあるユダヤ人入植地の扱い、②エルサレムの最終的地位、③パレスチナ独立国家の問題、④難民の帰還など、成立当初から多くの問題が存在していた。
1996年2月と3月に原則宣言に反対するイスラム組織「ハマス」の自爆攻撃が発生し、イスラエル人62人が犠牲になると、同年7月にパレスチナに対して強硬なベンヤミン・ネタニヤフが首相に選出された。
地中海地域のイスラムとユダヤの共存
イスラム共同体の下では各宗教や民族コミュニティーは共存するシステムをもっていた。それは三大一神教の聖地であるエルサレムも例外ではなかった。イスラム拡張期の638年に、ムスリムがエルサレムを占領したムスリム支配のもとでも、教会やキリスト教徒は迫害を受けることはなかった。由緒ある教会や遺跡は、巡礼者たちの訪問の対象となる。キリスト教支配のもとでは信仰が禁止されていたユダヤ教徒たちもエルサレムヘの帰還を許され、かつてソロモン王やダビデ王が支配した町で礼拝を行った。この3つの宗教の共存による平和な生活がキリスト教の十字軍遠征まで継続した。
1095年、教皇ウルバヌス2世はクレルモンの宗教会議で十字軍を呼びかけ、1099年に十字軍はエルサレムを占領する。十字軍はユダヤ人やムスリムを虐殺して、エルサレムから追放した。イスラム世界の英雄サラディンは1187年に十字軍を撃退し、エルサレムを奪還して解放した。サラディンの行動は、イスラム世界を守るという「ジハード」に貢献するものであった。彼は敬虔なムスリムとしても知られ、モスクやマドラサの建設などイスラムの宗教施設の普及に努めた。
地中海中央に位置するシチリア島は831年から‥‥‥一世紀末までイスラムが支配した。
ムスリムは農業と商業をシチリア島にもたらし、イスラム文化は安寧のシンボルともなった。農業ではレモンやオレンジといった柑橘類の栽培が盛んとなり、イスラム支配は小規模農家を多数つくったことによって生産性を高めることになった。イスラム文化は古来からのキリスト教文化、ユダヤ教文化を融合してさらなる発展を遂げた。
ムスリムは、キリスト教会をモスクに換え、シチリアの首都パレルモは当時スペインのコルドバと比肩するほどの大都市に成長した。ムスリム学者は西欧では忘れられていたギリシャ古典の翻訳に尽力し、発展させることになった。パレルモには美しい水路や庭園をもつ巨大な建築物がつくられるようになった。
エジプトのアレクサンドリアはその名の通り、紀元前332年にアレキサンダー大王が築き、地中海を見渡す海軍基地としてエジプト支配の拠点にした。紀元前323年に大王が亡くなると、プトレマイオス朝(紀元前304~30年)の統治が始まり、紀元前300年頃にアレクサンドリア図書館が設立され、世界中・から文学、地理学、数学、天文学、医学などの文献が蒐集され、ヘレニズム文化の発展に寄与した。プトレマイオスー世がつくった研究所である「ムセイオン(museumの語源)」では、ギリシャの数学者のユークリッド、アルキメデス、哲学者のプロティノスが学んだ。
アレクサンドリアはユダヤ人の植民先ともなり、旧約聖書がヘブライ語からギリシャ語に訳され、『セプトゥアギンタ(七十人訳聖書)』となった。ローマ統治となっても、優れた聖書学者が現れ、オリゲネス(185年頃~254年頃)のようにギリシャ哲学を援用してキリスト教神学を解釈する人物がいた。
7世紀にイスラム支配となってもアレクサンドリアの重要性は低下することがなかった。地中海に臨む東西貿易の要衝として、ムスリム、キリスト教徒、ユダヤ教徒をつなぐネットワークとして機能した。アレクサンドリアにはピサ、ジェノア、マルセイユ、バルセロナ、またレヴァントの船が停泊して貿易を行った。またアレクサンドリアは、キリスト教徒がエルサレムやエジプトにあるキリスト教の聖地に、ムスリムがメッカ、メディナというイスラムの聖地に、それぞれ巡礼する際の重要なルートに位置していた。
イペリア半島もまたイスラムとユダヤの共存が顕著に見られた社会であった。スベイン語の「La Convivencia(共存)」という言葉はイスラムがスペインを統治していたときの、イスラム・ユダヤ教・キリスト教が共存した社会を表し、作家の堀田善衛氏によってもさまざまな機会で紹介された。モロッコにユダヤ人が最初に到達したのは紀元前2世紀で、大規模な移住は7世紀に始まった。モロッコのイスラム化はイドリース朝(789~985年)のイドリース1世によって進められた。その息子のイドリース2世は、都のフェズに大勢住んでいたユダヤ人たちを保護し、自由な経済活動を認めた。
ユダヤ教世界を代表する哲学者、医者、法学者のイブン・マイムーン(1135~1204年)は、フェズでユダヤ法資料を体系化して、ユダヤ法典『ミシュネー』トーラー(第2の卜ーラー)』を著した。また、哲学書『迷える人々のための導き』はラテン語に翻訳されてトマス・アクィナスなどキリスト教思想家に多大な影響を及ぼした。この書は当時のユダヤーイスラム双方の思想を知る上で手がかりとなる貴重な資料である。
モロッコのカサブランカ郊外には現在アラブ世界で唯一の「ユダヤ博物館」があり、イスラムとユダヤの文化がこの国で融合してきたことを表している。2013年に現国王のムハンマド6世はモロッコ国内にあるシナゴーグ(ユダヤ教寺院)の復旧を訴え、モロッコ文明の基礎としての文化的・宗教的対話の場としたいという意向を明らかにした。
アラブとイスラエルの対立をもたらしたヨーロッパの不寛容
18世紀までのユダヤ人に対する迫害の背景にはキリスト教側の宗教的不寛容があった。4世紀のアウグスティヌスから16世紀のマルティン・ルターまでのキリスト教の主要な神学者たちでさえも、ユダヤ人を神への反乱者、またキリストの殺人者と表現してきた。
ユダヤ人が金貸し業に多く従事したのは、カトリック教会がその信徒たちに金を貸して利子をとることが罪だと教えたことが背景にある。その結果、ユダヤ人には「強欲」というイメージが形成された。1492年には、スペインで「改宗したばかりのキリスト教徒に悪影響を及ぼすかもしれない」という危惧から、およそ20万人のユダヤ人がスペイン王とカトリック教会によって追放された。さらに、1493年にシチリア島から3万7000人のユダヤ人が放逐されたが、その多くは、オスマン帝国、オランダ、北アフリカ、南欧、そして中東へと移住していった。
中世後期になるとヨーロッパで商業が盛んになり、ユダヤ人の中には貿易、金融、金貸しで成功を収める者が現れ始めた。しかし、ユダヤ人の経済的成功には、キリスト教徒の妬みと宗教的偏見が結びついて憎悪が増幅された。
19世紀以降、ヨーロッパにおいて1国家は1民族によって構成されるという国民国家の概念が定着するようになると、キリスト教の価値観をもっていないユダヤ人に対して「迫害」から「排斥」の傾向が生まれた。ドイツでは国家統一の過程で国粋主義を鼓舞するために政府がユダヤ人に対する偏見を煽り、ロシアではユダヤ人居住区を攻撃する「ポグロム」が多発するようになった。ロシアはさらに、1795年のポーランド分割以降に移住してきたユダヤ人に対して、ロシア西部に「囲い込み」を行い、彼らの移動や社会同化を制限する措置をとった。フランスで起こったドレフュス事件は、ユダヤ人差別の典型例である。1894年、陸軍将校のユダヤ人アルフレッド・ドレフュスは、ドイツに情報を流したスパイとして反逆罪の濡れ衣を着せられた。その背景にはユダヤ人に対する根深い差別や偏見があった。
ユダヤ人排斥の潮流がヨーロッパで強まるにつれて、ユダヤ人の側でも民族主義が発生し、国家を樹立しようという思想活動であるシオニズムが台頭していった。シオニズムの指導者であるハンガリー・ブダベスト生まれのジャーナリスト、テオドール・ヘルツルは小冊子『ユダヤ人国家』(1896年)の中で心の内を語っている。
我々はいたる所で我々が住んでいる民族社会に溶け込もうと誠実に努めてきた。
求めたものは父祖の信仰の保持だけだった。しかし、それは許されないのである。
忠実な愛国者であり、時には過度に忠実だけれど、結局何の役にも立たない。
第1次世界大戦中、イギリスは「フセイン・マクマホン書簡」(1915年7月~1916年3月)で敵国オスマン帝国のアラブ人に反乱を起こさせ、アラビア半島と東アラブに独立アラブ王国を建国する約束を行う。さらに、イギリスはフランスとの間で「サイクス=ピコ協定」(1916年)を結び、オスマン帝国の束アラブ地域を戦後英仏で分割、パレスチナ中央部は国際管理下に置く約束を行った。その上これらの約束と矛盾するかのように、「バルフォア宣言」(1917年H月)でパレスチナにユダヤ人の民族郷土を建設することへの支持を表明した。第1次世界大戦でオスマン帝国に勝利したイギリスはエルサレムを中心とするパレスチナ中央部を国際連盟の委任統治下に置いた。1922年に委任統治規約が調印され、イギリスの委任統治が国際連盟で追認された。統治規約前文ではバルフォア宣言が引用され、シオニズム運動を支持する内容であった。
1930年代にドイツでナチズムが勃興してユダヤ人の排斥が進むと、ユダヤ人は故国建設を至上とする声を強めていく。1936年、ユダヤ人のパレスチナヘの移住に対して不安を覚えたアラブ人は暴動を起こした(アラブの大蜂起)。イギリスはビール調査団を派遣し、民族対立の解決手段としてパレスチナをアラブ人国家、ユダヤ人国家に分割することを提案し、さらに1939年2月のセント・ジェームズ会議でユダヤ人の土地購入を制限し、ユダヤ人のパレスチナヘの移住はアラブ人の承認がない限りは認めないという結論を出すと、パレスチナではこれに反発するユダヤ人武装集団によるイギリスヘのテロ、ユダヤ人の密入国への支援活動が加速していった。イギリスは結局事態を収拾することができず、1939年9月の第2次世界大戦の勃発によって、パレスチナ問題は棚上げ状態となった。
解のないパレスチナ問題--戦争から共存、また衝突へ
第2次世界大戦後の1947年11月に成立した国連総会決議181号は、パレスチナをユダヤ人国家、アラブ人国家に分割し、エルサレムを国連の信託統治下に置くというものだったが、アラブ側はこれに強く反対した。アラブ側から見れば、ホロコーストなどのユダヤ人迫害という「罪」をなぜアラブの犠牲の上に蹟わなければならないのかという想いが強くあった。また、ユダヤ人人口はアラブ人に比べはるかに少なかったにもかかわらず、決議はパレスチナ全域の55%をユダヤ人国家に与えるとしていた。
パレスチナに対するイギリスの委任統治が1948年5月14日に終了すると、イスラエルが国家独立宣言をして、イスラエルとアラブ諸国の戦争が勃発(=第1次中東戦争)。アラブ諸国軍を構成したのは、シリア、レバノン、トランスヨルダン(1949年、ヨルダンに改称)、イラク、エジプトだったが、士気が低く統制されなかった。イスラエル軍は、武器・装備がアラブ諸国よりも優れ、次第にアラブ諸国軍を圧倒していった。1949年の1月から7月にかけて成立した休戦協定では、パレスチナ全域の約75%がイスラエルの支配下に置かれた。イスラエルの占領した地域は国際的にも国家と認知され、エルサレムは国際管理下に置かれず、東西に分割され、それぞれヨルダンとイスラエルが支配し、ガザはエジプトの軍事占領下に置かれた。ガザの住民たちは無国籍となった。
第1次中東戦争は、100万人近くのパレスチナ・アラブ人を故郷から追いやることになった。開戦当初、パレスチナには132万人のアラブ人と64万人のユダヤ人が居住していたが、イスラエル国家の成立によってアラブ系住民の70%がパレスチナの地から放逐された。
戦争に敗れたエジプトでは、下層階級出身の将校たちがクーデターを起こし、1952年7月にムハンマド・アリー朝の王政は倒れた。ガマール・ナセルを中心とする将校団は、イギリス支配の終焉によってこそエジプトに自由が到来すると考え、1956年7月にスエズ運河国有化宣言を行った。スエズを生命線と考えていたイギリス、フランスは、エジプトからのゲリラ攻撃に悩まされていたイスラエルを誘ってエジプトに対して戦争をしかけた(スエズ動乱、第2次中東戦争)。冷戦時代にあって、戦争はソ連の介入を招くと判断したアメリカはイギリスに対するIMF融資の停止をほのめかし、3国の撤退を迫った。イギリス、フランス、イスラエルは軍を引き揚げたが、ナセルとエジプトは大きな名声を得て、アルジェリアからイラクに至るアラブ諸国の政治的中心となってアルジェリア独立(1962年)、イラク革命(1958年)にも影響を与えた。
アラブ・ナショナリズムの潮流に影響されて、ヤーセル・アラファトを指導者としてパレスチナ解放を目的とする武装組織「ファタハ」は、アラブ諸国を巻き込んでイスラエルとの戦争を起こすことを考えた。ファタハは、1960年代中ごろからヨルダンなどを拠点にイスラエルヘゲリラ攻撃を行い、イスラエルと激しく報復合戦を繰り返した。1966年末から1967年はじめにかけてイスラエルとアラブ諸国が緊張する中、ナセルはアカバ湾と紅海の境界にあるチラン海峡を封鎖する宣言を行った。チラン海峡が封鎖されれば、イスラエルはインド洋に入る海路が断たれてしまう、これはイスラエルにとっては死活に関わる問題で、イスラエルが戦争を開始する口実となった。
1967年6月5日、イスラエルの奇襲によって第3次中東戦争が開始された。エジプト、シリア、ヨルダン、イラクの空軍は壊滅状態になり、戦争はイスラエルの圧倒的勝利で終わり、6月10日に停戦が成立した。6日間で戦争が終わったので「6日間戦争」とも呼ばれている。イスラエル側戦死者が679人、対してアラブ側戦死者は3万人余りだった。イスラエルは、エルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸とガザ地区と、シリア領ゴラン高原とエジプト領シナイ半島も支配下に置くことになり、現在でもヨルダン川西岸とゴラン高原の占領は継続している。
1973年の第4次中東戦争でアンワル・サダト政権のエジプトがイスラエルに緒戦で勝利すると、エジプトはイスラエルと和平に向かい、1979年にキャンプ・デービッド合意でイスラエルとの「平和状態」を実現させた。エジプトが反イスラエル陣営から離脱すると、イスラエルのメナヘム・ベギン政権は、1980年7月に東西エルサレムを首都とする基本法を成立させ、1981年6月にイラクの原子炉を破壊、1981年12月にはシリア領ゴラン高原を併合する法案を成立させるなど強硬な政策をとり、さらに1982年6月にレバノンを侵攻し、ヤーセル・アラファトのPLO(パレスチナ解放機構)をレバノンから駆逐した。レバノン戦争以降、パレスチナはイスラエルの軍事力に優越することができないと判断し、イスラエルとの共存を探っていく。
1991年10月、アメリカの先代ブッシュ政権はマドリードで中東和平会議を開催し、パレスチナ問題の解決を目指した。ノルウェーの仲介で1993年9月、「暫定自治に関する原則宣言」が成立して、イスラエルとPLOがはじめて相互承認に踏み切った。「原則宣言」には①占領地にあるユダヤ人入植地の扱い、②エルサレムの最終的地位、③パレスチナ独立国家の問題、④難民の帰還など、成立当初から多くの問題が存在していた。
1996年2月と3月に原則宣言に反対するイスラム組織「ハマス」の自爆攻撃が発生し、イスラエル人62人が犠牲になると、同年7月にパレスチナに対して強硬なベンヤミン・ネタニヤフが首相に選出された。
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