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何もないところ

未唯へ

 豊田市駅前のスタバです。なかなか、FMは難しいので、完結性に集中させます。

何もないところ

 何にもないところから始めます。だから、何にもなくします。何がない。時間も9月までしかない。人も居ない。誰も居ない。パートナーも居ないから、制約もない。

 TMには声を掛けましょう。パートナーの制約から離れたから、気にすることはなくなった。まるで気にされていないから、気にする必要はない。7月から、パートナーは居ないことになっています。その割にはチョコチョコを話をしています。まとまった相談はありません。自分の意思確認だけです。

 やはり、自分の部屋を片付ける所から始める。全てを捨てられるか。

256項目の完結性

 今、仕事の振りをしているのは、とりあえず、新しい刺激を受けるためです。やりたいのは256項目完結性です。

 会社に入った時に、考えたシナリオの最終形です。その時間を与えられています。関係するための項目の順番はランダムです。偶然が決めていきます。例えば、織り込む時に、対象となる項目の完結性を見直します。頭からやっていると、機械的になってしまうから、そういうカタチにしましょう。

ポータルはプッシュ

 ポータルはプッシュするためのツールです。本社にプッシュするものがなければ、不要です。それは店舗とのコミュニケーションが成り立っていないことです。グローバルにプッシュするものがないと言うことはグローバルは意味を持たない。

 ポータル配下でコラボとライブラリをセットさせます。ライブラリはあくまでもプル型です。情報があることをポータルが知った上で、自分が必要なものを引いて来ることです。コラボはローカルで結論付けることです。その結果を伝えることです。

 この構造は4年以上前に作り上げました。これでヒアリングします。どの経営者も反応できなかった。今回、集まってくるメンバーにはそんな全体的な概念がない。自分たちが何を作ろうか、それで自分たちがやったことになるのかどうかが関心事です。

 その中で、パートナーには頑張ってもらいたい。かなりのことは分かっているはずです。だけど、その思いをメンバーに飲み込ませるだけの技量はまだありません。というよりも、考えるベースが私と異なるのでしょうね。現実的という名のいい加減さを持っています。

 私のとっては、ポータルと言うものの限界を知っているから、それで十分です。もっと、広い社会での実験に行きます。

多数決でなく、つながること

 市民主体社会で一番異なるのは、多数決ではないと言うことです。組織の論理ではない。それぞれがつながっていくことでグループを作り、グループをベースに同じようにつながっていく。

 一つのものに収束させて、パーティを作るとは違います。組織が真ん中ではない。その意味では民主党、自民党、小沢とは関係ない世界です。近傍の世界です。多数決ではない。個人のつながりです。
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シェアという価値観

『3万人調査で読み解く日本の生活者市場』より

緩やかなつながりが心地よい「ルームシェア」

 「アリー my Love」「フレンズ」など、海外ドラマに登場するルームシェア。欧米では若者のライフスタイルとして一般的だが、日本でもドラマや情報番組で話題となり、紹介サイトも増え、にわかに人気を集めている。

 全回答者3万人中の約1%がルームシェアを経験し、約3%が利用意向を示す。若年層の特に男性の利用経験・意向が高く、20代男性ではすでに約2%がルームシェアを経験、約5%が利用意向を持つ。

 では、なぜ若者はルームシェアを求めるのだろうか。部屋を共有することで生活費負担を抑えることができるが、どうもそれだけではなさそうだ。

 20代男性の経済的余裕度を見ると、「経済的に余裕がある」との回答が全体19%に対して、ルームシェア経験層は30%と高く、必ずしも経済的に困っていない。一方、20代女性では、経済的に「余裕がある」「余裕がない」のいずれの回答もルームシェア経験層が高く、生活費負担軽減のためにルームシェアを志向する場合もあるようだ。

 20代ルームシェア経験層のライフスタイルに目を向けると、共同生活をしながらも「気ままな生活をしたい」一方で、「自分よりみんなの幸せを考えたい」「誰も見ていないときにもルールに従う」といった他人や規律を大切にする様子もうかがえる。自分のスタイルを大切にし、同居人との距離感を守りながら、緩やかなつながりが心地よく刺激となっているようだ。

 ものは増やさず、利用頻度の低いものは借りたり、共有する「SHARE」スタイルも彼らの特徴だ。仕事にも前向きで、「満足感や充実感のある仕事をしたい」「責任者となり他人を指導したい」と自己実現による上昇志向も持ち、新たなアイデアを生み出し、独立開業の意向も高い。

 「SHARE」は、単純な貸し借りだけにはとどまらない。「SHARE」スタイルに、「緩やかなつながり」「仕事にも前向き」といった特徴を重ねると、さらなる新しい価値やビジネスの創造も期待できる。

電子書籍と読書家の微妙な関係

 「電子書籍元年」と言われた2011年。ソニー、パナソニック、シャープ、NTTドコモ、KDDIなど、各社が相次いで電子書籍端末を投入した。もっとも、電子書籍は新しいものではない。2004年にはソニーのLOBR16、松下電器(当時)のΣBookと、大手メーカー2社から端末が発売され話題になった。しかし、電子書籍市場は、今も携帯電話向けの電子コミックを除くと、たかだか100億円規模にとどまっている。6%という電子書籍端末の保有率を見ても、まだ普及には遠い。

 海外では、アマゾンのKindleが2007年末に発売され、電子書籍ブームを作り上げた。Kindle人気を支えているのは、電子製品にありかちな新しもの好き層ではなく、読書家だと言われている。他の多機能なモバイル端末に比べ、電子書籍を読むだけのKindleは、当初、決して良い評判ではなかった。だが、読書家にとっては、軽くて単機能で、紙の書籍よりも安く本が買えるKindleは最適というわけだ。そもそもアマゾンはオンライン書籍ストアであり、大量に書籍を購入する読書家を多数顧客に抱えていた。Kindleに乗り換えるのは、自然の流れとも言える。

 一方、日本の電子書籍は、電機メーカーが中心になって作り上げてきた経緯がある。そのせいか、今はまだ電子書籍端末は目新しい電子製品のひとつにすぎない。

 電子書籍端末を保有している人のうち、2008年以前に購入したのは50%の865人。Kindleが日本に輸入されたのは2009年であるから、この865人は、前述したLIBR16などの購入者と考えられる。この層は、スマートフォンやタブレット端末、デジタルフォトフレームといった電子機器の保有率が平均よりも高い。すなわちデジタル製品好きとみられる。その一方で余暇に「読書をする」という割合は43%と、平均よりは高いものの、大きな差ではない。

 日本でも電子書籍市場が大きく広がるのは、電子書籍端末が電子機器の新製品としてではなく、書籍の延長として読書家に評価される日が来たときなのではないか。
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カントの三つの問い

『気象を操作したいと願った人間の歴史』より

哲学者イマヌエル・カントは、著書『純粋理性批判』でこう述べている。「私の理性の関心のすべては……以下の三つの問いに集約される。

 (1) 私は何を知りうるか?

 (2) 私は何をすべきか?

 (3) 私は何を望みうるか?」

こうした普遍的な問いは、理論、実践、道徳において計り知れないほどの重要性を持つ。三つの問いを気象と気候の制御に当てはめて、本書の結びとしたい。

 (1) 私は何を知りうるか?

  気候はつかみどころがなく、複雑で、予測不能であることを、われわれは知っている。気候はあらゆる時間的・空間的規模でつねに変化していることを、われわれは知っている。そして、入り乱れた詳細についてはほとんど知らない。来週どんな天気になるか、近い将来か遠い将来に突然の激しい気候変動があるかどうかは、わからない。人間、とりわけ「奪う者」が農業を通じて、また、化石燃料の燃焼とその他の多くの行為のすべてによって、気候システムに摂動を与えてきたことをわれわれは知っている。それらすべての究極的な帰結はわからないが、よくはないだろうと強く疑っている。気象・気候制御が明暗入り交じる歴史を持つことをわれわれは知っている。傲慢さから生まれ、ペテン師と、誠実だが道を誤った科学者たちを育んできた歴史である。気象・気候制御計画のほとんどが、その時期の差し迫った問題への当てずっぽうの対応で、その時代に流行していた最先端の技術である大砲、化学物質、放電、飛行機、水素爆弾、宇宙探査ロケット、コンピューターなどに依存していたこと、そうした技術の大半は軍に起源があることも知っている。気候システムを最もよく理解する人たちが、その複雑さに対して最も謙虚であり、気候を「修理」する簡単で安全で安価な方法があるとはとうてい言いそうにないことも、われわれは知っている。多くの気象・気候エンジニアが、そうしたことを考えた「第一世代」だと自負し、「前例のない」問題に直面したがゆえに、歴史の前例とは無縁だと思い込んでいることも、われわれは知っている。ところが、彼らにこそ、歴史的前例がどうしても必要なのだ。

 (2) 私は何をすべきか?

  われわれ全員がそう問い、最も合理的で公正で効果的な答えの実現に力を合わせるべきだ。気候研究所の私の同僚たちは、中道的解決策の支持を雄弁に説きながら、責任ある地球工学の研究も擁護し、その一方で、憶測に走る人たちを啓蒙し、やんわりと誤りを正している。地球工学の危険は地球温暖化の危険よりも悪いのかと問うてきた人たちもいる。おそらくそのとおりだと、私は思う。ことに、われわれが歴史上の前例と文化的意義を無視すれば、そうなるだろう。自然の複雑さ(と人間の性質)を前にして、十分な謙虚さと、畏怖さえ培うべきだ。複雑な社会的・経済的問題に対し、単純化しすぎた技術的解決策を提案してはいけない。単純化しすぎた社会的・経済的解決策を提案するのもいけない。検証不能な結果について功績を主張してはいけない。地球の発熱にはヒポクラテス流の処方箋「助けよ、さもなければ、少なくとも害を与えるな」を採用しよう。幅広い気候区分と多くの文化を持つ多元的世界において、緩和と適応を実践しよう。最優先すべき倫理的大原則として、カントの定言命法〔皿誤謬款談〕に従うのがよいのではないだろうか。「あなたの意志が同時に普遍的法則となるような格律のみに基づいて行動しなさい。

 (3) 私は何を望みうるか?

  恐怖と不安はわれわれを凍りつかせ、行動を起こすのを阻んだり度を超した行動をとらせたりする。われわれはそうした恐怖と不安の克服を望むことができる。みなが納得できる、合理的で、実用的で、公平で、効果的な気候の緩和と適応の中道の出現も、望むことができる。
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