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平和を望む心に付け入る

平和を望む心に付け入る

 北は「平和を望む心」に入り込んだ。相手が平和を望んでない時は危機に陥る。それは相手も平和を望んでいると勝手に思い込むから。同じ事がチェンバレンとナチの間で起こった。80年を隔てて今起ころとしている。

 ナチは戦車と飛行機の開発をソ連で行った。英仏の監視が及ばないところで。ヨーロッパから弾かれたもの同士が政治形態を超えてつながった。
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小野市流オンリーワン

『20xx年地方都市はどう生きるか』より

「衝撃の未来」に向けた高齢者対策の視点

 地方都市の将来を考えるとき、少工局齢化は避けては通れない問題だ。全国で毎年、20万人以上の人口が減少し、高齢化率も上がり続ける。日本創成会議・人口減少問題検討分科会は、「2040年には人口の急激な減少で全国の自治体のおよそ半数にあたる896自治体が消滅の可能性に直面する」と衝撃の予想をしている。そのうち、523自治体は、人口1万人を割り込み、消滅の可能性が高い。

 とりわけ地方都市では、現状でも、急激な人口減少、超高齢化によって、経済の低迷、収入の減少、雇用の減少、社会保障不安、地域コミュニティの崩壊など深刻な問題を引き起こしている。

 もちろん、日本全体の総人口も急激に減少する。現在の合計特殊出生率1・35で推移すると、日本全体でみても、総人口は2010年の1億2800万人から、2040年に1億720万人、2060年に8670万人と減り続け、2110年には4280万人になると推計されている。驚くべき数字だ。

 将来の人口動向を見ると、人口減は3つの段階を経て進行すると見られている。

 第1段階(~2040年)では、老年人口は増加し、生産・年少人口が減少する。超高齢化だ。

 第2段階(2040~2060年)では、老年人口は横ばいから微減に転じ、生産・年少人口は引き続き減少する。

 第3段階(2060年以降)は、老年人口は本格的に減少し、引き続き生産・年少人口は減少する。

 現状で進行している地方都市の人口減の要因は、出生率の低下による「自然減」(出生者と死亡者の差)よりも、「社会減」(流入人口と流出人口の差)の影響を受けている。若者が働き口の有無も含めて、地域に魅力を感じず、大都市圏へ流出することによる。

 それを考えると、地方都市が衝撃の未来に向けて、どれだけ魅力ある(若者がとどまる)環境を備えられるかが、地方都市の将来の存廃の鍵を握っているのは間違いない。

 小野市を見ても、5万人台を維持してきた人口が、2014(平成26)年には4万9903人と14年ぶりに5万人を切り、以後少しずつながら減り続けている。世帯数は一貫して増えているにもかかわらずだ。少子化である。

 市のシミュレーションによれば、2060年には市の人口臆3万5000人、高齢化率は36・7%に達すると想定している。

 蓬莱が見通しているように、「生き残りではなく勝ち残り」をかけた都市間競争がすでに始まっている。

 もちろん都市間競争に勝ち残るためにも、企業誘致による雇用の創出は重要だが、人口減少、超少子高齢化の進展を前提とした「社会の作り替え」こそがキーワードだと小野市は考えている。住みよいまちをどう作るかだ。

 小野市の高齢者への対応もここから導かれるユニークな「オンリーワン」の発想に立っている。

 社会の高齢化をマイナスイメージだけでとらえず、高齢化はすなわち長寿化ととらえれば、少しでも元気で長く生きてもらう、活躍してもらうことが、行政の発想にあるべきだと市では考える。介護なく健康で暮らせる「健康寿命」に注目することに繋がる。

第二の成人式と地域コミュニティ再生

 市では、この観点から、2001(平成13)年から毎年、65歳を迎えた市民を対象に第二の成人式を祝っている。「新たな人生の再出発」「生涯青春」をテーマに、「エイジ・ルネサンス・パーティ」と名づけて、趣旨に賛同する上方落語協会会長の桂文枝氏がトークコーディネーターを務める。第二の成人式を通じて交流の輪が広がり、その輪が地域に根づくことも一つの狙いだ。

 働くことをやめても、さまざまな経験を積んだ高齢者は、地区で光輝く「光齢者」として、次世代に様々なことを伝えられるはずだ。その世代間の交流の拠点として自治会の役割の強化を目指す。市内6地区に「地域づくり協議会」を組織し、それぞれの地域活動に用途を制限しない助成金を交付している。助成額は、次第に増えて現在はI地区300万円と高額だ。

 使途は制限しないし、行政も関与しない。地域の知恵で域内のコミュニケーション、交流を活性化させるイベントを工夫している。駅や通学路の花いっぱい運動に取り組む地域もあり、大運動会やマラソン大会での豚汁のふるまいなど多彩だ。当初各地区のイベントの参加者は2万4000人にとどまったが、現在では10万人を超えた。高齢者も巻き込んで重要な交流の場となっている。

 地域の活性化の拠点となるのが自治会だ。ともすれば、利用されず眠ってしまいがちな自治会館に子どもや高齢者が集まりやすくするために、2011(平成23)年度から、自治会館のバリアフリー化改修や備品の購入を補助する「高齢者等地域コミュニティ活動拠点づくり事業」を開始。また自治会の活動に対して補助する「地域のきずなづくり支援事業」も創設した。

 地域のコミュニティの復活と活性化は、子どもや高齢者の見守りだけでなく、災害時の助け合いにつながるものと期待されている。

地方からの教育改革

 オンリーワンの発想は、小野市独自の教育改革にもつながっている。

 小学校6年、中学校3年で合わせて9年間の義務教育は市町村が運営を担っている。実際には自治体ごとの教育委員会が運営している。9年間の義務教育を市町村に任せながら、なぜ、小学校と中学校の間に垣根があるのか。9年間を同じ学校で一貫した教育方針で、教育できないのか。

 社会問題として噴き出す「いじめ」、「不登校」、「落ちこぼれ」、「荒れる中学校」の問題は、この垣根と関係があるのではないか。戦後当たり前のように続けられてきた6・3制の義務教育の仕組みに、現場を預かる市町村から、改革の動きが出ている。

 文部科学省は、国に先行して、さまざまな試みが行われ始めた自治体の要請に対応を迫られている。

 国は、2015(平成回年6月の通常国会で、9年間の義務教育を一貫して行う新たな仕組みとしての「義務教育学校」の設置を可能とする改正学校教育法を成立させ、2016年4月から施行した。しかし文科省が2016(平成28)年12月に公表した「小中一貫した教育過程の編成・実施に関する手引」では、「小学校と中学校は、児童生徒の発達段階に応じて教育活動が異なるため、指導体制や方法などの様々な違いが学校文化として積み上げられてきた」「単に小学校と中学校を組織として一緒にするだけでは成果を上げることはできない」として、義務教育学校の導入には後ろ向きなままだ。

 小野市内には中学校4校、小学校8校がある。9年制の義務教育学校制度は採用していないが、「中1ギャップ解消」には早くから取り組んできた。「いじめ等防止条例」を制定するなど積極的に教育現場の問題に踏み込んできた蓬莱が、問題の存在を指摘し、9年間で連続性をもったカリキュラム編成と9年間を通して一貫した教育方針が必要だと見抜いたからだ。

 まず取り組んだのは、「おの検定」と名づけた市内の小中学校統一の検定テストだ。統一テストといっても、いわゆる学力による振るい分けのための学力テストではない。基礎学力と基礎体力の着実な向上を目指すもので、平成16年から計算、漢字、体力のテストを行っている。その後、中学では英語の検定も追加された。

 年に3、4回、全校で一斉に検定テストを行い、80点以上を取ると、認定証が渡される。現場の教師自ら作成した市内全校統一のテキストを使用し、採点は教育委員会が一括して行い、結果は教育現場ヘフィードバックされる仕組みだ。成長段階に応じて、生徒・児童が、これだけはクリアしておくべき基礎学力をみるもので、何度でもチャレンジできる。達成感を楽しみながら基礎学力を向上させる仕組みだ。

 計算であれぼ、小学校では学年に応じて3段階のテストが用意され、さらに中学校へとつながっており、検定計算能力が、発達段階に応じて身に付くようになっている。計算の基礎でつまずき、その先の勉強を放棄して不登校に陥るのを防ぐ狙いもある。希望すれば保護者も参加することができ、家庭での学習で、子どもたちがどこでつまずいているのか、を親も確認できる。小学校、中学校、家庭がリンクして学習過程を見守ることになる。

 「おの検定」は、学力低下に対する先進的な取り組みとして注目されており、全国の教育関係者から視察、問い合わせが相次いでいる。

 脳科学理論の第一人者で東北大学の川島隆太教授は「読み・書き・計算を反復することで脳が活性化する」と、この検定制度を評価する。市は2005(平成17)年から川島教授を教育行政顧問に迎えて、脳科学理論を取り入れた小野市独自の教育が始まった。

 教育とは人づくりだ。その役割を担うのは、学校だけではない。市では「16か年教育」の理念を掲げている。生まれてから中学卒業まで継続して15年。さらに遡って産まれる1年前から義務教育終了までを発達段階に応じてステップアップする人づくりをしようという、ユニークな考え方に基いている。

 川島教授によれば、子どもの脳の容量は、3歳までに大人の脳の90%近くまで発達する。この乳幼児期に言語の習得や基礎的生活習慣を養成することが脳の活性化を図るうえで重要だという。

 このアドバイスを踏まえて、産まれる前から就学前までは、教育委員会の職員が、妊産婦健診、乳幼児定期健診、子育て教室、保育所、幼稚園へ出向いて、発達段階に応じた家庭内での教育方法を説明し、小学校に入学したら、「おの検定」をベースに子どもの発達段階に応じた教育を施す流れだ。

 また、脳が再び成長するのは10歳からで、その時期に、より専門的な教育を行うのが効果的、という脳科学の理論を基礎に、小学5年生から、クラス担任ではなく、専門の教師が教える「教科担任制」を導入した。また一部の学校では、中学校の教師が小学校へ出向いて授業を行う「小中連携教育」も開始した。

 このような一連の取り組みで、基礎学力の向上だけでなく、感情の安定やコミュニケーション能力の向上にもつながり、市では「不登校の生徒が6割近くも減った」と教育効果を強調している。

 その先に、小学校と中学校の垣根をなくして、9年間を通して共通の教育目標を設定して子どもたちの学力、体力、人格形成を目指す試みが始まった。

 2015(平成27)年度には、1つの中学校区で小学6年生の児童が中学校へ通う「小中一貫教育」を試行し、翌年からは市内の4中学校区すべてに拡大した。

 一連の取り組みを通じて、小野市は、文科省のいう、小学校、中学校の間に横たわる歴史的な「学校文化の違い」を乗り越えようとしている。義務教育に対する教職員の意識改革が不可欠だ。そして小中学校の校長、教職員すべてが、義務教育の9年間を通じた目標を共有し、組織として一体的、継続に取り組むことが求められている。

 「学校は教育委員会の所管で自治体行政の外」としてきた長年の慣習によって増殖してきた無責任体制に一石を投じている。いじめなどの学校内の問題が起きるたびに聞かされてきた、「私は知らなかった」という市長の言い訳は許されない。「中1ギャップ」だけでなく、市と教育委員会の間の壁も取り払う。

 小野市が理念として強調してきた「情報の共有一元化と水平展開」がここでも生きる。
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イスラム流 愛が先か? 結婚が先か? これを逃すと後がない

『イスラム流 幸せな生き方』より 家族のきずな

イスラムでは自由恋愛が禁止されているため、男女関係はすべて結婚を前提としたものとなる。日本人男性なら「あの子と付き合いたいな」という目で女性を見るが、向こうでは「結婚相手にどうか」で見る。そのぶん、男性が「この人」と思えば結婚までは早い。

私のモロッコの友人は、壊れたハードディスクをコンピューターショップに持って行き、そこで働く今の夫と知り合った。彼は彼女を一目見て「奥さんにしたい」と思ったそうだ。そこでさっそく質問を開始した。「名前は何か?」「父親は何をしているか?」「年は?」……。彼女はそんな彼の胸の内には気付かず、聞かれるままに答えていた。後日品物を受け取りに行った時、プロポーズされた。彼女も即OKしたという。プロポーズされた瞬間、恋に落ちてしまったとか。翌週には彼は彼女の家に求婚のあいさつに行っている。

男女隔離社会では男女が知り合うチャンスが少ないから結婚が遅れがちなのでは? と思われそうだが、実は逆だ。周りに異性が少ないぶん、たまに縁ができると「これを逃すと次がない」「この相手をなんとしてでもつかまえなければ」と焦りの心理が生まれる。こうして少ないチャンスをものにし、スムーズに結婚へと進む。

次々に異性が現れるような状況では、「他にもっと良い人がいるかも」とついつい思ってしまい、「気づいたらずっと独身だった」となりがちだ。

また異性に免疫がないから、縁があった異性にすぐときめいてしまう。1回会っただけで恋に発展するケースも多い。互いに紹介された場で、相手の女性がポッと顔を赤らめてうつむいたりすると、それだけで男性の方はグッときてしまったりする。

もちろん親が勧める相手と結婚したものの、合わなくて離婚ということもある。

パキスタンなどでは、結婚まで会ったことがないというケースが今もある。私がカラチで会った20代の女性は、14歳の時に両親が決めた相手と結婚した。結婚後に、夫根強い処女願望が麻薬と酒をやることを知った。やがて暴力も始まった。暴力がこうじて石油をかけられたこともある。今は2人の子供を連れて別居中だ。裁判で離婚が確定した場合、夫が子供を引き取る可能性があるため、離婚はしないという。

しかしそもそもイスラムでは、結婚前に女性の意思を確かめなければならないことになっている。嫌がる相手と無理やり結婚させられるわけではない。

 『預言者が「既婚の女はその意向を尋ね七からでなければ嫁がぜてはならず、また処女もその同意を得てからでなければ嫁がせてはならなごと言ったとき、信者達が「その同意はどのように示されるのですか」と尋ねると、彼は『沈黙することによってだごと答えた』(アル=ブハーリーのハディース)

根強い処女願望

 結婚前の男女交際は原則禁止だが、イスラム圏の大学は共学だから、実際にはけっこう行われている。

 出会いで積極的なのは、たいてい女性の方だ。友人を介して携帯電話の番号を聞くというのが、よくあるパターンだという。大学では女性の方が多い。学歴ある女性は、結婚相手に自分と同じかそれ以上の男性を望むもの。それには在学中に相手を見つけなければ、というわけだ。それにどこも就職難だから、高学歴女性でも職が約束されているわけではない。となると、永久就職に道を見出す女性もいる。

 ただし付き合っても、誰もが一線を越えるわけではない。お互い好意をもったら両親に紹介し、見合いの形に持っていく。

 でも中には一線を越えてしまう男女も。その後2人は結婚するのか? 多くの場合しないそうだ。

 男性たちはこう考えるからだ。

  「自分と(結婚もしていないのに)こういうことをするなら、他の男ともきっとやるだろう」

  「彼女とは遊び。結婚は、ちゃんと親が決めた相手とするんだ」

 自分は遊んでいても、「結婚相手は処女」にこだわる男性は多い。「前の男の方がうまかったんじゃないか、比べられるんじゃないか」という気持ちもあるという。女性と簡単に付き合えないぶん、執着心が強くなるのかもしれない。

 そこで結婚相手の処女性をチェックすることにもなる。イランの友人男性に聞いた話では、首都テヘランで80%、地方都市タブリーズでは95%が、「スペシャルドクター」に相手の女性を連れて行くという。友人の場合は相手が処女か気にしなかったが、姉と母親が望んでドクターに連れて行ったそうだ。

「処女」と「童貞」で困らない?

 「処女かどうかより、相性の方が大事なんじゃないの?」

 「自由にお付き合いできないって、つまらなくないの?」

 私たちなら、当然そう思う。これに対するムスリム女性の言い分はこうだ。

  「大好きな男性に『俺のガールフレンドだ』って言われるより、『フィアンセだ』って言われる方が嬉しくない?」

 「女性は宝石よ。ここでは男は結婚しないと、女性の手すら握れないの。それをタダでやらせるの? ずいぶんお安いのね。娼婦だってお金をもらうのに」

 ともあれ、男女で「目指す方向」に違いがないのは良いことだ。日本の場合、女性が「この人と最短で結婚する方法は?」と内心思っていても、男は「いかに後腐れなく付き合うか?」を考えていたりする。そういうミスマッチがないぶん「時間のロスがない」ともいえる。

 処女と童貞同士で結婚して、相性が合わなくて離婚ということはないのか?

 これについては、結婚前も後も許された相手は夫婦だけ。相性など「贅沢な」ことは言っていられないのが現実だ。また相性うんぬんは比較対象があっての話。他との経験がなければ比べようがない。へたに経験があると前の相手と比べてしまい、「やっぱりあっちが良かったかも」などとなりがちだ。

 初めてのベッドインが結婚前にしろ後にしろ、女性にとって期待感が高まるのは日本と同じだ。

 女性たちは結婚式の何日も前からハマム(公衆浴場) へ通い、顔のマッサージと念入りな脱毛を行う。すべすべした肌が男性の快楽を増すと思われているからだ。

 脱毛にはヘルワというものが使われる。レモンを5、6個絞り、砂糖を1キロ混ぜて熱湯で煮詰めて練った、アメ状のもの。これを肌にベタッとつけてはがすと、一緒に毛が取れる。

 「豊満な体が夫に性の喜びを与える」と信じられているので、鶏肉など栄養があるものも積極的に食べる。むしろ日本より気合いが入っている。

 デートもろくにしないで結婚し、ラブラブで暮らしている夫婦は多い。

 イランの地方都市に滞在していた時のこと。市内の公園に行く途中、道に迷ってしまった。たまたま通りかかった男性に道を聞いたら、案内してくれることになった。道すがら、彼はしきりに言う。「おれんちに来て夕ごはん一緒に食べようよ。おれの奥さんの手料理、最高なんだ」。最初は断ったが、しつこく何度も誘ってくるので、しかたなくという感じで家に呼ばれた。

 いただいたのは、「サラダ・シーラージ(キュウリやトマトのサラダ)」「チキンのトマト煮込み」などの定番料理。それはともかく、夕食が出てきたのは夜の12時近くで、とにかく眠くて、味はよく覚えていない。「手前味噌」という言葉があるが、愛妻の手料理なら、なんでも美味しく思えてしまうものらしい。

 エジプトでは、町中に女性下着ショップがたくさんある。ショーウィンドーにはピンクのネグリジェやヒョウ柄のパンティなど、かなりキワドイ下着が堂々と陳列されている。その前で仲良く手をつなぎ、熱心に見入っている中年夫婦。よくある光景だ。

 セクシー下着は夫婦の夜を盛り上げる必須アイテム。夫婦の性を奨励するイスラムでは、セクシー下着は何らやましいものではない。
  「ねえ、あなた、あの赤いパンティ買ってよ」

  「それより、あの黒のガーターベルトどうだ? そそられるなあ」

 ……そんな会話が聞こえてくるようだ。

 日本や欧米の結婚は最初に愛があり、イスラムの結婚は結婚後に愛がある。順番が違うだけ。そして夫婦以外の異性と交われないからこそ、性の興味が夫婦だけに向けられ、密接な夫婦関係につながると言える。
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中国レジスタンス史の生き証人

『八九六四』より 張宝成

中国レジスタンス史の生き証人

 「取り調べ中に殴られるこたあなかったが、罵倒は散々にやられたね。連中は何日もこっちに眠らせやしねえで、同じ尋問を何遍も繰り返しやがんだ。看守所(拘置所)へ移された後はさ、素っ裸に剥かれてチンコの皮のなかまで調べられた。たとえ話じやねえ、本当のことさ」

 警察沙汰には慣れている、大したこたあねえ--。

 彼はそう話すが、常識的に考えて耐え難い仕打ちだ。

 中国において、犯罪を起こしたり当局の機嫌を損ねた(と表現せざるを得ない)りした人物は、公安に身柄を拘束されて看守所に入れられる。期間はまず、最長三七日間。その期間中に罪状が固まれば、改めて逮捕されて検察へ送られるなどして、獄中にいる期間がさらに延びていく仕組みだ。

 この人物--張宝成は二○一四年四月、北京市海淀区裁判所において「群衆擾乱公共場所秩序罪」(公共の場所で人を集めて秩序を擾乱した罪)なる罪名で懲役二年の判決を受けた。中国の裁判は二審制であり、六月に控訴の内容が退けられて「罪」が確定した。刑事拘束期間中にハンスト抗議をおこなって不当な拘束に抗議し、その後もことあるごとに突き付けられた罪状認定書類へのサインを拒否するなどして抵抗したものの、実刑は避けられなかったという。その後に刑務所へ送られてからも、休憩なしで長時間の正座を強いられたり家族からの差し入れを阻止されたりと、ずいぶん苦労したらしい。

 彼が獄中生活を終え、やっと釈放されたのは翌年三月三〇日だ。

 私はそんな張から、北京市内の某所で話を聞いていた。取材当時は五五歳。釈放直後であるため、住所はあれども職業はなし。角刈りで武骨な風貌の壮年男性だが、愛想がよい人であり、私にしきりにお茶とタバコを勧めてくれた。

 「監獄にぶち込まれりゃあ、胆も据わろうってもんよ。俺は一生、戦い続けるだけさ」

 張は相声(中国漫才)のラジオ放送を思わせるべらんめえ調の北京弁で、弾丸のように話し続けた。

 張宝成が捕まった理由は、習近平政権の成立直後の二〇一三年三月三一日に、北京市内の繁華街・西単で、党官僚の財産公開を求める横断幕を掲げる活動をおこなったことだ。これは新公民運動という体制改革運動の一環としてなされたもので、彼はその主導団体「公盟」(公民)のメンバーだった。

 新公民運動は、人権派の法学者・許志永らが提唱した社会運動だ。中国共産党の統治をひとまず容認したうえで穏健な体制改革を考えていたとされる。中国では民間で自由に集会を開くことが難しいため、毎月末の土曜日に賛同者が集まる「食事会」を全国各地で開催し、社会問題を議論する活動をおこなっていた。組織の一般メンバーにすぎない張自身が知っていたかはさておき、運動に対しては政権内の改革派や中国版の「赤い貴族」の開明派勢力らの強い後押しもあった模様だ。

 胡錦濤政権の末期だった二〇一〇年前後は、党の統治がゆるんで腐敗が横行したいっぽうで、社会に自由な雰囲気が生まれていた。ネット上では現在と比較にならないほど活発な体制批判がおこなわれ、都市住民を中心に社会問題に関心を持つ人も増えはじめていた。結果、新公民運動の食事会参加者は最盛期で一〇万人近くに達した。

 運動が勢いを得たことで、公盟のメンバーたちは官僚腐敗の撲滅を訴えて街頭に出はじめた。だが、改革派の影響下にある社会運動は、保守的な習近平の権力が固まると目の敵にされた。張はこのデモで特に目立った活動をしていたことで、仲間とともに拘束されたのである。

 当初、張たちは反体制的なネットユーザーから「西単の君子」として讃えられた。だが、やがて公盟が「反党集団」に認定され、代表者を含む組織のメンバーやシンパらが大量に拘束されたことで、張たちの逮捕は相対的に印象がかすんだ。新公民運動も弾圧を通じて立ち消えた(公盟の壊滅間際に北京を脱出して、最終的にタイに亡命した顔伯鈎という活動家がいる。私はひょんなことから、彼のスリリングな逃亡記を編訳して『「暗黒」中国からの脱出』(文春新書、二〇一六年)として刊行しているので、興味がある方はあわせてご覧いただきたい)。

 そんな事情であるため、出獄直後の張宝成への取材はアポ取りからして難航した。

 彼の携帯電話は盗聴されており、ネットでの連絡もかなりの慎重さが必要だったからだ。

 私は何人かの仲介者を経て自分の年齢や人相風体を先方に伝え、ようやく約束を取り付けた。自分の宿から一時間で移動できる場所に住む相手と会うのに、何千キロも離れた海外在住の人たちまで経由しないと連絡がつかない点からも、張が置かれている立場がわかる気がした。

 先方が指定した待ち合わせ場所は、北京市郊外の四車線道路の中央分離帯にある路線バス乗り場だった。現場は見通しがよく、尾行に気付きやすいのだろうと思われた。

 「おう、あんたが××の友達かい? よく来たなあ」

 やがてやってきた張は、私が待ち人であることを確かめて破顔一笑した。事前にこちらが日本人だとは伝えていなかったが、大して驚く様子もない。やはり胆が据わっているようだ。

 「六四の思い出を聞きたいって? 願ってもねえ話だが、俺は六四以外にもいろいろ知っているぞ。四五のときだって天安門広場にいたし、西単の民主の壁もこの目で見たんだ」

 なんと張は「六四」の天安門事件だけではなく、文化大革命末期の一九七六年四月五日に発生した「四五天安門事件」(第一次天安門事件)に参加した経験まであった。さらに話を聞くと、彼は一九七〇年代から現代まで、北京で起きたほぼすべての民主化運動や反体制運動に庶民の立場から何らかの関係を持っていた。現代中国のレジスタンス史の生き証人のような人間だ。

 偶然とは恐ろしい。私が張と待ち合わせた日は、ちょうど二〇一五年の四月五日だった。

 --張の出獄からたった六日後の話である。

四五天安門事件の参加者

 「物心がついた頃から共産党が気に食わなかったね。俺の家は階級成分が悪くてさ、文革中は黒五類だってずいぶん批判されたもんよ」

 張宝成は一九五九年、後に北京市地下鉄一号線が通ることになる市内西部の街で生まれた。七歳で文革がはじまり、父は出身階級を理由に激しい批判を受けた。

 もっとも、文革当時に攻撃のターゲットにされた「黒五類」(地主・富農・反革命分子・犯罪者・右派)のうち、張の実家は革命以前に多少の人を雇っていただけの「富農」にすぎない。悪徳地主でも犯罪者でもないのに迫害を受けた理不尽は、幼い彼の心に消えない傷を残すことになった。

 小中学校では文革と毛沢東思想を絶賛する教育を受けたが、反逆児の張はそんなものに好感は持たなかった。やがて彼が一六歳になった中学三年生の春、北京で大きな事件が発生する。

 穏健派の総理・周恩来の死をきっかけに、天安門広場に追悼にやってきた市民が、イデオロギー優先の文革政治に反発する詩文やスローガンを発表しはじめたのだ。これに対して、当時の権力者だった四人組は、デモを反革命事件であるとみなして群衆を暴力的に排除する。通称「四五」、すなわち第一次天安門事件の勃発だった。

 張もまた、群衆の一人としてその場に立っていた。

 「後年の六四は学生が中心だったが、四五は完全に北京市民の運動だったなあ。いろんな階層の人間がいたんだが、文革の影響で学生はいなかった。はじめは周恩来の追悼が目的でさ、周が死んだ一月八日の午後から群衆が集まって献花したんだ。俺も人づてに話を聞いて、この日から毎日行ったもんよ。みんなが持ってきた花輪や詩はどんどん増えていった」

 彼はそう言って、四人組を批判する当時の詩文の何首かをすらすらと暗唱してみせた。

 後に私が調べたところでは、献花の活発化は三月一九日(もしくは三〇日)からだとされる。張の単純な記憶違いかもしれないが、閉鎖的な毛沢東時代の中国の出来事は外部からの検証が難しいため、あるいは資料の記述のほうが間違っている可能性もある。

 ともかく、張少年は連日、天安門広場で花を手向けた。当時の中国は政治闘争が続きすぎたせいで国民が疲弊し、仕事や学校を勝手に休んでも誰にも怒られない。いかにも社会主義国家らしいルーズな雰囲気が世の中を覆っていた。

 知識の体系も教育システムも徹底的に破壊された文革末期の庶民は、自由や民主主義といった難しいことは何も考えていなかったようだ。広場に集まった群衆の頭のなかには、現状へのモヤモヤした不満と、政治に対する失望、四人組への嫌悪感だけがあった。

 「四月五日に工人民兵が棒でぷん殴って市民を排除したが、誰も死ななかったはずだ。少なくとも俺はその場で見ちゃいねえ。ずいぶんしょっ引かれたようだがな。花輪は全部、トラックが持っていっちまった」

 後の記録によると、数十万人の群衆に対して、四人組の指示を受けた二万人の民兵と数千人の軍人・公安らが鎮圧に動員された。だが、ケガ人こそ多かったものの死者は出なかったとされる。一三年後に同じ街で起こる惨事と比べれば、やや牧歌的な匂いすら漂う鎮圧劇だった。

 もっとも、この四五天安門事件には、将来の六四天安門事件の雛型となる要素が揃っていた。

 老いた独裁者(毛沢東・鄧小平)の統治のゆるみのもとで民衆が政治に異議を唱えた点、独裁者の歯止め役になっていた大衆的人気のある政治家(周恩来・胡耀邦)への追悼行為がデモに発展した点、天安門広場が舞台になり最終的に強制排除によって終わった点……と、類似点はかなり多い。

 この四五事件はひとまず「反革命事件」として鎮圧を受けたものの、毛沢東の死後に四人組が失脚したことで、一九七八年一二月に「偉大な群衆運動」として評価を修正された。

 同年の秋から北京の西単にある通称「民主の壁」に、毛沢東への批判や体制の民主改革を訴える壁新聞が大量に張り出される事件・北京の春が起きたが、このことも党の決定に影響を与えたとされる(ちなみに張宝成は壁新聞の起草こそやらなかったが、やはり現場でこれを読んでいたという)。

 四五天安門事件の評価が逆転した歴史は、民主化シンパの中国人たちが現在もなお六四天安門事件の「平反」(再評価)を期待する大きな理由にもなっている。

天安門は熱気にだけは満ちていた

 毛沢東が死に、高校と専門学校を卒業した張宝成は小さな家具会社を開いた。

 六四のほうの天安門事件が起きたのは会社を作って三年後、三〇歳のころである。中国ではそれ以前の一九八六~八七年にも学生運動があり、知識人を中心に政治や経済の改革を要求する気運が出ていた。

 「四五とは違って、デモをやったのは学生だった。俺はもう社会人だったから、水や果物を差し入れして応援する立場だったよ。当時の市民はそういうやつが多くいた」

 一九八九年四月一五日、改革派の指導者だった胡耀邦が死去した。翌日から学生の追悼活動がはじまり、やがて大規模なデモになった。張は四月下旬までに、毎日現場に行って声援を送るようになった。

 「リーダーの王丹やウアルカイシもこの目で見たよ。二言三言だが、言葉を交わしたこともある。感想かい? あの当時の大学生は知識人のタマゴだってんで、言うなりや将来の博士様か大臣様よ。俺たち庶民にとっちや尊敬の対象だった。熱い心を持った彫え若煮が大勢いる、こいつらはホンモノの英雄なんだ--。って思いしかなかったな」

 デモは自然発生的に広がった。当初、共産党当局はこの運動にいかなる態度を示すべきかを決めかねており、党総書記の趙紫陽や全人代常務委員長の万里など、デモに同情的な心情を持つ改革派の幹部も多かった。だが、保守派の総理・李鵬を中心とした反発の声もやはり大きく、やがて最高指導者である鄧小平の意向も彼らの側に傾いた。

 時間とともにデモが全国に飛び火するなか、李鵬ら保守派は四月二六日に党機関紙『人民日報』紙上に、学生運動を完全に否定する内容の社説「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」を掲載させる。政治動乱に慣れた北京市民のなかには、潮目の変化を感じ取って慎重になった人もいたようだが、張の熱は冷めなかった。

 「学生と一緒にスローガンを叫んだし、旗を持って応援した。旗に何が書かれていたかは忘れちまったが、スローガンはまだ覚えてるぜ。『李鵬李鵬、混昏無能。再当総理、天理難容』(李鵬よ李鵬よ、物事のわからぬ能無しめ。まだ総理でいるならば、お天道様が許さぬぞ)ってな」

 これは「応援する立場」ではなく、ほぼ参加者だと言うべきだろう。

 天安門広場の周囲は、デモ隊に水やパンを持ち寄る群衆と野次馬で埋め尽くされた。「反官倒」(官僚のブローカー行為反対)を主張する手書きのプラカードや旗が溢れ、報道規制への抗議を示す意味から新聞紙で作った服を着ている大学教員も出現した。労働者も共産党員も、果ては個人的にやってきた軍人や警官までもデモに参加していた。

 当初、現場のスローガンは、李鵬の退陣や腐敗撲滅を訴える比較的単純なものが多く、あくまでも党体制の枠組みのなかで異議を唱えるものだったという。五月半ばまでは「社会が根本的に変わったり、党が倒れたりする雰囲気は感じられなかった」とのことで、後年の私たちのイメージとはやや異なった空気感だったようだ。

 「もっとも、官倒への抗議、腐敗撲滅なんて言っても、実際のところ今に比べりゃあ当時の腐敗なんてかわいいもんだったと思うぜ。デモ学生も市民も、本気で『腐敗』の被害を感じていたやつはほとんどいなかった。俺自身もそうだったさ」

 大部分の人間が、自分の実感がない社会問題の解決を訴えていたのに、熱気だけは満ちているという不思議なデモだった。

 かいつまんで説明するなら、刺激や娯楽の少ない社会で体制の圧迫感から解放される非日常感と、「もう少しましな世の中にしてほしい」といった程度の現状改善欲求、それらに異議を唱えた李鵬たち保守派への反発が、人々が行動する動機になっていたのである。

 だが、五月後半になると風向きが変わってきた。

 民主主義や自由を求める、濃厚な政治性を持つスローガンが増えはじめたのだ。後世の記録では、学生組織が分裂して主張の一貫性がなくなり、地方から上京した学生が広場に多数流入して「統制が取れなくなった」と評された時期である。一方で当局は北京市内に戒厳令を敷き、緊張感が高まった。

 「国外の報道を多く聞くようになって、ひょっとして党体制がぶっ倒れるんじやねえかと思いはじめた。だが、一方でデモ側の主張は混乱していたし、新しい参加学生たちには、マナーが少しばかりいただけねえ連中も増えてきた。市民はなにも明確な考えを持っちゃいなかった。

 『こりゃあ成功するわけねえよ』とも思っていたね。気持ちは複雑だった」

 当時の妻(後に離婚)には「こういう運動に参加すれば後で必ず捕まるから行かないで」と止められた。長女が三歳になったばかりで、そのことも張宝成の気力を削いだ。

 だが、それでも今後の展開が気になり、彼は天安門広場に通い続けた。

 一九八九年六月三日-。

 後に現代中国史上の汚点となる武力鎮圧の夜は、彼らのそんな日常の先にやってきた。
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