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なぜ日本の総理大臣はすぐに替わるのか? ヘーゲル

『世の中の見方が変わる哲学』より

相変わらず日本の総理大臣は、1年交代のサイクルから抜け出せません。またまた総理大臣が交代しました。もちろん長続きしないのは、舵取りがうまくいっていないのが原因です。しかし、それだけでなく、総理大臣のクビを次々に取り替えていかなければならないという空気は、国会内だけでなく、マスコミに煽られた国民の側からも醸成されています。その結果、内外から「日本の総理大臣の在任期間は1年」と揶揄されることになるのです。

それにしても、一国のリーダーを選ぶという時に、相も変わらず国民不在の白けたムードが繰り返される現状は何とかならないものでしょうか。アメリカでは2012年11月の大統領選挙に向け、もうすでに国民を巻き込んでの大論争が始まっています。直接大統領を選べる制度と、国会議員が総理大臣を選ぶ制度との違いはありますが、ここにはそれ以上に厄介な構造的問題が横たわっているように思えてなりません。

実は2010年に刊行した拙著『ヘーゲルを総理大臣に!』は、まさにこの問題を取り上げるために書いたものです。当時は奇しくも菅総理誕生のタイミングでじた。「そこで今回は、改めてヘーゲルの思想を参照しながら、この「総理大臣短命問題」について考えてみたいと思います。

ヘーゲルは『法の哲学』において、自由を実現するための国家論を展開しています。そのカギとなるのが、「人倫」という概念です。いわば共同体には人間の精神のようなものが宿っていると考えるわけです。単に市民社会や国家を制度として論じるだけではダメで、そこに生き、活動する人間の心とセットで論じなければならないというのです。

考えてみればもっともな話です。制度は人が作るものであり、人が運用するものです。それを人間の精神を抜きに論じても無味乾燥なだけで、大事な部分が抜け落ちているのです。

具体的には、家庭を貫徹する精神は愛、市民社会を貫徹する精神は誠実さ、そして国家を貫徹するのは愛国心だと言います。ただし、この場合の愛国心は、意味内容からすると公共心ととらえたほうがいいでしょう。

そうではなくて、ヘーゲルの言う国家を貫徹する精神は、国家に関する出来事を自分のことのようにとらえ、積極的にかかわっていく態度なのです。そう理解すると、国家を見る目も変わってきます。国家の営みは決して他人事ではなく、自分自身の問題なのです。

ましてやリーダーである総理大臣を選ぶとなると、それはもう自分の人生を左右するほどの最重要課題であると言えます。実際、総理大臣の方針によって政治の方向性が決まるのですから、その意味で私たちの人生は十分、総理大臣に左右されています。

したがって、本来は誰が総理大臣になるのかについてもっと関心を持つ必要があります。制度上、国民が直接選ぶことはできないという制約はあるものの、世論という形で国民の意思を伝え、反映させることは可能です。しかも今は新聞やテレビの世論調査だけでなく、ツイッターをはじめインターネット上のツールを用いて、一定の影響を及ぼすこともできるのです。

まるで他人事のように無関心でいることは、一部の既得権益を保持したい人間によって、心を欠いた国家が操られるのを許してしまうだけです。そうではなくて、国家には私たち自身の心を注がなければならないのです。一部の人間の思惑で、最初から資質を欠く人物が総理大臣になる時、短命に終わるのはやむを得ません。

反対に、国民の支持を得た人物が総理大臣になった暁には、よほどの理由がない限り、4乍間はやらせてみる必要があります。この複雑な時代、何もかもうまくいくことはあり得ません。多大な期待を背負って当選したアメリカのオバマ大統領でさえ、公約の医療保険改革も道半ば、おまけに経済低迷の大打撃を受けて苦戦しています。それでも任期中は国民はついていくのです。

1年ではさすがに答えが出ないことをアメリカ国民はよく分かっているからです。そのために4年の任期が定められているのです。日本の制度でも、衆議院議員の任期は4年ですから、本来は4年程度の在任期間を想定していると言ってもいいでしょう。それを1年で交代させた場合、何も成し遂げられないのは当たり前です。その結果、日本社会は何も変わることなく、総理だけが替わっていくという皮肉な結果を招いてしまいます。

結局、総理大臣が短命に終わるのは、国民の怠慢に起因するといっても過言ではありません。人倫の発想からすると、総理大臣の言動が間違っている時、それを単に切り捨てるのではなく、自分の言動としてとらえ、正しい方向に導かなければならないのです。新しい総理大臣が長続きするかどうか。それはひとえに私たちの政治へのかかわり方にかかっていると言えます。
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口は災いの元 失言の哲学 ウィトゲンシュタイン

『世の中の見方が変わる哲学』 2012/07/01 9:22 午前

7月5日、就任早々、松本龍復興担当大臣が被災者の気持ちを逆なでするような発言を連発し、辞任するに至りました。本人はそういうっもりはなかったようですが、被災者にしてみれば聞き捨てならなかったわけです。

例えば、岩手県知事や宮城県知事に対して、「知恵を出さないやつは助けない」などと言ったそうですが、確かに知事に対しては、知恵を出すよう促すためにそのような表現をすることも考えられなくはありません。実際、そうした評価をして理解を示す人もいました。

ただ、これが被災地で復興担当大臣によって発信された言葉であることを考慮すると、対象は知事だけにとどまりません。知恵を出さないばかりに助けてもらえない対象は、災害を被ったすべての人を含むことになってしまうのです。このニュースを耳にした多くの人は、なんと傲慢な大臣だと思ったに違いありません。

今回の一件に限らず、不注意な発言が仇となって辞任した大臣は数多くいます。言葉というのは恐ろしいものなのです。そこで今回は、言葉について思索をめぐらした哲学者を紹介したいと思います。オーストリア出身の哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインです。

彼の思想は前期と後期に分けることができます。内容的にも前期と後期で異なるだけでなく、人生自体が前後期各々の思想に対応する二つの時期に分けることができるのです。前期は、才気溢れるウィトゲンシュタインが、若さも災いして自分の才能に溺れていた時期です。思想の内容もそれにふさわしく、哲学というものは、言葉の意味を分析すれば答えが出る、などと主張していました。

つまり言葉の意味を論理的にしっかりと分析すれば、おのずと物事の本質が分かるというのです。しかし、善や神といった抽象的な概念については、そのような方法では答えが出ないと言います。そこで傲慢な彼は、「語り得ぬものには沈黙しなければならない」と言って、これらに関しては哲学の考察対象から外してしまいました。

こうしてウィトゲンシュタインは、哲学の問題はすべて解決したと囁き、大学を離れて田舎の小学校の先生になります。ところがある時、彼は自分の考えが間違っていたことに気づき、再び大学に舞い戻ります。ここからが後期の思想です。後期のウィトゲンシュタインは、自分が間違っていたことに気づいた後だけあって、現実に謙虚に向き合います。

彼が気づいたのは、一つの言葉だけを取り出していくら分析してみたところで、意味を確定することなどできないということです。なぜなら、言葉というのは会話の文脈において初めて意味を持つものだからです。

いわば私たちは、日常生活の中で言語を交わしながら、互いに意味を解釈するゲームを行っているようなものなのです。そこでウィトゲンシュタインは、そうした多様な意味を持ちうる言語の使用のされ方を「言語ゲーム」と名づけました。

そこでは、場所や状況によってルールが決まってきます。言語ゲームの内容は、生活の各場面によって決定されてくるものなのです。逆に言うと、言語に関するルールは決して一つではないということです。

人は通常、その場に共通だと思われるルールを暗黙のうちに採用して、言葉を使用します。問題はそれが間違っていた時です。言い換えると、これが文脈を読めていない状況です。自分勝手なルールで言葉を使用すると、こうした間違いを犯しがちです。

文脈を読めなかった人は、言語ゲームでは負けてしまいます。ゲームオーバーです。だから大臣も辞任を余儀なくされたのです。ただし、この言語ゲームにおいて注意しなければならないのは、発言した本人だけではありません。発言を受け止める私たち、それを伝える側のマスコミにも、同じくゲームのプレーヤーとしての責任が問われてきます。人の発言をとやかく言う以上、すでにゲームの参加者なのです。

発言を受け止める私たちも、きちんと文脈を読む必要があります。辞任の妥当性はその上で判断すべきでしょう。またマスコミは、発言を文脈とともに正確に伝える義務があります。一部だけを切り取り、事実を歪曲するような伝え方をすることは、それ自体、言語ゲームにおいては負けを意味します。言葉を発することがゲームである以上、フェアにかつ楽しくプレーしたいものです。
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あと、2年半

未唯へ

 今朝の体重は+1Kgです。昨日の食べ放題と運動不足です。と言っても、食べ放題と言っても、カレーだけですね。二日間、歩いていません。ずっと、OCRです。

 今日は、本を片付けので、豊田市まで歩いていこうと思ったけど、雨です。考えながら、シートへの記入はできません。言い訳はいくらでもできます。

家族へのおごり

 モスバーガーで家族分のものを買いに来ています。ボーナスが出ることを当てにおごることにしました。全部で2300円です。帰れまテンの結果が貼りだされている。目ざといですね。私もあの番組を見て、モスを食べたくなったのは確かですけど。

 お金を下ろしたときに、ボーナス分が入っていないのに、気づいた。奢るんではなかった。

あと、2年半

 あと、2年半です。ちょうど真ん中です。

 2年前の6月にブログに対して、会社からの妨害が入った。それを聞いて、外へ出て、会社を攻撃する気になった。

 奥さんに聞いたら、あんたの小遣いがなくなるだけと言われた。その程度のことです。それから、15日間、旅行をしながら考えた。

 外出るよりも、内側から観察にして、分析した方が次の社会のためにはいい。それを結論にした。それで2年間やってきた。思惑通りかもしれない。世の中の私についてきた。

 パートナーがサファイアから去ると言うことで、行動に入ったが、これは私には向きません。これはμに任せます。

 この先、どうなるかは考えていません。偶然は私に味方します。その時になれば、人とか道具は出てきます。これは今までの経験です。ひたすら考えていればいい。

 これが裏切られることはないでしょう。裏切られるとしたら、病気ぐらいなもんです。病気についても,この間の前立腺で覚悟は決まりました。

本の処理

 昨日借りた26冊とそれ以前の3冊を処理しました。おかげで散歩できずに体重が増えています。その内、11冊の一部をOCR化しました。

 『なぜ、フランスは一目置かれるのか』 「ギリシャ・コンプレックス」EUに対する気持ちはドイツ以上。ドイツがトリガーでEU崩壊はあるかもしれない。9月のブリュッセルが危険だと私は思っている。

 『テキストブックNPO』 社会の中のNPOとしては、結局は企業とか行政と組むことしかないのか。それでは地域は独立できない。

 『イギリスの不思議と謎』 自然と人間の共存にかかわる「経済成長と静止社会」の問題として、J.S.ミルの『経済学原理』において、先進国が間もなく必然的にたどり着く「静止状態」の記述が気になった。

 『世の中の見方が変わる哲学』 「口は災いの元 失言の哲学」ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 一つの言葉だけを取り出していくら分析してみたところで、意味を確定することなどできないということです。なぜなら、言葉というのは会話の文脈において初めて意味を持つものだからです。

 『悩まない!技術』 偶然の中の必然を探そう! この言葉だけに反応して、OCR 外的フレームと内的フレームをうまく使い分けて、悩みを克服するヒントを見つけ出しましょう。

 『非エリートの思考法』 ノウハウ本だが、「自分理論を創る」「ミッションを見つける」だけプロット。

 『ふしぎな社会 おかしな行政』 リサイクルというイカサマビジネスー行方不明の二つのR- 軽視されているリデュースとリユース

 『自由論』ミル 政府の干渉の限界についての一群の問題

国会前のデモがあるらしい

 もっと、ツイッター過激にやっているところがあるのでしょうねあまり興味ないけど。動員の革命もそこで実証実験を行っているのでしょう。。

 ブログにしても、私のように、まとめて考えているところは見つかりません。フェースブックで写真の公開とコメントは何を意味しているのか、やはり分かりません。

 あと、2年半で何をするか。と言っても、2年が限度だけど。そのあと、スマートコミュニティではないけど、コミュニティの法に皆の目を向かせましょう。エネルギー問題しても、生活にしても、政府とか資本主義経済に任せて置けない。

 すべての答えを保有しておきます。私は内なる世界を持っています。すべてをそこでシミュレーションができます。そこからの答えです。では、どこまで考えているのか。7つのジャンルで考え、256項目の完全性を持ちます。

 金曜日の病院ではないけど、面倒くさいものは外なる世界に放り出しましょう。自分には関係ないことです。生活の中のかなりの部分を外なる世界にしましょう。その内、内なる世界を大きくします。

 シンプルにするために、とりあえず、不要なものは押入れにいれます。バックにしても、スタバのタンブラーにしても多すぎる。本棚の本を片付けて、そこに入れます。この最近は、使うものは、その時には、同じものだけを使っている。
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