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生活編の再構成

未唯へ

 朝からだと,0.7。やはり、歩かないとダメということと間食はダメですね。

 ボディタオルはサウナでは使えない。水気が取れない。拭けば拭くほど濡れます。だから、100円タオルの方を携行します。それよりも実にタオルの方がいいかもしれない。

未唯空間生活編の再構成

 生活編に入りました。

 ポイントは、孤立と孤独の生活から、なぜ、発信しないといけないのか、社会にアプローチするのか。サファイア社会における生活を、ある意味ではローエネルギーでやっています。そんなことを誰も見ていないのに、なぜやるのか。内なる生活からすると、自分の問題だけです。そこでのシミュレーションはどんどん、哲学的になっています。

刺激に反応

 歳になってから、こんなことをやって、よく脳が持つという感じがします。以前に比べると、色々なものがつながる部分が増えています。どんな刺激にも反応します。

 それが意味あることかどうかが、ポイントなんでしょう。家庭にとっては、意味がないことだけは自明です。社会にとっても意味がないのは分かります。但し、存在と無からすると元々、誰もそんなものは持っていない。どんな芸能人だろうと、所詮、無です。生まれてきた理由を明らかにしたいだけかもしれない。

こういう生活

 他人の存在が信じられない私は、こういう生活しかない。この生活を正当化しようとは思わない。こういう生活もあるということを、自分の中で確認したいだけかもしれない。

生活の構成

 他のジャンルと同じで、さらに具体的なカタチにします。恰好をつける部分は少なくします。生活編だから、格好つけないとやっておれないというのも確かです。

 五月からの基本は存在したくないです。そのために、薬も一ヶ月間止めました。効果がなかった。考えることを中心にすると、生活は更に単調になります。むしろ、無為ですね。この言葉が生きてきます。

 読むことと、発信すること、といっても、誰も見てないけど、自分のライフサイクルで毎日を片付けています。以前と比べると、毎日やったことが次に生かされることが多いです。まあ、これだけでも十分な生き方なんでしょうね。人に振り回されている生活でないことは確かです。奥さんを含めて。

社会編の存在と無

 社会編の順番というか、全体の構成が変わっています。無と有との関係みたいです。まあ、ローカルとグローバルとのアナロジーです。無がローカルで、存在がグローバルで、外に向かいます。自己主張します。だから、最初の無は考えること、考える生活は自分の中でやっていればいいという感覚です。

 存在は社会に向かっていく、存在を主張していく。そこでは社会を変えたいというところまで言っています。とりあえず、社会に提案しましょう。所詮は無です。社会はそんなことを聞くはずがない。社会である限りは存在を認めないでしょう。

 ということで、二巡目からは無に戻ります。無の中で快適に考えるために、自由に暮らしていくということ、と言っても、ある意味がある。

 自分の時間を自分で使っていくところに行きます。それも何かをなす為に、無は無として、単にクローズするのではなく、存在に向けて、準備します。最大の存在はサファイア生活です。他のジャンルで出てきたサファイアの概念、それをなす為に、個人がいかに近傍化することが必要であるかを実証します。

 最後は存在と無の合体で、内なる世界と外なる世界です。内なる世界で理想を述べます。それは無の世界をベースにして、全てをその中に押し込んで、存在を言っているので、矛盾はしません。

 このロジックはなぜ必要なのかというと、必要ないです。内なる世界の出来事です。だけど、単に無の世界だけで終わるのではなく、存在と世界を一緒にした時にどのように心が動くのかというところです。

 皆、個人主義になるとか、全体主義になるのはいいけど、その中でバランスは取らないと行けない。そして、無でありながら、社会を変えていくというところは、皆が持てば、変わります。存在だけでは、自己主張だけでは、社会は変わりません。お互いが自分は虚しい存在であることをベースにして、変えていくことです。

 生まれてきた理由でもって、変えていく。なぜ、生まれてきたのか、なぜ、社会を変えないといけないのか。

本の整理

 生活の部分で本の処理部分はでかいです。土日のかなりを使っています。

 その成果は単に知識だけでなく、こういう大容量の整理、表現の仕方、個人ライブラリとしての扱い方、iPadなどで、見えるようにしていくけど、考えるための道具、本の新しい形態も表わしていきます。
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リサイクルという幻想

『ふしぎな社会 おかしな行政』より

ゴミをそのまま焼却したり埋め立てるのではなく、モジュール(部品・要素)や成分の物質に還元し再利用して行けば、資源も節約できるし、環境への負荷も少なくなるという。このことは観念的には正しく、これが広範囲に可能なら、大量生産、大量販売という戦略と資源、環境問題はある程度両立する。

しかし、どんなゴミでもリサイクルに馴染むわけではない。資源というものは、あるかないかではなく、市場価格に見合うコストで入手できるかどうかが問題だからである。カリフォルニアなどの河川の川底には今でも砂金が存在する。それでも、趣味以外に採ろうという人がいないのは、日当に見合う量が採れないからである。海水中には金や白金などの貴金属が大量に存在するが、回収コストが高いので資源として認識されていない。逆に、石油はあと数十年で枯渇するといわれているが、本当にそうなって化石燃料の価格が高騰すれば、無尽蔵にあるというオイルシェルなどが資源化されるだろう。

リサィクルも基本原理は同じである。アルミ缶は回収率が高くリサイクルの優等生といわれているが、その理由は低コストで原料化できるからだ。天然資源のボーキサイトは安価ではあるが、精製してアルミニウムにするためには膨大な電力を必要とする。しかし、アルミ缶は既に電力の塊である金属になっているため、これを元に地金を作れば天然資源を用いるより安くできるのだ。

これに対して、ペットボトルやプラスチック類の再資源化は容易ではない。そもそもこういう高分子化合物はリサイクルになじみ難いからだ。金属なら、融点の違いや磁性の有無等を利用して、物理的、化学的方法で精製できるが、融点が低く磁性もない紙やプラスチック類等の再生には、様々な段階で手作業を必要とするし、質の劣化という宿命もある。それでも紙ならば、たとえば再生紙のように、新品より高くても公的機関などで無理して使うような需要があるが、ペットボトル等は口に入れる飲料の容器だけに、劣化したものの需要は乏しい。

その上、再生するためには大量の化石燃料を必要とする。家庭ゴミは世帯単位で排出され、市町村によって集められるから収集に人手はかかるし、再生工場まで運ぶ輸送費も馬鹿にならない。まだ、住民がどんなに努力して分別しても、つい蓋やラベルなどの異物が残ってしまうし、洗浄も不徹底になる。要するにまっさらの石油から造った方がはるかに手間もかからず、コストが安いのだ。

こういう事情が重なって、ペットボトルなどはもともとリサイクルに馴染みにくい。折角分別されたペットボトルが焼却されたり外国に輸出されるなど、住民の善意を裏切るような運命になるのは、経済的にはやむを得ないのである。国民の勘違いをいいことに、プラスチック類のように分別、分離が困難で、生成した物質の品質に問題がある物質のリサイクルを推進することは、意図的かどうかは別として、議論のすりかえであり、政策的なミスといえる。

ペットボトルや紙類の分別処理は、一部の自治体に対してリサィクル事業者への処理費の支出だけでなく、もう一つの損害を及ぼしている。これらが除外された家庭ゴミの成分は、水分の多い生ゴミが中心となってそのままでは燃えないため、膨大な重油などの化石燃料の添加が必要になるからである。

基本法には、リユース、リサイクルが困難な廃棄物のうち燃えるものは「熱回収」することが定められており、「サーマルリサイクル」という難しい言葉も用いられている。しかし、わざわざ手間ひ圭をかけて分別回収してから燃やさなくても、良く燃えるペットボトルなどは生ゴミと一緒に燃やせば、化石燃料の節約になっていたのであり、一部の自治体ではこういう方法を復活させた。この種のものを焼却すると有害物質が出るという俗論があるが、ダイオキシン猛毒説もおかしな議論の一つであり、その詳細は第Ⅲ部2で取り上げる。
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