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薩長同盟の意味

未唯へ

 今日の午前中は岡崎図書館経由で、老人ホームです。

 「むき栗3袋」400円を母親に持っていきます。これは売りがいいです。セブンイレブンしか売っていない。ただ、お菓子売り場が散らばっています。むき栗を探すのに苦労した。

Think Globallyをいかに空にする

 夢の中で、Think Globallyになる瞬間を見ていた。ずっと、全体のことを考えていた。そこでできた答はThink Globallyをいかに空にするかです。

 頭の中に空洞ができています。寝ながらも眩暈が起こっています。そこで、思考停止することを自分に課しました。本当に危なかった。

 寝ることで思考を進むので、休日なのに、4時からパソコンに掛りました。脳に空間ができていると、奥さんに言ったら、「水でも詰めておけばいい」とと言われた。

 私のことを見ている人はいません。言わないで、自分で解決しましょう。

『21世紀の薩長同盟を結べ』

 『21世紀の薩長同盟を結べ』は同じことを述べているだけ。なんやかんか言っても、他人が居ると思っている。その中で、いかに商売するのかを述べている。本来の思考はそうではない。人は関係ないです。

 例として、トヨタが出てきたり、高木貞治さんとか、ウィトゲントシュタインが出てくる。それも意味もなく、急に出てきます。

 薩長同盟を主題とするのであれば、その結果、明治の国民が幸せになったのか、歴史的に見て、他の道がなかったのか、解析学から見たら、自明なのかまで遡ってほしい。感覚としての、坂本龍馬と薩長同盟を述べている。

 薩長同盟語に、欧米に見習って、国民皆兵・国民国家に向かうと同時に、日本の中の同一化を図っていった。地域の優位性がなくなった。徳川幕府の時のような各藩での地域物産も集約された。貿易も国に一元化された。

 それはあたかも、毛沢東が中国農民を人民解放軍にして、グローバル化したのと同じ道です。徳川幕府は地域活性化の生き、そして、地域に壊された。それが薩長同盟です。

 本として書くとなれば、薩長同盟にして、どういう世界を日本に実現するのかをまずは述べないといけない。

 同時に、高木貞治と言うのであれば、解析学で薩長同盟をどう解析するのかです。私が解析概論に感激して、読みこなすのに、半年掛けました。

エレベーター操作

 エレベーター操作も、エレベーター操作をする人と嫌いです。なぜ、これ見よがしに、余分なことをするのか。無理に入ってきた人ほど、閉ボタンを押します。

 今のエレベーターは個性を持っています。彼らに任せればいい。関与するな。

岡崎図書館の10冊

 岡崎図書館はあまり、大した本がなかった。予約本を1冊とドイツの本も借りました。今日一日で片付きます。こちらも、ネットで本を押さえましょう。

 293.4『ドイツ』いい旅・街歩き』

 913.6『黒の狩人(下)』

 918.6『朝鮮戦争』

 304『21世紀の薩長同盟を結べ』

 493.7『心の病 回復への道』

 135.3『文明』

 847.5『ドイツ語で読む珠玉の短編』

 135.5『真理の勇気』コレージュ・ド・フランス講義 1983-1984年度

 302.2『アラブ革命への視覚』独裁政治、パレステナ、ジェンダー

 198.3『マルティン・ルター』ことばに生きた改革者

豊田市図書館のネット予約本

 304『失われた30年』逆転への最後の提言 予約して獲得
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企業と地球環境

『よくわかる産業社会学』より

1 地球温暖化問題

 企業の活動は、しばし公害問題を引き起こす。しかし現在、公害問題とは別に、地球環境問題が深刻化しつつある。公害問題が、特定地域に被害をもたらす、現在の世代にとっての問題であるのに対し、地球環境問題は、人類全体に被害をもたらす、将来の世代にとっての問題であるという違いがある。

 地球環境の危機について最初に警鐘を鳴らしたレポートとして知られているのが、ローマ・クラブの『成長の限界』である。同書は、1970年代初頭において、世界の人口や資源消費量が幾何級数的に増加していること、それゆえ、近い将来に食料不足、環境汚染、天然資源の枯渇といった危機が到来することを予測した。

 これらの予測がすべて的中したわけではないが、実際に深刻な問題として浮上したのが、地球温暖化問題である。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の推計によれば、CO2などの温室効果ガスの排出により、過去100年間に世界の年間平均気温は0.74℃上昇した。さらに、これまでのペースで化石エネルギー源を重用しつつ高い経済成長率を維持し続ければ、21世紀末にはさらに4.0℃上昇するという。もし、事態がこのシナリオ通りに進行するならば、海水面の上昇や生態系の破壊により、人類全体が大きな被害をこうむることになる。

2 温室効果ガス排出削減目標

 このような状況を前にして、国際レペルおよび政府レペルで、温室効果ガス排出削減に向けての取り組みが始まった。

 まず、1992年、気候変動枠組条約が採択され、世界の189ケ国がそれぞれの国の状況に応じて地球温暖化対策を講じることが合意された。さらに1997年には京都議定書が採択され、先進国に対し、基準年度に対する2012年までの温室効果ガス排出削減目標を課すとともに世界全体としての排出量を削減するため、排出枠を金銭で売買する国際排出量取引の仕組みが設けられた。

 京都議定書において、日本は6%の排出削減目標を課せられた。これを実現するため、地球温暖化対策推進法(1998年制定)に基づき、2005年、京都議定書目標達成計画が定められた。具体的には、温室効果ガス排出量の算定・報告・公表制度の導入などにより、企業による自主的な温室効果ガス排出削減を促すことになった。

3 企業の取り組みと残された課題

 表は、基準年度と2008年度の国内の温室効果ガスの排出状況を比較したものである。ここから、基準年度の段階で、産業部門および運輸部門からのCO2排出が、それぞれ全体の38%および17%を占めていることがわかる。

 産業部門のなかで最も排出が多いのは鉄鋼業であるが、大手鉄鋼メーカー4社では, 1990年度から2007年度にかけて、粗鋼生産時のCO2排出原単位を。13.7%から20.1%削減している。また、運輸部門からの排出にかかわっている自動車メーカーでは、CO2排出が少ないハイブリッド車、バイオ燃料対応車、燃料電池車、電気自動車などの開発に力を入れている。企業が自主的に環境対策を行っていることがわかる。

 これら企業の環境対策と関連しているのが、社会的責任投資(SRI)の拡大である。 SRTとは、企業の経済的なパフォーマンスだけでなく、社会的責任の遂行度合いも考慮して行われる投資活動のことである。特に日本では、環境対策に力を入れている企業の株式を優先的に購入するエコファンドと呼ばれる投資信託が大きな比重を占めている。各企業が環境対策に取り組む背景には、株価を安定させ資金調達を有利に進めたいという動機も働いている。

 それでは、温室効果ガスの削減効果はどの程度みられるだろうか。基準年度から2008年度にかけて、産業部門からの排出は抑制されたが、業務その他部門(オフィスなど)や、家庭部門からの排出は30%以上増加している。このことは、工場での環境対策は一定の成果をみせているが、オフィスなどそれ以外の場所での環境対策は不十分であること、さらには、企業だけでなく家庭での環境対策も不可欠であることを意味している。
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語りえぬもの

『さまよえる自己』より

『論考』を執筆し始めたころ、ウィトゲンシュタインは、ノルウェイの寒村にこもっていた。しかし一九一四年、第一次世界大戦が勃発するや、母国オーストリアの志願兵として前線に赴く。この従軍に際して、彼はトルストイの『要約福音書』を携行した。激戦地に配備され、勇敢な戦いぶりで勲章の授与も受けたが、一九一八年、イタリア戦線で捕虜となった。

その間にも『論考』は書き継がれ、草稿は収容所からラッセルの元へと無事届けられた。素朴な写像理論から言語と自己の考察へ、言い換えれば、論理から倫理へと『論考』が転回した背景には、迫りくる死の問題があったとされている。彼の思惟は死の影によってさらに鍛えられた。

死は、死すべきものとしての、個体としての自己を照らし返す。死なないものは個体ではない。死という絶対的否定性を前にした時、人はいやがうえにも個であることを自覚させられる。では彼は、自己をどこに見出したのだろうか。

 五・六三一 もし私が「私の見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは当然私の肉体についても報告がなされ、また肉体のどの部分が意志に従い、どの部分が従わないか、などについても語られるであろう。すなわちこれは主観を孤立させる方法、というよりむしろ、ある重要な意味において主観は存在しないことを示す方法なのである。つまり主観は、この書物の中で話題にすることのできない唯一のものであろう。   (同前)

彼は言語の世界の中に自己がないことに驚く。「私の見出した世界」の中に私はいない。それは視野の中に、それを見ているのが私だということを示すものがないことと同じ構図である。

その直後、第二章で引用したように、彼は、自己とは世界には属さず、世界の「限界」であるという結論にたどりつく(五・六三二)。つまり自己は言語の外に立てるわけでもなければ、言語の中にあるわけでもないのである。

人間の意識はみずからの死によって縁どられている。それは自らの死を知ってしまったという不幸と引き換えに得られたのかもしれない。そして人間はこの死を象徴化する。人間にとって、死とは単なる自然現象(ピュシス)ではなく、象徴的なもの(ノモス)である。それを端的に示すのが、葬式を執り行い、墓を建てるという、人類にほぼ普遍的にみられる文化である。

それ以前に、死の象徴化をダイレクトに示すのが、「死」という言葉である。死は言語の世界の中に取り込まれる。ただ、これにはからくりがある。

確かに「死」という言葉によって、われわれは死を知る。しかしその死は、反復可能であり、交換可能である。知るためには致し方のないことであるが、それによって、私の死も、他人の死も、同じ「死」という言葉でくくられる。すでに死んだ人の「死」も、まだ生きている人の「死」も、同様である。さらには「死」は「生」と対置され、同一平面上に置かれる。それゆえ死のもつ絶対的な断絶は、言語化され、それを知った時点で失われる。

しかし、いったん言語はみずからのうちに死を「死」として取り込みつつ、言語では語りえないものとしての〈死〉を、その向こう側に示すのである。からくりというのは、こうした転倒した機制のことをいう。

このように、言語は取り込めないはずのものを言語化し、そしてその彼岸に語りえないものとしてそれを示す。ただし、われわれは言語の外には立てない。そのことをもって『論考』は結ばれている。すなわち、

 七 語りえないことについては、沈黙しなければならない。  (同前)
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