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分断の信号弾となった三十八度線分割占領

『韓国大統領実録』より 解放と共にはじまった米軍政と分断 ⇒ 日本分断を避けるために適当に決められた38度線

朝鮮人は国際社会が驚くほどの速さで国家の形態を整えていったが、実際に朝鮮半島を接収したアメリカとソ連はそのようなことに関心を示さなかった。彼らはただ、朝鮮半島を妨害されることなく分割占領することだけに力を注いでいた。

朝鮮半島をアメリカとソ連が分割占領するということは、朝鮮が分断されることを意味している。本来ならばドイツに対してそうしたように、分割しなければならないのは朝鮮ではなく敗戦国である日本であるべきであった。ところがあろうことかアメリカとソ連は朝鮮半島を分割してしまったのである。

朝鮮半島の分断は、アメリカの行き当たりばったりの対応が招いた失策の結果だった。第二次世界大戦当時の朝鮮の独立に関する会議の記録を追っていけばこのことは明らかになる。

当時のアメリカの大統領はフランクリン・ルーズべルトたった。ルーズベルトは、日本が敗北すれば、当分の間朝鮮を信託統治下に置き、その後独立させる計画だった。ソ連を中心として膨張を続ける社会主義勢力を牽制するためである。朝鮮がすぐに独立すれば、社会主義国家となる可能性が高いと判断したのだ。

この構想は、一九四三年十一月二十二日から二十六日にかけて開かれたカイロ会談で具体化した。ルーズペルト、イギリスのウィンストン・チャーチル、中国の蒋介石はこの会談で、朝鮮を解放し、適当な時期に独立させる、と決議した。

しかしルーズペルトが言った「適当な時期」とは、解放のなんと四十年後だったのである。つまり朝鮮の解放とは、アメリカの占領と支配を意味していたのだ。

ルーズベルトはその年の十一月二十八日にテヘランでチャーチル、スターリンと会い、朝鮮人が独立するには四十年ほどの修業期間が必要だ、と語り、スターリンもこれに同意した。もしかしたらこの席でスターリンとルーズベルトは朝鮮半島を分割統治することに暗黙の同意をしたのかもしれない。もちろん分割統治についての公式の論議があったわけではない。この時点でも朝鮮に対する信託統治が明文化されることはなかった。

ルーズべルトは信託統治についての自分の考えを貫徹するために、一九四五年二月八日、当時ソ連領であった黒海沿岸のヤルタ(クリミア半島の保養地)のリヴァディア宮殿で、再びチャーチル、スターリンと会談をした。この会談の主な目的はソ連を連合軍に参戦させることであり、アメリカとイギリスの提議をスターリンは受け入れた。

ヤルタでルーズベルトはスターリンに朝鮮を信託統治するという提案をした。このときルーズベルトは信託統治の期間を二十~三十年と提案し、スターリンは信託統治の期間をできるだけ短くしたほうがいい、とこたえた。信託統治についてのふたりの思惑は正反対だった。スターリンは、朝鮮がすぐに独立したならば社会主義を選択する可能性が高いと判断して信託統治の期間は短いほうがよいと提案し、ルーズベルトもまた同じ理由で信託統治の期間を長く取る必要があると訴えた。しかしルーズべルトが朝鮮について語るのはこれが最後となった。彼はその年の四月十二日に生涯を終えるのである。

アメリカの大統領は副大統領であったトルーマンが引き継いだ。トルーマンはその年の七月二十二日、べルリン郊外のポツダムでチャーチル、スターリンと会談した。ここで三人は日本に対する無条件降伏の要求と、ソ連の参戦問題を討議した。その過程で朝鮮を適当な時期に独立させるという内容も再確認された。

ヤルタ会談でスターリンは百八十日以内に参戦すると約束し、その代わりに東アジアでいくつかの利益を保証されていた。ポツダム会談の時点はまだ約束の日限になっていなかったので、ソ連は参戦していない。スターリンはヤルタ会談から正確に百八十日が経過した八月八日正午を期して、日本に宣戦布告をした。

このとき日本は敗北直前の状況にあった。八月六日に広島、九日に長崎に原子爆弾が投下された。つまりソ連は、すでに準備されていたご馳走を食べるだけだったのである。

ソ連軍は八月九日、百五十万の兵力で日本軍を攻撃した。日本軍の前線は一瞬にして崩壊し、翌十日にはアメリカから、日本の降伏が決定したという通告を受けた。

八月十五日に日本が公式に降伏を宣言するまで、ソ連軍は日本軍と戦った。ソ連軍が戦ったのはわずか六日であった。国際社会では、ソ連軍は終わった戦争に参戦した、という見方が支配的だった。それでもソ連軍の死者は千五百人、負傷者は三千二百人で、短期間の戦闘にしては少なくない被害であった。

ソ連軍が破竹の勢いで朝鮮半島に進軍していた八月十四日、ソ連はアメリカから、朝鮮半島分割占領案の通告を受けた。三十八度線で分割するという案だ。アメリカはソ連が拒否するのではないかと戦々恐々としていたが、ソ連は意外にもあっさりと受諾した。アメリカは三十八度線の南に首都があることに満足し、ソ連は自分たちのほうがより広い地域を占領するという事実に満足したのだ。

アメリカがどうやって三十八度線を選択したのか、正確なことはわかっていない。ポツダム会談で決められた、という説もあり、これを担当したふたりの大佐がわずか三十分で決めた、という話もある。確かなことは、ヤルタ会談の時点でルーズベルトとスターリンは分割占領についての構想を明らかにしており、これが分断につながったという事実だ。

アメリカは朝鮮半島をソ連と分割占領した時点でも、朝鮮が分断されるとは考えてもいなかった、と伝えられている。つまり意図的に分断したのではなく、状況が分断を生み出したというわけだ。この時点でアメリカは朝鮮についてはまったく無知な状態であり、朝鮮のことなど眼中になかった。アメリカの関心は日本に集中していたのである。

アメリカは朝鮮の分断など気にもしていなかった。ただソ連が満州と朝鮮半島を占領し、極東の覇権を掌握するのではないか、と恐れていた。アメリカが朝鮮を分割し、南半部に進駐した目的はソ連を牽制するためであり、それ以外の意味はなかった。

アメリカが朝鮮半島を分断して北側をソ連に与えたのは、日本の分割を防ぐためだった。アメリカは内心、ソ連が日本をドイツのように分割統治しようと言い出すのではないかと恐れていた。そのため朝鮮半島を分割してソ連の口をふさごうとしたのだ。この過程でアメリカが朝鮮の地政学的な重要性や政治的、軍事的意味などを考慮した形跡はない。その意味で朝鮮半島は、アメリカが日本を占領するためにソ連に差し出したギャランティだったのである。
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