未唯への手紙
未唯への手紙
概念が私の思考パターン
未唯へ
昨日一日で,1Kg増えたのは歩かなかったこととして、バス停まで遠回りしています。歩くのはバス停への往復ですね。早朝と夕方です。最低、30分は歩いて、ウエストを減らします。
温度が高いと、扇風機が二台あっても、あまり変わり映えしない。やはり、エアコンですね。
夢見
夢では、大量データからどのように意味あるモノを導き出すのかをやっていた。夢の中でICレコーダーに成果を話していたが、やはり、何も入っていなかった。
概念が私の思考パターン
休みの三日間でも成果は概念が私の思考パターンであることが認識できたことです。
ポータルの企画は、私は概念で行った。設計はパートナーが行いました。ポータルというのはプッシュです。これはが概念で、全体の形を決めていきます。
Oにないのは、概念で企画することです。本人は気付いているけど、今さら、概念を作ることはできない。モノつくりだけできた来たので、理解できないはずです。モノを作ることと概念は大きく異なります。むしろ、反対です。
モノを作る人には、概念ではモノになりません。全体のしくみそのものです。人によって、全体の範囲が異なります。サファイアと言うのは、一番大きな概念です。部品表も概念でした。それを現実化することは、概念さえ分かれば、自由にシステムはできます。
モノから概念はできません。何しろ、見えないのです。雑多なものが邪魔をします。企画する人にとって、重要なのは概念です。概念がミッションにつながります。なぜ、そうしないといけないのかを聞かれた時に、公平な目でちゃんと説明できるのが、概念です。
車とつながるとか、お客様とつながることは概念です。自分たちの仕事をどうしようかと言うだけでなく、社会に対して、自分たちの会社の役割を決めていくことです。
そこから、自分の仕事へ落す分には、まだ概念があるけど、最初から、これをやってくれと言われてやる分には、概念はありません。概念を作ることをずっとやってきました。プロセスは全て、書いています。重要なのは結果です。
仕事への違和感
仕事ということで、違和感を持ったのは、その部分です。決められたことをやっていればいいという感覚を感じたからです。
私の仕事は企画でした。企画するためには、色々なことを知らないといけない。社会学的、数学的、歴史的にも、どうなっていくのか、どうしたいのかが分からないと、なぜこうするのかの説明がつかない。
個々の思惑だけでなく、全体の思惑も知らないといけない。その上で、個別のものに落さないといけない。それが仕事です。それをカタチにするのは、ある意味では、実験だけです。
パートナーの企画
パートナーもファシリテーションしている時、決まったものを展開すればよかったけど、企画になると提案しないといけない。なぜ、そうなのかを自分が理解して、聞かれた時に応えないといけない。
それはお互いの共通のコンセプトでないと。理解されない。最低でも、相手の論理を理解しないといけない。メーカーの論理は本当に一部です。
昨日一日で,1Kg増えたのは歩かなかったこととして、バス停まで遠回りしています。歩くのはバス停への往復ですね。早朝と夕方です。最低、30分は歩いて、ウエストを減らします。
温度が高いと、扇風機が二台あっても、あまり変わり映えしない。やはり、エアコンですね。
夢見
夢では、大量データからどのように意味あるモノを導き出すのかをやっていた。夢の中でICレコーダーに成果を話していたが、やはり、何も入っていなかった。
概念が私の思考パターン
休みの三日間でも成果は概念が私の思考パターンであることが認識できたことです。
ポータルの企画は、私は概念で行った。設計はパートナーが行いました。ポータルというのはプッシュです。これはが概念で、全体の形を決めていきます。
Oにないのは、概念で企画することです。本人は気付いているけど、今さら、概念を作ることはできない。モノつくりだけできた来たので、理解できないはずです。モノを作ることと概念は大きく異なります。むしろ、反対です。
モノを作る人には、概念ではモノになりません。全体のしくみそのものです。人によって、全体の範囲が異なります。サファイアと言うのは、一番大きな概念です。部品表も概念でした。それを現実化することは、概念さえ分かれば、自由にシステムはできます。
モノから概念はできません。何しろ、見えないのです。雑多なものが邪魔をします。企画する人にとって、重要なのは概念です。概念がミッションにつながります。なぜ、そうしないといけないのかを聞かれた時に、公平な目でちゃんと説明できるのが、概念です。
車とつながるとか、お客様とつながることは概念です。自分たちの仕事をどうしようかと言うだけでなく、社会に対して、自分たちの会社の役割を決めていくことです。
そこから、自分の仕事へ落す分には、まだ概念があるけど、最初から、これをやってくれと言われてやる分には、概念はありません。概念を作ることをずっとやってきました。プロセスは全て、書いています。重要なのは結果です。
仕事への違和感
仕事ということで、違和感を持ったのは、その部分です。決められたことをやっていればいいという感覚を感じたからです。
私の仕事は企画でした。企画するためには、色々なことを知らないといけない。社会学的、数学的、歴史的にも、どうなっていくのか、どうしたいのかが分からないと、なぜこうするのかの説明がつかない。
個々の思惑だけでなく、全体の思惑も知らないといけない。その上で、個別のものに落さないといけない。それが仕事です。それをカタチにするのは、ある意味では、実験だけです。
パートナーの企画
パートナーもファシリテーションしている時、決まったものを展開すればよかったけど、企画になると提案しないといけない。なぜ、そうなのかを自分が理解して、聞かれた時に応えないといけない。
それはお互いの共通のコンセプトでないと。理解されない。最低でも、相手の論理を理解しないといけない。メーカーの論理は本当に一部です。
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コミュニティ心理学の理念
『現代コミュニティ心理学』より
①人と環境の適合を図ること
その人を取り巻いている環境(物理的・社会的・文化的・人的)を変える方が現実的で容易な場合も多いだろう。もちろん人の方も、変えられるところは変える努力は必要であるが、環境に人を一方的に適応させるのではなく、人と環境の適合(person-environment fit: P-E fit)を図ることこそが重要である。コミュニティ心理学は、「人」とともにそれ以上に「環境」に注目する姿勢をとる。
②人々を支援すること
支援には自助、共助、公助があるが、コミュニティ心理学で「支援」というとき、最近までは住民相互の私的なもの、つまり、自助であるセルフヘルプ(グループ)と共助としてのソーシャルサポート(ネットワーク)を念頭に置いた議論が多く、公的・制度的な支援や公共性の高いものまでは含まないのが一般的であった。
ソーシャルサポートは対象者を特定することなしに対応し、一方、セルフヘルプは個別的に自らの関心に対応することで、生活上の困難に出くわしている人々を支援する
③人が本来もっている強さとコンピテンス(有能さ)を重視すること
コミュニティ心理学は、人のもつより健康な部分や強い部分に働きかけることでコンピテンス(有能さ)を発揮・向上させることに重きを置こうとする成長促進モデル(developmental model)を採用する。コンピテンス(competence)とは、人が環境と相互作用する中で問題を効果的かつ正確に処理する能力のことをいうが、成長促進モデルは、人の病理性よりも健康性や強さ(strength)に焦点を当てる考え方である。
④治療よりも予防と増進を重視すること
予防(prevention)にもいくっかの考え方があるが、健康な人を健康なまま保つための予防(発生予防)が最も望ましい姿であることはいうまでもない。そして、予防だけに留まらず、現在の状態をよりよい方向にさらに増強すること、すなわち、増進(promotion)を志向することこそが大切な姿勢である。
⑤問題に対処すること
問題焦点型対情動焦点型、接近型対回避型、向社会型対反社会型といったコーピング方略としての分類や、プラス思考、内的統制型、ハーディネス(頑健性)、不安などのパーソナリティ要因との関連性、ソーシャルスキル訓練やリラクセーション、瞑想など、個別のコーピング方略などが取り上げられてきている。
⑥人がエンパワーする(力を獲得する)ようになること
エンパワメント(empowerment)とは、「個人や家族やコミュニティが、自ら生活状況を改善することができるように、個人的に対人関係的に、あるいは政治的に力を増していく過程である」と定義されるように何らかの理由でパワーの欠如状態にある個人や集団やコミュニティが、自らの生活にコントロール感と意味を見出すことで力を獲得するプロセス、および、結果として獲得した力をいう。
⑦人の多様性を尊重し差別から解放すること
コミュニティ心理学は多様性(diversity)というものについて一つの認識をもっている。すなわち、人間は異なっているという権利をもっているし、その異なっているということは、劣っているということを意味するものではないということである。人の多様性を確信すると、生活の仕方や世界観や社会的取り決めにはいろいろなスタイルがあるという認識が生まれる。
⑧代替物を選択することができること
特定の個人や集団に適したサービスを提供できる選択肢を開発したり、サービスヘのアクセスを容易にするような工夫が重要になる。たった一つのサービス場面が誰にとっても最善のものとはならないことは明らかである。
⑨人々がコミュニティ感覚をもつこと
コミュニティが成立するためには、そこに集う人々がそれを自分たちのコミュニティであると認識し、愛着をもち、維持・発展させていこうとする意欲が必要である。これは、われわれ意識、コミュニティ意識、コミュニティ精神、コミュニティヘの所属感、などさまざまな言い方で表現されてきたが、「コミュニティ感覚」と呼び、今日のコミュニティ心理学では定着した用語となっている。
⑩他の学問や研究者・実践家と協働(コラボレーション)すること
コラボレーション(collaboration)とは、一緒に働くことを意味する言葉で、「協働」と訳されている。その意味するところは、「所与のシステムの内外において異なる立場に立つ者同士が、共通の目標に向かって、限られた期間内に互いの人的・物的資源を活用して、直面する問題の解決に寄与する対話と活動を展開すること」である。コミュニティ心理学が対象とする問題は、現代社会が抱える多様でこみ入った、単独で解決するにはむずかしい課題であることが多く、したがって、近接の学問や研究者、あるいは多様な知識や技術をもつ専門家や現場の実践家の力を借りなければ、適切に対応・解決できないという現実を踏まえたところから生まれた理念である。
⑩社会変革を目指すこと
「コミュニティ心理学の目標の一つは、研究で武装して社会変革を引き起こすことである」と述べている。変革というとき、それには個人や組織、コミュニティなど大小のレペルが存在するが、コミュニティ心理学が目指す変革は、個人よりは組織やコミュニティなどのレペルを中心に据えていることは、その理念として明らかである。
①人と環境の適合を図ること
その人を取り巻いている環境(物理的・社会的・文化的・人的)を変える方が現実的で容易な場合も多いだろう。もちろん人の方も、変えられるところは変える努力は必要であるが、環境に人を一方的に適応させるのではなく、人と環境の適合(person-environment fit: P-E fit)を図ることこそが重要である。コミュニティ心理学は、「人」とともにそれ以上に「環境」に注目する姿勢をとる。
②人々を支援すること
支援には自助、共助、公助があるが、コミュニティ心理学で「支援」というとき、最近までは住民相互の私的なもの、つまり、自助であるセルフヘルプ(グループ)と共助としてのソーシャルサポート(ネットワーク)を念頭に置いた議論が多く、公的・制度的な支援や公共性の高いものまでは含まないのが一般的であった。
ソーシャルサポートは対象者を特定することなしに対応し、一方、セルフヘルプは個別的に自らの関心に対応することで、生活上の困難に出くわしている人々を支援する
③人が本来もっている強さとコンピテンス(有能さ)を重視すること
コミュニティ心理学は、人のもつより健康な部分や強い部分に働きかけることでコンピテンス(有能さ)を発揮・向上させることに重きを置こうとする成長促進モデル(developmental model)を採用する。コンピテンス(competence)とは、人が環境と相互作用する中で問題を効果的かつ正確に処理する能力のことをいうが、成長促進モデルは、人の病理性よりも健康性や強さ(strength)に焦点を当てる考え方である。
④治療よりも予防と増進を重視すること
予防(prevention)にもいくっかの考え方があるが、健康な人を健康なまま保つための予防(発生予防)が最も望ましい姿であることはいうまでもない。そして、予防だけに留まらず、現在の状態をよりよい方向にさらに増強すること、すなわち、増進(promotion)を志向することこそが大切な姿勢である。
⑤問題に対処すること
問題焦点型対情動焦点型、接近型対回避型、向社会型対反社会型といったコーピング方略としての分類や、プラス思考、内的統制型、ハーディネス(頑健性)、不安などのパーソナリティ要因との関連性、ソーシャルスキル訓練やリラクセーション、瞑想など、個別のコーピング方略などが取り上げられてきている。
⑥人がエンパワーする(力を獲得する)ようになること
エンパワメント(empowerment)とは、「個人や家族やコミュニティが、自ら生活状況を改善することができるように、個人的に対人関係的に、あるいは政治的に力を増していく過程である」と定義されるように何らかの理由でパワーの欠如状態にある個人や集団やコミュニティが、自らの生活にコントロール感と意味を見出すことで力を獲得するプロセス、および、結果として獲得した力をいう。
⑦人の多様性を尊重し差別から解放すること
コミュニティ心理学は多様性(diversity)というものについて一つの認識をもっている。すなわち、人間は異なっているという権利をもっているし、その異なっているということは、劣っているということを意味するものではないということである。人の多様性を確信すると、生活の仕方や世界観や社会的取り決めにはいろいろなスタイルがあるという認識が生まれる。
⑧代替物を選択することができること
特定の個人や集団に適したサービスを提供できる選択肢を開発したり、サービスヘのアクセスを容易にするような工夫が重要になる。たった一つのサービス場面が誰にとっても最善のものとはならないことは明らかである。
⑨人々がコミュニティ感覚をもつこと
コミュニティが成立するためには、そこに集う人々がそれを自分たちのコミュニティであると認識し、愛着をもち、維持・発展させていこうとする意欲が必要である。これは、われわれ意識、コミュニティ意識、コミュニティ精神、コミュニティヘの所属感、などさまざまな言い方で表現されてきたが、「コミュニティ感覚」と呼び、今日のコミュニティ心理学では定着した用語となっている。
⑩他の学問や研究者・実践家と協働(コラボレーション)すること
コラボレーション(collaboration)とは、一緒に働くことを意味する言葉で、「協働」と訳されている。その意味するところは、「所与のシステムの内外において異なる立場に立つ者同士が、共通の目標に向かって、限られた期間内に互いの人的・物的資源を活用して、直面する問題の解決に寄与する対話と活動を展開すること」である。コミュニティ心理学が対象とする問題は、現代社会が抱える多様でこみ入った、単独で解決するにはむずかしい課題であることが多く、したがって、近接の学問や研究者、あるいは多様な知識や技術をもつ専門家や現場の実践家の力を借りなければ、適切に対応・解決できないという現実を踏まえたところから生まれた理念である。
⑩社会変革を目指すこと
「コミュニティ心理学の目標の一つは、研究で武装して社会変革を引き起こすことである」と述べている。変革というとき、それには個人や組織、コミュニティなど大小のレペルが存在するが、コミュニティ心理学が目指す変革は、個人よりは組織やコミュニティなどのレペルを中心に据えていることは、その理念として明らかである。
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戦前の日本の政策決定システム
『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』 2012/07/15 8:48 午前
戦前の日本では、政策決定は「誰が」「どのように」行なっていたのだろうか。この時代の政治を語る象徴的な言葉として、まず想起されるのは「狂信的な「軍部」の横暴」であろう。敗戦後、陸海軍を糾弾する言説が巷に溢れたが、「軍部」なるものの実態は明らかにならなかった。それは、日本を悲惨な戦争に引き込んだ「悪」として表象され、学術的・客観的な研究の対象とされるまでに、長い時間を必要としたのである。
戦争の責を「軍部」に負わせることは、それ以外の政治勢力の責任から目を逸らせることと裏腹であった。西ドイツでは、東西冷戦の影響下でナチスにユダヤ人虐殺の責任を押し付けることで軍を免責する「国防軍潔白神話」が構築された。日本でも、敗戦直後に多くの人々が「軍部」なるものを罵ることで、あたかも自分が被害者であったかのようにふるまったのである。日本の場合、一億総懺悔という責任解除の儀礼的言説が弄ばれたが、「軍部」の糾弾は他の多くの政策担当者の責任を曖昧にさせる機能を持ったことは明らかだった。
たとえば、免責された最大の存在は、昭和天皇である。明治憲法で統治権の総攬者と規定されていた天皇は、陸海軍を統帥する大元帥でもあった。天皇は、政治的・軍事的に頂点に立っていたが、明治憲法によって「神聖不可侵」と規定されており、法的には責任を負わない存在だった。しかし、道義的な責任については敗戦時から認識されており、一部には退位の必要性が語られていた。結局、天皇が責任を問われなかったのは、東京裁判の過程でその罪を一身に背負おうとした東条元首相と、統治にあたって天皇の有用性を認識した占領軍との「共同謀議」が成立したからと言えよう。「戦争責任」の問題はさておき、天皇は開戦決定にあたって、どのような影響力を行使したのか。この問題については、充分な考察がなされているとはいえない。
また、戦後に存続を許されなかった組織のなかでも、海軍は特別視されることになった。戦前から、陸軍の政治への介入が目立てば目立つほど、政治に口出ししないサイレント・ネーヴィーの株があがる傾向があった。この図式は、陸軍悪玉・海軍善玉論に形を変えて戦後に継承されて行ったのである。
しかし、アメリカを仮想敵国に設定し、対米戦を組織的利害としていたのは、紛れもなく海軍であった。海軍がやると言わなければ、対米戦は起こりようがなかったのである。それでは、なぜ「善玉」の海軍が「無謀な」戦争に踏み切ったのだろうか。
これらの疑問を解くには、当時の政策決定システムがどのように運用されていたのかを、正確に認識する必要がある。そこで、いわゆる明治憲法体制と呼ばれる、当時の政治の構造に話を進めよう。
われわれは中学や高校の社会の授業で、大日本帝国憲法について学ぶ。
そこでは、ややもすれば日本国憲法と比較する形で、その特徴を指摘される傾向がある。読者の方々の頭の片隅には、主権者は国民ではなく天皇だったとか、現行の憲法よりも議会の権限が弱かったとか、軍が特権によって守られた強固な存在だった、などという知識が残っているかと思われる。そもそも、このような比較は、日本国憲法の民主性を強調するために行なわれているようなものである。とかくネガティヅな側面が強調されるのも当然だろう。しかし、当時の政治がどのように機能していたかを、具体的なケースで教えられる機会は少ないのではないだろうか。
現行の制度では、総理大臣が閣僚の任免権を持っている。このため、閣内対立が生じても首相は大臣の首を影げ替えることで自己の意志を閣内に貫徹することができる。自衛隊に対する指揮権も首相にある(文民統制)。形式的には総理大臣に行政の権限が集中されている体制が、日本国憲法における政治システムに他ならない。
しかも、首相は議会の指名により選ばれ(議院内閣制)、その議会は主権者である国民の選挙で選ばれた議員によって構成される。つまり、首相の権力基盤が議会にあるため、直接選挙で選ばれる場合(アメリカ大統領等)に比較して議会運営が容易であるともいえる。そして、象徴である天皇は、わずかな国事行為以外は政治にタッチしない。
かたや明治憲法下の体制は、これと全く異なるシステムであり、運営する人間たちに大きく依存していた。そもそも、明治憲法には、首相の選び方も記されていない。いわば、憲法に規定されていないパーソナルな存在があって、初めて機能する制度だったのである。
問題は、これらがピラミッド型の上下関係ではなく、それぞれの組織が天皇に直結して補佐するようになっていたことである。たとえば、戦争指導については大元帥である天皇に直属している統帥部が輔翼し、内閣は軍政事項を除いてこれにタッチできなかった。
なかでも厄介なのは軍であった。一九三六年、二・二六事件の後始末のため、軍部大臣を現役の軍人に限定する軍部大臣現役武官制が復活する。当初の目的は事件に関係した皇道派の将官の復活を阻止するためであったが、現役の軍人しか陸海軍の大臣に就任できないという縛りは、軍の影響力を強化することとなった。この制度が露骨に悪用されたのは、陸軍による米内光政内閣の倒閣であった。陸軍は畑俊六陸相を辞職させ、後任を出さないことで米内内閣を総辞職に追い込んだのである。陸軍にとって、軍部大臣現役武官制は、内閣に揺さぶりをかけることができる切札となったのだ。
戦前の日本では、政策決定は「誰が」「どのように」行なっていたのだろうか。この時代の政治を語る象徴的な言葉として、まず想起されるのは「狂信的な「軍部」の横暴」であろう。敗戦後、陸海軍を糾弾する言説が巷に溢れたが、「軍部」なるものの実態は明らかにならなかった。それは、日本を悲惨な戦争に引き込んだ「悪」として表象され、学術的・客観的な研究の対象とされるまでに、長い時間を必要としたのである。
戦争の責を「軍部」に負わせることは、それ以外の政治勢力の責任から目を逸らせることと裏腹であった。西ドイツでは、東西冷戦の影響下でナチスにユダヤ人虐殺の責任を押し付けることで軍を免責する「国防軍潔白神話」が構築された。日本でも、敗戦直後に多くの人々が「軍部」なるものを罵ることで、あたかも自分が被害者であったかのようにふるまったのである。日本の場合、一億総懺悔という責任解除の儀礼的言説が弄ばれたが、「軍部」の糾弾は他の多くの政策担当者の責任を曖昧にさせる機能を持ったことは明らかだった。
たとえば、免責された最大の存在は、昭和天皇である。明治憲法で統治権の総攬者と規定されていた天皇は、陸海軍を統帥する大元帥でもあった。天皇は、政治的・軍事的に頂点に立っていたが、明治憲法によって「神聖不可侵」と規定されており、法的には責任を負わない存在だった。しかし、道義的な責任については敗戦時から認識されており、一部には退位の必要性が語られていた。結局、天皇が責任を問われなかったのは、東京裁判の過程でその罪を一身に背負おうとした東条元首相と、統治にあたって天皇の有用性を認識した占領軍との「共同謀議」が成立したからと言えよう。「戦争責任」の問題はさておき、天皇は開戦決定にあたって、どのような影響力を行使したのか。この問題については、充分な考察がなされているとはいえない。
また、戦後に存続を許されなかった組織のなかでも、海軍は特別視されることになった。戦前から、陸軍の政治への介入が目立てば目立つほど、政治に口出ししないサイレント・ネーヴィーの株があがる傾向があった。この図式は、陸軍悪玉・海軍善玉論に形を変えて戦後に継承されて行ったのである。
しかし、アメリカを仮想敵国に設定し、対米戦を組織的利害としていたのは、紛れもなく海軍であった。海軍がやると言わなければ、対米戦は起こりようがなかったのである。それでは、なぜ「善玉」の海軍が「無謀な」戦争に踏み切ったのだろうか。
これらの疑問を解くには、当時の政策決定システムがどのように運用されていたのかを、正確に認識する必要がある。そこで、いわゆる明治憲法体制と呼ばれる、当時の政治の構造に話を進めよう。
われわれは中学や高校の社会の授業で、大日本帝国憲法について学ぶ。
そこでは、ややもすれば日本国憲法と比較する形で、その特徴を指摘される傾向がある。読者の方々の頭の片隅には、主権者は国民ではなく天皇だったとか、現行の憲法よりも議会の権限が弱かったとか、軍が特権によって守られた強固な存在だった、などという知識が残っているかと思われる。そもそも、このような比較は、日本国憲法の民主性を強調するために行なわれているようなものである。とかくネガティヅな側面が強調されるのも当然だろう。しかし、当時の政治がどのように機能していたかを、具体的なケースで教えられる機会は少ないのではないだろうか。
現行の制度では、総理大臣が閣僚の任免権を持っている。このため、閣内対立が生じても首相は大臣の首を影げ替えることで自己の意志を閣内に貫徹することができる。自衛隊に対する指揮権も首相にある(文民統制)。形式的には総理大臣に行政の権限が集中されている体制が、日本国憲法における政治システムに他ならない。
しかも、首相は議会の指名により選ばれ(議院内閣制)、その議会は主権者である国民の選挙で選ばれた議員によって構成される。つまり、首相の権力基盤が議会にあるため、直接選挙で選ばれる場合(アメリカ大統領等)に比較して議会運営が容易であるともいえる。そして、象徴である天皇は、わずかな国事行為以外は政治にタッチしない。
かたや明治憲法下の体制は、これと全く異なるシステムであり、運営する人間たちに大きく依存していた。そもそも、明治憲法には、首相の選び方も記されていない。いわば、憲法に規定されていないパーソナルな存在があって、初めて機能する制度だったのである。
問題は、これらがピラミッド型の上下関係ではなく、それぞれの組織が天皇に直結して補佐するようになっていたことである。たとえば、戦争指導については大元帥である天皇に直属している統帥部が輔翼し、内閣は軍政事項を除いてこれにタッチできなかった。
なかでも厄介なのは軍であった。一九三六年、二・二六事件の後始末のため、軍部大臣を現役の軍人に限定する軍部大臣現役武官制が復活する。当初の目的は事件に関係した皇道派の将官の復活を阻止するためであったが、現役の軍人しか陸海軍の大臣に就任できないという縛りは、軍の影響力を強化することとなった。この制度が露骨に悪用されたのは、陸軍による米内光政内閣の倒閣であった。陸軍は畑俊六陸相を辞職させ、後任を出さないことで米内内閣を総辞職に追い込んだのである。陸軍にとって、軍部大臣現役武官制は、内閣に揺さぶりをかけることができる切札となったのだ。
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