未唯への手紙
未唯への手紙
ポータルは事務局機能
自転車の道
道路に自転車を走らせるようにする法案。
元々、図面で見ると、道路幅があるはずです。占有しているところは、占有している人が撤去させるという法律。高校へ行く道も該当の家があった。2車線なのに、その家のために、1車線になっている。40年掛かっても、実体は変わっていない。その家の前では警告音を鳴らすようにしています。
車線の幅も短くして、大型車はゆっくりと走るしかないようにする。軽は普通に走れます。対面の場合に、それができなければ、一方通行にしていく。それで自転車と歩行者の道を作り出す。市街地の適当な小道には自転車の腺を入れる。優先権を明確にする。歩行者は全面が優先です。どこを歩いてもいい。
住宅地の狭い道は混在です。徹底的に混在です。クルマも自転車も歩くスピードに合わせればいい。それなら、自転車も納得がいきます。狭い道に線を引いてもどうにもなりません。優先権だけつけておけばいい。人、自転車です。後はその他です。
つながるにおけるポータルの役割
つながるにおける、ポータルの役割が見えてきました。商品がつながると言って、既存のシステムを時間を掛けて、変更している。それよりもメッセージとそこからのリンクを全て、ポータルに集めてしまう。
クレームだろうとライブラリ変更メッセージだろうと、受け側でコントロールします。本社・店舗限定から、販売店システム全体に拡張させます。それも、ナレッジデータベースも使います。各種ライブラリとナレッジを混在させます。最大の特徴は既存システムの変更がなくて済みます。
お客様のポータルもその中に入れ込みます。つまり、店舗からお客様に拡張させます。
これならば、地域コミュニティでも使えます。本当は、こちらから考えています。地域コミュニティの事務局機能を体現させたポータルです。
パートナーのポータル企画
パートナーはSFDCの説明を聞いたあと、一言も話題にしようとしません。自分の中で考えているのか、聞いたことを無視しようとしているのか。自分の中で消化できていないのは確かです。
組織の考え方からすると、組織を裏切るカタチになります。既存システムの維持部署に居るわけですから。今までやってきた、ポータルからすると、先が見えるはずです。ちっぽけな組織の壁は破ればいいのです。
ゲーム化からコミュニティ化
エジプト革命は、ゲーム化のフェーズからコミュニティ化の中間にあります。デモにしても、ゲーム化の一環です。力にはならない。
恐いのは、コミュニティ化になるときに、カリスマが出て来ることです。その場合にはコミュニティにはならない。専制政治的な動きになります。
ゲーム化においては危機感がベースになるけど、コミュニティ化においては、平和に対する心です。
今日はネットで本を調べます。本屋で物理的なものを見つけました。「Rality is BROKEN」です。全てはゲームから始まる。私としては、コミュニティ化につなげていきたい。
クルマに求めるもの
クルマに求められるものは形状が変えられるようにするということです。そうすれば、種類が減ります。あんなに多くある必要はない。部品の共有化できない。ちょっとこすっただけづ、実費で20万円になります。
今、望まれて、そうしているわけではない。そういう技術を作ってこないだけです。トランスフォーマーではできている。
一瞬たりとも、無駄にするな
「一瞬たりとも、無駄にするな」その時に無駄とは何か。金儲けの仕事を考えていることなのか。
生きていること自体がムダならば、それは意味ない。だけど、一瞬たりともの言葉は使いたい。
部内会議に出たけど、相変わらずポイントは絞れていない。そんなんで、先行きはあるのか。時間を無駄にしている。
アイデアボックス
マーケティングでメーカーとスタッフをつなぐシステムはアイデアボックスそのものです。
2年前にマーケティン部の室長に文句言ったことを思い出します。メーカーからスタッフに直接、アイデアを求めることは意味がない。では、どうするのか。お客様とスタッフ、スタッフと本社、本社とメーカーの三段ループです。
その意味では、2年前に企画も設計も終わっています。今、設計しているものが2年後にどうなるかです。今回の企画は大きすぎるけど。
道路に自転車を走らせるようにする法案。
元々、図面で見ると、道路幅があるはずです。占有しているところは、占有している人が撤去させるという法律。高校へ行く道も該当の家があった。2車線なのに、その家のために、1車線になっている。40年掛かっても、実体は変わっていない。その家の前では警告音を鳴らすようにしています。
車線の幅も短くして、大型車はゆっくりと走るしかないようにする。軽は普通に走れます。対面の場合に、それができなければ、一方通行にしていく。それで自転車と歩行者の道を作り出す。市街地の適当な小道には自転車の腺を入れる。優先権を明確にする。歩行者は全面が優先です。どこを歩いてもいい。
住宅地の狭い道は混在です。徹底的に混在です。クルマも自転車も歩くスピードに合わせればいい。それなら、自転車も納得がいきます。狭い道に線を引いてもどうにもなりません。優先権だけつけておけばいい。人、自転車です。後はその他です。
つながるにおけるポータルの役割
つながるにおける、ポータルの役割が見えてきました。商品がつながると言って、既存のシステムを時間を掛けて、変更している。それよりもメッセージとそこからのリンクを全て、ポータルに集めてしまう。
クレームだろうとライブラリ変更メッセージだろうと、受け側でコントロールします。本社・店舗限定から、販売店システム全体に拡張させます。それも、ナレッジデータベースも使います。各種ライブラリとナレッジを混在させます。最大の特徴は既存システムの変更がなくて済みます。
お客様のポータルもその中に入れ込みます。つまり、店舗からお客様に拡張させます。
これならば、地域コミュニティでも使えます。本当は、こちらから考えています。地域コミュニティの事務局機能を体現させたポータルです。
パートナーのポータル企画
パートナーはSFDCの説明を聞いたあと、一言も話題にしようとしません。自分の中で考えているのか、聞いたことを無視しようとしているのか。自分の中で消化できていないのは確かです。
組織の考え方からすると、組織を裏切るカタチになります。既存システムの維持部署に居るわけですから。今までやってきた、ポータルからすると、先が見えるはずです。ちっぽけな組織の壁は破ればいいのです。
ゲーム化からコミュニティ化
エジプト革命は、ゲーム化のフェーズからコミュニティ化の中間にあります。デモにしても、ゲーム化の一環です。力にはならない。
恐いのは、コミュニティ化になるときに、カリスマが出て来ることです。その場合にはコミュニティにはならない。専制政治的な動きになります。
ゲーム化においては危機感がベースになるけど、コミュニティ化においては、平和に対する心です。
今日はネットで本を調べます。本屋で物理的なものを見つけました。「Rality is BROKEN」です。全てはゲームから始まる。私としては、コミュニティ化につなげていきたい。
クルマに求めるもの
クルマに求められるものは形状が変えられるようにするということです。そうすれば、種類が減ります。あんなに多くある必要はない。部品の共有化できない。ちょっとこすっただけづ、実費で20万円になります。
今、望まれて、そうしているわけではない。そういう技術を作ってこないだけです。トランスフォーマーではできている。
一瞬たりとも、無駄にするな
「一瞬たりとも、無駄にするな」その時に無駄とは何か。金儲けの仕事を考えていることなのか。
生きていること自体がムダならば、それは意味ない。だけど、一瞬たりともの言葉は使いたい。
部内会議に出たけど、相変わらずポイントは絞れていない。そんなんで、先行きはあるのか。時間を無駄にしている。
アイデアボックス
マーケティングでメーカーとスタッフをつなぐシステムはアイデアボックスそのものです。
2年前にマーケティン部の室長に文句言ったことを思い出します。メーカーからスタッフに直接、アイデアを求めることは意味がない。では、どうするのか。お客様とスタッフ、スタッフと本社、本社とメーカーの三段ループです。
その意味では、2年前に企画も設計も終わっています。今、設計しているものが2年後にどうなるかです。今回の企画は大きすぎるけど。
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世界をよりよく知り、よりよく変えていく
『フェイスブックをつくったザッカーバーグの仕事術』より
一人ひとりに自分の声を与えるんだ。知ることは得をすること
何年か前、ある伝統メディアの幹部が、サーゲイ・ブリンに「グーグルは、伝統メディアの懐から金を奪うこと以外に、社会にどんな貢献をしているのかね」と噛みついたことがある。
サーゲイ・ブリンはあっさり答えた。「単純なことだよ。ちゃんとした情報を持っていれば、人はもっといい選択ができる」と。
確かにそうだ。たとえば買い物も、どこにどんなものがあり、それはいくらかを比較検討して買うのと、何の情報もなく買うのとでは、雲泥の差が生じる。ブリンは「知っていることは損になることじゃない。得することなんだ」と言いたかったのだろう。
本来、こうした情報は伝統メディアが伝えるものだった。だが、そこに売る側の意図が当然のように入ってくるようになり、信頼性は失われた。そんな時代が長く続いた。グーグルは、できるだけ意図のない情報を、できるだけたくさん伝えるようにすることで、情報の民主化を実現した。
それは、思いがけない効果を世界にもたらした。たとえば独裁国家や圧政が敷かれている国に共通するのは、情報の統制だ。そこに正しい情報がもたらされれば、人は自由に判断し、行動できるようになる。情報は力だったのだ。
その力をもたらしたのがグーグルであり、「歴史上で最も有機的な民主化支援ツールの一つ」といわれるフェイスブックだった。
「僕がやろうとしているのは、一人ひとりに自分の声を与えることなんだ」とザッカーバーグは言っている。ほんの数世代前までは、今のような情報共有も、自分の意見を伝えることもできなかった。ほんの何年か前までは、そういうことができるのはごく一部の人たちに限られていた。だが、今は違う。SNSやインターネットのツールを使えば、自分の考えを世界中に伝えることができる。
フェイスブックが目的とするのは、知る力を高めることだ。仕事を世界に対する義務ととらえる
SNSと一口に言っても、そこに分類される企業のすべてが同じ目的に向かっているわけではない。ビジネス向けのネットワークを提供する企業もあれば、さまざまなメディアのポータルサイトとして機能するネットワークもある。
規模もずいぷんと違っている。フェイスブックやマイスペースのような世界規模のものもあれば、地域独自のネットワークのようなもの、大手企業が社内コミュニケーションの活性化を目的にスタートさせたものもある。
では、フェイスブックが目ざしているのは何か。
ザッカーバーグは「フェイスブックが目的とするのは、自分たちの世界がどうなっているのか、それを知る力を高めることだ」と話している。そのために必要な情報を伝え、みんなで情報のやりとりができるシステム。それがフェイスブックの目ざすところだ。
人間が幸福になるためには、自分の周囲の世界について熟知しておく必要がある。熟知するために人々が必要とし満足するだけの情報を効率よく提供することがフェイスブックのいわば義務なのだ。
こうした考え方は他のSNSにはあまり見られない。フェイスブックには、他のSNSにない独特の「熱さ」があるが、それはザッカーバーグの考え方からきているといえる。
暇つぶしの手段を崇高な目的に変える
フェイスブックのスタートはハーバード大学の学生が同級生や友人との交流をより深めるためのものだった。それだけに、ある程度のユーザーを抱えるようになっても、「フェイスブックは単なる暇つぶしにすぎない」といった批判があった。
確かにフェイスブックは、物的な生産に関与するわけではない。自分の友人に何か変わったことはないかといったことを見て時間が過ぎていくのだから、人によっては暇つぶしと呼ぶかもしれなかった。
批判に対して、ザッカーバーグは、人を理解できるようになることは暇つぶしではないと反論した。そして、フェイスブックの最終目的を「人々が自分の置かれた世界をよりよく理解するための手助けとなることだ」と定義した。
たとえば同じ大学にいる人々が何を考え、大学で何が起きているかを知ることは大切だ。大学からの通知ではなく、一人ひとりが情報提供者となれば、より正しい情報が得られる。それだけ正しい判断、行動ができるようになる。それは暇つぶしなどではなく、世界をよりよく知り、時によりよく変えていくために欠かせないことだ。
こうした崇高な目的に加え、ユーザー数が増えることでネットワーク効果が増すようになっていった。
ネットワーク効果とは、同じ製品を利用するユーザーが増えると、その製品の効果や価値が高まることだ。たとえば携帯電話は登場当時、珍しいだけで便利ではなかった。だが、今では便利なだけでなく必須製品となっている。
SNSにネットワーク効果が加われば、世界を動かす力になることもできる。それは、2008年の米国大統領選挙が「フェイスブック選挙」と呼ばれ、2011年の中東での革命が「フェイスブック革命」と呼ばれたことからも明らかだ。
ザッカーバーグほど情報の共有を広げ、世界にもっと透明性を加えることを熱く追求している人間は、SNSの世界にはいないだろう。
一人ひとりに自分の声を与えるんだ。知ることは得をすること
何年か前、ある伝統メディアの幹部が、サーゲイ・ブリンに「グーグルは、伝統メディアの懐から金を奪うこと以外に、社会にどんな貢献をしているのかね」と噛みついたことがある。
サーゲイ・ブリンはあっさり答えた。「単純なことだよ。ちゃんとした情報を持っていれば、人はもっといい選択ができる」と。
確かにそうだ。たとえば買い物も、どこにどんなものがあり、それはいくらかを比較検討して買うのと、何の情報もなく買うのとでは、雲泥の差が生じる。ブリンは「知っていることは損になることじゃない。得することなんだ」と言いたかったのだろう。
本来、こうした情報は伝統メディアが伝えるものだった。だが、そこに売る側の意図が当然のように入ってくるようになり、信頼性は失われた。そんな時代が長く続いた。グーグルは、できるだけ意図のない情報を、できるだけたくさん伝えるようにすることで、情報の民主化を実現した。
それは、思いがけない効果を世界にもたらした。たとえば独裁国家や圧政が敷かれている国に共通するのは、情報の統制だ。そこに正しい情報がもたらされれば、人は自由に判断し、行動できるようになる。情報は力だったのだ。
その力をもたらしたのがグーグルであり、「歴史上で最も有機的な民主化支援ツールの一つ」といわれるフェイスブックだった。
「僕がやろうとしているのは、一人ひとりに自分の声を与えることなんだ」とザッカーバーグは言っている。ほんの数世代前までは、今のような情報共有も、自分の意見を伝えることもできなかった。ほんの何年か前までは、そういうことができるのはごく一部の人たちに限られていた。だが、今は違う。SNSやインターネットのツールを使えば、自分の考えを世界中に伝えることができる。
フェイスブックが目的とするのは、知る力を高めることだ。仕事を世界に対する義務ととらえる
SNSと一口に言っても、そこに分類される企業のすべてが同じ目的に向かっているわけではない。ビジネス向けのネットワークを提供する企業もあれば、さまざまなメディアのポータルサイトとして機能するネットワークもある。
規模もずいぷんと違っている。フェイスブックやマイスペースのような世界規模のものもあれば、地域独自のネットワークのようなもの、大手企業が社内コミュニケーションの活性化を目的にスタートさせたものもある。
では、フェイスブックが目ざしているのは何か。
ザッカーバーグは「フェイスブックが目的とするのは、自分たちの世界がどうなっているのか、それを知る力を高めることだ」と話している。そのために必要な情報を伝え、みんなで情報のやりとりができるシステム。それがフェイスブックの目ざすところだ。
人間が幸福になるためには、自分の周囲の世界について熟知しておく必要がある。熟知するために人々が必要とし満足するだけの情報を効率よく提供することがフェイスブックのいわば義務なのだ。
こうした考え方は他のSNSにはあまり見られない。フェイスブックには、他のSNSにない独特の「熱さ」があるが、それはザッカーバーグの考え方からきているといえる。
暇つぶしの手段を崇高な目的に変える
フェイスブックのスタートはハーバード大学の学生が同級生や友人との交流をより深めるためのものだった。それだけに、ある程度のユーザーを抱えるようになっても、「フェイスブックは単なる暇つぶしにすぎない」といった批判があった。
確かにフェイスブックは、物的な生産に関与するわけではない。自分の友人に何か変わったことはないかといったことを見て時間が過ぎていくのだから、人によっては暇つぶしと呼ぶかもしれなかった。
批判に対して、ザッカーバーグは、人を理解できるようになることは暇つぶしではないと反論した。そして、フェイスブックの最終目的を「人々が自分の置かれた世界をよりよく理解するための手助けとなることだ」と定義した。
たとえば同じ大学にいる人々が何を考え、大学で何が起きているかを知ることは大切だ。大学からの通知ではなく、一人ひとりが情報提供者となれば、より正しい情報が得られる。それだけ正しい判断、行動ができるようになる。それは暇つぶしなどではなく、世界をよりよく知り、時によりよく変えていくために欠かせないことだ。
こうした崇高な目的に加え、ユーザー数が増えることでネットワーク効果が増すようになっていった。
ネットワーク効果とは、同じ製品を利用するユーザーが増えると、その製品の効果や価値が高まることだ。たとえば携帯電話は登場当時、珍しいだけで便利ではなかった。だが、今では便利なだけでなく必須製品となっている。
SNSにネットワーク効果が加われば、世界を動かす力になることもできる。それは、2008年の米国大統領選挙が「フェイスブック選挙」と呼ばれ、2011年の中東での革命が「フェイスブック革命」と呼ばれたことからも明らかだ。
ザッカーバーグほど情報の共有を広げ、世界にもっと透明性を加えることを熱く追求している人間は、SNSの世界にはいないだろう。
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恋愛・結婚
『人生の教科書』より
恋愛は幻想であるべきだ
最近の若い人には「自分主義」が散見される。「自分らしさ」に最大の価値を見出す人や、やたらと「私はそうは思わない」と反対してみせる人など、とにかく「私」が主役。
今、世の中に「私らしく」といったことを歌いあげる歌も溢れているが、自己の内面を深めたり、進化させたりという努力の蓄積の浅い若者が「自分」を主張してみせても、そこにはなんの根拠もない。そんなことに力を注ぐのではなく、この「私」がどう進化していくかということに対する興味を持つことこそが大事なのだ。その興味が根抵にないと、恋愛も現実に翻弄される味気ないものになってしまう。
恋愛において本当に重要なのは、自分ではなく相手であって、それも現実ではなく幻想でなければならない。なぜなら、その幻想によって人は脳内を刺激され、「変化」し「進化」することができるからだ。
なんとなく男女が出会い、なんとなく恋愛して肉体関係だけが始まる……そんな恋愛などつまらない。相手の精神生活に対して恋をするのでなかったら、恋愛なんかしちやダメだ。
現実と幻想の見境がつかなくなる精神状態が恋愛であって、現実そのものを受け入れたら恋愛なんて途端につまらなくなる。
相手に対して、現実の姿で考えるのは人生設計であり、そこにあるその人物の夢や幻のようなものに思いをめぐらせるのが恋愛であるとも言える。
可能性から言えば、探せば自分にとってもっといい相手がいるかもしれない。しかし、そんなことを考えて「はたしてこれでいいのか」なんて悩んでも、永遠に答えを出せないし行き止まりだ。だから、恋をするなら思い切り幻想に浸って、脳を刺激するべきだ。それによって、人は思い悩み、成長し、進化することができるのだ。
恋愛とは後悔の連続である
「人生における後悔をなるべくなくしたい」という意見があるが、理解しがたい。
自分に与えられた苦難については「いい試練だった」と思えばよいのであって、その経験を後悔する必要はない。苦難を乗り越えようとする時間は人生において無駄な時間ではなく、成長するための糧だからだ。
ただし恋愛においては、後悔はしなければならない。自分か与えられた苦難はいいとしても、自分が人に与えている苦難というものもあるはずで、それについては考えなくてはならないからだ。
恋愛では、相手に必ずなんらかの苦労をかけているものだ。いくら自分かきちんとしていると思っていても、相手から見たら不満だらけかもしれない。順風満帆に見えても惚れ合っていれば愛が醒めるのを心配するし、誰かから片想いをされているとしたら、自分が何もしていなくても苦難を与えていることになる。
だから後悔しないでいられる恋愛というものはまずない。「自分の行動のすべてが人を傷つけない」という保障がなければ、恋愛において後悔しないなどということは不可能である。人を傷つけておいてその痛みを感じない想像力のなさというのは信じられない。「後悔しない恋愛」があるとしたら、それは無神経だというだけである。
私は、「自分なんかが生きていること自体が過ちなんだ」というくらいのことを思っていないと、薄ら厚かましい人間になると思っている。まったく後悔しなければ人としての成長もない。
自分の行動が人にどのような影響を与えるかという想像が働くと、人は自ずと後悔することになるはずだ。後悔しない人間は、想像力のない人間である。
人と付き合うということはそれほどに大変な作業であって、人生、一瞬一瞬が後悔の連続なのだと思う。
恋愛は幻想であるべきだ
最近の若い人には「自分主義」が散見される。「自分らしさ」に最大の価値を見出す人や、やたらと「私はそうは思わない」と反対してみせる人など、とにかく「私」が主役。
今、世の中に「私らしく」といったことを歌いあげる歌も溢れているが、自己の内面を深めたり、進化させたりという努力の蓄積の浅い若者が「自分」を主張してみせても、そこにはなんの根拠もない。そんなことに力を注ぐのではなく、この「私」がどう進化していくかということに対する興味を持つことこそが大事なのだ。その興味が根抵にないと、恋愛も現実に翻弄される味気ないものになってしまう。
恋愛において本当に重要なのは、自分ではなく相手であって、それも現実ではなく幻想でなければならない。なぜなら、その幻想によって人は脳内を刺激され、「変化」し「進化」することができるからだ。
なんとなく男女が出会い、なんとなく恋愛して肉体関係だけが始まる……そんな恋愛などつまらない。相手の精神生活に対して恋をするのでなかったら、恋愛なんかしちやダメだ。
現実と幻想の見境がつかなくなる精神状態が恋愛であって、現実そのものを受け入れたら恋愛なんて途端につまらなくなる。
相手に対して、現実の姿で考えるのは人生設計であり、そこにあるその人物の夢や幻のようなものに思いをめぐらせるのが恋愛であるとも言える。
可能性から言えば、探せば自分にとってもっといい相手がいるかもしれない。しかし、そんなことを考えて「はたしてこれでいいのか」なんて悩んでも、永遠に答えを出せないし行き止まりだ。だから、恋をするなら思い切り幻想に浸って、脳を刺激するべきだ。それによって、人は思い悩み、成長し、進化することができるのだ。
恋愛とは後悔の連続である
「人生における後悔をなるべくなくしたい」という意見があるが、理解しがたい。
自分に与えられた苦難については「いい試練だった」と思えばよいのであって、その経験を後悔する必要はない。苦難を乗り越えようとする時間は人生において無駄な時間ではなく、成長するための糧だからだ。
ただし恋愛においては、後悔はしなければならない。自分か与えられた苦難はいいとしても、自分が人に与えている苦難というものもあるはずで、それについては考えなくてはならないからだ。
恋愛では、相手に必ずなんらかの苦労をかけているものだ。いくら自分かきちんとしていると思っていても、相手から見たら不満だらけかもしれない。順風満帆に見えても惚れ合っていれば愛が醒めるのを心配するし、誰かから片想いをされているとしたら、自分が何もしていなくても苦難を与えていることになる。
だから後悔しないでいられる恋愛というものはまずない。「自分の行動のすべてが人を傷つけない」という保障がなければ、恋愛において後悔しないなどということは不可能である。人を傷つけておいてその痛みを感じない想像力のなさというのは信じられない。「後悔しない恋愛」があるとしたら、それは無神経だというだけである。
私は、「自分なんかが生きていること自体が過ちなんだ」というくらいのことを思っていないと、薄ら厚かましい人間になると思っている。まったく後悔しなければ人としての成長もない。
自分の行動が人にどのような影響を与えるかという想像が働くと、人は自ずと後悔することになるはずだ。後悔しない人間は、想像力のない人間である。
人と付き合うということはそれほどに大変な作業であって、人生、一瞬一瞬が後悔の連続なのだと思う。
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