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豊田市図書館の23冊

未唯へ

 駅前のスタバでは、ロールラテとシフォンケーキとFTです。

豊田市図書館の23冊

 この時間だとすり抜ける。イヤなおばさんがいない。4時半に来るみたいです。だから、3時半までに名古屋を出ます。

 675『3万人調査で読み解く日本の生活者市場』ニューノーマルがわかる88のポイント

 673.98『僕は人も街も再生する酒場のプロデューサー』明るさを持ち続けると明るさは集まってくる。商売も、生きがいも好きでやり続けていることによって魂が震え上がるようなエネルギーが宿る。

 675『ブランド戦略・ケースブック』ブランドはなぜ成功し、失敗するのか

 361.4『現代コミュニティ心理学』理論と展開

 336『アントレ・リーダーの「情熱」仕事術』起業家精神でチームを導く

 589.77『任天堂のWiiのすごい発想』技術競争を捨てて--新しい市場開拓に成功 いかにしてWii&DSは爆発的ヒットを生み出したか

 451.02『気象を操作したいと願った人間の歴史』

 547.48『インターネット白書2012』モバイルとソーシャルメディアが創る新経済圏

 816『グローバル時代の文章術』Q&A60

 007.35『ビッグデータの衝撃』巨大なデータが戦略を決める

 914.6『図書館めぐりはやめられない』元塩尻市立図書館長のアンソロジー

 377.7『研究費が増やせるメディア活用術』

 334.38『女性のいない世界』性比不均衡がもたらす恐怖のシナリオ

 312.1『日本はなぜ開戦を踏み切ったか』「両論併記」と「非決定」

 914.6『学生時代にやらなくてもいい20のこと』

 493.7『心の病 回復への道』

 312.22『現代中国の政治』「開発独裁」とそのゆくえ

 913.6『明日の記憶』

 323.9『現代国家と行政法学の課題』新自由主義・国家・法

 336.4『国際比較の視点から日本のワーク・ライフ・バランスを考える』働き方改革と政策課題

 368.62『ネゴシエイター』人質救出への心理戦

 379.9『思春期の子と心の距離を感じたときにできる大切なこと』

 319.8『平和を目指す君に』ネパールとアフガニスタンで考えた抑止力と平和構築

考えるとことと本

 考えるということなのか。本を読むことはいいけど、考えているのか。本の後処理も不kめて、考えているか。本で何を言いたくて、どうしたいのか。本という手段だけで、それが成り立つのか。言えば済むことなのか、言わなくてもいいことなのか。

項目の完結性

 一項目だけでも、ネタになります。週日は枕元に置いて、一つひとつを考えます。土日は本があります。それを処理しないと。体裁を整えるのが、私の役割ではない。256の項目から積み上げることです。

仕事に違和感

 仕事とか、リーダーシップに対して、違和感を感じている。仕事をすると言っても、仕事自体の定義がされていない。それが誰の役に立つのか。自分にとって、役に立つのか。

 リーダーシップを他人を従えることことかもしれないけど、この会社にはリーダーシップを持っている人はいない。それでも会社は動いているのが不思議です。

 私は研究開発部署に異動した時に、上司から、会社は自分のミッションのために、使うものだと教えてもらった。決して、会社のためではない。当り前だけど。

本の処理

 夜までの借りてる本を処理を完了しました。

 日・月は未唯空間に専念できます。
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一九〇二年、再び世界とつき合いはじめた年

『驚きの英国史』より

「孤立」というのは、ふつう外交の分野ではいいことではない。だがイギリスには一九世紀後半に「栄光ある孤立」と呼ばれる時代があった。

ある見方によれば、イギリスは非常に強大だったため他国と強固な同盟関係を結ばずに超然としていられ、ヨーロッパの厄介な問題に「巻き込まれる」ことを避けられた。この幸福で平和な状況は数十年続いたが、ドイツの台頭によってヨーロッパの力の均衡が脅かされたことで、イギリスは首を突っ込まざるをえなくなった。

「栄光ある孤立」という言葉が広まったのは一八九六年、イギリスが超然としていた時代のなかではかなりあとのほうだった。言葉のもとになったのはカナダのある政治家が議会で行った発言で、それがやがてイギリスで言い換えられて使われるようになった。

最近では一部の歴史家がべつの見方をしている。「栄光ある孤立」は意図された政策ではなく、どちらかと言えば当時の状況からたまたま生まれたものであり、一部の政治家は危険で不幸な状況だと考えていたこともあったという。

いずれにせよ、イギリスの孤立は一九〇二年、意外な相手と同盟を組んだことで終わりを告げる。その相手とは日本。それまで国際社会では重要な国とみられておらず、強力な同盟国がなかったためにイギリスよりもはるかに不安定な地位にあった。

もし日英同盟が、イギリスが国際政治の「水につま先をつけた」出来事だとするなら、それからすぐにイギリスは水に飛び込んだ。一九〇四年には英仏協商を締結し、一九〇七年には英露協商を結んだ。わずか数年のうちにイギリスは、第一次世界大戦をともに戦うことになる国々と同盟を結んでいた。

日本への影響も大きかった。日本は一八九五年の三国干渉によって、日清戦争後に割譲された領土を返還するという屈辱を味わっていた。イギリスと同盟関係を結んだことで、日本の意気は上がり、国際的な地位も高まった。やがて日本は三国干渉の中心だったロシアを破って復讐を果たす。

日本とイギリスの協力関係の例のひとつが戦艦三笠だ。イングランド北西部にあるバロー・イン・ファーネス造船所で建造され、日英同盟が結ばれた年に日本に引き渡された。一九〇五年に東郷平八郎元帥(イギリスで操船術を学んだ)が対馬沖海戦(日本海海戦)でロシアの艦隊を破り、事実上ロシアに講和を求めさせるまで追い込んだとき、三笠は東郷の旗艦だった。

三笠は一九二一年に廃艦が決まる。そして、日英関係は悪化する。だが三笠は今も生き残っており、横須賀で博物館になっている。それは戦艦だったときよりも、それぞれの理由で孤立を脱する必要があった二国の同盟をよく表す存在だ。
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ロンドンで育った共産主義

『驚きの英国史』より

イギリスには亡命者を受け入れてきた奇妙な歴史がある。ときには、彼らを受け入れさせたリベラルな精神とも相容れない過激な思想の持ち主をもてなしたこともある。

最も有名な例はカール・マルクスかもしれない。数百万数千万の命を奪うことを正当化するのに使われたイデオロギーをつくり出した人物だ(彼自身はそんなことになるとは思っていなかったし、もちろん実際に手を下したわけでもないのだが)。マルクスはフランスとベルギーから追放されたのち、一八四九年にロンドンに移住し、残りの人生をそこで過ごした。

マルクスが共産主義の主要文献である『共産党宣言』と『資本論』の調査・執筆を行ったのはロンドンだった。大英図書館の読書室である。マルクスの墓は、ロンドンの有名なハイゲート墓地の目玉かもしれない。なんともみごとな像で、イギリス共産党(影響力はゼロに等しい)が一九五四年に寄贈した。

マルクスの友人であり、スポンサーであり、協力者だったフリードリヒ・エングルスもイギリスに住んでいた。若いときにはマンチェスターに、プロイセンを追放されたあとにはロンドンに住んだ。

一般的に言って現代では、ドイツやフランス、イタリアといった大陸ヨーロッパの国に過激思想の強い伝統がある。政府側と革命勢力側の両方にである。そのため国家は革命勢力を非常に恐れ、彼らを追跡して弾圧しようとした。イギリスでは政府側にも反政府側にも、その伝統がなかった。だからイギリスにやって来た外国の過激思想家たちは脅威とはみなされず、政府も弾圧しようと考えなかった。

マルクスの足跡をたどって、マルクス主義の信奉者たちがイギリスヘやって来た。一九〇二年にはウラジーミル・レーニンも大英図書館への入館を認められ、そこで膨大な読書をしたといわれる。レーニンは図書館から一キロ半ほど離れたクラーケンウェル・グリーンと呼ばれる小さくて気持ちのいい広場に事務所を構え、「イスクラ(火花)」というプロパガンダ新聞を編集してロシアの反体制派にひそかに送っていた(最初のころレーニンはイギリス料理があまり好きではなかったが、二階に屋根のないオープントップ型のバスやパブやフィッシュ&チップスは好きになったようだ)。

一九〇二年にはレオン・トロツキーが流刑先のシベリアから逃亡し、ロンドンにいたレーニンと合流し、「イスクラ」の編集部員に加わった。翌一九〇三年、ロシア社会民主労働党(すなわちレーニンとトロツキーの共産党だ)は第二回党大会をロンドンで終えた(大会が幕を開けたのはブリュッセルだったが、ペルギー政府に追い出された)。この党大会にはヨシフ・スターリンも参加していた。

伝えられるところでは、レーニンはクラーケンウェル・グリーンにあるクラウン・タバーンというパブでスターリンと会い、話をしていた。やがて口シアを内戦と恐怖と、国家の過失による飢饉に陥れる二人の男が、感じのいい小さなパブでビールをちびちび飲んでいる場面を想像すると、面白くて不条理な感じさえする。このパブは教会の隣にあり、金融街にも近く、宝石店街も目と鼻の先にある。二人が「あれもこれもみんな消えるべきだ」と話していたのではないかと想像すると、なんとも不思議だ。

ロシアの共産主義者たちの生涯をつづる伝記作家は、トロツキーとレーニンは後年になってもコスモポリタンな感覚をいちおう失わず、人道主義もわずかにそなえ、少なくともリベラルな民主主義も理解していたが、ロシアを離れたことがほとんどないスターリンにはそういう感覚がなかった……と書くことがあるだろう。実際のところ、この三人が自国民に対して働いた暴力の程度や他国の政府に示した姿勢には、ほとんど違いがない。三人とも非人間的なイデオロギーにからめとられた残虐な男たちだった。リベラルな民主主義に触れたとしても、彼らの根本が変わることはなかった。

イギリスではレーニンが一九一七年にロシアで権力を握る前に、労働者階級の利益になる本物の改革が行われていた。しかし警察国家のシステムに支えられた独裁制だけがめざすべき道だというレーニンの信念は、決して揺らぐことがなかった。
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