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他者は死を忘れさせてくれる存在なんだ

問われてないことに応える

 本はなぜ問われてないことに応えようとするのか。それもピント外れの。

 他者がいないのわかってるのに、なぜ私は課題解決しようとするのか。

駅前スタバが混んでいる

 今日のスタバは朝から混んでる。なんかあるのかな? 聞いたら学生が多いとのこと。月曜日ならば、図書館が休みなので混むのは分かるけど。

 世界で一番美しいスターバックスは富山にある。そういうことは早く言って欲しかった。出張で行きたかった。

ふらつく環境

 頭の不安定感が続いています。時々ふらつく。部屋の温度が上がってきた。

他者は死を忘れさせてくれる存在

 他者は死を忘れさせてくれる存在。不安が人間を本来の場所に戻す。不安のもとは自分が死ぬということ。同じように考えてくれている人がいたんだ。

 中学の時のトラウマを「不安」という言葉で表現している。

 本来的生き方は押し付けることはできない。避け続けている「不安」という世界に行ける人は少ないかもしれない。そちらの世界に落ちることだけは避ける自信はある。

 なぜ放り込まれる前の状態に関心がないのか。存在する前の状態。そこが 決め手でしょう。
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ミュンヘン症候群

『最新世界情勢講義50』より

武力行使ではなく、外交交渉こそが最善の道である

 よくある思い込み

  外交交渉は弱腰の隠れ蓑に過ぎない。衝突に至りかねない現実から目を背けるために、苦し紛れの交渉がしばしば行なわれるのだ。しかし、衝突を避けようといくら心を砕いても、紛争は阻止できない。平和で豊かな民主主義国家はもはや戦争を望まず、専制国家と対峙すると腰が引けてしまうからだ。欧米の外交姿勢の特徴は「ミュンヘン症候群」だと言っていい。

 ミュンヘン協定といえば、欧米の人々の記憶に刻まれ続け、外国と交渉する局面で繰り返し言及される歴史的な協定である。1938年9月30日に調印されたこの協定により、ヒトラーは、チェコスロバキア領でありながら人口の大半がドイツ人だったズデーテン地方を取旦戻した。英・仏政府のトップだったチェンバレン首相とダラディエ首相が同盟国チェコスロバキアを見捨てて協定を受け入れたのは、それによって平和が維持できると信じたからだ。ところが、この協定はヒトラーの強欲をさらにかき立てたに過ぎなかった。慧眼なチャーチルは協定への合意を見越して、当時こう断言していた。

  「戦争か屈辱かを選ぶよう強いられて、あなた方は屈辱を選んだ。しかしやがて、戦争をする羽目になるだろう」

 ミュンヘン協定は、当時のフランスとイギリスの世論からは喝采を浴びた。フランスで行なわれた初の世論調査でも、57パーセントのフランス人がこの協定を支持している。

 この歴史的事例から、あらゆる交渉は敗北主義に等しいという極端な結論を導き出す評論家もいる。けれども、他国と交渉したからといって、それが自動的にその国への盲従につながるわけではない。一般に、政府が強硬姿勢をとらなかったり開戦をためらったりすると、「ミュンヘン協定の轍を踏むな」という声がたちまち高まるのは、このことを理解していない証拠である。

 たとえば、1956年にフランスのギーモレ首相は、ミュンヘン協定を引き合いに出して、のちに惨憺たる結果をもたらすスエズヘの軍事介入を正当化した。あるいはフランソワ・ミッテラン(フランス元大統領)やヘルムート・コール(ドイツ元首相)は、ゴルバチョフが堅実なパートナーになり得ると考えて好意的に対応したが、反対勢力はその姿勢を批判して「ミュンヘン気質」と評した。それでも、ゴルバチョフとの対話のおかげで、冷戦は平和的に終結したのだ。

 「ミュンヘン気質」は、2003年のイラク戦争に反対した人々についても言われた。だが、この戦争は地域の安定とテロの減少につながるどころか、まさしく正反対の結果を招くことになった。同様の批判が、2005年以降、イランの核武装を阻止するための空爆への働きかけに反対した人々にも向けられた。ところが、非核化の目的を達成するための合意が2015年7月14日に実現したのは、空爆ではなく、(長きにわたる)交渉のたまものだった。

 ロシアがクリミアを併合したあとも「ミュンヘン気質」が言及され、ロシアに対してより強硬な姿勢をとるべき論拠とされた。だが、休戦が成立したのは(ウクライナ政府と同国内の親ロシア派間で交わされた停戦合意協定である)ミンスク合意と、「ミュンヘンの二の舞を避ける」ためのウクライナヘの武器供与のおかげだった。ただし、このときの武器供与は逆に、対立をヨーロッパ全域へと広げるおそれもはらんでいたことを忘れてはならない。

イスラエル・アラブ間の和平は原理的には可能である

 よくある思い込み

  度重なる仲介や和平合意の試みは実を結ばず、イスラエル・アラブ間の暴力は再燃を繰り返している。アラブ人とイスラエル人は終わりのない戦争状態に陥っており、その主な原因は宗教上の対立だ。両者はあまりに違い過ぎて、平和的に共存することはできない。それにもかかわらず、同じ領十を欲している。

 確かに、1948年のイスラエル建国以来、アラブ人とイスラエル人、あるいはイスラエル人とパレスチナ人は、いかなる包括的和平合意にも達することができず、和平交渉の失敗の責任を互いになすりつけ合ってきた。ュダヤ人とアラブ人の対立が始まったのは第一次世界大戦と第二次世界大戦の問で、その後、1947年には国連がパレスチナ分割案を決議した。それ以来、イスラエル・アラブ紛争は終わりのない闘いという印象を私たちに与え、年月を経ても互いの敵意は薄れるどころか、逆に増している。

 それでも、和平は不可能ではない。まず強調すべきなのは、1492年にスペイン王国から追放されて以来、ユダヤ人がアラブの国々に身を寄せ、少数派であるが故に平等な権利を与えられなかったにしても、少なくとも暴力の犠牲にはなってこなかったということだ。

 さらに、イスラエルと近隣のアラブ諸国の度重なる戦争(1948年、1956年、1967年、1973年、1982年、2006年、それに2008年、2012年、2014年のガザ戦争も加えなくてはぃけない)にもかかわらず、イスラエルはいっぽうではエジプトと、他方ではヨルダンと平和条約を結んでいる。1995年にイスラエルのイツハク・ラビン首相が過激派のユダヤ人に暗殺されなければ、オスロ合意が真の和平につながったと見る専門家も多い。2002年にアラブ諸国がイスラエルに対して提案したアブドラ案(サウジァラビアの当時の皇太子、後の国王の名に因む)は、包括的な解決策として、イスラエルが1967年以来占領してきた土地から撤退するのと引き換えに、近隣のアラブ諸国はイスラエル国家を承認するという内容だった。長年イスラエル人はパレスチナ国家という概念すら認めず、敵対するアラブ人は「シオニズム運動の産物」の破壊を求めてきたという経緯を考えれば、大きな一歩が踏み出されたと言えよう。

 今日、イスラエルの世論調査では国民の3分の2がパレスチナ国家の建国を認めている。パレスチナ側でも、人口のかなりの部分がイスラエルの存在を認めている。さらに、イスラエルとパレスチナの合意の条件は周知で、さまざまな調停案で言及されてきた。その条件とは、アラブ諸国がイスラエルという国家と、同国が安全に存続する権利を承認し、同様にイスラエルは(パレスチナ当局が国境を管理できなぃ状況を解消して)真のパレスチナ国家を、おおむね1967年の国境内に(場合によっては双方の合意の下に境界線を修正し、領土の均衡を図って)建国することに同意し、エルサレムを両国家の首都とすることである。

 結局のところ、ユダヤ人とアラブ人(イスラム教徒であれキリスト教徒であれ)の違いの本質は、宗教ではない。それぞれの共同体が、平和と歩み寄りを支持するグループと、争いを求めるグループを抱えていることだ。したがって、肝心なのは政治的選択であり、宗教上の決定ではない。「領土と引き換えの平和」という表現が、政治と領土において妥協をすれば和平が可能であることをよく表している。

 とはいえ、オスロ合意調印後も続けられた入植と、そのせいで生じたパレスチナの領土の細分化によって、2つの国家の共存は物理的に不可能かもしれないという見方もある。イスラエル社会は右傾化を強め、入植者の政治的な力が増している。パレスチナ人はファタは(訳注:パレスチナ自治政府の主要組織)とハマス(訳注:イスラム原理主義組織)に分裂している。そして、国際社会は、一致団結して当事者に圧力をかけることができない。

 原理的には可能である。しかし、和平の見通しはますます遠ざかっていくようである(訳注:2017年10月にファタハとハマスが和解合意を発表している)。

アラブ世界の対立は宗教的動機よりも国家と戦略に起因する

 よくある思い込み

  イスラム教のシーア派とスンニ派の間の溝は、中近東が抱える最大の戦略的分断線となった。イラン、イラク、シリア、レバノンのヒズボラを結ぶ「シーア派の弧」が、今まさに形成されつつある。拡大を続けるシーア派の弧はスンニ派の政体を脅かし、サウジアラビアとイランの緊張が高まる原因ともなっている。

 シーア派とスンニ派の分裂は、預言者ムハンマドの死後の後継者争いに端を発し、神学的というより政治的理由から生じたものだが、宗教上でも現実に相違がある。両者間の溝が再び深まったのは、イラン革命でホメイニ師が政権を握り、シーア派神権政治の体制を敷いてからだ。

 しかし、イランと湾岸アラブ諸国との対立は、宗教的動機だけに基づくのではない。ホメイニ師率いるイランの革命的体制と、サウジアラビアのような保守的体制の間には影響力をめぐる争いもあり、ペルシアとアラブの歴史的対立の背景や、アメリカとの関係の違い(サウジアラビアは友好国、イランは敵対国)と並んで、分裂の一因となっている。

 イラン・イラク戦争は、国家間の対抗意識と、特にシャットル・アラブ川(訳注:イラン・イラク国境を流れてペルシャ湾に注ぐ川)をめぐる領土争いに関連していた。イランは、レバノンのシーア派組織ヒズボラの創設に手を貸しつつ、スンニ派組織であるハマスとも同盟関係を築いた。また、シリアのバッシャール・アル=アサドの政権も支持した。アサドはシーア派に遠い起源を持つアラウィー派である。イランがシリアとそのような関係を築いたのは、元々はサダム・フセインの率いるイラクに対抗し、敵対国同士で同盟を結ぶためだった。

 「シーア派の弧」を非難したのは、まずヨルダンのアブドラ国王、次いでホスニ・ムバラク元エジプト大統領と湾岸諸国の君主たちである。彼らはアメリカが方針を転換してイランと戦略的同盟を結ぶことをおそれ、欧米、ことにアメリカからの支援を得ようとしたのだ。

 アラブ世界において宗教上の相違は存在するものの、それは分裂の要因の1つに過ぎないし、一見手強そうだが、調整は難しくない。イスラエル、アメリカとの関係をめぐる問題のほうが影響は大きい。

 たとえば、イランはシーア派のアゼルバイジャンよりも、キリスト教のアルメニアを支持している。つまり、イラン政府は宗教的連帯よりも国益に応じて行動するのだ。また、イラン・イラク戦争(1980~1988年)の際は、イラクで多数派のシーア派が国家に忠実であったのに対し、イランではスンニ派が祖国に忠実であった。あるいはバーレーンでは、抗議活動を弾圧するために、サウジアラビアの支援とアメリカの賛同を得て、シーア派の脅威がことさらに強調された。

 いずれも、宗教的というより政治的・社会的対立だ。サウジアラビアとイランの根深い対立関係は、宗教ではなく国家と戦略に関わっているのである。現に、王制時代のイラン(訳注‥1979年のイラン・イスラム革命以前)はアメリカと同盟関係にあったため、サウジアラビアとの間にはさほど対立感情がなかった。

 いっぽうカタールは、同じスンニ派のワッハーブ派であるサウジアラビアよりも、イランと良好な関係にある。そのカタールに対して、2017年夏、サウジアラビアとアラブ首長国連邦が国交断絶を宣言した。イスラム国はというと、イラクのシーア派政権に敵対するのみならず、少数派のキリスト教徒と、大半がスンニ派であるクルド人も目の敵にしている。

 スンニ派とシーア派の間に溝は確かに存在するが、中近東に存在する唯一かつ最大の断絶とは言えない。ただし、戦略における対立の拡大や激化により、思いがけない展開もあり得る。溝が深まっているのは事実だ。とはいえ、二派の対立がこの地域の紛争全般を読み解く鍵となるわけではないことは、忘れてはならない。
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平等性のドグマ

『現代思想講義』より 文明の先にあるもの

分配と差別

 分配が、各人の才覚と努力に完全に比例してなされることは、ありそうにない。ライオンの群れなどは、群れのなかに獲物を食べる順番があって、各個体の貢献の量とは無関係に食べているらしい。われわれの現実でも、特定のひとの尽力が大きいのに全員の成果にしたり、リーダー個人の成果にしたりということが起こる。

 ところで、さきに、一人で労働しその果実を得たら、それはそのひとの所有であると述べた。身体を使いこなすという意味での身体の所有の延長で、自然に働きかけ、自然現象の一部を自分のものにすることはできるだろう。それをどう使用し、消尽しようとも自由である。ただし、ホッブズによると、所有権が確立されていなければ、それはいつでも奪われ得る、それを防ぐための体制が必要になるということであった。

 他方で、労働は協働や分業によって、一人でするよりも大きな成果があがるということであった。そこで、この体制は、一方ではその労働に関係ない邪なひとたちに果実を奪われないことを保障しながら、他方で、ともに労働したひと、分業したひととのあいだで公正な分配を行うという役割を果たさなければならない。そのかぎりで、そこから果実の一部を、体制のリーダーのものにすること広)あるということだった。

 では、公正な分配とはどのようなものか。いくつかの可能性がある。単純化して分類すると、第一には全員で平等に分ける、第二には貢献に比例して分ける、第三にはくじ引きをして分ける、第四には、貢献と関係なく分配比率を事前に決めておく、という可能性がある。

 協働や分業をもちかけられた場合には、そこから自分で選ぶことはできようが、すでに組織ができあがっていて協働や分業を拒否できない場合、そのいずれであっても、それに抵抗するのは困難であろう。そして組織においては、第四の場合である可能性が高い。組織を作り、維持するひとびとは、まさにそのために組織を作るという労働をしたのであろうからである。少なくとも組織のリーダーたちが、分配の比率を決めようとするだろう。

 ここに差別の源泉が出現する。第一の、全員平等の場合は、貢献したひとへの差別となるであろう。第二の、貢献に比例する場合は、貢献度のはっきりしないひとに対して差別がなされやすい。第三の、くじ引きをする場合は、努力しようとするひとが差別されている。第四の、事前に組織によって決められている場合は、その条件に応じて差別がされないわけがないであろう。

 分配の条件が、肌の色や性や出自や国籍とされる場合にこそ、今日では特にこれが「差別」と呼ばれている。他方で、もし、ま。たく分配されないひとがいるとすれば、それは「奴隷」と呼ばれるだろう。それらの条件の設定は、すでに述べたょうに、組織維持のための内外の敵の設定による。社会全体においては、国家のイデオロギー(偽りの認識によって生じる思想ないし政治的意識)がその条件を支えている。

 ところで、この分配に関しては、しばしば社会保障が論争の種になる。社会保障とは、障害者などの社会的弱者が、才覚や努力次第では僅かしか受けとれないとき、それよりも多くを分配される、ないし補填される政策である。しかし、それは単なる配分の問題ではない。安全の問題である。

 というのも、事故や病気でだれもがそういう立場に追い込まれる可能性があるのだから、そこでもし放置され見捨てられるとなれば社会に不安が醸成され、トラブルや犯罪が増えるであろうから、社会保障が多くある方が、社会は安全なのである。

 ところが、障害者に対して健常者がそれを補う義務があるとする「ノーマライゼーション」という思想が、西欧にはある。不運なひとは救われるべきだとか、貧困はあってはならないとか、人間としてみな平等に尊重される社会がょいとかの意見もそこから来る。そのようにして、現代でも「市民社会」について論じるひとは、国家を、「道徳の理想を実現するもの」として捉えているのである。ノーマライゼーションの思想は、キリスト教的ドグマ(教義)に由来する道徳にすぎない。そうした宗教的背景によって密かに反感と差別が醸成されるのだが、宗教のもつ危険性についてはあとで論じることにしよう。

 もし、人間は平等に尊重されるべきだから全員平等に分配すべきだと主張するひとがいたら。そのひとには、前提において、貧しいひとへの差別があるのではないだろうか。貧しいかどうかということと、尊重できるかどうかということは、本質的に異なっている。豊かになったひとを尊いとするのは、カルヴィニズムに由来するのであろうか(マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)、資本主義のイデオロギーである。資本主義においては豊かなひとが優位であるといわれるが、金力がひとに対して効果をもつのは、困窮しているひとに対してでなければ、お金を「尊敬する」ひとに対してである--そのようなひとを尊敬することはできないだろう。

 分配の平等よりも、まず貧困者への資本主義的差別感情を捨てるべきではないだろうか。それぞれの所得に違いがあるのは、さまざまな理由と事情があるからであって、貧しいということだけで、怠け者だとか才覚がないとみなすべきではない。愚かだから貧しいひともいるが、愚かさだけが貧しさの原因ではなく、愚かでも豊かなひとは多くいるのである。

平等性のドグマ

 それにしても、である。こうしたキリスト教的、および市民社会的な「平等のドグマ」がいつのまにか、共産主義にすら入り込んだのであった。神のもとでの平等を地上に実現したいひとびとが、共産主義をも乗っ取った。

 マルクスが嫌っていたものは、資本主義のイデオロギーを信じ込み、制度や組織が特定のひとびとに有利に働いているにもかかわらず、自分もそれに便乗して、おこぼれにあずかろうとして失敗するひとの惨めさだったのではないだろうか。現実を直視せず、才覚を磨かず、努力をせずに、ひとりでに果実を得る立場に立ちたいとする大衆だったのではないだろうか。

 だから、マルクスが所有の観念を否定したということは、そのこと自身の正しさによってではなかったかもしれない。なぜなら、資本家階級から「奪われている」ということに気づくということは、それも所有を前提しているのだからである。

 人間の本質は労働であるとして、マルクスが所有の観念を否定したのは、現実の生活条件を吟味する合理的な思考をするようにひとびとに目覚めさせ、みずからの労働として、自分の生産したものを自分の所有にするような才覚と努力を期待したからではないのだろうか。

 しかし、共産主義者たちがしたことは、平等という名目で、分配が少ないという意味で不平等な状態にある多数者が、少なくとも現状よりも多くを得ることができるという理念を喧伝し、それによって権力を握り、資本家階級が独占していた富を奪い取ることだった。

 レーニンは、トロッキーを追放して国家を作り、党が資本家階級に取って代わったばかりでなく、あまつさえ帝国を築こうとしていた。失笑せざるを得ない弁証法がそこにある。どんな理念でも構わない、思考しない大衆から、騙したり脅かしたりして自由と富を奪う「才覚」のあるひとたちが、いつでもどこにでもいるということだ。

 トマ・ピケティが、今日も富裕層と一般人の資産の格差が拡がりつづけていることを指摘している(『21世紀の資本』)。それは確かに不平等なのではあるが、その裏返しの状態、資産をひとと平等に所有することが、一人ひとりの生の意味ではないであろう。
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都心は「男性中心」から「女性中心」へ

『都心集中の真実』より

女性が男性よりたくさん東京に集まってくる時代

 いつの時代も東京には全国から若い世代が流入してくる。

 しかし23区の人口を男女別に見ると、25-34歳の若い世代で、近年、男女差が縮まってきている。昔は男性のほうが多かったのだが、今はほとんど差がないのだ。

 従来大都市の若年層は未婚男性が未婚女性よりもかなり多いという傾向があった。大都市が必要とする労働力需要は女性よりも男性を必要としたからである。まず肉体労働は圧倒的に男性の仕事であり、そしてホワイトカラーの仕事については、昔は男性の大卒者の数が女性の大卒者よりもずっと多かったからである。

 ところが近年、肉体労働への需要が減少したことにより男性への需要が減った。また女性の大卒者が増え、かつ若年人口の減少により男性だけでは人手不足であることによって、大都市は男性と同じくらい女性のホワイトカラーを必要としはじめたのである。

 したがって、東京都への転入者も、男性が減少傾向にあるのに、女性は横ばいである。若年人口が減少していることを考慮すると、東京都以外に住んでいた女性が東京都内に転入してくる割合は近年増加していると考えられる。

 また東京都への転入超過人口(転入人ロマイナス転出人口)を見ると、2007年までは男女がほぼ同じだったが、近年は女性の転入超過人口が男性よりも多くなっている。

 つまり全国から若い女性が東京都、特に23区内に転入し、その後東京都内に定着する傾向が男性よりも強まっていると言える。東京は女性の自由な生き方を許容するが、地方に帰ると、たとえ千葉県、埼玉県でも、ちょっとでも田舎に行くと、男尊女卑的な価値観が残っているのが、女性が東京に居残る理由の一つである。

かつて都市は男性中心だったが

 大都市には本来若い未婚者が多い。そして男女比では未婚男性が未婚女性よりも多い、というのがこれまでの原則である。

 江戸時代はまさにそうだったし、近代以降の東京もそうであった。労働力としてまず若い男性が都市に流入し、金を稼ぎ、年齢的な頃合いを見て、出身地の田舎から嫁を貰うなどのケースが多かったからだ。たとえば1920年の東京市(15区)の未婚者数は男性が女性の2・82倍、25~29歳では3・5倍だったのだ。

 このように昔の東京は、若い未婚者についていえば、男性のほうが女性よりもずっと多い地域だった。だから、男性向けに多くの花街などの慰安施設が東京中にあったのである。

 ところが戦後になると、30代以上では女性のほうが未婚者が多くなる。男性が戦死などで減ったため、未婚のまま年をとった女性が増えたからである。

 たとえば1970年の23区の未婚者数の男女比を見ると、20-34歳では圧倒的に男性のほうが多い(1・5~2・5倍)のに対して、35歳以上では女性のほうが多くなっているのである。

 これが2000年になると、23区の未婚者数は20歳から60歳にかけてずっと男性のほうが多くなる。常識的には、大都市の人口の特徴として、そういう状態がいちばんしっくりくるだろう。

 ところが2015年は20代前半については男女の未婚者数がほぼ同数になっており、30-54歳も男女差が縮まっている。若年人口減少による人手不足と、女性の高学歴化などを背景として、若いときから女性が男性と同様に23区内に転入するケースが増えたと考えられるのだ。

 また第2次ベビーブームのおかげで、40代前半については2015年の女性の未婚者数は2000年の男性の未婚者数よりも多くなっている。

 未婚者数を見る限り、東京は男性優位の都市から、男女同数の都市へと変わろうとしているのである。

未婚女性が多く住んでいる区はどこか?

 では現在、未婚女性は23区のどこに住んでいるか。2015年の女性の未婚率を区別に見ると、新宿区が39%で最も高く、以下、渋谷、豊島という副都心が並び、次いで、中野、目黒、文京、杉並という都心およびその西側の区、あるいは静かで治安の良さそうな住宅地が多い区が上位を占めている。

 未婚女性が働く場所がそうした地域に多い、あるいは、後で見るように、一人暮らしできる年収の高い女性が住みたがる街がそれらの地域に多いのであろう。

 男性は、やはり新宿区が45%とダントツの1位であるが、2位は荒川区の36%である。以下、豊島、中野、大田、墨田となっており、板橋、葛飾、北、台東も比較的上位に位置する。女性未婚率が副都心およびその西側で高いのに対して、男性は下町、かつて工場地帯の多かった区で未婚率が高いという傾向があるのである。これは、これらの地域の男性の収入が低いために結婚が遅れることも一因であろう。

23区中16区で未婚女性が増加

 次に、1995年から2015年にかけての未婚者の増減を見る。

 すると1995年には、未婚女性が未婚男性より多い区は、港、目黒、渋谷の3区だけだったし、男女差もわずかだった。また、それら3区の未婚女性数は、1995年から2015年にかけて伸びが顕著である。

 加えて2015年は、中央、文京、世田谷、杉並の4区でも未婚女性が未婚男性より多くなっている。かつ中央、港、渋谷、目黒、世田谷、杉並という6区では、女性が男性より数千人ほど多くなったのである。

 また、1995年から2015年にかけて未婚女性が増加したのは千代田、中央、港、新宿、文京、台東、墨田、江東、品川、荒川など16区ある。それに対して、未婚男性が増加したのは千代田、中央、港、新宿、台東、墨田、江東、荒川の8区だけである。男女ともに未婚者が増えた区であっても、未婚女性の増加数は未婚男性の増加数よりずっと多い(台東区だけ男性のほうが多く増えた)。

 1970年とは異なり、戦争のために未婚のまま年をとった女性は1995年以降の64歳以下には存在しない。だが、女性の社会進出によって、特に均等法世代以降、未婚のまま年をとる女性が増えた。1986年の均等法施行のときに大学や短大を出た女性は2015年には50代になっている。

 こうして2015年には東京の中に、未婚女性が未婚男性よりも多い地域がしばしば現れるようになったのである。

未婚女性が増える区と格差の関係

 また、未婚男性のほうが多い千代田区、墨田区、品川区、中野区、北区、板橋区、練馬区、江戸川区などでも、男女差は大きく縮小している。

 男女差の縮小傾向が少ないのは足立区と葛飾区である。葛飾区、北区は未婚女性が少しだが減少している。

 これらの区は、第2章で見た、所得が伸び悩んでいる区でもある。はっきり証明できないが、区の所得格差の拡大と未婚女性の伸びには、一定の相関があるように思われる。

 未婚者の年齢、あるいは一人暮らしか親と同居しているかなどはこの国勢調査小地域集計からはわからない。だが、他の統計から推測すれば、23区内でこの10年に増えた未婚者は、25歳から40代くらいの一人暮らしの未婚者、特に女性だと思われる。そして、23区内に住めるのだから、同年代の他の女性と比べて年収が相対的に高いはずである。

 つまり第2章で見た、ホワイトカラーが都心部に多く住むようになったことと、未婚者の増加、特に働く未婚女性の増加とは関係していると思われるのだ。働く未婚女性が増えた区ほど、区民の平均所得も上昇したと言えるのではないだろうか。

中央区は未婚女性の楽園

 次に、未婚者の増加が著しい中央区と港区の未婚者数を年齢別に見てみる。

 中央区は2000年には男性のほうが女性よりも未婚者が多かった。たとえば30-59歳の未婚男性は4637人、未婚女性は3855人だったのだ。

 ところが2015年は、30-59歳の未婚男性は3370人増えて8007人、未婚女性は6000人近く増えて9828人となり、男性を上回った。都心である中央区が未婚の働く女性に選ばれるようになったことがよくわかる。

 また、未婚男性は30-40代の人口が増えているが、たとえば2015年の45歳は2000年の30歳よりもずっと少ない。つまり、男性は結婚などの理由で中央区を出て行った人が多いと推測できる。

 対して女性は、2015年の45歳は2000年の30歳よりも多い。つまり中央区に住んだ未婚女性はその後もずっと中央区に住み続け、かつ新たに同年代の女性も流入してきたケースが多いと言える。

 港区もだいたい似たような傾向があり、30140代の未婚女性が増え、男性と比べて港区内に定着する傾向がある。
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